惟喬親王(844年~897年)は文徳天皇の第1皇子でしたが、藤原良房の孫で第4皇子の惟仁親王が皇太子に立てられました。のちの清和天皇です。失意の惟喬親王はたびたび交野の別荘渚院を訪れ、藤原業平らと歌を詠み遊猟して心を慰めました。
ここの
影見池は、いつも清水を湛えていたので、惟喬親王遊猟のとき、見失った愛鷹が池面に写る姿から発見されたという伝説を残しています。
田を養ってきたこの池も宅地化の波にのまれその役割を終えましたが、枯れることなく湧く水が惟喬親王の秘話を今に伝えています。
(現地説明板などより)
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明治16(1883)年の夏の大旱魃が続き、貯水量の少ないため池しかなかった津田南部はとても大きな被害を受けました。
津田の人々は、今後このような大旱魃がおこっても農業ができるように、その当時あったため池を改修し多くの水を貯めることができるように計画しました。
それが現在ある
地蔵池の堤体です。
その当時、池の改修にはたくさんのお金がかかるため多くの寄付をつのって行われ、明治18(1885)年に完成しました。
この池底を掘っている間に、池中から太古の埋木が多くでてきました。このことは今から数万年も以前、このあたりが海岸であった時に上流から赤土や砂利といっしょに流れてきて埋まったものです。
またこの付近からたくさんの石地蔵が出てきましたので、この新しくできた池を地蔵池と呼ぶようになりました。
(現地説明板などより)
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津田城(国見山城)は、延徳2(1490)年、河内国交野郡の国見山に津田周防守正信が築城しました。
津田氏は、約100年にわたり、戦国の世にこの地で勢力をふるいました。
2代備後守正忠は天文年間(1532~55)、蓮如の子、蓮淳が招堤にて敬応寺を創建したとき、娘を側室におくり本願寺勢力と通じました。
3代周防守正明に至り津田氏の勢力は最も強大となり、飯盛山城に拠って畿内に号令した三好長慶と結び、交野、茨田両郡で一万石を領しました。
天正3(1575)年4月、織田信長の河内平定のため、藤阪、津田などは洞ヶ峠から攻められ津田城(国見山城)も焼き払われました。このとき城主は4代目主水守正時でした。正時は天正10(1582)年、山崎合戦に明智光秀に味方するため招堤寺内衆とともに出陣しましたが、秀吉方に敗れ、津田、尊延寺などの領地は没収されました。津田城(国見山城)は、緊急時に使用する砦としての役割をはたしていました。
傾斜面を切り拓いて建物を建てた跡が数ヶ所あり、南方の狭い尾根からの攻撃に備えるため、東西に土塁が築かれています。昭和31(1956)年には数回の発掘調査が行われ、山頂東側において地表下30センチから焼土層が確認され、天正3(1575)年の織田信長による焼打ちによる火災の跡、当時の陶磁器の破片も出土しています。
国見山は標高およそ300m、南東は大和に続く山並みであり、その東に広がる南山城平野を貫いて木津川が北流するのが見られます。
山並みの向こうにも笠置の山に続く鷲峰山がみられます。木津川・宇治川・桂川の合流点をへだて、京都の市街が広がり、比良、比叡のひときわ高い山容を望むことがでます。岩清水鳩ヶ峰と天王山の狭間から淀川が南流して、摂津と河内を二分しています。下流の方向には六甲山や、大阪湾が白く光るのも見えます。
(現地説明板などより)
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交野山(こうのさん)は、標高341m、交野市を代表する山です。
頂上には観音岩と呼ばれる巨岩があり、巨岩の上からは大阪から京都までを一望できます。
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私市の古老は
月の輪滝(つきのわのたき)を金剛滝と言っていました。ここは土地の神を祭るところで、滝石は神聖視されていたそうです。
月の輪の流水をさかのぼると、府民の森から奈良県のくろんど池に通じています。かつては大和との文化の道であったと思われます。
昭和45(1970)年、滝の西よりを宅地造成中に弥陀三尊の塼仏、土師の骨つぼ、古銭(富寿神宝818鋳造)が出土し、地下約1mの地層からは土器片などが採集されました。
尺治と呼ばれるこの谷には、まだまだ私市の古い文化が秘められていることでしょう。
このあたり一帯は獅子窟寺の寺域であったそうです。
(現地説明板などより)
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Posted at 2017/02/16 00:09:52 | |
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