余田大歳神社(よでんおおとしじんじゃ)は、現在、郷杜として余田、小倉、庄、鍛治屋の4か村の氏神で、祭神は大年大神をはじめ5神が祀られています。
創立年は不詳ですが、春日山の城主後藤氏(基明~基信)に厚く祀られていました。
最初の鳥居も基明の寄進によるものと伝えられています。
毎年10月初旬には「秋祭り」が行なわれ、八千種4か村の屋台が本神社に練り込み、
悪魔払い五穀豊穣を祈る浄舞が奉納されます(町指定文化財)。
本を囲む森は、「大歳神社の森」として福崎町保存樹に指定されています。
(現地説明板などより)
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嶺雲寺(れいうんじ)は、山号は久岳山、曹洞宗の寺院です。
応永年間(1394〜1428年)に創建され、春日山城主後藤基阿が城の鬼門よけとして建立したと伝えられています。中興は慶長2(1597)年に鍛冶屋村春日山城主後藤伊勢守、赤松右近之叙、白井三郎兵衛正明が開基となり、姫路市景福寺14世然室尖廊大和尚を開山としました。
本尊は、地蔵大菩薩となっています。境内には町内最大で町の天然記念物と保存樹に指定されている「クロガネモチ」があります。
(現地説明板などより)
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春日山城は、建武年間(1334〜1336)に築城され、後藤三郎左衛門尉基明が初代城主として、現在の福崎町全域と姫路市、加西市の一部を統治していました。
後藤氏は、播磨の守護赤松氏の幕下といわれ、応仁の乱には、赤松政則の部下として出陣し、山名氏の軍勢を破って軍功をたてたとされます。
天正の頃の城主は9代目後藤伊勢守基信とされ、天正6(1578)年、春日山城は中国征伐に向かう羽柴秀吉の播磨攻略の時に落城し、基信は自刃したと伝えられます。城跡のある春日山は標高198m、山頂には曲輪などの城郭遺構が残っています。
後藤又兵衛基次は、春日山城を築き一帯を支配していた播磨後藤氏の一族で、南山田城に居城したといわれています。黒田二十四騎、黒田八虎のひとりに数えられ、黒田官兵衛、長政二代に仕えました。槍の又兵衛と呼ばれ、多くの軍功を挙げました。豊臣秀頼の招きを受けて大坂冬の陣で活躍しましたが、大坂夏の陣で討死しました。
(現地説明板などより)
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約100m四方のこの小丘は、南半分が整地されて児童公園になっていますが、北側から東側の藪には三段の平坦面と周囲に土塁跡も認められます。
ここは後藤又兵衛基次の居城、
南山田城跡といわれ、基次の父で播磨後藤氏の一族基国が築いたと伝えられています。
又兵衛基次は「槍の又兵衛」という異名をもつ安土桃山時代の著名な武士で、黒田孝高、長政父子に仕えて重臣となりますが浪人し、元和元(1615)年、大坂夏の陣に豊臣方として戦死しました。
(現地説明板などより)
平成28(2016)年の大河ドラマ「真田丸」の第43話「軍議」の「真田丸紀行」で紹介されました。
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福田寺は、山号は林光山、天台宗の寺院です。
孝徳天皇の大化元年法道仙人による開基で、慶長年間、教順大阿闍梨が本寺を中興しました。
現在の本堂は、昭和11(1936)年の再興によるものです。
後藤又兵衛及び一族のゆかりのお寺で、境内には父母の供養塔があります。
また、平成27(2015)年5月6日、又兵衛400年祭記念顕彰碑「後藤又兵衛顕彰碑」が建てられました。名手として知られた又兵衛にちなみ、槍の穂先の形に仕上げられました。
平成28(2016)年の大河ドラマ「真田丸」の第43話「軍議」の「真田丸紀行」で紹介されました。
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むかし、南山田の池田というところにあった大蛇が田畑を荒らし回り、村人を苦しめていました。
近くの城山に城があって、そこに後藤又兵衛が住んでいました。その近くの射場というところで弓の稽古をしていた又兵衛は「拙者が、退治をしてやろう」と言ったそうです。
やがて池田に大蛇が出て、又兵衛が、射場から弓を射ると見事に大蛇に命中して退治してくれました。しかし、大蛇は余りに大きかったので、頭の方を寺垣内に埋め、胴体を四畑に、尻尾は奥の谷へ埋めました。そこでこの辺りを
蛇塚というようになったそうです。
(現地説明板などより)
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又兵衛田は、慶長16(1611)年以降、姫路城の城主池田輝政の配慮で後藤又兵衛の扶持米を作ったとされる田で、「又兵衛田」と言い伝えられてきました。
黒田家を出奔後の後藤又兵衛の命を繋いできた貴重な田です。
(現地説明板などより)
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恒屋城は赤松氏の被官、恒屋氏により築かれた山城です。
頂上の北側が後城(標高236m)、南側が前城(標高199m)です。この城は長禄元(1457)年に恒屋氏が築城し天正4(1576)年、羽柴秀吉によって落城しました。
恒屋氏は初代恒屋刑部少輔重氏、二代恒屋伊賀守光氏と続き、5代目恒屋対馬守政直の時滅亡しました。
6代目の恒屋与左衛門は黒田家に仕官しました。
城の遺構本丸、出丸、土塁、堀、など中世の山城の典型的機構が残り城の下には堀をめぐらした居館跡も見受けられます。
(現地説明板などより)
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Posted at 2016/12/09 22:03:01 | |
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