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マツダが創立100周年を迎えた。
特設サイトも立ち上げられて(下記URL参照)、ファンの皆さんも嬉しいだろうナァ。
何度も書くが、ウチの親父が免許取得時に購入したのがカペラ・ロータリー。
そんな事もあってオイラも感慨深いモノがある。
ただ、後にオイラが日産のスカイラインを知り、ファンになってしまうとあのカペラがライバルだったことを知るのだが…(苦笑)。
ざっと簡単に振り返ってみる。
ポンプ製造をした「松田製作所」。
広島に戻り、「広島松田製作所」を設立。
「東洋コルク工業」でコルクを生産。
後に「東洋工業株式会社」になって機械工業へ回帰。
軍需工場、工作機械製作などから始まった東洋工業は、四輪に比べてコストを下げられる三輪トラック生産。
三菱商事がパートナーに参入。
日本の産業に貢献できるという希望の素に自製の三輪トラックを生産を開始した。
1945年8月6日。
広島にあり得ないことが起きた。
焼け野原の広島。
幸いにも山の影となった東洋工業は炎から逃れたのだが…
途方に暮れる広島の人々の雇用を積極的に行い、我が国の復興、産業の為にも貢献すべく会社は存続。
本社の一部を広島県に貸与。
その後、四輪トラックにも参入。
1951年、松田恒次氏が社長に就任する。
この人物の存在が東洋工業(既にマツダブランドを展開)にとってひとつのターニングポイントとなった。
やがて軽自動車生産に参入。
数々の名車が生まれた。
後に廃案となったが、政府が自動車輸入自由化による動きがあると知った各社は大慌て。
プリンスは日産に合併吸収、日野はトヨタの傘下に入る事態になった。
マツダとホンダは渦中にいた。
技術力をアピールする為、ホンダはモータースポーツのF-1に挑戦。
マツダはNSUおよびバンケル社とロータリーエンジンで技術提携で技術力をアピールしようとしたが…
これがとんでもないシロモノ。
技術者である山本健一氏がとてつもなく手を焼く事になってしまう。
しかし松田恒次氏は信頼する彼に託すしかなかった。
そして…
ロータリーエンジンの量産車、コスモスポーツが登場。
一気にロータリーエンジン搭載車が増加していく。
プロトタイプカー、トラックやバスにも搭載された程だった。
モータースポーツでも大活躍。
海外でコスモスポーツが大活躍すれば「ロータリー・ロケット」という異名を持った。
国内ではツーリングカーの王者、スカイラインGT-Rにファミリア、カペラが襲い掛かる。
遂にはサバンナ、カペラのロータリークーペ勢がスカイラインGT-Rの牙城を崩しサーキットから追いやった。
トヨタも日産も大慌てでロータリーエンジン車を開発開始したが…
世界中を震撼させた石油ショック。
ガスイーターのロータリーエンジンは在庫の山、マツダは頭を抱える。
石油ショックが落ち着きを見せてきた頃に(サバンナ)RX-7が登場。
アメリカで大人気となって経営に苦しむマツダの孝行息子になった。
1984年、社名を「東洋工業」から現在の「マツダ」に改名。
マツダのロータリーエンジンの進化は止まらない。
デイトナ、ルマンなどモータースポーツでも大活躍。
今でもD1グランプリで活躍している。
ロータリーエンジンの真骨頂…
だが、世の中の流れに商品としてのロータリーエンジンは勝てず、最後の搭載車RX-8と共に姿を消した。
ロータリーエンジンばかりでなくレシプロエンジンもマツダを支えていた。
商品企画に優れて「323ブーム」を起こしたファミリアにトヨタも日産も大慌て。
時代はバブルを迎えれば、デザインに優れたモデルを積極的に導入。
トラックやバス、ミニバンなどの提案も凄かった。荷を載せるが為にタイヤハウスの出っ張りを無くしたり、あのルーフがテントになるボンゴ・フレンディが登場。
あのロードスターが登場。
世界中に影響を与えオープンカーが展開するキッカケとなった。
ミラーサイクルエンジン、スカイアクティブエンジンと技術の進化は止まらない。
ただ、バブル期の頃に展開した販売網拡大の件で現在も尾を引いているというけれど、それについて何も心配していない。
魅力的商品の提供が一番であることを昨今のマツダが証明している。
そして現在…
アツいファンの皆さんが待っているモノ。
マツダさん、創業100周年、おめでとうございます。
くちょー、オイラもグラつくぜ…
Posted at 2020/03/01 00:02:57 | |
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