いよいよ二本松城を目指して車を進めます。まずは、
粟ノ須古戦場です。伊達政宗は、十八歳で伊達家第十七代の家督を相続し、大内定綱の小手森、小浜、宮森の諸城を攻略しました。
さらに、奥州探題として二百三十余年の歴史を持つ、名門二本松の畠山氏第十一代当主畠山義継の居城二本松城を攻略しようとしました。
しかし、交渉の結果、義継は条件付きで伊達家に服属することになり和議は成立したかに見えました。
天正13(1585)年10月8日、和議成立の礼として、義継は手勢二十三騎を従えて宮森城の伊達政宗の父、輝宗を訪れました。輝宗はこれを歓待し、酒宴の後玄関まで送って出ましたが、伊達家家臣の不穏な動向を察知してた義継は隙を見て輝宗の胸襟をつかみ、引き寄せて脇差を当て手勢で取り囲みながら二本松城に向かって引き揚げようとしました。
鷹狩りに出かけていた政宗は急を聞いて駆けつけ、ここ粟ノ須の地に追いつめ、やむを得ぬとして義継もろとも父輝宗を討とうとしました。
義継はもはやこれまでと覚悟し輝宗を刺し殺し、我が身を腹十文字に掻き切って命を絶ち、義継の従者も討死しました。
この戦いは翌年の7月16日二本松城の落城、二本松畠山氏の滅亡のきっかけとなりました。
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大隣寺です。寛永4(1627)年、丹羽氏二代丹羽長重公は、棚倉より白川(現在白河市)へ国替えとなって入部した時、初代丹羽長秀公の菩提を弔うため、越前国総光寺より融法全祝大和尚を招いて白川の円明寺跡に大隣寺を建立しました。
寺号は、初代長秀公の法名「総光寺殿大隣宗徳大居士」の大隣に由来し、寺紋には丹羽家の家紋「違棒」を用いています。
寛永20(1643)年三代丹羽光重公が白川より二本松に国替えになり、大隣寺もまた当地に移されました。その後、方角などの理由から城下内において二度移転し、現在地へ移りましたが、文化8(1811)年の大改築によって現有の本堂ができました。戊辰の役直後には、二本松藩庁の仮事務所や藩校などにも使用されました。
境内には丹羽氏歴代藩主の霊廟、丹羽家の位牌堂である御霊屋があります。
また、戊辰戦争の時、会津藩でも少年兵が白虎隊として活躍し、悲劇的な最後を遂げましたが、二本松藩でも同様に少年兵が幼い命を散らしました。大隣寺には二本松少年隊の墓があることでも有名です。
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二本松城〔霞ヶ城〕です。
入口近くには、
旧二本松藩戒石銘碑があります。旧二本松藩戒石銘碑は、寛延2(1749)年、旧二本松藩庁の前であるこの地に、藩士登城の際に、戒めとするため藩主丹羽高寛公が藩儒岩井田昨非に命じて刻ませたものです。「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺(爾の俸、爾の禄は 民の膏 民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し)」と刻まれており藩政改革と綱紀粛正の指針としました。
昭和10(1935)年12月24日、国指定史跡となりました。
さて、いよいよ城内に入ります。二本松城は、室町時代中期に奥州探題として下向して四代目の畠山満泰によって築城されました。畠山氏歴代の居城として140年余り続きましたが、天正13(1585)年、当時の城主畠山義継は、伊達政宗に攻められようとしていました。義継は伊達政宗の父輝宗に降伏を申し出て、屈辱的な条件でしたが許されました。しかし、義継は宮森城から輝宗を拉致し、阿武隈川畔の粟ノ巣の合戦で政宗により輝宗・義継共々射殺されました。翌年、二本松城は義継の子、国王丸(畠山義綱)を立て籠城しました。しかし、結局は落城し片倉景綱・伊達成実などが城代として入城しました。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の奥州仕置により、城は会津若松城を与えられた蒲生氏郷の支配下に入り、蒲生郷成らが城主となりました。その際石垣が積まれ近世城郭としてその姿を整えました。
その後、上杉・蒲生氏の会津入封に伴い、その管理下に置かれ城代が置かれました。加藤嘉明が会津に入封した寛永4(1627)年には加藤氏の与力大名の松下重綱(太閤記に出てくる松下嘉兵衛之綱の子)が入城し、二本松藩を立藩しました。翌年の寛永5(1628)年には松下氏は三春に転封されたため、加藤明利(嘉明の次男)が城主となりました。
寛永20(1643)年に加藤明成(嘉明の嫡男)が会津藩を改易となり、同時に二本松城主の明勝(明利の子)も改易となったため、白河藩より丹羽光重が10万700石で移封されました。その際に二本松城は大改修を行いました。幕末まで
慶長4(1868)戊辰戦争での新政府軍との徹底抗戦により城内・家中屋敷の全てを焼失し、城は7月29日に落城しました
霞ヶ城公園の入口前には二本松少年隊群像が建立されています。
復元された箕輪門です。丹羽光重入府の際に築かれた門です。
城内に唯一残る江戸期の建造物「洗心亭」です。かつては、「墨絵の御茶屋」といい丹羽光重公が愛した茶室です。
少年隊の丘です。「二本松大壇口弔少年隊戦死墓」などが建立されています。
本丸下に到着です。奥州探題畠山氏の城であることを示す立派な石碑です。
本丸石垣です。
本丸の上部です。
日影の井戸です。千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」と共に「日本の三井」といわれています。
スケールの大きな城で、なかなか見応えがあります。日本100名城の一つにも指定されています。
次は二本松少年隊の激戦地、
大壇口古戦場を訪れました。大壇口古戦場は、慶応4(1868)年、戊辰戦争で西軍が二本松城に迫った際、木村銃太郎を隊長とする二本松少年隊が奮戦した地です。大壇口の戦いに出陣した二本松少年隊は63名の内22名で、戦死したのは隊長の木村銃太郎をはじめ16名、戦傷者6名で戊辰戦史に残る戦いでした。木村銃太郎の碑、青山助之丞、山岡英治の二勇士の碑が建立されています。西軍隊長野津道貫(後の陸軍大将)が詠んだ「うつ人もうたるる人もあわれなり ともにみくにの民とおもえば」、陸軍大将木越安綱の詠んだ「色かへぬ 松間の桜散りぬとも 香りは千代に残りけるかな」という歌碑も建立されていました。
これで二本松市内の史跡めぐりは終了。この後は「人取橋古戦場」のある本宮市へ向かいます。
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ドライブ(レンタカー) | 日記
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2007/07/13 23:17:54