この日は福山市を訪れました。
以前にも訪れたことはありますが、今回はゆっくりと回ってみようと思い立ちました。
まずは、
神辺城を訪れました。神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北朝争乱)で戦功をあげた朝山景連が備後国守護職に任じられ、建武2(1335)年に築城したと伝えられています。以来神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師康・上杉顕能・渋川義兼・山名時義が守護となり一時期を除いて山名氏の備後支配がつづきそれぞれ守護代が居城しています。
戦国時代には杉原理興・平賀隆宗・杉原盛重・藤井皓玄が城主となり、最終的には毛利氏の支城となり安土桃山時代には末次(毛利)元康が城主となりました。
江戸時代には毛利氏が減封されたため、福島正則の支城となり福島丹波守正澄が城主となりました。福島正則は元和5(1619)年に改易され、水野勝成が入封しましたが、西国の外様大名を監視するために配置された譜代大名であったため、その役割を担う城としては神辺城は規模が小さく不便であるとして福山城を築き居城としたため神辺城は廃城となりました。福山城の築城の際には神辺城の櫓や門などが取り壊され移築されたといわれてます。
眺望がよく、神辺の市街地がよく見渡せます。
次はその近くの
神辺本陣を訪れました。神辺は、江戸時代備中高屋宿と備後今津宿の中間に位置する宿駅として栄え、本陣は、三日市の尾道屋菅波家(西本陣-神辺本陣)と七日市の本荘屋菅波家がつとめていました。
神辺本陣は代々酒造業を営み、寛文年間(1661~1669)筑前黒田家の本陣役を務めたことに始まります。
現在は住宅部及び酒造関係施設の一部が消滅していますが、本陣関係施設の大部分が現存しています。
私が訪れたのは早朝だったため、残念ながら内部を見ることはできませんでした。しかし、外から見るだけでもなかなか趣のある建物です。
そして
福山城です。福山城は、元和5(1619)年、改易された福島正則の後に備後に封ぜられた水野勝成は神辺城、瀬戸内の海路の押さえ鞆城を廃し、両城の機能を併せ持った新城を築城し、福山城と名付けました。久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)ともいいます。
元禄11(1698)年、水野勝岑が幼くして死去し除封され、その後には、松平(奥平)忠雅が出羽山形より入封しましたが、宝永7(1710)年には伊勢桑名へ転封となり、下野宇都宮より阿部正邦が10万石で入封し、幕末まで阿部氏が城主でした。幕末の老中阿部正弘が城主であったことは有名です。
昭和20(1945)年、福山大空襲により天守、御湯殿、涼櫓などが焼失しました。現在の天守閣は月見櫓、御湯殿、多聞櫓と共に福山市市制50周年記念の事業として昭和41(1966)年に再建されたもので、内部は博物館になっています。
しかし、現存する伏見櫓は、京の伏見城廃城の際に移築されたもので貴重な建物です。
平成18(2006)年、日本100名城に指定されました。
城内には
阿部正弘の銅像があります。
福山藩阿部氏第7代目の当主で、幕末の老中として有名な人物です。福山藩主としては藩校誠之館を開き、人材を育成し藩政改革を行いました。
福山市制六十周年の記念に昭和53(1978)年に阿部正弘公銅像建立期成同盟会により建立されました。
平成20年の大河ドラマ「篤姫」第22回「将軍の秘密」の「篤姫紀行」で「阿部正弘の城下町(広島県福山市)」で紹介されました。
こちらは
水野勝成の銅像です。
徳川家康の母お大の弟にあたる水野忠重の息子です。
若い頃は気性が激しく、家臣を斬ったことから忠重に義絶、奉公構え(他家への仕官禁止)の処分を受けて流浪しましたが、慶長3(1598)年に徳川家康の仲介により帰参し、慶長5(1600)年に忠重が関ヶ原の戦いの直前に加賀井重望に殺害されたため家督を継ぎました。大坂の陣で先鋒として大活躍したため、大和郡山城主6万石を経て元和5(1619)年に西国大名を監視する役目として備後10万石を与えられ、福山城を築きました。
民政にも力を注ぎ、芦田川の改修や干拓などを行い今日の福山の礎を築いた人物であるため、福山市制六十周年の記念に昭和53(1978)年に水野勝成公銅像建立期成同盟会により建立されました。
広島県立歴史博物館は、平成元(1989)年11月3日に開館した福山城の三の丸跡にある歴史博物館です。
常設展示室では鎌倉時代から室町時代に芦田川河口の港町として栄え、その後洪水などで水没した草戸千軒町遺跡の街並みを実物大で復原してあります。リアルな復元で結構楽しめました。
展示品は国の重要文化財です。特別展の「徳川家・姫君の華麗なる世界~徳川美術館の名品~」も良かったのですが、常設展が特に印象に残りました。
草戸千軒遺跡に心を引かれましたが、現地はもう殆どが芦田川に水没していて何も残っていません。しかし、草戸千軒と密接な関係のあった
明王院を訪れてみることにしました。
明王院は真言宗大覚寺派の寺院で、山号は中道山です。
福山市の草戸千軒遺跡の近くにあり、かつては大同2(807)年に空海により創建されたといわれる常福寺が前身とされます。江戸時代初期の明暦元(1655年)頃に福山藩3代目藩主水野勝貞により城下からこの地に明王院を移して現在に至っています。
元応3(1321)年に建立された本堂と、貞和4(1348)年に建立された五重塔は国宝です。庫裏、山門、書院も広島県指定重要文化財に指定されています。
隣の
草戸稲荷神社です。
大同2(807)年明王院の開基空海上人が同寺の鎮守として祀ったのが最初とされています。当初は社殿が芦田川の中州に鎮座していましたが、たびたび洪水により流失していたため、寛永10(1633)年に初代福山藩主の水野勝成が現在地に再建しました。
昭和時代に鉄筋コンクリート造りの懸崖造の社殿が建てられ、珍しい建物です。
そして鞆の浦を訪れました。
ここは古代より潮待ちの港と知られていた港町で、古い街並みが残っています。
足利尊氏がここを拠点に京へ攻め上り、また足利義昭が織田信長に追放された後、毛利氏の庇護の元ここに滞在したことから、「足利幕府は鞆に始まり、鞆に終わる。」ともいわれています。幕末には坂本龍馬のいろは丸事件の舞台にもなりました。
実は以前も訪れたことはありましたが、日没前に訪れたため、殆どの施設などは閉まっていたため再訪したいと思っていました。また、港の一部を埋め立てて道路を整備する事業計画が話題になっているので、早めに訪れておこうと思いました。
道が狭く、古い街並みがよく残っています。車を駐めて歩いてみました。
坂本龍馬宿泊所跡〔桝屋跡〕です。
江戸時代の回船問屋、桝屋清右衛門宅です。海援隊のいろは丸と紀州藩の軍艦明光丸が鞆沖の宇治島近くで衝突し、いろは丸が沈没したいろは丸事件の時、坂本龍馬たち土佐海援隊を支援し宿舎として提供しました。
内部は公開されていませんが、天井裏に龍馬の隠れ部屋があるそうです。
対仙酔楼は、江戸時代の豪商、大坂屋の遺構の一部です。
頼山陽は文化11(1814)年に大坂屋の招きによりこの地を訪れ、仙酔島に対面するこの建物を対仙酔楼と名付け、その経緯を「対仙酔楼記」に記しました。内部は公開されていません。
海岸山千手院
福禅寺は、平安時代の天暦年間(950年頃)の創建と伝えられる真言宗の寺院です。本堂やそれに隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間に建立されました。江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使用され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となりました。客殿からの海の眺めが素晴らしいことで知られていて正徳元(1711)年朝鮮通信使は、この景観を「日東第一形勝」と賞賛し、従事官李邦彦はその書を残しました。延享5(1748)年には、正使洪啓禧は客殿を「対潮楼」と命名し、洪景海はその書を残しています。
眼前の仙酔島と弁天島,それに鞆の浦を額縁の中の光景のように見渡すことができ、眺望の素晴らしさに感動しました。
大可島城は、築城時期は明らかではありません。かつては大可島という島で、鞆とは海を隔てていました。
南北朝時代、桑原重信が城主でしたが、康永元(1342)年伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力を持つ足利方が燧灘で合戦となり、大可島城を拠点とする南朝方は全滅しました。
その後、戦国時代村上水軍の一族が大可島城を拠点に海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
慶長年間(1600年頃)に鞆城が築かれた時に、陸続きとなり現在ある真言宗の南林山釈迦院円福寺が建立されました。
円福寺は幕末のいろは丸事件の時には紀州藩の宿舎として使用されました。
境内には桑原伊賀守重信一族の墓所や説明看板が建っています。
いろは丸事件談判跡は旧魚屋萬蔵(ウオマン)宅で魚問屋を営んでいた船宿(問屋)の跡です。慶応3(1867)年、坂本龍馬の海援隊のいろは丸が紀州藩の明光丸と衝突したいろは丸事件で紀州藩高柳楠之助と賠償交渉のために談判した場所です。
現在は、御舟宿いろはになっています。
鞆を代表する商家の一つ
「鞆の津の商家」は福山市の重要文化財に指定されています。
主屋と土蔵が一体になった特徴的な建物です。平成20(2008)年6月14日から一般公開されています。
鞆城は戦国時代に瀬戸内海の海の要所、鞆港に面して築かれた海城です。毛利元就が天文年間(1532~55)に築城したと推定されています。
元亀4(1573)年、織田信長によって京都を追われた最後の将軍、足利義昭は鞆城に入り、城は拡充されました。毛利氏は直轄地として、次々に鞆城代を置きました。慶長5(1600)年、安芸備後に入封した福島正則により再築城されました。鞆港より三の丸、二の丸、本丸に追手門から上がる梯郭式で、東は福禅寺まで、北は搦手門へと下り沼名前神社の参道までの広大な縄張りだったそうです。
元和6(1615)年の一国一城令により廃城になりました。水野氏が備後福山に入封すると、後に二代目藩主となる水野勝俊が居住しました。その後の鞆は水野、阿部氏など支配者が代わりましたが、町奉行が置かれました。
現在は、本丸に福山市鞆の浦歴史民俗資料館があり、その周辺に一部石垣などが残っています。
福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、鞆城跡にある歴史資料館です。
風待ちの港として栄えた鞆の浦の歴史を学ぶことができます。
訪れた時は、特別展「坂本龍馬といろは丸事件」が開催されていました。
太田家住宅は、元は保命酒の蔵元「中村家」の屋敷でした。明治時代に太田家の所有となりました。
国の重要文化財の指定を受けている建物で、主屋の周りには炊事場、蔵や保命酒醸造蔵などが並ぶ姿は壮観です。
また、幕末の文久3(1863)年の八月十八日の政変で京を追われた三条実美など7人の公卿が長州へ向かう時に宿泊所とした建物として使用されました。鞆七卿落遺跡として広島県指定史跡に指定されています。
鞆の
常夜燈は灯籠燈と呼ばれる江戸時代の灯台です。
海中の基礎の上から宝珠まで11mの高さがあり、港の常夜灯としては日本一で鞆のシンボルです。
いろは丸展示館は慶応3(1867)年4月23日の夜、海援隊のいろは丸と紀州藩の明光丸が鞆の浦沖で衝突したいろは丸事件に関する展示館です。
太田家所有の大蔵と言われる江戸時代の蔵を利用しています。
ろは丸が沈没した地から引き上げた物の展示などがされています。
龍馬が紀州藩との交渉で鞆に滞在した時に隠れ住んだ 升屋清右衛門宅の隠れ部屋が再現されています。
岡本家長屋門はかつて福山城内にあった長屋門です。
明治の初め、岡本家の建物は火災により焼失したため、明治6(1873)年に廃城となった福山城の一部を譲り受けて海路によりこの地に移築したそうです。
元々は左右に対の番所がありましたが、現存するのは左側のみで右側は取り払われて残っていません。
現在は保命酒の岡本亀太郎本店となっています。
法宣寺は山号は大覚山、日蓮宗の寺院です。
正平13・延文3(1358)年に大覚僧正により建立されたと言われています。
治病除災の神として加藤清正の像が祀られているそうです。
境内にはかつては天蓋松がありました。平成3(1991)年に枯死するまで全国で唯一の国指定の天然記念物の松でした。現在は幹がそのまま残されています。
山中鹿之介の首塚です。
山中鹿之助の墓は、鳥取県の鹿野町や、備中高梁にもあります。天正6(1578)年高梁川・阿井の渡しで討たれた鹿之助は、ここ鞆にいた足利義昭の首実検に供せられました。
山中鹿之介の首塚の隣に
ささやき橋があります。応神天皇の時代、百済からの施設の接待役の武内臣和多利と官妓・江の浦は役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていました。それが噂になったため二人は海に沈められました。それから密語の橋と語り継がれています。
沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、京都八坂神社の元社で、大綿津見命を主祭神とし、須佐之男命を相殿に祀る神社です。
神功皇后が海中から得た霊石を祀り航海の安全を祈願したのが始まりとされています。
境内には、豊臣秀吉が愛用した伏見城の能舞台が移築されています。福山藩三代水野勝貞が寄進し、元文3(1738)年にこの地に設置されました。(写真下)
林家住宅は鞆の浦にある明治時代の豪商の建物です。
敷地の一部は鞆幼稚園になっています。
鞆の史跡めぐりは他にもありますが、この辺でもう薄暗くなってきたので、ここで駐車場に引き揚げました。古い街並みの残る鞆ですが、道路が狭くてあちこちで渋滞が起きていました。この景観を維持しながら、道路の問題も英知を絞って解決する策があればと願う次第です。