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ピズモのブログ一覧

2007年06月01日 イイね!

尾張紀行(その3 名古屋市北区~西区)

名古屋城の後は、北区~西区をドライブです。
平手政秀宅跡は現在志賀公園になっています。この志賀の地を領した平手政秀は、織田信秀の子、織田信長の傅役をつとめました。信長は行状が悪く、政秀は再三諫めましたが父信秀の死後もいっこうに改まりませんでした。天文22(1553)年正月13日、信長の将来を絶望した政秀はこの地で自害しました。信長はその死を哀惜し、一寺を建立し、政秀寺と号して厚く菩提を弔いました。
志賀公園のグランド北西側に「平手政秀邸址」の石碑が建っています。


西区には、稲生原古戦場があります。弘治2(1556)年、柴田勝家、林秀貞(通勝)、林美作守光春(通具)らは織田信長の弟で末森城主である信行(信勝)を擁立し、信長を討とうとこの地で戦いを挑みましたが、信長の勝利となりました。この後、信長は尾張の統一に大きく踏み出しました。これを稲生の戦いもしくは稲生原の戦いといいます。
この場所には、この合戦での死者を祀ったといわれている庚申塚があります。本来は庚申信仰の名残でもあるそうです。


比良城は天文年間(1532年~1555年)に佐々成政の父成宗(盛政)が築いた城です。
大きさは東西68m、南北72m、2重の堀に囲まれた城でした。
成宗の死後は、次男の孫介が弘治2(1557)年稲生原の戦いで戦死し、永禄3(1560)年、桶狭間の合戦で嫡男政次が戦死すると、5男の成政が家督を継ぎ城主となりましたが、天正3(1575)年成政が越前小丸城に移ったため廃城となりました。
城跡は現在、光通寺となっています。
境内奥に石碑が、門前に案内板があります。


この後は、東区の徳川園に行ってみます。
Posted at 2007/06/04 22:38:25 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年06月01日 イイね!

尾張紀行(その2 名古屋城)

次は名古屋城に行ってみました。西北隅櫓が公開中ということを天茶さんのページで知り、今回の名古屋行きを決定しました。関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14(1609)年江戸幕府の東海道の要所として、また、大阪方への備えとして、清須から名古屋へ還府を決定し、加藤清正・福島正則・前田利光(利常)等北国・西国の諸大名20名に普請を命じ、天守閣や諸櫓の作事は、慶長17(1612)年にほぼ完成した代表的な平城です。その後、明治維新を迎えるまでの名古屋城は、御三家の筆頭尾張徳川家の居城として栄えました。第二次世界大戦中の昭和20(1945)年5月、名古屋空襲の際、大、小天守閣、本丸御殿はじめ建物の殆どを焼失しました。幸いにも焼失を免れた三つの櫓(西北・西南・東南)、三つの門(表二之門、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門)と本丸御殿障壁画の大部分は重要文化財として現在に伝えられています。写真は天守閣で昭和34(1959)年10月に再建されました。残念ながら建築基準法などの規制があるので鉄筋コンクリート造りですが、NHKのプロジェクトX第177回「名古屋城再建 金のシャチホコに託す」でも取り上げられましたが、石垣が崩れかけるなど大変な苦労があったようです。


入口付近には、名古屋能楽堂があります。平成9(1997)年に能や狂言などの伝統芸能の振興と文化交流の推進を目的としてオープンしました。
能・狂言の公演などが行なわれているほか、資料やビデオで能楽を紹介する展示室があります。展示室は無料で見ることができます。時間がなくてあまりゆっくりは見ることはできませんでしたが。


名古屋城の中には、戦災にも負けず、江戸時代の櫓や庭園などが結構残っています。西南隅櫓は、未申櫓ともいわれ、屋根二層、内部三階の櫓です。西、南両面には、軍事用の「石落とし」を張り出して屋根を付けています。明治24(1891)年の濃尾大地震で石垣と共に崩壊しましたが、宮内省によって修理復旧され、鬼瓦などに菊花紋が見られます。重要文化財に指定されています。


東南隅櫓は、辰巳櫓ともいわれ、その規模、構造は西南隅櫓と同じで、屋根二層、内部三階の櫓ですが「落狭間」の破風の形を異にしています。この櫓は創建当時の姿を伝えるもので、鬼瓦などに葵の紋が見られます。こちらも重要文化財に指定されています。


二の丸には重要な史跡もあります。
青松葉事件之遺跡は、慶応4(1868)年正月二十日、二之丸御殿向屋敷の庭前で、尾張徳川家の三重臣が斬首されるなど、多くの犠牲者を出した尾張藩内の佐幕派弾圧事件です。「青松葉事件」の名は処刑された重臣のうちの筆頭格である渡辺在綱の家が「青松葉の渡辺」といわれる渡辺半蔵守綱の子孫であるからその名があるそうです。
昭和の初めに、「青松葉事件之遺跡」碑が現在地より南約100mの処刑地跡に建立されましたが、その後所在不明となったのでここに復元されたものです。


二の丸は那古野城の跡です。大永年間(1521~1528)はじめに今川氏親が名古屋台地西北端に築き「柳の丸」といいました。
氏親は、一族の氏豊を城主として守らせていましたが、天文元(1532)年、織田信秀に奪われ、天文3(1535)年にここで織田信長が生まれたといわれています。ただし那古野城奪取の時期は諸説あり、信長は勝幡城で生まれたとも言われています。その後信秀は古渡城に移り、また信長も弘治元(1555)年信長も清洲に移り、一族の信光、重臣林秀貞(通勝)らが一時入ったが天正10(1582)年頃一時廃城になりました。その後、那古野城跡は名古屋城築城時に二の丸の一部となったようです。
現在は、名古屋城二之丸庭園入口付近に、石碑が建っていますが、石碑は那の部分は完全に残っていますが、古の半分以下が朽ちてしまって無惨な感じです。説明看板が横になければわかりませんでした。


名勝二之丸庭園は、元和年間(1615~23)二之丸御殿の造営に伴って同御殿の北側に聖堂(金声玉振閣)を中心として設けられましたが、享保(1716~36)以後たびたび改修されて枯山水回遊式庭園に改められました。
昭和28年(1953)3月31日に「名勝」の指定を受けました。


本丸御殿は天守閣の南、本丸のほぼ中央に建てられた大建築で、当初は、初代尾張藩主徳川義直の住居と藩の政庁として使用されましたが、その後は将軍が上洛する際の宿館となりました。二条城の二之丸御殿と並んで書院造の双璧でしたが、惜しくも第二次世界大戦で焼失しました。
現在復元工事を進めており、建物は平成20(2008)年の着工、平成22(2010)年には玄関部分の一部完成・公開をめざしています。全体が完成するのに15年かかると予想されているようです。


西北隅櫓は今回名古屋城で最も行きたかったところです。戌亥櫓とも清須櫓ともいわれています。清須櫓の名称は、清洲城の用材を利用して築造されたためです。外部北面、西面に千鳥破風が作られ、「落狭間」を備えています。櫓とはいえ、弘前城・宇和島城・丸亀城の三重天守閣よりも大きいかなり立派なものです。国の重要文化財に指定されています。平成19年5月19日~6月3日まで内部公開を実施していて、中を見ることができました。


コンクリート造りの天守閣が目立ちますが、古い建造物や遺構、規模など改めてみると名古屋城は見どころの多い城だと思いました。本丸御殿の復元も楽しみです。
Posted at 2007/06/03 23:22:26 | コメント(8) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年06月01日 イイね!

尾張紀行(その1一宮市~稲沢市~美和町~七宝町~名古屋市中川区)

この日は尾張紀行と言うことでドライブしました。
東海北陸道・一宮木曽川ICからスタートです。
北方中学校の門脇には、長谷川秀一公旧居跡があります。石碑は以前は下渡公民館付近に建てられていましたが、都合によりこの地に移動させたようです。長谷川秀一は尾張国葉栗郡北方の下渡の出身で織田信長に仕えていました。信長から寵愛されて「長谷川竹」という呼び名で親しまれていました。
天正10(1582)年の本能寺の変の際、堺で徳川家康の接待役を勤めていましたが、家康とともに伊賀越えで三河に逃れました。
信長の死後は秀吉に仕え、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いに従軍し、功績を挙げ、越前東郷(槇山城)の所領と羽柴姓を与えられ東郷羽柴侍従と呼ばれました。
文禄元(1592)年から始まった文禄の役で晋州城攻めで武功をあげましたが、文禄3(1594)年に、陣中にて病没し、嗣子がいなかったため長谷川氏は断絶しました。


次は少し南下し、浮野古戦場址です。清洲城主織田信長は、永禄元(1558)年5月28日、岩倉城主織田信安攻略のため、二千余騎を率いて浮野に陣を進めましたが、この時は小競り合い程度に終わりました。
同年の7月12日に信長は再び二千余騎を率いて、再度この地に布陣しました。信長軍は犬山城主織田十郎左衛門信清が千騎の軍兵を率いて馳せ参じたので総勢三千騎です。一方岩倉の信安方も三千余騎で浮野川を挟んで信長軍と対峙しました。戦機熟し、敵味方入り乱れて戦うこと数刻に及びましたが、岩倉勢は城際まで追いつめられました。信長・信清勢は勝ちどきを上げて引き揚げました。この様子を岩倉城中の軍は犬山の信清勢を少数と見て追い打ちをかけました。この急報を受けた信長は取って返し、大いに戦いました。信長勢は敵の主力に突入し、岩倉勢を城際まで追いつめ、敵の首級900余を討ち取ってその日の晩には清洲に引き揚げました。かなりの激戦だったようで、岩倉方では福田大膳正、前田右馬允(前田利家の叔父)、その子源介、山内一豊の兄十郎、豊臣秀吉の妻ねねの父林弥七郎などが戦死しています。
信長は翌年には、岩倉城を攻略し、信長は尾張をほぼ統一しました。
合戦場址には、首塚がつくられています。また、戦いに関する案内板(年表)が設置されています。


そこから近くには、浅野長政公宅跡があります。
現在浅野公園となっているこの地は、尾張浅野氏発祥の地であるといわれています。
戦国時代、浅野長勝と養子長政の屋敷があったとされています。長勝の養女が木下家定の妹の禰々であり、豊臣秀吉の正室北政所になりました。
禰々の義弟にあたる浅野長政は、豊臣秀吉の五奉行の一人となり、浅野家繁栄の基礎を築きました。
浅野長政公宅跡は、大正6(1917)年、地元が中心となり浅野史跡顕彰会が組織され、公園として保存されることになりました。昭和25(1950)年からは一宮市が管理しています。広さ約9200㎡、小山を造り、堀や池を深くし、ヒトツバタゴなど珍しい植物やツツジが植えられています。
昭和56(1981)年には、桑田忠親氏の筆による禰々の歌碑も建立されています。


かつての平和町、現在は合併して稲沢市の一部になっているところまで行くと、勝幡城があります。永正年間(1504~1520)頃に織田信定が築城しました。織田信定は織田信長の祖父で清洲三奉行をつとめ、織田弾正忠家といわれていました。
信定の子の信秀はここを拠点に津島の港を支配して勢力を拡大していきました。信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取り、本拠を勝幡城から那古野城に移しました。
かつては、織田信長は那古屋城で生まれたとされていましたが、現在では勝幡城で生まれたという説が有力なようです。
城跡は、日光川と三宅川の中洲にあり、要害の地であったことが窺えます。ただし、住宅街の中の空き地に石碑があるのみで、城の遺構は何も残っていませんでした。


美和町は福島正則ゆかりの地です。昨年、蜂須賀城・蓮華寺の蜂須賀氏発祥の地には行きましたので1年ぶりの訪問です。菊泉院は、瑞祥山と号し、鎌倉時代以前に平安仏教の寺院として創建されました。その後安土桃山時代の文禄元(1592)年に正眼寺十二世明叟周見禅師を開祖として曹洞宗になりました。また、この地の出身である福島正則との関わりも深く、正則公の位牌や護持仏の木造毘沙門天立像が奉納されています。正則公の甲冑姿の肖像画や、広島城改易時に重臣等の身の振り方を詳細に指示した書簡である「正則公仰書之写」なども納められています。正則が清洲城主であった時代の文禄4(1595)年~慶長5(1600)年には寺領50石が与えられ、正則公の菩提寺となりました。
境内には正則公の墓や記念碑も建立されています。


菊泉院のすぐ南には福島正則生誕地があります。福島正則は永禄4(1561)年にこの地・二ツ寺で生まれました。生誕地跡には、石碑と案内板があります。屋敷跡は、碑の南西(現在は水田)に約千坪あったといわれ、一般的には桶屋の倅だったといわれていますが、よくわかっていないようです。
正則の弟福島高晴(正頼)、広島城の城代家老をつとめた福島丹波守治重もこの地の出身です。


次は七宝町です。芳春院〔おまつの方〕生誕地があります。前田利家の正室芳春院(まつ・松)は、当時沖之島村の郷主として二千石を所領した林氏日開常信の息女として、天文16(1547)年7月9日、沖之島の北屋敷で生まれました。林氏日開常信は、後の滝川一益の外祖にもあたる血筋の郷主でしたが、清洲の織田家からは睨まれていたようです。
前田利春は、まつが4歳の時常信よりもらい受け、篠原主計の養女として育てることにしました。ただし、主計は早世したので、養母と共に高畠家に籍を移して、前田利家が21歳、まつが12歳の時に結婚しました。
林氏日開常信は、天正15(1587)年かつて武田氏に仕えた犬養義久を婿として迎え、沖之島の郷主の地位を譲り、自らは伊勢の神戸に移住しました。
前田家は、古くから沖之島の犬養家が「芳春院お松の里」であると伝えられていたようです。
現在も犬養家はこの地にあり、隣地に説明看板が立てられていました。


次はいよいよ名古屋市、中川区に入ります。この辺りは前田利家ゆかりの地です。
前田城は、江戸時代加賀100万石の大大名となった前田氏発祥の地といわれています。
寺伝では前田利家はこの城で生まれ、幼い頃に出城である荒子城に移って成長したとされています。ただ荒子城で出生したとの説もあるようです。
前田氏は織田信長に属し、蟹江城、荒子城、一色城等を領し、前田城はその中心でした。前田利家はこの城で生まれたとも、荒子城で生まれたともいわれています。
前田城は、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いの際、羽柴秀吉方についたため、家康方の攻撃を受けて落城しました。城主である前田与十郎種定は蟹江で討死し、子の長種は北陸に逃れて、利家に仕え、利家の長女幸を妻としました。
城跡は現在、前田速念寺となっています。
寺は、利家の叔父である利則が出家して意休と号し、浄土真宗速念寺初代となり、前田氏の鎮魂の寺となりました。城の遺構は残っていませんが、山門前に石碑があり、最後の城主前田与十郎の墓が境内にあります。


次は、荒子観音です。この地には5年前にも訪れました。ちょうど大河ドラマ「利家とまつ~加賀百万石物語」を放映しているときでした。荒子観音は正式には「浄海山圓龍(円竜)院観音寺」といいます。
「笠寺観音(笠覆寺)」「甚目寺観音」「荒子観音」「竜泉寺観音」は尾張四観音とされています。
天平元年(729)に泰澄によって開基されました。
境内の多宝塔は天文5(1536)年の築で、名古屋市内最古の建築物です。本堂は前田利家が天正4(1576)年に再建しましたが、幾度も火災により焼失しています。最近では平成6(1994)年にも火災で焼失し、平成9(1997)年に再建されました


近くには荒子城があります。前田利家の居城です。
天文年間前田利昌の築城と伝えられています。規模は狭い平地に簡単な柵と堀をめぐらし、敵を見張るために屋根の上に櫓を設けただけの砦程度のものでした。東西約68m、南北約50mの規模だったと伝えられています。城内には冨士権現社と天満宮が祀られ、今に残されています。
荒子城は利昌の後利家の長兄利久が城主でしたが、利家が三十三歳の時、信長の命で家督を継ぎ、荒子城主となりました。その後利家の嫡男利長が城主となりましたが、天正3(1575)年に利家が越前府中城主となると、利長もその地に移り、荒子城は廃城となりました。


次は名古屋城に向かいます。
Posted at 2007/06/03 17:57:17 | コメント(6) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年06月01日 イイね!

カタログスペックまであと少し・・・

カタログスペックまであと少し・・・この日は愛知県まで車で走りました。
ちょうど名神高速道路が集中工事ということで、ほとんどの区間で1車線規制でした。あまり流れはよくありませんでしたが、その反面、かなり燃費は延びました。
BPレガシィC型・GTのカタログスペックの燃費は13km/lだったと思うので、もう少しです。
アクセル全開で走るのも車の楽しさの一つですが、ガソリンも再び値上がりしているのであまりアクセルを踏み込まず、燃費にこだわるのも楽しいと思います。
Posted at 2007/06/02 20:18:48 | コメント(5) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年05月26日 イイね!

醍醐寺散歩(登山?)

次は醍醐寺に行ってみました。
これほど有名な寺にもかかわらず、今までなぜか醍醐寺には行ったことがありませんでした。もちろん桜も一度見てみたいとは思いますが、あえて普通の時期に行くのも面白いかな、とおもって行ってみました。
まず、三宝院に行ってみました。三宝院は永久3(1115)年、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正の創建です。醍醐寺の本坊的な存在で、歴代座主が居住する坊です。
現在の三宝院は、建造物の大半が重要文化財に指定されています。中でも庭園を見渡せる表書院は、寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物で、国宝に指定されています。
国の特別史跡、特別名勝に指定されている庭園は、慶長3(1598)年に豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭で、桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。庭園は秀吉のこだわりが随所に見られて本当に素晴らしいです。
これほど素晴らしいのですが、建造物内と、庭園は残念ながら写真撮影禁止ということで写真は外から写した大玄関と唐門だけです。


次は醍醐寺の内、下醍醐といわれる伽藍の見学です。醍醐寺は弘法大師の孫弟子、理源大師・聖宝が貞観16(874)年に創建しました。山岳信仰の霊山であった笠取山(醍醐山)に登った聖宝は、白髪の老翁の姿で現れた地主神・横尾明神より、こんこんと水(醍醐水)が湧き出るこの山を譲り受け、准胝観音と如意輪観音を刻み、山上に祀りました。これが醍醐寺の始まりです。
開創後、醍醐・朱雀・村上の三代にわたる天皇の深い帰依を受けて山上に薬師堂、五代堂、山下に釈迦堂、法華三昧堂、五重塔などが次々に建立され、山下山上にわたる大伽藍が完成しました。通称、山上を上醍醐、山下を下醍醐と呼んでいます。
下醍醐は、文明・応仁の乱で五重塔を残して焼失しましたが、慶長3(1598)年、豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」を契機に秀吉、秀頼により金堂や三宝院などが再建されました。
写真上は五重塔、写真下は弁天堂です。五重塔だけは奇跡的に創建当時のまま現在に残っています。


次は上醍醐にむけて登山です。女人堂といわれる成身堂から登ります。女人堂はかつて女人結界があった名残です。
ほとんどの人は下醍醐のみの拝観するかと思っていましたが、上醍醐寺は険しい道にもかかわらず参拝する人は多いようです。
参道の途中に醍醐の花見跡がありました。慶長3(1598)年3月15日、豊臣秀吉は一世の善美を尽くした花見をこの槍山で催しました。千畳敷とも呼ばれる平地には新しい花見御殿が建てられました。また、女人堂から槍山の間には長束正家をはじめ、各武将により趣向を凝らした茶屋八棟が設けられました。
この花見に先駆けて山内馬場先から槍山に至る両側には畿内より集めた桜の木七百本を植えさせました。
花見の当日、秀吉は秀頼、北政所、西の丸(淀殿)、松の丸、三の丸を従え、山下の桜が一望できる槍山の御殿で花見を短冊にしたたため桜の枝につり下げました。秀吉の栄華を誇る豪華な花見でした。
槍山の千畳敷は立ち入り禁止のようで、案内看板のみが建っています。


上醍醐寺は下醍醐から1時間ほどかかりました。西国三十三箇所第11番札所になっています。西国三十三箇所一険しい場所にある札所として知られています。
山上には国宝の薬師堂、清瀧権現拝殿など貴重な建造物があります。
天気が良いと山上から宇治方面の眺望も良いようです。私が行ったときは残念ながら黄砂で霞んでいました。
写真上は五大堂、写真下は国宝の薬師堂です。


険しい山でかなり登山では体力を消耗しました。しかし、山上は貴重な建造物が多くて、登って良かったと思いました。
Posted at 2007/06/02 20:04:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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何シテル?   04/30 18:24
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