次は安来市に合併された、旧広瀬町に向かいます。
ここはなんといっても尼子氏の本拠地、
月山富田城。遺構がよく残るお気に入りの城で3度目の訪問です。
富田城は、飯梨川右岸の月山(勝目山・海抜189m)を中心に築かれた複郭式の城です。城郭は、内郭、外郭から構成され、大手道のの菅谷口、搦手道の御子守口、裏手道の塩谷口と三つの入口があります。周囲は断崖絶壁が多く、中国地方における中世城郭の代表的な城跡です。
伝承によれば、保元、平治の頃平景清により築城されたと伝えられています。文治元(1185)年、佐々木義清が出雲の守護として入城以来、塩谷、佐々木、山名、京極、尼子、毛利、堀尾の各氏が歴代城主となりました。最も栄えたのが尼子氏の時代で、山陰山陽十一カ国を支配した、中国地方の王者にふさわしい居城でした。堀尾吉晴が松江城を築き、孫の堀尾忠晴が慶長16(1611)年に本拠を移したため、富田城は廃城となりました。
入口付近には
尼子(塩冶)興久の墓があります。尼子興久は尼子経久の三男です。出雲国塩冶3000貫の所領を持ち、塩冶姓を名乗り塩冶興久といいましたが、禄高の不足を父経久に訴え、これを聞き入れられなかったことから父にそむいたため、やがて父経久の手によって追放されました。天文3(1534)年妻の実家にあたる備後甲山城主山内大和守直通方に身を寄せ、そこで切腹しました。
経久は、変わり果てた興久の姿をみて、寝込んでしまったと伝えられています。
千畳平(せんじょうなり)は、月山富田城山麓部の郭では最も北側の郭です。御子守口の正面に位置します。曲輪跡には尼子神社と、広瀬町出身の櫻内幸雄氏(衆議院議長の櫻内義雄氏の父で政治家、実業家)の銅像が建っています。
太鼓壇は、千畳平に続く南側の郭です。
時と戦を知らせる大太鼓が置かれていたと伝えられており、この名があります。現在は桜の名所となっています。昭和53(1978)年、鹿介没後400年を記念して建立された山中鹿介幸盛の銅像が建っています。「我に七難八苦を与え賜え」と三日月に祈った姿です。
花ノ壇は、花がたくさん植えられていたことからその名称が付けられました。花ノ壇は敵の侵入を監視できることや、山中御殿(殿様の居住地)との連絡が容易なことから、指導力のある武将が暮らしていたと考えられています。
発掘調査により、花ノ壇には多くの建物跡(柱穴)が発見された部分(南側)と、ほとんど見つからなかった部分(北側)がありました。このことから花ノ壇の南側は武将の生活の場として、北側は戦の時に兵士達が待機する場として利用していたと考えられます。
2棟の建物が発掘された柱穴をもとに復元されています。主屋を休憩施設、侍所を管理棟として活用しています。
山中御殿は、富田城の御殿があったと伝えられる場所です。月山の中腹の菅谷口、塩谷口、大手口という主要通路の最終地点で、富田城の心臓部とも言える場所にあります。最後の砦となる三の丸、二の丸、本丸へ通じる要の曲輪として造られ、周囲には高さ5メートル程の石垣や、門・櫓・塀などを厳重に巡らせることによって敵の侵入を防いでいました。
恐らく平時は、城主はこの地に居住していたものと考えられます。
整備工事は昭和49(1974)~昭和57(1982)年度、平成5(1993)~平成8(1996)年度に行われました。石垣の調査を中心とした発掘調査では門・石段・井戸・櫓跡などが見つかり、塩谷口で見つかった門跡はなかでも特徴的なものです。
山中御殿から月山を登ると、月山富田城の主郭部です。以前よりかなり整備復元が進んでいるように思えました。
写真上は二の丸、下は三の丸石垣です。
再び月山を下り、
巌倉寺に行きました。御子守口にある真言宗の寺院です。山号は睡虎山で聖観音をまつります。神亀3(726)年、聖武天皇の命により行基が建立し、佐々木義清が御子守神社とともに、城内に移したものと伝えられています。
境内には、堀尾吉晴の墓、堀尾吉晴の妻の建てた山中鹿介の慰霊碑があります。
安来市立歴史資料館は、かつては、「広瀬町立歴史民俗資料館」といいましたが、広瀬町が合併で安来市の一部となったため、「安来市立歴史資料館」となりました。寛文6(1666)年に水没した富田城の城下町の史跡である富田川河床遺跡と富田城関連遺跡群からの出土品が展示されています。以前にも行ったことがあるので、今回は中には入りませんでした。
城安寺は臨済宗南禅寺派の寺院で山号は雲龍山です。開基は古愚和尚で正和元年(1312)に開かれました。後に広瀬松平藩の菩提寺となりました。9代藩主松平直諒寄進の山門が今も残ります。境内には、吉田郡山城の戦いで壮絶な討死にを遂げた、尼子久幸(下野守、義勝)の墓碑が吉田町より移されているほか、山門向かいのお墓山には、松平直諒公の墓所があります。
ここからは新宮谷に入り、
尼子氏奥都城に行きました。「奥都城(おくつき)」は神道墓のことを意味します。尼子氏奥都城は、尼子氏一族の墓所とされているところです。この辺り一帯を新宮谷と称し、尼子時代には、経久の次男国久率いる一党が館を構え、権勢を誇っていましたが、天文23(1554)年、甥であり娘婿でもあった尼子晴久により攻め滅ぼされました。
尼子一門で、新宮党の末裔にあたる久富二六氏が祖先の地新宮谷を訪れ、尼子時代の尼子の夢をこの碑に託し、昭和16年(1941)この地に建立しました。
毛利元秋公の墓は、宗松寺跡の奥、竹薮の中にあります。永禄9(1566)年、尼子義久が毛利の軍門に降った後、二年間余り、毛利家の武将天野隆重が城代として城を預かっていましたが、天野隆重に推されて永禄12(1569)年、毛利元就の五男、毛利元秋が城主として入城しました。元秋は、周防の国人椙杜(すぎもり)隆康の養子になっていたこともあり、椙杜元秋と名乗っていましたが、後に毛利に復しました。天正13(1585)年富田城中で病死し、この地に葬られました。ちなみに元秋の死後の富田城には元就の八男、末次元康が入城しました。
新宮党館跡、ここには以前にも行きました。新宮党は、尼子経久の次男尼子国久、誠久、豊久、敬久をはじめとする尼子氏の中核とも言える軍団です。月山富田城の北麓新宮谷に構えたことから新宮党を称しました。
尼子晴久に天文23(1554)年粛清されました。毛利元就の謀略ともいわれています。
館跡の国久、誠久、敬久の墓は、尼子敬久の子孫、肥前有田の久富二六氏が昭和12(1937)年に修理しました。
これ等の人は皆太夫職にあったので、この祠を太夫神社といいます。
山中鹿介幸盛屋敷跡も近くにあります。山中鹿介は天文14(1545)年8月15日、父満幸、母なみ(立原佐渡守綱重の娘)の次男として生まれました。
山中鹿介の生誕地については異説がありますが、山中家は尼子家の分かれであることから古文書、系図等の調査によってここが生誕地と定められています。
塩冶掃部介の墓も新宮谷にあります。尼子経久が、守護代の職務を怠ったとして、罷免、追放された後、目代として富田城に入城していた塩冶掃部介は文明18(1486)年尼子経久の奇襲を受け討死しました。
土地の人は、この墓を「荒法師」と呼び、みだりに荒らすと、たたりがあると言い伝えています。
次は飯梨川の西側、広瀬の市街地にある、
川中島一騎討の碑に行きました。川中島は昔は富田川の中州があったところです。富田川の中洲はたびたびの洪水で地形を変えて、跡をとどめていません。
毛利元就が、尼子氏の攻略のため滝山(勝山) に本陣を構えた永禄8年(1565)、尼子の勇将山中鹿介幸盛と毛利方益田越中守藤包の家臣品川大膳とが一騎討を行い、鹿介が大膳の首級をあげた場所といわれています。亀井茲常(山中鹿介の一族亀井茲矩の末裔)の筆で「山中公一騎打の処」と刻まれています。
近くには、
品川大膳の墓もあります。
洞光寺は、文明18(1486)年に富田城主となった尼子経久が町内の金尾に開いた寺です。洪水の被害を受けたため、寛永12(1635)年に現在の地に移転しました。尼子氏の菩提寺であり、尼子清定(清貞)、経久両公の墓があります。
境内には尼子氏追悼の碑も建てられています。
広瀬陣屋は安来市広瀬支所(旧広瀬町役場)の裏の広瀬小学校グランド奥にある社会福祉センターの敷地になっています。広瀬藩は、松江藩の支藩として初代松平近栄(ちかよし)によって寛文6(1666)年に創設されました。藩領は能義郡内34ヶ村、1万5000石と、飯石郡内24ヶ村1万5000石の表高3万石でした。
藩庁跡は、邸内と御山を合わせて約10万平方メートルの広さがありましたが、藩邸はしばしば火災に遇い長い間仮館でした。寛政3(1791)年正門を南向きに変え、濠を深くして新館が建てられ、嘉永3(1850)年八代藩主松平直寛から城主格となって規模を拡張し施設を整えました。濠と諸門をめぐらした藩邸内には、正庁があり、倉庫、武庫、鼓桜、馬場などがありました。
平成元(1989)年度、広瀬社会福祉センター建設に伴う発掘調査で玄関とそれに続く表の間数部屋が確認されました。
広瀬の史跡めぐりは以上です。本当は、大内、毛利氏が月山富田城攻略のために本陣を置いた京羅木山にも登りたかったのですが、時間と天候の都合でパスしました。残念。この後は、松江に向かいます。