この日は尾張紀行と言うことでドライブしました。
東海北陸道・一宮木曽川ICからスタートです。
北方中学校の門脇には、
長谷川秀一公旧居跡があります。石碑は以前は下渡公民館付近に建てられていましたが、都合によりこの地に移動させたようです。長谷川秀一は尾張国葉栗郡北方の下渡の出身で織田信長に仕えていました。信長から寵愛されて「長谷川竹」という呼び名で親しまれていました。
天正10(1582)年の本能寺の変の際、堺で徳川家康の接待役を勤めていましたが、家康とともに伊賀越えで三河に逃れました。
信長の死後は秀吉に仕え、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いに従軍し、功績を挙げ、越前東郷(槇山城)の所領と羽柴姓を与えられ東郷羽柴侍従と呼ばれました。
文禄元(1592)年から始まった文禄の役で晋州城攻めで武功をあげましたが、文禄3(1594)年に、陣中にて病没し、嗣子がいなかったため長谷川氏は断絶しました。
次は少し南下し、
浮野古戦場址です。清洲城主織田信長は、永禄元(1558)年5月28日、岩倉城主織田信安攻略のため、二千余騎を率いて浮野に陣を進めましたが、この時は小競り合い程度に終わりました。
同年の7月12日に信長は再び二千余騎を率いて、再度この地に布陣しました。信長軍は犬山城主織田十郎左衛門信清が千騎の軍兵を率いて馳せ参じたので総勢三千騎です。一方岩倉の信安方も三千余騎で浮野川を挟んで信長軍と対峙しました。戦機熟し、敵味方入り乱れて戦うこと数刻に及びましたが、岩倉勢は城際まで追いつめられました。信長・信清勢は勝ちどきを上げて引き揚げました。この様子を岩倉城中の軍は犬山の信清勢を少数と見て追い打ちをかけました。この急報を受けた信長は取って返し、大いに戦いました。信長勢は敵の主力に突入し、岩倉勢を城際まで追いつめ、敵の首級900余を討ち取ってその日の晩には清洲に引き揚げました。かなりの激戦だったようで、岩倉方では福田大膳正、前田右馬允(前田利家の叔父)、その子源介、山内一豊の兄十郎、豊臣秀吉の妻ねねの父林弥七郎などが戦死しています。
信長は翌年には、岩倉城を攻略し、信長は尾張をほぼ統一しました。
合戦場址には、首塚がつくられています。また、戦いに関する案内板(年表)が設置されています。
そこから近くには、
浅野長政公宅跡があります。
現在浅野公園となっているこの地は、尾張浅野氏発祥の地であるといわれています。
戦国時代、浅野長勝と養子長政の屋敷があったとされています。長勝の養女が木下家定の妹の禰々であり、豊臣秀吉の正室北政所になりました。
禰々の義弟にあたる浅野長政は、豊臣秀吉の五奉行の一人となり、浅野家繁栄の基礎を築きました。
浅野長政公宅跡は、大正6(1917)年、地元が中心となり浅野史跡顕彰会が組織され、公園として保存されることになりました。昭和25(1950)年からは一宮市が管理しています。広さ約9200㎡、小山を造り、堀や池を深くし、ヒトツバタゴなど珍しい植物やツツジが植えられています。
昭和56(1981)年には、桑田忠親氏の筆による禰々の歌碑も建立されています。
かつての平和町、現在は合併して稲沢市の一部になっているところまで行くと、
勝幡城があります。永正年間(1504~1520)頃に織田信定が築城しました。織田信定は織田信長の祖父で清洲三奉行をつとめ、織田弾正忠家といわれていました。
信定の子の信秀はここを拠点に津島の港を支配して勢力を拡大していきました。信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取り、本拠を勝幡城から那古野城に移しました。
かつては、織田信長は那古屋城で生まれたとされていましたが、現在では勝幡城で生まれたという説が有力なようです。
城跡は、日光川と三宅川の中洲にあり、要害の地であったことが窺えます。ただし、住宅街の中の空き地に石碑があるのみで、城の遺構は何も残っていませんでした。
美和町は福島正則ゆかりの地です。昨年、
蜂須賀城・蓮華寺の蜂須賀氏発祥の地には行きましたので1年ぶりの訪問です。
菊泉院は、瑞祥山と号し、鎌倉時代以前に平安仏教の寺院として創建されました。その後安土桃山時代の文禄元(1592)年に正眼寺十二世明叟周見禅師を開祖として曹洞宗になりました。また、この地の出身である福島正則との関わりも深く、正則公の位牌や護持仏の木造毘沙門天立像が奉納されています。正則公の甲冑姿の肖像画や、広島城改易時に重臣等の身の振り方を詳細に指示した書簡である「正則公仰書之写」なども納められています。正則が清洲城主であった時代の文禄4(1595)年~慶長5(1600)年には寺領50石が与えられ、正則公の菩提寺となりました。
境内には正則公の墓や記念碑も建立されています。
菊泉院のすぐ南には
福島正則生誕地があります。福島正則は永禄4(1561)年にこの地・二ツ寺で生まれました。生誕地跡には、石碑と案内板があります。屋敷跡は、碑の南西(現在は水田)に約千坪あったといわれ、一般的には桶屋の倅だったといわれていますが、よくわかっていないようです。
正則の弟福島高晴(正頼)、広島城の城代家老をつとめた福島丹波守治重もこの地の出身です。
次は七宝町です。
芳春院〔おまつの方〕生誕地があります。前田利家の正室芳春院(まつ・松)は、当時沖之島村の郷主として二千石を所領した林氏日開常信の息女として、天文16(1547)年7月9日、沖之島の北屋敷で生まれました。林氏日開常信は、後の滝川一益の外祖にもあたる血筋の郷主でしたが、清洲の織田家からは睨まれていたようです。
前田利春は、まつが4歳の時常信よりもらい受け、篠原主計の養女として育てることにしました。ただし、主計は早世したので、養母と共に高畠家に籍を移して、前田利家が21歳、まつが12歳の時に結婚しました。
林氏日開常信は、天正15(1587)年かつて武田氏に仕えた犬養義久を婿として迎え、沖之島の郷主の地位を譲り、自らは伊勢の神戸に移住しました。
前田家は、古くから沖之島の犬養家が「芳春院お松の里」であると伝えられていたようです。
現在も犬養家はこの地にあり、隣地に説明看板が立てられていました。
次はいよいよ名古屋市、中川区に入ります。この辺りは前田利家ゆかりの地です。
前田城は、江戸時代加賀100万石の大大名となった前田氏発祥の地といわれています。
寺伝では前田利家はこの城で生まれ、幼い頃に出城である荒子城に移って成長したとされています。ただ荒子城で出生したとの説もあるようです。
前田氏は織田信長に属し、蟹江城、荒子城、一色城等を領し、前田城はその中心でした。前田利家はこの城で生まれたとも、荒子城で生まれたともいわれています。
前田城は、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いの際、羽柴秀吉方についたため、家康方の攻撃を受けて落城しました。城主である前田与十郎種定は蟹江で討死し、子の長種は北陸に逃れて、利家に仕え、利家の長女幸を妻としました。
城跡は現在、前田速念寺となっています。
寺は、利家の叔父である利則が出家して意休と号し、浄土真宗速念寺初代となり、前田氏の鎮魂の寺となりました。城の遺構は残っていませんが、山門前に石碑があり、最後の城主前田与十郎の墓が境内にあります。
次は、
荒子観音です。この地には5年前にも訪れました。ちょうど大河ドラマ「利家とまつ~加賀百万石物語」を放映しているときでした。荒子観音は正式には「浄海山圓龍(円竜)院観音寺」といいます。
「笠寺観音(笠覆寺)」「甚目寺観音」「荒子観音」「竜泉寺観音」は尾張四観音とされています。
天平元年(729)に泰澄によって開基されました。
境内の多宝塔は天文5(1536)年の築で、名古屋市内最古の建築物です。本堂は前田利家が天正4(1576)年に再建しましたが、幾度も火災により焼失しています。最近では平成6(1994)年にも火災で焼失し、平成9(1997)年に再建されました
近くには
荒子城があります。前田利家の居城です。
天文年間前田利昌の築城と伝えられています。規模は狭い平地に簡単な柵と堀をめぐらし、敵を見張るために屋根の上に櫓を設けただけの砦程度のものでした。東西約68m、南北約50mの規模だったと伝えられています。城内には冨士権現社と天満宮が祀られ、今に残されています。
荒子城は利昌の後利家の長兄利久が城主でしたが、利家が三十三歳の時、信長の命で家督を継ぎ、荒子城主となりました。その後利家の嫡男利長が城主となりましたが、天正3(1575)年に利家が越前府中城主となると、利長もその地に移り、荒子城は廃城となりました。
次は名古屋城に向かいます。