
さっき、岐阜放送で毎週月曜日の21時から放送している
「目からウロコの骨董塾」という番組を見ていました。要するに「開運!なんでも鑑定団」の姉妹番組みたいなもので、色々とアートの見方や骨董の見方などが勉強になります。
…でその中で、掛軸や日本画の鑑定士である田中大氏(京都・思文閣代表取締役)のコーナーを見ていたら、
村上華岳(1888~1939)の代表作である「裸婦図」(1920年、すなわち大正9年 山種美術館蔵)が紹介されていました。
この作品は、単なる「裸婦」というよりは菩薩の様にも見える事から、そこに生身の女性の官能美と菩薩の聖性という、本来は相反する要素が同居する事を念頭に置きながら鑑賞する作品だそうです(かつて50円切手の図柄にも採用されたらしい)。
あと、「わだばゴッホになる(私はゴッホになる)」という言葉で有名な版画家・棟方志功(1903~1975)も、「ヌードでもおでこにホクロを付ければ立派な観音様になる」と話していました。
…そして思い出したのは、先日みん友の秋山拓海さんのブログで、女性器を扱った写真で、「芸術か?猥褻か?」という事について取り上げられていた事でした。
確かに↑の画像を見て、よからぬ事を想像したりすれば「猥褻」とも思えるでしょう。
でも、「女性の官能美」や「神々しさ」を感じるのであればそこに「芸術」としての意義があると思います。
私は学生時代、名古屋市美術館へたまに行って企画展を鑑賞した事がありましたが、写真家・ロバート・メイプルソープの作品などは、如何にもゲ○の世界や、レ○ビ○ンみたいな世界が存在していました。
ただ、人間の体の肉感的な美しさを見出すのであれば、「この作品の中にまるで『ネ申』が宿っているのではないか?」と錯覚させられました。
こういう事は伝統芸能の世界でも似た事が言えるのですが、地元にも「石橋台(しゃっきょうたい)」という祭り屋台があります(↓の画像 ①が変身前 ②が変身後)。
①
②
この屋台に据付のからくり、女の人が舞っていて、そのお尻から獅子頭が出てくるというものなんですが、昭和初期に「女の尻から獅子頭が出るのは風紀上良くない」として60年近く封印されていました。
確かに女性のお尻から獅子頭が出てくるのは昭和の風紀の厳しい時代では「NG」としか見られなかったでしょう。でも今は時代が違います。これはヘアヌード解禁前と後の状況にも似ているかもしれません。
そういった事を考慮すれば、時代も変わり、人々の見方も変わってきているので、「どこからどこまでが芸術」、「どこからどこまでが猥褻」とは言い難いものがあります。
ちょっと長くなってしまいましたが、この一作品を見て、そんな事をふと考えました。
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Posted at
2012/08/13 22:46:51