次は姉川の戦いの古戦場を巡ります。
三田村氏館跡は、京極氏、のち浅井氏に仕え、姉川北岸で勢力をもっていた三田村氏の屋敷跡です。
姉川の戦いでは、朝倉軍の指揮を担った朝倉景健の本陣として使用されたとも考えられています。
三田村氏は横山城を守るなどしており、その後は小谷城の中丸を守備していましたが、元亀3(1572)年に木下秀吉を通じて降参しましたが、討伐されたため三田村氏館は廃城となったようです。
現在は伝正寺の周囲に土塁などが残っています。発掘調査などが行われ、平成19(2007)年7月26日に「北近江城館跡群」の一つとして国指定史跡になりました。
血原はその名が示すとおり姉川の戦いの激戦地です。
姉川の戦いの直前、6月24日に浅井長政は援軍に来た朝倉景健と姉川の北方3kmにある大依山に布陣しました。合戦当日の28日未明、長政と景健の両将は姉川北岸に前進して織田・徳川軍と決戦に及ぶことを決断しました。朝倉景健の本陣はこの北西にあたる三田集落内の三田村氏館付近に置かれたと推定されており、南の姉川の対岸にある岡山には徳川家康の本陣が置かれました。
その中間にある血原は、朝倉軍と徳川軍が激突した地で、多くの戦死者で血に染まったので「ちはら」と呼ばれるようになったそうです。
両軍の戦いでは朝倉軍の武将で、刃長五尺三寸(160cm)の大太刀を振るって奮戦した真柄十郎左衛門直隆の討死です。最初は徳川家康の家臣向坂式部と渡り合い、途中から弟の向坂吉政が十文字槍を持って助太刀に入り、真柄の首を討ち取ったという説や、青木一重が討ち取ったという説があるようです。
血原は公園になっており、姉川古戦場跡の石碑や説明看板が建っています。
七十士の墓は、姉川の戦いの戦死者を葬った場所に建てられたと言われている石塔群です。もとは、現在地の西北の「西三昧」と呼ばれる場所にあった地蔵堂付近の墓石を、昭和55(1980)年に完成した三田町の圃場整備に際してまとめたものです。「西三昧」は三田村氏館跡に移転した伝正寺の跡地とされ、移転の時期は江戸時代の正徳5(1715)年頃とされています。なお、この石塔群は三田村左衛門一族の墓という説もあります。
野村橋の近くには
姉川古戦場の碑があります。
血川は元亀元(1570)年の姉川の戦いにおいて、浅井長政が本陣を置いた野村集落の南側にあたります。姉川の戦いに際して血に染まったと伝えられる血川がかつては流れていましたが、昭和60(1985)年に完成した野村町の圃場整備により流路がなくなりました。現在は説明の看板が建つのみです。
陣田(じんでん)は、姉川の戦いの際、浅井長政の本陣があった場所と伝えられています。
合戦当日の元亀元(1570)年6月28日の前日まで浅井長政はこの地の北方にある大依山に布陣して、対岸の織田、徳川軍に対峙していました。しかし、28日の未明、重臣の遠藤直経の進言に従い、この地に軍を進めたと言われています。
昭和60(1985)年の野村町の圃場整備まで、この地には「陣田」と呼ばれていた小高い丘がありました。野村集落内には他にも土塁が点在しているようです。
勝山は元々岡山と言われていた山です。
姉川の戦いの時に徳川家康が陣を敷き、戦いに勝ったことに因んで「勝山」といわれるようになりました。徳川家康は激戦の末に朝倉勢を敗走させ、それにより劣勢の織田軍も盛り返し、勝利を得たと言われています。
勝山は江戸時代以来、「流岡神社」が鎮座していました、明治41(1908)年に上坂神社に合祀されました。この流岡神社には織田信長が勝利祈願をしたとの社伝があり、境内の上部が枯れているのは、合戦の折両軍の矢が飛び交って枝を折ったためと言われています。上坂神社には織田信長が寄進した金灯籠が現存しているそうです。
龍ヶ鼻(たつがはな)は、姉川の戦いの直前に織田信長や徳川家康が本陣を置いた曲輪の跡です。横山城から続く丘陵の北突端にあたります。
元亀元(1570)年6月19日、浅井長政を攻めるため、織田信長は大軍を率いて近江に入り、21日から小谷城を攻めましたが、構えが固いと見るや、わずか1日の攻撃で兵を返し、24日にはこの龍ヶ鼻へ陣を移しました。徳川家康もそこへ合流して、南方の横山城を攻撃しました。
信長や家康の本陣は、標高187mの龍ヶ鼻曲輪跡や、茶臼山古墳の後円部にあたる龍ヶ鼻陣所付近にあったと見られています。合戦の当日の28日未明、浅井・朝倉連合軍が姉川北岸に前進したのを見て、織田信長は「陣杭の柳」に、徳川家康は「岡山」にそれぞれ本陣を移し合戦が行われました。
陣杭の柳(じんごのやなぎ)は、姉川の戦いにおける織田信長の本陣跡です。
信長は、東方の龍ヶ鼻砦にいましたが、姉川北岸の浅井・朝倉軍の展開を知り、この地に本陣を構えたと言われています。
この地にある柳は、信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があり、「陣杭(じんご)」は、本来「陣鼓」と書かれていたとも言われます。また、信長本陣の柵に使われた生木が自生したとも伝わっています。
現在の柳は平成元(1989)年に3代目の木から枝を取った四代目にあたります。
元々は現在地より10メートル北西にありましたが、平成9(1997)年の圃場整備により現在地に移転しました。尾上柳という種類だそうです。
姉川の戦いの時に戦死した遠藤直経が討死した場所に、
遠藤直経の墓があります。
小字も「円藤(遠藤)」といいます。遠藤直経は遠藤喜右衛門ともいい、坂田郡須川(米原市)出身で、宇賀野(同米原市)にも居住していました。
姉川の戦いでは、自軍の敗色が濃くなると、味方の武将首一つを携え敵軍に偽装し、信長の陣中深く忍び込みましたが、竹中半兵衛重治の弟竹中久作重矩に見破られ討死しました。かつてこの地の40メートルほど北側に「遠藤塚」と呼ばれる塚があり、直経の墓と伝えられていましたが、昭和54(1979)年に墓標が建てられました。平成9(1997)年に、圃場整備のため現在地に移転しました。毎年7月にはその追悼法要が現在でも行われているそうです。
次は長浜市石田町です。以前、
石田三成公一族家臣供養塔のみ訪れたことがあります。
今回は、
石田三成屋敷跡を訪れました。石田三成は永禄3(1560)年、現在の長浜市石田町に生まれました。屋敷跡は石田会館が建っています。敷地内には石碑や銅像の他、「堀端」または「治部池」と呼ばれ石田屋敷の堀の一部遺構と伝えられるものが残っています。
石田三成の屋敷跡はここから北へ現在のバス停付近まで屋敷があったようで、この地域の小字名は「治部」と称し俗称「ごいで」とも言われています。
隣接地にも「的場」「御畑」「番場」「堀端」等の小字名が残り当時の豪族らしい構えが伺われます。
石田町から少し東に行き、米原市(旧山東町)の区域に入ります。
観音寺は、正式には伊富貴山観音護国寺といい、千手観音を本尊とする天台宗の寺院です。
弥高・太平・長尾の三ヶ寺とともに伊吹山四ヶ寺の一つでしたが、正元年間(1259~1260)現在地に移ったといわれています。
観音寺は、現在の長浜市石田町、石田三成の出身地とは目と鼻の先にありますが、三成はこの寺で小僧をしていたと伝えられています。
三成が鷹狩りの際に立ち寄った羽柴秀吉に最初にぬるいお茶を一杯、次に少し熱めのお茶を半分くらい、最後に熱いお茶を少々出し、その心遣いにいたく感心したという「三献の茶」の舞台としても有名で、その時に水を汲んだ「石田三成 水汲みの井戸」が残っています。
これで今回の湖北ドライブはひとまず終了です。しかし、滋賀県はまだまだ見所がたくさんあります。長浜市だけでも結構未訪問の場所が多いです。
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ドライブ | 日記
Posted at
2008/10/27 22:32:40