次はいよいよ岡崎市内です。
法蔵寺は徳川家康が幼少時に手習いに通った寺と言われています。
大宝元(701)年行基により開山されたと言われています。
至徳2(1385)年浄土宗の寺となり、松平親氏により伽藍が建立されました。松平氏の菩提寺として帰依を集めました。
境内には東照宮や松平広忠など松平一族の墓所があります。また、新選組局長近藤勇の首塚があります。
小豆坂古戦場です。
天文4(1535)年、松平清康が尾張守山で家臣に殺されると、弱体化した松平氏に対して、織田信秀は安祥城を拠点として矢作川の東岸に進出を図りました。
天文11(1542)年、今川義元は軍勢を生田原に進め、出撃してきた織田勢と小豆坂で戦いました。この時に織田勢の7名が槍をふるって奮戦したので、小豆坂七本槍と呼ばれました。この時彼らが槍を立てて休息した松が鎗立松と伝えられています。これを第一次の小豆坂の戦いといいますが、この戦いは無かったとの説もあります。
その後、天文17(1548)年、織田信秀は松平広忠の岡崎城を攻めるため出陣しました。今川義元は松平広忠救援のため、太原雪斎を派遣し織田勢とこの地で戦いました。松平広忠の家臣である酒井正親らの活躍により、今川・松平連合軍が勝利しました。これが第二次小豆坂の戦いです。
桶狭間の戦い後、独立を果たした徳川家康は、三河一向一揆に苦しみました。
小豆坂は再び一揆勢との戦いの舞台になりました。永禄7(1564)年、徳川家康が土呂・針崎の一向一揆勢と小豆坂・馬頭原で戦い、家康勢が勝利しました。
光が丘女子高前の交差点の南東側に石碑と案内板があります。
ただし、石碑は昭和62(1987)年に別の場所から写されたもので、鎗立松碑と血洗池碑はいずれも付近の別の所から移設したものです。
勝鬘寺は、三河における最初の真宗道場として、正嘉2(1258)年に創建されました。当時は赤渋にありましたが、その後水害の難を避けるために現在地に移りました。
また、本證寺、上宮寺とともにいわゆる真宗三河三カ寺の一つに数えられ、永禄6(1563)年の三河一向一揆の時、一揆方の拠点となりました。
蜂屋半之丞ら百余騎が境内に立てこもり、ここから小豆坂や上和田方面にしばしば討って出て激しく戦いました。
上和田城は、三河譜代の臣として幕末まで続いた大久保一党の屋敷があったところです。 大久保忠世、忠佐、忠教兄弟は徳川家康に仕え、活躍しました。
徳川家康、 秀忠、 家光の三代に渡る将軍に仕えた大久保彦左衛門もここで生まれています。
上和田町公民館の隣に「大久保氏一族発跡地」の碑が建っています。
土井氏一族の発祥地です。社口司社境内地の南東側に「土井氏一族発蹟地」の石碑があります。
土井氏は土井利勝が有名です。
徳川秀忠、家光に仕え、幕閣の中心で活躍し、老中・大老を勤め、下総古河16万石を一代で築きました。
土井氏はこの地に住み早乙女姓を名乗っていましたが、地名をとって土井に改姓しました。ただし、利勝本人は水野信元の庶子で、後に土井利昌の養子になったといわれています。また、他には徳川家康の落胤という説があります。
子孫は、下総古河、三河西尾→刈谷、越前大野などの大名となりました。
渡古戦場です。渡の戦いは、岡崎城主松平広忠(徳川家康の父)が、叔父の三ツ木城主である松平信孝と対立し、領地を奪ったことにより起きました。
天文16(1548)年、信孝は織田信秀と結び安城の山崎に城を築き、岡崎城を攻めるために出陣し、広忠も出陣しこの地で戦いました。
鳥居忠宗(忠吉の子、元忠の兄)の奮戦により、広忠が勝利しました。忠宗はこの戦いで討死しました。
諏訪神社の社殿の隣に石碑が建てられています。
渡城は、鳥居氏の城です。
鳥居氏は, 松平・徳川氏のために数々の功績をたてた譜代の家臣です。
岡崎が今川氏の手にあった家康の苦難時代, 家臣の鳥居忠吉が今川方の城代の目をかすめて, 主君が帰城する日のために兵器や兵糧米をたくわえていた逸話は有名です。 また、関ヶ原の戦いの直前, 伏見城を守って討ち死にした鳥居元忠も, 家康の忠臣として名を残しています。
個人宅に石碑が建っています。
上宮寺は寺伝によれば、聖徳太子の開基です。初めは天台宗で第二十三代住持蓮行の時に真宗に改め、十五世紀中葉に第三十代如光が高田派より本願寺派に改派しました。勝鬘寺(針崎町)、本證寺(安城市)と共に真宗本願寺派三河三ヶ寺と称され、三河、尾張、美濃、伊勢で末寺、道場百五をもつ中本山として、大きな勢力を持っていました。
中世の上宮寺は、三方には土塁と堀が巡らされ、西にも土塁がありました。その西の塀と、溝に囲まれた区画に寺内町があり、全体として守護不入の特権が認められていました。
永禄6(1563)年から永禄7(1564)年にかけて徳川家康と守護不入の特権を巡って対立し、三河一向一揆の拠点となりました。一揆敗北後の本願寺派寺院追放命令によって、寺内は破却されたが、天正13(1585)年に再興が認められました。
現在の上宮寺は平成8(1996)年に再建された現代風の建物になっています。
植村新六郎栄安の生誕地です。
植村新六郎栄安は、植村氏明ともいい松平清康、松平広忠、徳川家康の三代に仕えました。
天文4(1535)年、松平清康が守山崩れ(森山崩れ)で阿部弥七郎正豊に斬られた時、正豊をその場で斬り捨てました。また、天文18(1549)年には清康の子広忠が岩松八弥に斬られた時も、岩松の首を斬り、二代にわたって主君の仇を討ったといわれています。天文21(1552)年に、織田軍との戦いで戦死しました。
子孫は大和高取城主となり、明治維新まで続きました。
生誕地には石碑が建っています。
次は安城市です。
安祥城は、室町時代中期の永享12(1440)年和田親平の築城と推定され、はじめは森城と呼ばれていました。
文明3(1471)年頃岩津城の松平信光が攻め取り、親忠を安祥城主としました。
その後、大永4年(1524)年に松平清康が岡崎城に本拠を移すまでの約50年間、親忠、長親、信忠、清康と安祥松平氏四代の居城となりました。
その後、この城をめぐって、松平・今川氏と、織田氏との間に、天文9(1540)年から天文18(1549)年まで、5度に及ぶ激しい攻防戦が繰り広げられました。
桶狭間の戦い以後廃城となったと伝えられていますが、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いにあたり、徳川勢により改修工事が行われたそうです。
本丸跡に大乗寺が建てられていますが、土塁が一部残り、安祥城攻防戦で戦死した本多忠高の碑などがあります。二の丸跡は八幡社が建てられ、三の丸跡は安祥城址公園となり、安城市歴史博物館や安祥公民館、市民ギャラリーが建てられています。
安城古城は、平安時代には志貴庄の荘館があったといわれていますが、詳しいことはわかっていないそうです。
鎌倉時代には地頭の館となり、安藤氏が居館としていました。
室町時代には和田氏五代の本拠となり、永享10(1438)年の永享の乱後、安祥城を築城し、移転したため廃城になったといわれています。
天文9年(1540)に織田勢が安祥城を攻めた時、松平側は安城古城を前線基地の一つとして兵を入れて戦ったと伝えられています。
本證寺は、鎌倉時代に建立された真宗寺院で、三河三ヶ寺(佐崎の上宮寺、野寺の本證寺、針崎の勝鬘寺)の1つです。
永禄6(1563)年~永禄7(1564)年の三河一向一揆の時、徳川家康と戦い一時寺は破却されましたが、20年後に再興されました。
現在、山門前から本堂を取り囲むように内濠が巡らされ、外濠も一部残っています。現在にも残る数少ない城郭寺院として貴重なもので、愛知県の史跡に指定されています。
次は西尾市です。
西尾城は、鎌倉時代、吉良荘は足利義氏が庶長子の吉良長氏を地頭としてこの地に配し、その拠点を西尾城付近としたといわれています。
永禄4(1561)年、徳川家康の家臣酒井正親が城主となりました。天正13(1585)年、その子酒井重忠が二の丸に天守を建てました。二の丸に天守を持つ城は珍しいです。
その後、天正18(1590)年に田中吉政が岡崎城主になると西尾城も整備を進め、城域を拡張しました。
その後、本多氏、松平氏、太田氏、井伊氏と譜代大名が城主になりました。明和元(1764)年、松平乗祐(大給松平氏)が城主になり、明治維新まで続きました。
明治5(1872)年に廃城となり、建物は殆どが壊されました。
現在は西尾市歴史公園となり、平成8(1996)年に本丸丑寅櫓や鍮石門が再建されています。
西尾市資料館は、昭和52(1977)年に西尾城姫丸跡に開館した歴史資料館です。西尾の歴史、文化財などについての展示がされています。
そして、再び岡崎へ戻ります。
岡崎城は、享徳元(1452)年、三河守護代の西郷稠頼が築城したといわれています。
大永4(1524)年、松平清康は岡崎城を攻略して安祥城より移り、居城としました。
天文11(1542)年、松平竹千代(後の徳川家康)が松平広忠の嫡男として城内で誕生しました。その後広忠が若くして亡くなったため、岡崎城は今川氏の城代が入城しました。
永禄3(1560)年、桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したため、ようやく松平元康(徳川家康)の居城となりました。
元亀元(1570)年、家康は遠江浜松城に居城を移し、嫡男信康が岡崎城主となりましたが、天正7(1579)年、武田氏との内通を疑われて自害した後は、石川数正・本多重次が城代として入城しました。
天正18(1580)年、家康が関東に移封すると、代わって田中吉政が城主として入城しました。
江戸時代は「神君誕生の城」として重要視され、本多氏、水野氏、松井松平氏など譜代大名が城主となり、本多氏で明治維新を迎えました。
現在は岡崎公園となっており、日本さくら名所100選に選ばれた桜の名所として知られています。昭和34(1959)年に天守閣が復元され、平成18(2006)年、日本100名城に指定されました。
三河武士のやかた家康館は、岡崎城跡の岡崎公園にある松平氏、徳川氏、家康とともに歩んだ三河武士についての展示が充実した資料館です。
岩津天満宮は、江戸時代に信光明寺の一誉上人が、信光明寺の観音堂に天満宮を勧請し、その後宝暦9(1759)年に現在地に社祠を建立して、お祀りしたのが始まりです。
岩津城跡のすぐ東側にあります。
天満宮ということで梅の名所としても知られています。
岩津城の築城時期はよくわかっていませんが、室町時代の応永28(1421)年、松平信光がこの城を手に入れました。
松平氏は松平郷を拠点としていましたが、信光は岩津城を拠点として西三河に勢力を広げていきました。
その後、安祥城を攻め落とし、居城を移しました。その後も岩津城は松平氏の支城としての役割を果たしました。
文亀3(1503)年、今川氏親の武将だった伊勢新九郎(北条早雲)の軍勢が岩津城下に攻め込んだ記録があります。
松平氏が安祥城、岡崎城と勢力を広げていくと、城もやがて役割を終えたと思われます。
信光明寺は、宝徳3(1451)年に岩津城主の松平氏三代目松平信光が、祖父親氏、父泰親の菩提を弔うために釈誉上人を開山に創建した松平、徳川氏に縁の深い寺院です。
信光明寺の名は信光の名に因んだものです。
元亀2(1571)年、武田信玄の三河進出によって観音堂以外の諸堂は焼失しました。2年後、徳川家康により再建されました。
このあたりで残念ながら時間切れです。愛知県は史跡がいっぱいあるので、少しずつ訪れていきたいと思います。
帰りも快適な「新名神高速道路」を使用して帰りました。