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ピズモのブログ一覧

2017年04月29日 イイね!

山の辺の道

石上神宮は、非常に歴史の古い神社で古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、大和朝廷の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられています。
拝殿、摂社出雲建雄神社拝殿、七支刀は国宝に指定されています。
この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていました。しかし、明治7(1874)年に発掘され出土した剣(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造することになり、大正2(1913)年には、本殿が完成しました。
石上神宮 (1)
石上神宮 (1) posted by (C)pismo

石上神宮
石上神宮 posted by (C)pismo

石上神宮 (2)
石上神宮 (2) posted by (C)pismo

石上神宮 (3)
石上神宮 (3) posted by (C)pismo

内山永久寺は、永久年間(1113年-1118年)に鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第2世頼実が創建した寺院でした。
大和の国では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受けていましたが、その規模と伽藍の壮麗さから西の日光と称されていました。
しかし、明治の神仏分離令・廃仏毀釈により、壮麗を極めた堂宇や什宝はことごとく破壊と略奪の対象となり、仏像・仏画・経典などは国内外へ散逸しました。
各地に残る難を逃れた宝物と、この地に残る本堂池のみが、かつての大寺の栄華を伝えています。
 「うち山や とざましらずの 花ざかり 宗房」という松尾芭蕉の句碑もあります。まだ出生地の伊賀上野に住んで「宗房」と号していた頃の作品です。
今、内山永久寺に参詣してみると、見事なまでに満開の桜でうめつくされている。土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもない」という意味だそうです。
内山永久寺 (1)
内山永久寺 (1) posted by (C)pismo

内山永久寺 (2)
内山永久寺 (2) posted by (C)pismo

内山永久寺 (3)
内山永久寺 (3) posted by (C)pismo

内山永久寺
内山永久寺 posted by (C)pismo

夜都伎神社は、武甕槌命、姫大神、経津主神、天児屋根命を祭神とする神社です。元は夜都伎神社と春日神社の2社がありましたが、夜都伎神社の社地を約400m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は春日神社1社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられています。
昔から奈良春日神社に縁故が深く、明治維新までは当社から蓮の御供えと称する神選を献供し、春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっているそうです。
現在の本殿は明治9(1906)年に改築したもので、春日造檜皮葺、高欄、浜床、向拝彩色7種の華麗な同形の四社殿が末神の琴平神社と並列して美観を呈しています。拝殿は藁葺でこの地方では珍しい神社建築です。
鳥居は嘉永元(1848)年4月に奈良の春日若宮から下げられたものといわれています。
夜都伎神社 (1)
夜都伎神社 (1) posted by (C)pismo

夜都伎神社
夜都伎神社 posted by (C)pismo

夜都伎神社 (2)
夜都伎神社 (2) posted by (C)pismo

夜都伎神社・ウマノアシガタ
夜都伎神社・ウマノアシガタ posted by (C)pismo

竹之内町は竹之内環濠集落があることで知られています。建武3(1336)年の記録(春日神社文書)にも現れる歴史の古い集落です。中世に築かれたと考えられる濠が集落の西側に現在も残っており、「竹之内環濠集落」として知られています。
奈良盆地には集落の周囲に濠をめぐらす「環濠集落」が多くみられます。一般に環濠集落は室町時代以降に出現したもので、戦国の動乱の中、外敵から集落を守るための防御施設として築かれたものと考えられています。現在も環濠の姿を留めている集落では、濠が用・排水に利用されている例が多いことから、もともとこうした濠は防御施設としての機能のほかに水利施設としての性格も兼ね備えていたとする見方もあります。
天理市には竹之内町のほかに、備前町、南六条町、庵治町溝幡が比較的よく姿を留める環濠集落として知られているほか、かつて環濠を有していた可能性がある集落も多数存在しています。
多くの環濠集落は盆地内の低地に営まれていますが、竹之内町は標高100m前後の見晴らしのよい斜面上にあり、環濠集落としては奈良盆地内でも最も高いところにあります。
竹之内町では集落西側の入口付近に最近まで残っていた環濠が埋め戻されて公園となっていますが、その北側には今も環濠が残り、往時の佇まいを偲ぶことができます。
(現地説明板などより)
竹之内環濠集落
竹之内環濠集落 posted by (C)pismo

西山塚古墳は萱生町集落西端の緩斜面に位置する、古墳時代後期前葉の前方後円墳です。
前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけです。
墳丘は前方部二段、後円部三段になるものと思われ、現状では全長114m、後円部径
65m、後円部の高さ13m、前方部幅70m、前方部の高さ8mの規模を持ちます。
大和古墳群の中では唯一、前方部を北側に向けているのが特徴です。古墳の周囲を囲む幅12~20mの溜池は周濠の痕跡と考えられ、後円部南西側の溜池の外側には幅10m、高さ2mほどの外堤が残っています。
発掘調査は行われておらず、副葬品や埋葬施設は不明ですが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されています。明治20(1887)年ごろに墳頂部が開墾された際、石棺や勾玉、管玉、鈴、土器、人造石が出土したとの記述が『山辺郡誌』に見られますが、現在その所在は明らかになっていません。
なお、この古墳の南東に所在する西殿塚古墳が「手白香皇女衾田陵」に治定されていますが、西殿塚古墳が3世紀後半ごろの築造と考えられるのに対し、手白香皇女は6世紀後半ごろの人物であり、西山塚古墳が手白香皇女の真陵ではないかとする考え方があります。
(現地説明板などより)
西山塚古墳 (1)
西山塚古墳 (1) posted by (C)pismo

西山塚古墳
西山塚古墳 posted by (C)pismo

西殿塚古墳は東殿塚古墳と共に大和古墳群のなかで最も高いところに位置する前方後円墳で、ともに前方部を南に向けて築かれています。これら2基の古墳が築かれた丘陵の尾根上には、中山大塚古墳・燈籠山古墳などの前方後円墳が連なるように立地し、大和古墳群中山支群と呼ばれています。
西殿塚古墳は全長約230m、後円部径145m、前方部130mを測ります。墳丘は東側で三段、西側で四段の段築により形成されており、後円部および前方部の墳頂に方形壇が存在します。
現在、墳丘部分については「手白香皇女衾田陵」として宮内庁により管理されています。平成元年(1989)には宮内庁書陵部により墳丘の調査が実施され、墳丘の各所から特殊器台形土器や特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪などの遺物が採集されています。
また、平成5年(1993)~平成7年(1995)には天理市教育委員会により墳丘周辺の範囲確認調査がおこなわれ、墳丘東側くびれ部と前方部東掘において墳丘斜面の基底石と掘割(周濠相当の落ち込み)が存在することが確認されました。この調査の際にも、有段口縁が特徴の特殊円筒埴輪など多量の初期埴輪が出土しました。
西殿塚古墳・東殿塚古墳の築造時期については、これまでの発掘調査等で出土した初期埴輪からみて、特殊器台形埴輪を主体とする西殿塚古墳が先行し、次に朝顔形埴輪・円筒埴輪・鰭付楕円筒埴輪が出現する東殿塚古墳が築造されたものとみられます。しかし、出土遺物が示すそれぞれの古墳の時期に大きな隔たりはなく、埴輪の出現から成立期(3世紀後半)に連続的に築造されたものと考えられています。
(現地説明板などより)
西殿塚古墳 (1)
西殿塚古墳 (1) posted by (C)pismo

西殿塚古墳
西殿塚古墳 posted by (C)pismo



長岳寺は、山号は釜の口山、本尊は阿弥陀如来、高野山真言宗の寺院です。関西花の寺二十五霊場第19番札所です。
天長元(824)年に淳和天皇の勅願で弘法大師が開いたとされる古刹です。大和神社の神宮寺として創建された古刹であり、盛時には塔中四十八ヶ坊、衆徒三百余名を数えました。
花の寺として知られています。4月下旬から5月上旬だ。数多くのヒラドツツジが花開きます。

近くの天理市トレイルセンターで山の辺の道のハイカーはゆっくりと休養できます。
長岳寺 (1)
長岳寺 (1) posted by (C)pismo

長岳寺 (2)
長岳寺 (2) posted by (C)pismo

長岳寺 (3)
長岳寺 (3) posted by (C)pismo

長岳寺
長岳寺 posted by (C)pismo

長岳寺 (4)
長岳寺 (4) posted by (C)pismo

長岳寺 (5)
長岳寺 (5) posted by (C)pismo

長岳寺 (6)
長岳寺 (6) posted by (C)pismo

長岳寺 (7)
長岳寺 (7) posted by (C)pismo

長岳寺 (8)
長岳寺 (8) posted by (C)pismo

長岳寺 (9)
長岳寺 (9) posted by (C)pismo

長岳寺 (10)
長岳寺 (10) posted by (C)pismo

長岳寺 (11)
長岳寺 (11) posted by (C)pismo

長岳寺 (12)
長岳寺 (12) posted by (C)pismo

崇神天皇陵は、行燈山古墳ともいう前方後円墳です。以前は景行天皇陵とされていましたが、慶応元(1865)年に崇神天皇陵と比定されました。
行燈山古墳は天理市柳本町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれています。現在は「崇神天皇陵」として宮内庁により管理され、アンド山古墳・南アンド山古墳を含む周辺の4基が陪塚に指定されています。
墳丘は全長242m、後円部径158m、前方部幅約100mを測り、前方部を北西に向けています。柳本古墳群では渋谷向谷古墳(景行天皇陵)に次ぐ大きさです。
墳丘は後円部、前方部ともに3段築成です。周濠は3ヶ所の渡り堤によって区切られ、前方部側は高い外堤によって囲まれていいますが、現在の状況は江戸時代末の柳本藩がおおなった修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものになっています。
周濠の護岸工事に先立つ宮内庁書陵部による調査では、円筒埴輪、土器が出土しました。また、江戸時代末の修陵の際に、後円部周濠の南東くびれ部から銅板が出土したと伝えられます。残されている拓本によると、片面には内行花文鏡が、もう一方の面には田の字形の文様が表現されています。
行燈山古墳の築造時期については、埴輪の特徴や銅板の存在から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、続けて築造された渋谷向谷古墳(景行天皇陵)とともに重要な古墳です
(現地説明板などより)
国道169号側に「御陵餅本舗」という店があり、名物「御陵やきもち」は前方後円墳の形をした餅でなかなかおいしいです。
崇神天皇陵
崇神天皇陵 posted by (C)pismo

崇神天皇陵 (1)
崇神天皇陵 (1) posted by (C)pismo

崇神天皇陵 (2)
崇神天皇陵 (2) posted by (C)pismo

崇神天皇陵 (3)
崇神天皇陵 (3) posted by (C)pismo

崇神天皇陵 (4)
崇神天皇陵 (4) posted by (C)pismo


景行天皇陵は、渋谷向山古墳といい天理市渋谷町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は「景行天皇陵」として宮内庁により管理され、上の山古墳を含む古墳3基が陪塚に指定されています。
墳丘は全長約300m、後円部径約168m、前方部幅約170mを測り、前方部を西に向けています。古墳時代前期に築造されたものとしては国内最大の古墳です。墳丘の形状については諸説ありますが、後円部4段築成、前方部3段築成とする見方が有力です。また周濠は後円部6ケ所、前方部4ケ所の渡り堤によって区切られていますが、現在の状況は江戸時代末におこなわれた修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものです。
これまでの宮内庁書陵部の調査等により、普通円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪が確認されています。このほか、関西大学所蔵の伝渋谷出土石枕が本古墳出土とされたこともありますが、詳しいことは分かっていません。また、渋谷村出土との伝承がある三角縁神獣鏡の存在も知られています。
渋谷向山古墳の築造時期については、埴輪の特徴から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、先に築造された行燈山古墳(崇神天皇陵)とともに重要な古墳です。
景行天皇陵(渋谷向山古墳)
景行天皇陵(渋谷向山古墳) posted by (C)pismo

纒向日代宮(まきむくひしろのみや)は景行天皇・大足彦忍代別命(オオタラシヒコヲシロワケ)が、即位後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた地です。
その立役者は、皇后の播磨稲日太郎姫(ハリマノイナヒヲイラツメ)との間に生まれた皇子の小碓尊(オウスノミコト)、別名、倭建命(日本武尊・ヤマトタケルノミコト)です。
倭建命は、天皇の命を受けて大和に従わない九州の熊襲(クマソ)や出雲の国へ、一度帰朝してまた東の国々へと遠征を重ね、次々に服従させていったという古代の英雄です。
「大和は国のまほろば たたづく青垣 山ごもれる 大和し美し」は、命が遠征の帰途、病を得て亡くなる時に、ふるさと大和への思いを詠まれた歌の一節とされています。(※日本書紀には、景行天皇が九州の日向国で詠んだ歌とされています。)

景行天皇の業績で注目すべきことは、日本の国の真の歴史並びに天成(アマナリ)の道(宗教・政治の理念)を子々孫々に遺すべしとの日本武尊の遺言に従い、五・七調の神代文字で記された秀眞伝(ホツマツタエ)文献を、三輪君の祖となる大直根子(オオタタネコ)に命じて編纂させ、後世に遺したことです。
(現地説明板などより)
纏向日代宮跡 (1)
纏向日代宮跡 (1) posted by (C)pismo

纏向日代宮跡
纏向日代宮跡 posted by (C)pismo

相撲神社は穴師坐兵主神社の摂社で野見宿彌を祀る神社です。
相撲は国土安穏,護国豊穣を祈る平和と繁栄の祭典であり,第11代垂仁天皇の7年,大兵主神社神域の小字カタヤケシにおいて、野見宿彌と大麻蹶速が初めて天皇の前で相撲をとり相撲節(七月七日)となりそれがもとで後世,宮中の行事となりました。これが日本の国技である相撲のはじまりとされています。
昭和37(1962)年10月6日,大兵主神社に日本相撲協会時津風理事長(元横綱双葉山)を祭主に二横綱(大鵬,柏戸)五大関(琴ヶ浜,北葉山,栃ノ海,佐田ノ山,栃光)をはじめ,幕内全力士が参列し、相撲発祥の地で顕彰大祭がおこなわれ,この境内のカタヤケシゆかりの土俵に於いて手数入りが奉納されました。
(現地説明板などより)

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相撲神社 (1) posted by (C)pismo

相撲神社 (2)
相撲神社 (2) posted by (C)pismo

相撲神社
相撲神社 posted by (C)pismo

相撲神社 (3)
相撲神社 (3) posted by (C)pismo

桧原神社は、「元伊勢」とも呼ばれる神社です。大神神社の摂社で、大神神社と同じ三輪山を御神体としています。
神殿や拝殿の無い形式は昔の神社形式を伝えています。
桧原神社 (1)
桧原神社 (1) posted by (C)pismo

桧原神社 (1)
桧原神社 (1) posted by (C)pismo


玄賓庵(げんぴあん)は、真言宗醍醐派の寺院です。
平安時代、高徳僧で名医でも有った玄賓僧都が隠棲したと伝える庵です。
謡曲で有名な「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたものです。
玄賓は弘仁9(818)年に亡くなりました。
(現地説明板などより)
玄賓庵 (1)
玄賓庵 (1) posted by (C)pismo

玄賓庵 (2)
玄賓庵 (2) posted by (C)pismo

玄賓庵 (3)
玄賓庵 (3) posted by (C)pismo

玄賓庵
玄賓庵 posted by (C)pismo

大美和の杜展望台は、狭井神社のそばにあり、大和三山(天香久山・畝傍山・耳成山)と二上山、金剛山、葛城山系、大和平野が見渡せる眺望スポットです。特定非営利活動法人地域活性化支援センターが主催する「恋人の聖地プロジェクト」により選定されたデートスポット「恋人の聖地」にも選定されています。
大美和の杜展望台
大美和の杜展望台 posted by (C)pismo

大美和の杜展望台 (1)
大美和の杜展望台 (1) posted by (C)pismo
Posted at 2017/05/24 23:21:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | トレッキング | 日記
2017年04月22日 イイね!

南信州の桜(その5・高遠城址公園のライトアップ)

何度か訪れている高遠城址公園の桜。
ライトアップは初めてです。幻想的で美しいですが、早朝の中央アルプスと城址公園の桜の方が好みです。こちらはまた来年にでも朝行きたい場所です。
→平成18年 高遠、天気曇天なれど開花近し・・
→平成19年 毎年恒例の高遠城址公園の桜
→平成20年 今年も満開の高遠城址公園へ
→平成23年 静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(3日目その3・高遠城と春日城)
高遠城址公園
高遠城址公園 posted by (C)pismo

高遠城址公園 (1)
高遠城址公園 (1) posted by (C)pismo

高遠城址公園 (2)
高遠城址公園 (2) posted by (C)pismo

高遠城址公園 (3)
高遠城址公園 (3) posted by (C)pismo

高遠城址公園 (4)
高遠城址公園 (4) posted by (C)pismo

高遠城址公園 (5)
高遠城址公園 (5) posted by (C)pismo

高遠城址公園 (6)
高遠城址公園 (6) posted by (C)pismo

高遠城址公園 (7)
高遠城址公園 (7) posted by (C)pismo

高遠城址公園 (8)
高遠城址公園 (8) posted by (C)pismo

高遠城址公園 (9)
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高遠城址公園 (10)
高遠城址公園 (10) posted by (C)pismo

高遠城址公園 (11)
高遠城址公園 (11) posted by (C)pismo

高遠城址公園 (12)
高遠城址公園 (12) posted by (C)pismo
Posted at 2017/05/18 22:24:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年04月22日 イイね!

南信州の桜(その4・飯島町、駒ヶ根市、箕輪町)

千人塚公園は、千人塚城ヶ池の周辺に中央アルプスをバックにした長野県の「桜の名所」に選出されている公園です。城ヶ池は平成22(2010)年に「全国溜め池100選」に選ばれています。
千人塚は、今からおよそ八百年程前、船山城主の臣である上沼氏がここに城を構え北村城(北山城)といいました。この下の水田地帯に城下町の町張、店町等の地名が残っています。
戦国時代、天正10(1582)年2月織田信忠の伊那路攻略の際、上沼左近の守ったこの城は落ち、敵味方の遺骸武具一切を埋めて塚としたと伝えられています。その後時々悪疫が流行したため、霊の祟りを恐れ、天保15年甲辰6月千九人童子の碑を建て、以来毎年春秋2回供養を続けてきたものです。
城ヶ池はもと城の空掘で昭和9(1934)年国の灌漑事業の一環として土手を築き水を湛えたもので現在は水面約3.3ha、水深は深い所で10m近くあります。公園は中央アルプスをバックにソメイヨシノ、コヒガン、エゾヤマザクラ、サトザクラなど約700本の桜を楽しむことができ長野県の「桜の名所」に選ばれています。
(現地説明板などより)
千人塚公園
千人塚公園 posted by (C)pismo

千人塚公園 (1)
千人塚公園 (1) posted by (C)pismo

千人塚公園 (2)
千人塚公園 (2) posted by (C)pismo

吉瀬の枝垂れ桜は、推定樹齢は約100年、幹周2.8m、樹高28m、天竜川を望む斜面に植えられた一本の枝垂れ桜です。中央アルプスをバックに入れながら撮影できるスポットです。 残雪の中央アルプスとしだれ桜の古木と周辺の田畑と調和のとれた風景は、見ごたえがあります。
(現地説明板などより)
吉瀬のシダレザクラ (1)
吉瀬のシダレザクラ (1) posted by (C)pismo

吉瀬のシダレザクラ
吉瀬のシダレザクラ posted by (C)pismo

蔵澤寺は山号は広善山、曹洞宗の寺院です
応永元(1394)年、倉沢但馬守重清(高見城主)公により開創し、香華院と称しました。それから100年を経て延徳元(1489)年、蔵澤寺と改称しました。
更に弘治2(1556)年、倉沢石見守義忠は、讒言によって武田信玄により高遠城において自刀させられ、その高子遺骸を奉ず来て、現在の大桧のもと開基塚に葬りました。そして、伽藍を現在の規模に整えました。その後、武田氏のため、倉沢氏はこの地を退去させられ、寺門は衰廃してしまいましたが、その後50年の空白をおき、慶長4(1599)年愛知県北設楽郡津具村金竜寺の5世来円宗擦大和尚が訪れ、寺門を復興し中興開山となり、現在に至ります。三門は二層入母屋瓦葺三間一戸の楼門で、寛政9(1797)年の建立です。棟梁は高遠藩匠伊藤常八尉良長といわれています。隠れキリシタンゆかりの寺として有名な寺で、境内には樹齢約300年のしだれ桜があり、見ごたえがあります。
(現地説明板などより)
蔵澤寺 (1)
蔵澤寺 (1) posted by (C)pismo

蔵澤寺 (2)
蔵澤寺 (2) posted by (C)pismo

蔵澤寺 (3)
蔵澤寺 (3) posted by (C)pismo

蔵澤寺
蔵澤寺 posted by (C)pismo

蔵澤寺 (4)
蔵澤寺 (4) posted by (C)pismo

蔵澤寺 (5)
蔵澤寺 (5) posted by (C)pismo

蔵澤寺 (6)
蔵澤寺 (6) posted by (C)pismo

中曽根のエドヒガンは、樹元には権現様が祀られており中曽根の権現桜とも呼ばれています。
長野県の天然記念物に指定されています。
樹齢1000年を超えると言われるエドヒガンで樹高約13m、周囲6.7mの巨木です。
中曽根のエドヒガン
中曽根のエドヒガン posted by (C)pismo
Posted at 2017/05/18 22:19:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年04月22日 イイね!

南信州の桜(その3・高森町)

洞頭(ほらかしら)城は松岡氏の城です。
松岡刑部大輔は牛牧の殿様(牛牧殿)と呼ばれ、松岡氏(市田殿)の兄でした。
牛牧に残る「牛牧村歴代由緒覚書」によると、最初は上平の次郎城に住んでいましたが、大きな領地を与えられて洞頭城へ分家させられたと記されています。
(現地説明板などより)
洞頭城
洞頭城 posted by (C)pismo

洞頭城 (1)
洞頭城 (1) posted by (C)pismo

洞頭城 (2)
洞頭城 (2) posted by (C)pismo

洞頭城 (3)
洞頭城 (3) posted by (C)pismo

洞頭城 (4)
洞頭城 (4) posted by (C)pismo

洞頭城 (5)
洞頭城 (5) posted by (C)pismo

松岡城は高森町の南部、天竜川を望む標高560mの段丘先端部に立地しています。
南東側は比高約百mの段丘崖、北東側は間ヶ沢、南西側は銚子ヶ洞と深い沢により侵食された舌状の地形を要害とし、これに多くの空掘や土塁を施して防備を堅固にしています。銚子ヶ洞を隔てた西方には松岡南城(通称小城)があり、二つの城が並立しています。
築城は南北朝の戦乱の頃といわれ、その後戦国時代に大きな修築が加えられたと考えられています。およそ二百年間にわたって市田郷領主松岡氏の本拠地となり、天正16(1588)年同氏の改易により廃城となりました。
戦国時代、守護小笠原氏が家督争いで分立し国内の統制が乱れ、松岡氏も近郷の豪族を従えるようになりました。そうした中で、松岡氏は諏訪上社の神事や御謝山祭の神事で頭役を何回も勤めており、その頃の城主頼貞・貞正2代の時は松岡氏の最盛期であったと考えられています。その頃領地も現在の山吹、市田、座光寺、上郷の一部を領有し、下條氏・小笠原氏と並ぶ南信濃の大豪族となりました。貞正は仏法を信じ坐禅の修行に励み明甫正哲居士と称し、永正年間に牛牧に松源寺を創建し、実弟文叔瑞郁禅師を開山としました。なお、文叔禅師は臨済宗妙心寺派の本山妙心寺の24世住持を勤めました。
そして、天文13(1544)年、井伊直平の次男、直満は今川義元に謀殺され、その子亀之丞は松岡氏を頼り松源寺に逃れました。弘治元(1555)年までの12年間、この地で過ごしました。
天文23(1554)年甲斐の武田信玄は、自ら大軍を率いて伊那に入り、抵抗の素振りを見せた鈴岡城の小笠原氏と神峰城の知久氏を攻め落としたため、松岡氏は抵抗は無理と考え、武田の軍門に降り自領の安堵を図りました。そして松岡氏は50騎の軍役を課された。一騎に対し5人程の従卒を要したので、松岡氏は出陣の際には200人の軍兵を出したことになり、その力の大きさが偲ばれます。
天正10(1582)年織田信長の軍が伊那郡に侵入し、飯田・大島両城そして高遠城までも攻め落とし伊那郡は飯田在城の毛利秀頼の治めるところとなりました。この時代の松岡城主は松岡兵部大輔頼貞で、頼貞は信長に帰順し、その本領を安堵されました。
本能寺の変の後伊那郡は徳川家康の勢力下に入り、郡司菅沼小大膳定利が知久平城にあって、上下伊那郡を支配しました。しかし天正13(1585)年松本の小笠原貞慶は、徳川方から豊臣氏方に変心し、徳川方の保科氏を高遠に攻め、逆に小笠原貞慶は大敗を喫して松本に退きました。その際松岡右衛門佐貞利は小笠原貞慶に味方し高遠の攻撃に向かい、形成が不利と見て途中で引き返したことを家臣の座光寺次郎右衛門が、伊那郡司菅沼定利に密告しました。そこで定利は直ちに松岡貞利をとらえ、そして駿府の井伊直政に預けられ、家康の面前で座光寺氏と対決させられました。井伊直政は父、井伊直親をかくまってくれた貞利への恩に報いようとしましたが天正16(1588)年松岡貞利は改易を命ぜられ、その所領は没収されました。
場内は本丸を除く大部分が開墾されて田畑になっていますが、深く掘られた空掘は概ね残存しており、五つの曲輪が連郭式に並んでいます。
最先端の曲輪は主郭と考えられ突端部からの眺望は良好で、特に天竜川を挟む竜東地区を一望することができます。五の曲輪には松岡氏の菩提寺の一つである臨済宗松源寺があり法灯を伝えています。
伊那谷には段丘先端部を利用して築かれた中世城跡が数多く存在していますが、中でも松岡城跡は規模が雄大であるとともに、段丘の城跡として典型的な姿を残しています。
(現地説明板・パンフレットなどより)
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」第5回「亀之丞帰る」の直虎紀行で紹介されました。
松岡城 (1)
松岡城 (1) posted by (C)pismo

松岡城 (2)
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松岡城
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松岡城 (3)
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松岡城 (4)
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松岡城 (5)
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松岡城 (6)
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松岡城 (7)
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松岡城 (8)
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松岡城 (9)
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松岡城 (10)
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松岡城 (11)
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松源寺は、山号は雲竜山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
創立されたのは、永正8年~10年頃(1511~1513)とされ、開基は松岡城主松岡伊予守貞正、開山は貞正の実弟、文叔瑞郁禅師です。
最初の寺は、牛牧村の寺山に建てられましたが、天正10年(1582)織田軍の兵火により堂塔が焼失し、江戸時代初期の1600年代に朝日受永の寄進等により松岡城跡五の曲輪内に移転再建されました。
明治30(1897)年に焼失したため、現在の本堂は明治33(1900)年に再建されたものです。山門は、江戸時代中ごろ大風で倒壊しましたが、残った部材を使い、延享3(1747)年に再建されました。また、山門前の門前桜は推定樹齢は300年の立派なエドヒガンです。
そして松源寺は、井伊直親ゆかりの寺院でもあります。天文13(1544)年井伊直満と井伊直義が今川義元に謀反の疑いで殺害され、井伊直満の子、当時9歳の亀之丞(後の井伊直親)も命を狙われました。
家臣の今村藤七郎は亀之丞をわらの袋に隠して運び出し、浜松市引佐町渋川にある東光院に逃げたと伝えられています。
ここにも追手が来たため、亀之丞は東光院能中和尚の案内で松源寺へ逃げました。 松源寺を開山した文叔瑞郁禅師は、当時の松岡城主、松岡貞正の実弟で遠江三ヶ日で布教中、井伊直氏から
龍潭寺の前身である自浄院に招かれ住持となりました。
天文元(1532)年、井伊直平は文叔瑞郁禅師の弟子である黙宗瑞淵禅師に、龍潭寺の創建にあたらせました。そんな縁から松岡貞正は快く亀之丞を迎え入れ約12年間、武道や学問を指導しました。
(現地説明板・パンフレットなどより)
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」第5回「亀之丞帰る」の直虎紀行で紹介されました。
松源寺
松源寺 posted by (C)pismo

松源寺 (1)
松源寺 (1) posted by (C)pismo

松源寺 (2)
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松源寺 (3)
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松源寺 (4)
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松源寺 (5)
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松源寺 (6)
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松源寺 (7)
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松源寺 (8)
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高森町歴史民俗資料館は、町民の要望によって旧役場庁舎の跡地に昭和54(1979)年に建てられました。その後、新たな展示スペースと収蔵室、学習室の整備を願って増築されることが決まり、平成11(1999)年、新館「時の駅」の鍬入れ式の日に富本銭が国内最古の鋳造貨幣であるとの発表がありました。
そして歴史民俗資料館20周年の平成12(2000)年、時の駅の落成式が行われました。
新館「時の駅」の第1展示室では資料館のメインの展示品が展示され、日本最古の貨幣と認定された「富本銭」をはじめ、「山吹藩の国学」、「両面顔面取手」など貴重な出土品や歴史的資料を、エントランスホールでは高森町を代表する増野新切遺跡や瑠璃寺前遺跡から出土した土器等を展示しています。ホールの町民ギャラリーでは期間限定の別展示や、地域産業として受け継がれてきた養蚕に欠かせないカイコの展示も行っています。本館第2展示室では地域で長く使われてきた生活道具などを、第3展示室では高森地方の歴史や郷土の文化、作品などが展示されています。
高森町歴史民俗資料館
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瑠璃寺は、山号は大島山、天台宗の寺院です。
平安時代末期の天永3(1112)年、比叡山竹林院観誉僧都により創建されました。
建久3(1197)年に源頼朝の祈願所となり、寺領750石を永代寄進。その折、三本の桜も寄進されました。鐘楼東の地主桜(今は二代目)、児童館南のヒガンザクラ、そしてシダレザクラがその3本です。
天文23(1554)年、武田晴信(信玄)は伊那谷を攻略し、鈴岡城、神峯城などが落城しました。そして、永禄年中に武田氏の祈願所となって栄えましたが、天正10(1582)年、織田軍の侵攻により兵火にかかりました。
江戸時代から現在にかけて徐々に再建が進みました。
隆盛期には七堂伽藍五重塔36院坊と盛観を呈していました。本尊薬師如来及び両脇侍像(重要文化財)ほか聖観音立像地蔵菩薩立像など優れた藤原期の仏像が現存しています。
瑠璃寺
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瑠璃寺 (1)
瑠璃寺 (1) posted by (C)pismo

瑠璃寺 (2)
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瑠璃寺 (3)
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瑠璃寺 (4)
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瑠璃寺 (5)
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瑠璃寺 (6)
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瑠璃寺 (7)
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瑠璃寺 (8)
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瑠璃寺 (9)
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瑠璃寺 (10)
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瑠璃寺 (11)
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瑠璃寺 (12)
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Posted at 2017/05/17 23:48:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年04月22日 イイね!

南信州の桜(その2・飯田市)

杵原学校(旧山本中学校杵原校舎)は、昭和24(1949)年に新制山本中学校として建築された建物です。
昭和60(1985)年、伊賀良中学校(現旭ヶ丘中学校)との統合により、廃校になりました。
平成17(2005)年、新制中学校校舎として全国で初めての国登録有形文化財になりました。吉永小百合主演の映画「母べえ」のロケ地にもなりました。
校舎の前の大きなしだれ桜も樹齢80年の立派な桜です。
杵原学校 (1)
杵原学校 (1) posted by (C)pismo

杵原学校
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杵原学校 (2)
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杵原学校 (3)
杵原学校 (3) posted by (C)pismo

杵原学校 (4)
杵原学校 (4) posted by (C)pismo

増泉寺は曹洞宗の寺院です。
慶長年間に創建され、正徳5(1715)年に現在の場所に移りました。
境内には「増泉寺の天蓋桜(増泉寺のベニシダレザクラ)があります。
樹齢およそ300年、樹高20m、誰が植えたか定かではありませんが、樹形や色の美しさが評判です。
また、天保飢饉の後、飢饉を救った「籾蔵」の管理運営を委譲され、それを支えた村民217人の顕彰のための二百十七名記念碑が建っています。
増泉寺 (1)
増泉寺 (1) posted by (C)pismo

増泉寺
増泉寺 posted by (C)pismo

増泉寺 (2)
増泉寺 (2) posted by (C)pismo

雲彩寺は、山号は白雉山、曹洞宗の寺院です。
白雉年間(650~654年)に創建され、当初は現在より川下1km程にありましたが、明治7(1874)年に現在地に移転されています。
山門は桜丸門ともいい飯田城の桜丸にあった脇門を移築した建物と推定されています。明治4(1871)年に飯田城が廃城になると城内の多くの建物が破却、払い下げとなり、その内2棟の城門が上郷村黒田の住人斉藤重胤氏によって買い上げられ1棟がさらに大正10(1921)年頃に吉川源美氏に渡り雲彩寺に寄進されました。
雲彩寺山門は数少ない飯田城の遺構として貴重な事から平成22(2010)年に飯田市指定文化財に指定されています。
また、桜丸門の後方に咲く桜は古い幹と新しい幹があることから「添え桜」「寄り添い桜」とも呼ばれます。根元には水子地蔵、堀の前には三十三観音が安置され、樹齢は200〜300年ともいわれます。
又、境内一帯は下伊那最大級の前方後円墳である雲彩寺古墳(飯沼天神塚古墳)の所在地で全長約78m、前方部方39.5m、高さ7.7m、後円部径31m、高さ8.5m、横穴式石室が現存しています。古墳の存在は古くから知られ江戸時代には発掘調査が行われ、出土品の詳細「雲彩寺所蔵古物之図」にまとめられています。
6世紀前半に築造された当時の首長級の墳墓とされ副葬品は多くが紛失し馬鈴2個と金環1個のみとなりましたが当時の貴重な史跡として昭和40(1965)年に長野県指定史跡に指定され平成28(2016)年10月3日に「飯田古墳群」として国指定史跡になっています。
雲彩寺
雲彩寺 posted by (C)pismo

経蔵寺は日蓮宗の寺院です。
元和3(1617)年に寿量院日泉が開基したと伝えられています。
山門は飯田城の桜丸の門として建立され、宝暦年間(1751~1764)に赤門が建てられるにあたり、(1871)飯田藩の家老安富家の屋敷に移築されました。明治4(1871)年に飯田藩が廃藩となり、飯田城の城門などが払い下げられた際、旧上郷村の斉藤氏が買い受けましたが、大正3(1914)年頃に旧上郷村の吉川氏が買い受け、経蔵寺へ寄付し、山門となりました。
平成6(1994)年に飯田市指定文化財に指定されています。同時に昭和24(1949)年に国重要美術品に認定されています。
山門右側にはエドヒガン、左側と本殿前にはシダレザクラが咲きます。
経蔵寺
経蔵寺 posted by (C)pismo

経蔵寺 (1)
経蔵寺 (1) posted by (C)pismo

加賀沢白山のエドヒガンは、推定樹齢200年、目通り周囲3.3m、樹高17mでその姿は花火のスターマインの打ち上げを思わせます。
加賀白山本社から分祀された加賀沢白山大神の境内にあります。この神社には後醍醐天皇の皇子巌子女王にまつわる伝説も残されていて、若宮として合祀されています。
(現地説明板などより)
加賀沢白山(加賀沢のエドヒガン)
加賀沢白山(加賀沢のエドヒガン) posted by (C)pismo

飯田城の桜丸にある桜です。
飯田城桜丸・夫婦桜 (1)
飯田城桜丸・夫婦桜 (1) posted by (C)pismo

飯田城桜丸・夫婦桜
飯田城桜丸・夫婦桜 posted by (C)pismo

飯田城桜丸・夫婦桜 (2)
飯田城桜丸・夫婦桜 (2) posted by (C)pismo

飯田城桜丸
飯田城桜丸 posted by (C)pismo

飯田城桜丸 (1)
飯田城桜丸 (1) posted by (C)pismo

飯田市美術博物館は飯田城二の丸跡にある美術館兼博物館です。
昭和63(1988)年10月に落成し、企画展示やプラネタリウムの一般公開が始まり、翌平成元(1989)年10月、開館式が行われ常設展示の公開および開館記念特別展示等の事業が開始されました。
飯田出身の画家、菱田春草の作品を多く収蔵・展示しています。
平常展示・特別展のほか定期的に講座等で、伊那谷の美術・自然・歴史・民俗を紹介しています。館内のプラネタリウムでは季節ごとに内容を替えた上映を行っています。
敷地内に樹齢450年以上の老桜、飯田城主代々の家老安富氏の館趾であったことから「安富桜」、別名長姫のエドヒガンという桜もあります。初代藩主堀親昌入部の寛文12(1672)年に植栽されたと推定されています。
また、付属施設として日本民俗学の創始者の柳田國男の書屋を、東京都世田谷区成城から飯田市に移築した柳田國男館や詩人、文学者、翻訳家として多彩な文芸活動を展開した飯田市名誉市民第1号の日夏耿之介(ひなつこうのすけ)記念館があります。
飯田市美術博物館・安富桜(長姫のエドヒガン)
飯田市美術博物館・安富桜(長姫のエドヒガン) posted by (C)pismo

飯田市美術博物館・日夏耿之介記念館
飯田市美術博物館・日夏耿之介記念館 posted by (C)pismo

飯田市美術博物館・柳田國男館
飯田市美術博物館・柳田國男館 posted by (C)pismo

飯田市美術博物館 (1)
飯田市美術博物館 (1) posted by (C)pismo

飯田市美術博物館 (2)
飯田市美術博物館 (2) posted by (C)pismo

飯田市美術博物館 (3)
飯田市美術博物館 (3) posted by (C)pismo

飯田市美術博物館・日夏耿之介記念館 (1)
飯田市美術博物館・日夏耿之介記念館 (1) posted by (C)pismo

飯田市美術博物館
飯田市美術博物館 posted by (C)pismo

峯高寺(ほうこうじ)は、浄土宗の寺院です。
慶長6(1601)年から17年間飯田藩5万石の城主だった小笠原秀政は、後に松本城に移封されましたが、秀政の奥方福姫の墓が飯田市の峯高寺に残っています。福姫は、徳川家康の孫女で、織田信長の孫女にもあたりますが慶長12(1607)年10月、ほうそうを患わって32歳で没し、峯高寺に葬られました。築山殿の母は井伊直平の娘であるため、築山殿とその孫娘である福姫は井伊家の血筋にもつながります。宝篋印塔の墓石には三葉葵の紋が刻まれています。
峯高寺 (1)
峯高寺 (1) posted by (C)pismo

峯高寺
峯高寺 posted by (C)pismo

峯高寺 (2)
峯高寺 (2) posted by (C)pismo

峯高寺 (3)
峯高寺 (3) posted by (C)pismo
Posted at 2017/05/17 23:32:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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