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ピズモのブログ一覧

2016年08月18日 イイね!

岡山・早島・鴨方・新見ドライブ

岡山県立美術館は、昭和63(1988)年3月18日岡山市天神山地区の県有施設跡地の再開発事業として開設された美術館です。
郷土にゆかりあるすぐれた美術品を収集・展示するとともに、内外の芸術活動を紹介する展覧会やワークショップを開催しています。常設展として所蔵している美術品は「岡山の美術展」として公開するほか、特別展として全国の美術館の巡回展などが行われています。7月15日から8月28日まで岡山県立美術館で特別展「伊達政宗と仙台藩」が開催されていましたので訪れました。国宝・慶長遣欧使節関係資料と伊達家ゆかりの名品。お気に入りの紫羅背板地五色水玉模様陣羽織も再び見ることができました。名取春仲筆の「天文図、坤輿万国全図屏風」も素晴らしい出来でした。
岡山県立美術館 (3)
岡山県立美術館 (3) posted by (C)pismo

早島戸川氏の陣屋・早島陣屋です。戸川家は家祖達安の父秀安(友林と号す)の代から宇喜多家に仕え、備前児島の常山城を預かるなど、宇喜多家の重臣としてその役を担ってきました。しかし、達安の代になって宇喜多家のお家騒動から達安は遠ざけられ、徳川家康に預けられました。その縁で関ヶ原の合戦には東軍として参戦し数々の武勲を立て、その功によって29,200石を与えられ、備中庭瀬に居城を構えました。
ここ早島は、江戸時代の初め寛永8(1631)年に達安の次男安尤(やすもと)が3,400石で封じられて以来13代安宅(やすいえ)の代まで、干拓によって開かれた豊かな土地といぐさ産業を背景に、旗本戸川家の陣屋町として発展してきました。
早島陣屋は元禄年間、2代安明の代に普請にとりかかり17年の歳月を費やして宝永6(1709)年に完成しました。
陣屋は敷地全体が堀と塀によって囲まれ、東西約65m、南北約120m、約7,800平方メートル(約2,500坪)の広さを有し、その中には役人たちが仕事をする役所や裁判を行う白洲をはじめ、道場や年貢を納める米蔵などが置かれていました。また、主だった家臣たちの住居も敷地内に定められ、陣屋の裏山には家祖の戸川達安を祭る達安大明神の社もありました。
しかし、この陣屋も明治の初めごろ取り壊され、現在ではここにある堀の一部と石橋、陣屋の飲料水として使われた井戸などを残すのみとなりましたが、旗本領の陣屋の遺構として貴重な史跡です。
(現地説明板などより)
早島陣屋 (1)
早島陣屋 (1) posted by (C)pismo

早島陣屋 (2)
早島陣屋 (2) posted by (C)pismo

この辺りは、江戸時代岡山藩の支藩鴨方藩の中心地であったところです。公園の前を東西に結ぶ「旧鴨方往来」は、当時の藩の政治、経済はもとより文化人の交流に欠かせない重要な街道でした。
かもがた町家公園は、この往来沿いに並ぶ江戸時代に築造された二棟の町家をはじめ、蔵、井戸、土塀、庭園等を修復した史跡保存ゾーンと、四季折々の植物が楽しめる伝統植物園や芝生広場、展望台等のある景観ゾーンからなる面積6,600平方メートルの歴史公園です。「日本の歴史公園100選」に選定されています。
「鴨方に過ぎたるものが三つある 拙斎、索我、宮の石橋」と昔からうたわれた里謡にあるように、近くには江戸中期の儒者西山拙斎や画家田中索我ゆかりの史跡や歴史の古い寺社、陣屋跡、鴨山城跡などがありこの公園を中心にゆっくり散策することができます。
公園にある「旧高戸家住宅」は、江戸時代鴨方藩の庄屋を世襲し、油商等を営んだ家で、藩主の宿泊所や文化人の交流の場として使われていた由緒ある町家である。建築年代は、貞享4(1687)年に修理したという棟札から築300年以上経ており、岡山県下に残る江戸時期の最古の町家であると同時に全国的にも最初期のものです。これは、奈良県橿原市今井町の今西家〔慶安3(1650)年・1650〕や豊田家〔寛文2(1662)年〕と同時期のものです。建物は南面し、平面は正面10間、側面4.5間、中2階建の店部分と平家建の座敷部分からなる今井型(大和)です。屋根は本格的な入母屋造と切妻造で本瓦葺き、外壁は塗屋仕上げです。構造は、店部分を主体構造とするが、それは方形平面の中央に一本の大型中柱を立てた特殊なもので、小屋組は束立構法と登り梁構法を併用している。この構造は全国的にも例がなく、この地方で発生した独自のものです。
座敷部分は落ち棟形式で、店部分に取り付けられています。その店部分の構造面は、「うちまど」と西厨子2階における、中柱の上部の鴨居、中置、梁、地棟等の継手、仕口の合理的な工法、東西厨子における登り梁の豪快な架構は見応えがあります。細部で注目すべきは「みせどま」における大戸口の格子戸、片折板戸の意匠と機能性、「みせのま」での、天井、建具、格子構の意匠と室環境です。これらは、江戸前期の素朴さの中に力強さを感じさせるものになっています。
旧高戸家住宅は、かもがた町家公園の中核施設として平成7(1995)年度から復元修理を行い、平成9(1997)年9月に完成しました。この建物を「伝承館」と名付け、伝統的生活文化の継承の場とともに、建物博物館として保存・活用し、市民の歴史的財産として後世に残し伝えていくことにしています。平成10(1998)年3月に岡山県指定重要文化財となっています。
(現地説明板・パンフレットなどより)
かもがた町家公園・旧高戸家住宅 (2)
かもがた町家公園・旧高戸家住宅 (2) posted by (C)pismo

かもがた町家公園・旧高戸家住宅 (3)
かもがた町家公園・旧高戸家住宅 (3) posted by (C)pismo

かもがた町家公園・旧高戸家住宅 (4)
かもがた町家公園・旧高戸家住宅 (4) posted by (C)pismo

かもがた町家公園・旧高戸家住宅 (5)
かもがた町家公園・旧高戸家住宅 (5) posted by (C)pismo

かもがた町家公園・旧高戸家住宅 (6)
かもがた町家公園・旧高戸家住宅 (6) posted by (C)pismo

かもがた町家公園・旧高戸家住宅 (7)
かもがた町家公園・旧高戸家住宅 (7) posted by (C)pismo

正伝寺は、元亀2(1571)年に建立された浄土真宗本願寺派光清寺の末寺で、明治30(1897)年に廃寺となりました。
旧境内には石垣やこの門が残っています。明治期から昭和期にかけてこの跡地に觀生女学校、後に岡山県立鴨方高等学校が建ち、この門は校門として使用されました。
山門は、いわゆる龍宮門形式で、現在も龍宮門の愛称で親しまれています。
龍宮門(旧正伝寺山門)
龍宮門(旧正伝寺山門) posted by (C)pismo

長川寺は、山号は清龍山、曹洞宗の寺院です。
寺伝によると、源三位頼政の末裔西山宗久を開基とし、応永19(1412)年、永祥寺第三世英巌章傑禅師が開山した古刹です。
天正3(1575)年、細川通董が鴨山城に拠ると当寺をその菩提寺とし堂宇を整備し、寺領120石を寄進しました。その後、水害・山崩れなどがありましたが、十二世徳雲の威神力と細川氏遺臣の末裔の協力で、元禄17(1704)年、現在の本堂・庫裏が建てられました。境内には、通董の墓や岡山藩お抱えの庭師弥兵衛が築いた文化年間の庭があります。細川通董は天正15(1587)年に豊臣秀吉の九州平定に毛利氏の旗下として従軍の際に、長門赤間関(現下関市)の船中で生涯を閉じました。
長川寺
長川寺 posted by (C)pismo

長川寺 (1)
長川寺 (1) posted by (C)pismo

鴨方藩(岡山新田藩)は、江戸時代、鴨方におかれた岡山藩の支藩です。
池田光政の次子政言(まさこと)が初代藩主で、寛文12(1672)年備中浅口・窪屋・小田3郡の地2万5000石を与えられ、新田藩として成立しました。藩主は岡山城下の鴨方藩邸に住み、領内の重要な政務、財政は本藩に依存していました。10代政保は、明治2(1869)年版籍奉還により鴨方藩知事に任じられ、明治4(1871)年の廃藩置県で東京に移り鴨方藩は200年の歴史を閉じ、藩領は鴨方県、深津県、小田県を経て明治8(1875)年岡山県に編入されました。
鴨方陣屋は、鴨方藩所領支配の現地の拠点(政務の場)であり、本来は御用場と呼びます。鴨方藩主は岡山天神山(現県総合文化センター)にある鴨方藩邸に生活し藩としては簡素なものでした。
池田家文庫の御用所之絵図には、表御門、溜長屋、御座敷、吟味場、御囲米御蔵、牢番詰所等の建物が描かれ、屋敷は東西約56.8m、南北約32.7mであることが記されています。
現在は、石垣や井戸が当時の面影を残しています。幕末には、御用場の北側に陣屋が造営されました。黒住教鴨方大教会所前に説明板が立っています。
(現地説明板などより)
鴨方陣屋
鴨方陣屋 posted by (C)pismo

鴨山城は別名、加茂山城・石井山城・清滝山城・城山ともいいます。
応永14(1407)年細川満国が浅口分郡知行主として入郡以降、細川野洲家の拠点のとして浅口郡を約190年間領知しました。城主は8代の元通まで続くが、一時期城主不在の時があったようです。
永禄2年(1559)細川通董(みちただ)は毛利氏の配下にあり、7代目鴨山城城主として、伊予国の川之江から浅口郡に入っています。
青佐山城に7年、竜王山城へ9年間居城しました。天正3(1575)年鴨山城に入った頃、城の大改造を行なっています。
その後、8代城主の元通は、慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで敗軍側となり、長門国へ移り鴨山城は廃城となりました。
(現地説明板などより)
鴨山城 (2)
鴨山城 (2) posted by (C)pismo

鴨山城 (3)
鴨山城 (3) posted by (C)pismo

鴨山城 (4)
鴨山城 (4) posted by (C)pismo

鴨山城 (5)
鴨山城 (5) posted by (C)pismo

鴨山城 (6)
鴨山城 (6) posted by (C)pismo

鴨山城 (7)
鴨山城 (7) posted by (C)pismo

鴨山城 (8)
鴨山城 (8) posted by (C)pismo

鴨山城 (9)
鴨山城 (9) posted by (C)pismo


新見陣屋は、元禄10(1697)年に関長治によって築かれました。
新見藩は、津山藩森氏の支藩である宮川藩が前身で、津山藩第2代藩主・長継の弟の関長政が1万8700石を分知され、立藩しました。
関長治は美作国津山藩主森長継の子で宮川藩主関長政の養子となり家督を継いで2代藩主となりましたが、元禄10(1697)年、美作国津山藩森氏が改易となると備中国新見1万8千石で転封されました。
新見に入封した長治は、高梁川から程近い諏訪山と呼ばれる丘陵部に陣屋を築き、新見藩の政庁としました。以来、関氏は維新まで移封することなく新見を領しましたが、表高に比べて実収入が少なく、藩財政は常に危機的状況にありました。
このような状況から、宝暦5(1755)年に3代藩主政富が藩校を設立し、孟子の言葉から思誠館と名付け、藩士の教育を熱心に進めました。この思誠館の名は、陣屋跡地に建つ思誠小学校の名として今も受け継がれていました。
現在、陣屋の跡地は新見高校北高地と思誠小学校の敷地となっています。
新見陣屋 (3)
新見陣屋 (3) posted by (C)pismo

新見陣屋 (4)
新見陣屋 (4) posted by (C)pismo

楪城は、鎌倉末期(正応元〔1288〕年~永仁元〔1293〕年)頃に、新見氏によって築城されたと思われます。
その後、戦国時代に最後の城主新見蔵人貞経は、三村氏の侵入によって滅ぼされ行方不明となりました。
代わって永禄10(1567)年に三村元範が楪城主となり入城しました。しかし天正3(1575)年の備中兵乱で毛利方の小早川隆景を大将として総軍二万騎が押し寄せ、宍戸備前守と中島大炊介元行の攻撃で落城しました。元範は十騎ばかりで落ち延びましたが、高尾の石指で、塩山城主の多治部雅楽頭景春が五十騎ばかりで追いかけて来、戦いの末討たれました。
そして楪城は毛利方の吉川元春のものとなり、元春の家来今田上野介経高が在番となりますが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで、西軍の毛利方は敗れ、楪城は廃城となりました。
楪城は、代表的な連郭式の山城で、山陽と山陰の交通の要衝にあり、南北に長く、高梁川と矢谷川に囲まれた天険の要害です。備中では松山城につぐ規模をもち、別名新見城ともいいます。
本丸・二ノ丸・三の丸からなり、本丸は標高490mの所にあり、二ノ丸の南と三の丸の北に大きな堀切があります。なお、三の丸の頂上付近には井戸も残っています。本丸は新見氏時代のもので、のち三村氏により二ノ丸・三の丸が増築されたものと思われます。この山城には名木の「楪の木」が生えていましたので、その名がつけられたといいます。
(現地説明板などより)

楪城 (2)
楪城 (2) posted by (C)pismo

楪城 (3)
楪城 (3) posted by (C)pismo

楪城 (4)
楪城 (4) posted by (C)pismo

楪城 (5)
楪城 (5) posted by (C)pismo

楪城 (6)
楪城 (6) posted by (C)pismo

楪城 (7)
楪城 (7) posted by (C)pismo

楪城 (8)
楪城 (8) posted by (C)pismo

楪城 (9)
楪城 (9) posted by (C)pismo
Posted at 2016/10/07 22:20:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年08月13日 イイね!

奈良散歩となら燈花会

大安寺は高野山真言宗の寺院です。
かつては、興福寺、東大寺、西大寺、薬師寺、元興寺、法隆寺と共に南都七大寺に数えられました。
日本最古の寺院の一つで、創建の由来は天平19(747)年の「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」によって知ることができます。それによると、聖徳太子が「天下天平・万民安楽」の祈りの道場として、平群の地に「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」という道場を建立しました。そして、太子が薨去の際に、舒明天皇に託して、国の大寺とするよう遺言しました。
舒明天皇はその遺願により、「百済大寺」を建立して、これが我が国最初の官寺となりました。
飛鳥の藤原京で「高市大寺」、次いで「大官大寺」と改称を繰り返し、飛鳥時代の中心寺院として栄えました。
そして、平城京遷都に伴い今日の地に遷され、「大安寺」となりました。
奈良時代には、国の筆頭寺院として800人を超す学僧を擁して、仏教の総合大学の様相を呈したといわれました。
中世には、度重なる災禍などにて、壮麗なる伽藍も消失し寺運は衰微しましたが、奈良時代の仏像九体が今に伝えられています。
仏像については、奈良時代の遺品で、本尊の十一面観音菩薩等の木彫仏9体が今に残されています。

(パンフレットなどより)
大安寺 (1)
大安寺 (1) posted by (C)pismo

大安寺
大安寺 posted by (C)pismo

大乗院は、寛治元(1087)年に創建された興福寺の門跡寺院でした。現在の奈良県庁の位置にあった創建当初の大乗院は、治承4(1180)年の平重衛による南都焼き討ち後に現在地に移り、江戸時代末まで続きました。
鎌倉時代から室町時代にかけて大乗院は何度かの火災に見舞われますが、宝徳3(1451)年の徳政一揆による火災では伽藍は灰塵に帰し、翌年から関白一条兼良の子息で当時22歳だった門跡・尋尊が復興に努めることになります。尋尊による建物や庭園の復興のようすは、「大乗院寺社雑事記」から知ることができます。
さらに、寛正6(1465)年からは、将軍足利善政の命を受けて、作庭の名手・善阿弥による大乗院の作庭が始まります。文明3(1471)年まで断続的に行われた善阿弥による作庭は、その子・小四郎に引き継がれながら、長享3(1489)年には最終的に建物・庭園を含めた伽藍整備が完了しました。この頃には、公家たちがしばしば訪れて庭景を楽しんだとされ、「南都随一の名園」として知られました。
江戸時代に入ると、大乗院では安定した経済基盤をもとに、数寄屋造建物の築造などが進められます。奈良国立博物館に移築されている茶室の八窓庵(含翠亭)は、もともと大乗院にあったものです。また、門跡・隆温によって庭園の各部分に四季の装いを振り分けて描かれた「大乗院四季真景図」は、江戸時代末期の大乗院を知る上で貴重な資料であり、近世末にも庭園が美麗な姿を保っていたことがうかがえます。
明治時代になると、大乗院門跡は松園家と改称し男爵に叙せられますが、明治10(1877)年には大乗院を売却、建物は除却・分散し、その後、敷地は飛鳥小学校や奈良ホテルのテニスコートなどになり、さらに昭和17(1942)年には敷地の東端を削って道路が建設されました。
戦後の昭和33(1958)年に敷地西部に国鉄の保養施設が建設されますが、この時、池を中心とする庭園の大部分が国の名勝に指定され、ようやく文化財として保護の対象となるのです。
平成7(1995)年からは管理団体である(財)日本ナショナルトラストを事業主体として、奈良文化財研究所による発掘調査とその成果に基ずく整備が始まります。発掘調査の中で特筆すべきは、埋まっていた西小池の状況が細部まで明らかにされたことです。室町時代の様相を把握することはできなかったものの、江戸時代の遺構はきわめて良好に残存していたのです。その遺構は、「大乗院四季真景図」に描かれた景色と非常によく合致しました。
これを受け、庭園、特に西小池一体の整備の対象は江戸時代末の状況とし、発掘された遺構を保護する観点から、遺構上に覆土し嵩上げした整備地盤面で庭園を復元する手法を採用しました。ただし、「大乗院四季真景図」に描かれた景石はほとんど残存していなかったことから、景石の復元は行わず、橋と橋挾石だけの復元にとどめています。
平城遷都1300年記念事業にあわせて平成22年(2010年)に復原事業が完成し、一般公開が開始されました。庭園の南端には名勝大乗院庭園文化館があり、大乗院の復元模型や大乗院に関する資料が展示されています。
(パンフレットなどより)
旧大乗院庭園
旧大乗院庭園 posted by (C)pismo

旧大乗院庭園 (1)
旧大乗院庭園 (1) posted by (C)pismo

旧大乗院庭園 (2)
旧大乗院庭園 (2) posted by (C)pismo

旧大乗院庭園 (3)
旧大乗院庭園 (3) posted by (C)pismo


入江泰吉記念奈良市写真美術館を見てから
入江泰吉記念奈良市写真美術館 (1)
入江泰吉記念奈良市写真美術館 (1) posted by (C)pismo

入江泰吉記念奈良市写真美術館
入江泰吉記念奈良市写真美術館 posted by (C)pismo

なら燈花会を昨年に引き続き訪れました。
昨年→なら燈花会
なら燈花会
なら燈花会 posted by (C)pismo

なら燈花会 (1)
なら燈花会 (1) posted by (C)pismo

なら燈花会 (2)
なら燈花会 (2) posted by (C)pismo

なら燈花会 (3)
なら燈花会 (3) posted by (C)pismo

なら燈花会 (4)
なら燈花会 (4) posted by (C)pismo

なら燈花会 (5)
なら燈花会 (5) posted by (C)pismo

なら燈花会 (6)
なら燈花会 (6) posted by (C)pismo

なら燈花会 (7)
なら燈花会 (7) posted by (C)pismo

なら燈花会 (8)
なら燈花会 (8) posted by (C)pismo

なら燈花会 (9)
なら燈花会 (9) posted by (C)pismo

なら燈花会 (10)
なら燈花会 (10) posted by (C)pismo
Posted at 2016/09/26 21:43:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年08月08日 イイね!

真田丸紀行(4日目その2・龍岡城五稜郭と高ボッチ高原)

ここからはついに旅行の帰路です。
最後に再び長野県に戻り龍岡城五稜郭と高ボッチ高原を訪れました。

龍岡城五稜郭は、信州に1万2千石、三河に4千石の封地を持つ三河奥殿藩の大給松平氏が幕末に築いた城郭です。
三河に本拠を持ち、佐久には陣屋をおいて、領内22か村の統治を続けてきましたが、11代乗謨(のりかた)になり幕末激動の情勢に応じて信州に居館を移すことを計画し、元治元(1864)年3月着工、慶応3(1867)年竣工、地字名をとって龍岡城と称しました。
最後の藩主乗謨は明治以降に大給恒と改名し、佐野常民と共に赤十字社の前身である博愛社を創設したことでも知られています。
龍岡城五稜郭から4年前完成した函館五稜郭と共に我が国城址の中においてただ二つの貴重な洋式城郭です。廃藩後明治5(1872)年、城は取り壊しとなりましたが、幸い堀と石垣、建物の一部大台所を残しています。城跡には市立田口小学校が建っていますが、遺構の保存状態は比較的良好です。
入口付近にある「歴史の里五稜郭であいの館」では龍岡城五稜郭に関する資料を展示しています。
龍岡城五稜郭 (1)
龍岡城五稜郭 (1) posted by (C)pismo

龍岡城五稜郭 (2)
龍岡城五稜郭 (2) posted by (C)pismo

龍岡城五稜郭 (3)
龍岡城五稜郭 (3) posted by (C)pismo

龍岡城五稜郭
龍岡城五稜郭 posted by (C)pismo

龍岡城五稜郭 (4)
龍岡城五稜郭 (4) posted by (C)pismo

龍岡城五稜郭 (5)
龍岡城五稜郭 (5) posted by (C)pismo

高ボッチ高原は、標高1,665mの高ボッチ山のなだらかな傾斜に広がる高原です。
高ボッチ高原自然保護センターを中心に、高ボッチ牧場や三大標高に愛を誓うビューポイントなどが整備されています。
360度の眺望が開けた山頂からは、北アルプスの山々はもちろん、諏訪湖方面の眺めからは、条件が整えば八ヶ岳、富士山、南アルプスの景色を存分に楽しむことができます。雲海、夕景、夜景など撮影を楽しむカメラマンたちに人気です。
レンゲツツジやハクサンフウロなどの多種多様な高山植物を気軽に観察できることでも人気があり、春から秋にかけて多くの来訪者でにぎわいます。
高ボッチ高原 (1)
高ボッチ高原 (1) posted by (C)pismo

高ボッチ高原 (2)
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高ボッチ高原
高ボッチ高原 posted by (C)pismo

高ボッチ高原 (3)
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高ボッチ高原 (4)
高ボッチ高原 (4) posted by (C)pismo
Posted at 2016/09/23 00:03:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年08月08日 イイね!

真田丸紀行(4日目その1・倉賀野城・山上碑及び山上古墳・山名城・根小屋城)

倉賀野城は、鎌倉時代初期、武州児玉党の支流である秩父三郎高俊がこの地に館を建立し倉賀野を氏としたのが始まりです。
戦国時代になると、倉賀野三河守行政が河越夜戦で戦死し、倉賀野尚行が行政の嫡男為広を助け倉賀野十六騎と共に城を守りました。
その後、上杉謙信が上州へと進出すると為広を継いだ尚行は箕輪城主長野氏と上杉方になり、箕輪城の支城の役割を果たしていたため、武田信玄が侵攻してくると内部不和もあり落城し尚行は越後へ逃れました。
武田方へ従った金井秀景が城主となり、倉賀野氏を名乗りましたが、武田氏が滅亡すると織田方の滝川一益に従い、本能寺の変後は北条氏に仕えました。
天正18(1590)年、北条氏が小田原で豊臣秀吉に降ると、倉賀野城も降伏し廃城となりました。
周囲は新興住宅地になって遺構は全くなく、「雁児童公園」に石碑と説明看板が立っています。
(現地説明板などより)
倉賀野城
倉賀野城 posted by (C)pismo

国の特別史跡・山上碑及び古墳です。
銘文
辛己歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也 放光寺僧

現代語訳
辛巳年(天武天皇10年・681年)10月3日に記す。
佐野三家(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。これが、新川臣(にっかわのおみ)の子の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である大児臣(おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である(わたくし)長利僧(ちょうりのほうし)が、母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。放光寺の僧。

山上(やまのうえ)碑は金井沢碑、多胡碑とともに「上野三碑」と称されています。
輝石安山岩の自然石(高さ111cm)に53字を刻んだもので、天武朝の681年に建てられた日本最古級の石碑です。放光寺の僧である長利が、亡き母の黒売刀自を供養するするとともに、名族であった母と自分の系譜を記して顕彰したものです。黒売刀自は、碑の傍らにある山上古墳に埋葬されたと考えられています。
碑文にある三家(=屯倉)とは、6世紀~7世紀前半に各地の経済的・軍事的要地に置かれたヤマト政権の経営拠点です。佐野三家は高崎市南部の烏川両岸(現在の佐野・山名地区一帯)にまたがって存在していたとみられ、健守命がその始祖に位置づけられています。
碑の造立者である長利は、健守命の子孫の黒売刀自が、赤城山南麓の豪族と指定される新川臣(現桐生市の新川か)の子孫の大児臣(現前橋市の大胡か)と結婚して生まれた子です。彼が勤めた放光寺は、「放光寺」の文字瓦を出土した前橋市総社町の山王廃寺だったと推定されています。この寺は、東国で最古級の寺院だったことが発掘調査で判明しています。当時、仏教は新来の先進思想であり、長利は相当な知識者だったと考えられています。また、山上碑の形状は、朝鮮半島の新羅の石碑に類似しており、碑の造立に際しては渡来人も深く関わったと推定されています。
なお、碑に隣接する山上古墳は、精緻な切石積みの石室をもつ有力首長の墓であり、7世紀中頃の築造と考えられています。岩野谷丘陵東南端を流れる柳沢川の北岸に所在し、南斜面を掘り込み、当丘陵に産する凝灰岩の切石を用いた横穴式石室を設け、直径15m、高さ5mの山寄せ式の墳丘を構築しています。山上古墳は古くに開口したため出土品は不詳で、石室内には中世の石造物が置かれています。
その築造時期は、山上碑(681年)よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬(帰葬)したものと考えられています。(白石太一郎説)。
 以上のようにわずか53文字から、ヤマト政権と地方の支配者制度、豪族間の婚姻関係や家族制度、地方仏教の浸透など多くのことを読み取ることが可能であり、山上碑が一級の古代史料であることを証明しているのです。
昭和29(1954)年、「山上碑及び古墳」の名称で国の特別史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
山上碑及び古墳
山上碑及び古墳 posted by (C)pismo

山上碑及び古墳 (1)
山上碑及び古墳 (1) posted by (C)pismo

山上碑及び古墳 (2)
山上碑及び古墳 (2) posted by (C)pismo

山上碑及び古墳 (3)
山上碑及び古墳 (3) posted by (C)pismo

山上碑及び古墳 (4)
山上碑及び古墳 (4) posted by (C)pismo

源義家の孫新田義重(1116~1202)の子義範は、この城に拠って山名氏と称し、以降8代山名城を護ったといわれています。この城の創築は寺尾中城が造られた頃と推定され、南北朝時代信濃南朝方の関東での橋頭堡として、寺尾上城(乗附)、中城(寺尾)と一連の名称で寺尾下城とか前城と呼ばれています。
下城または前城と呼ぶのは永禄13(1570)年武田信玄が字城山に創築した根小屋城に対する呼び方で同じ頃この城も実践向きに大改修されたことは全体の構造が複雑化していることで推定できます。
この城址は東西450m、最大幅130m、低い方から外郭、三の丸、二の丸、本丸があり、更に西方へ5つの堀切と、3つの小郭が連なる山城で中心は指定史跡となっている本丸と二の丸です。
本丸は55m×35m、空堀と腰郭で囲まれ東の二の丸が本丸の北の帯郭状となっている。二の丸南に80mの堀内道があり西端が追手口となっている。三の丸は東西40mで空堀を隔てて外郭があります。
それにもかかわらず、前2城よりはるかに進歩した築城法によって作られているのは、この城が戦国時代になって木部城の要害城として改築されたためです。
またこの城は木部氏の木部城を里城とした要害城として、小田原の役があった天正18(1590)年まで使われていたと考えられています。
(現地説明板などより)
山名城
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山名城 (1)
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山名城 (2)
山名城 (2) posted by (C)pismo

山名城 (3)
山名城 (3) posted by (C)pismo

根小屋城の築城については、上野誌・関東古戦録等に、永禄11(1568)年或いは永禄13(1570)年に、武田信玄が山名、鷹の巣の間に新城を築き、信州佐久郡望月の城主望月甚八郎、同じく伴野庄の住人伴野助十郎を入れて守らせたと明らかに記されています。
鷹の巣とは現在の寺尾公民館上の御嶽山から登りつめた所の城峯神社のある茶臼山城址のことです。
永禄9(1566)年箕輪城を落とした信玄は、西上州を手中におさめて、北条氏康、上杉謙信と対峙していました。この城は狼煙台として、新附の倉賀野、木部、和田の諸将を監視するため、守兵は信州の信頼出来る将兵を入れたものです。
なお根小屋とは平素城兵の居住する所をいい、この地名の所には必ず山城の址があるといわれています。
(現地説明板などより)
根小屋城 (4)
根小屋城 (4) posted by (C)pismo

根小屋城 (1)
根小屋城 (1) posted by (C)pismo

根小屋城 (2)
根小屋城 (2) posted by (C)pismo

根小屋城 (3)
根小屋城 (3) posted by (C)pismo

根小屋城 (4)
根小屋城 (4) posted by (C)pismo

根小屋城 (5)
根小屋城 (5) posted by (C)pismo

根小屋城 (6)
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根小屋城 (7)
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根小屋城 (8)
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根小屋城 (9)
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根小屋城 (10)
根小屋城 (10) posted by (C)pismof
Posted at 2016/09/22 22:14:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年08月07日 イイね!

真田丸紀行(3日目その3・神流川古戦場周辺〜麻場城〜後閑城)

御幣山(軍配山)古墳は、昭和5(1930)年2月に発掘されました。出土品は墳丘上の碑文に記されていますが、中国渡来の白銅製内行花文鏡二面をはじめ、勾玉管玉鉄鏃その他鉄器類があります。
それらは東京上野の国立博物館に保存されています。中国渡来の内行花文鏡の出土は、当古墳の被葬者が、かなりの豪族であったことを推定させます。
附近の烏川段丘上には相当数の古墳が存在していましたが、それからの出土品には、本墳のようなすぐれたものがないことからすると、本墳の被葬者が、この附近近一帯の有力な支配者的存在であったと推定できます。
古墳の形式は円墳で、主体部の形式は不明です。
後藤守一氏は築造年代を碑文に示されていますが、いずれにしても古墳時代初期に属するものと考えられます。
一名軍配山と呼ばれますが、それは天正10(1582)年本能寺の変の後に滝川一益と北条氏直・北条氏邦が戦った神流川(かんながわ)合戦の折、滝川一益が本古墳を本陣として軍配をふるって全軍を指揮したために名付けられたものと伝えられています。
(現地説明板などより)
御幣山〔軍配山〕古墳
御幣山〔軍配山〕古墳 posted by (C)pismo

御幣山〔軍配山〕古墳 (1)
御幣山〔軍配山〕古墳 (1) posted by (C)pismo

神流川の戦いは、天正10(1582)年6月18日と19日の両日にわたり、武蔵・上野国境の神流川を舞台に行われた織田信長の武将厩橋城主滝川一益と鉢形城主北条氏邦、北条氏直との戦いです。別名「金窪原の戦い」ともいわれ、金久保・毘沙吐周辺をその戦場として激しい戦いが繰り広げられました。
織田信長が本能寺の倒れた直後、関東管領滝川一益は、信長の仇を討たんと上京しようとしました。
これに対し、好機至れりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めました。初戦は、6月18日巳の刻(午前10時頃)よりはじまり、深谷・忍衆を含む鉢形城主北条氏邦(3.000人)と上野国衆(8.000人)が戦いました。この初戦では、石山大学・保坂大炊助などの武将をはじめ300騎が討たれた北条氏邦の敗北で終わりました。伝承によれば、この敗北によって金窪城が焼失したと伝えられています。
2度目の戦いは、6月19日未明、小田原より到着した北条氏直と滝川一益による総力戦が展開されました。数万(30.000人)の北条軍に対して、半分(18.000人)程の軍勢であった滝川軍はよく戦い、前半は滝川軍優勢のうちにすすみましたが、北条軍の迂回作戦によって後方を攪乱された滝川軍は軍を乱し、倉賀野方面へ敗走しました。この乱戦の中で、滝川一益の重臣笹岡平右衛門は、敗走する上野衆を後目に旗本衆とともに北条軍の本陣をめざして進み、討死をとげています。
神流川古戦場跡一帯は、現在は陸上自衛隊駐屯地になっています。
(現地説明板などより)
神流川古戦場跡碑
神流川古戦場跡碑 posted by (C)pismo

神流川古戦場跡碑 (1)
神流川古戦場跡碑 (1) posted by (C)pismo

大光寺は、山号は勅使山、臨済宗円覚寺派の寺院です。
建保3(1215)年に武蔵七党の一党である丹党の、勅使河原権三郎有直が創建したもので、勧請開山は日本へ初めて禅宗を伝えた栄西禅師です。
勅使河原氏の先祖は丹党で、七党系図に勅使河原丹次郎直時あり父を秩父丹五基房といい直時が承保2(1075)年頃この地に移居し地名をもって家号としました。これが勅使河原氏の起りです。勅使河原氏は直時の子を弥四郎直兼と称し、その子権三郎有直、同四郎有則といいともに源頼朝に仕えました。一族の働きは素晴らしく「源平盛衰記」「吾妻鏡」「太平記」その他多くの書物にのっていますが、その戦いぶりは武蔵武士の代表といっても過言ではありません。
延元3年・暦応5(1338)年室町幕府がつくられるに及び天皇方に組した勅使河原氏一族は難を逃れるためにこの地を去りました。なおこの館跡には当時の土塁の一部が残存し、累代の墓は有直創建の大光寺にあります。
その後、応永18(1411)年に現伊勢崎市の泉龍寺白崖宝生禅師により再興されました。
しかし、天正10(1582)年の神流川合戦により総門のみ残し焼失しました。
明治42(1909)年2月に高崎線の灰煙を被り全焼したため、本堂等を再建し現在に至っています。
なお、当寺には栄西禅師直筆の偏額と総門、忠臣直重父子の冥福を祈った不背碑(親子地蔵)、六角のガン部をもった石憧、神流川の渡しの標準と旅の安全を祈った見透灯篭等が現存し、貴重な文化財として知られています。
毎年、4月23日に勅使河原氏の慰霊祭でもある蚕影山(こかげさん)が行われ、養蚕の道具に加え、最近では植木市等がたち、大変な賑わいを見せています。
(現地説明板などより)
大光寺
大光寺 posted by (C)pismo

大光寺 (1)
大光寺 (1) posted by (C)pismo

大光寺 (2)
大光寺 (2) posted by (C)pismo

大光寺 (3)
大光寺 (3) posted by (C)pismo

大光寺 (4)
大光寺 (4) posted by (C)pismo

大光寺 (5)
大光寺 (5) posted by (C)pismo

首塚八幡宮は、天正10(1582)年、織田信長の将滝川一益と上州勢が、北条氏と戦った神流川合戦で討死した者を勝利した北条方が、討死した武士の首を検視し埋葬したため、この地を実見塚(字名)というようになりました。首を一箇所に埋葬し一墳とし、無縁の霊を祀り、石祠を設け「首塚」と称しました。
この宮は、首から上の病に奇効があり、脳の病、精神病、歯の病などに苦しむ人の参詣が多く、丑三時(午前2時頃)誰も知られずに参詣するのが良いと言われています。合戦で討死した者の霊が悩める人の苦しみを救うからだと言います。祭日は毎年4月3日です。
(現地説明板などより)
首塚八幡宮
首塚八幡宮 posted by (C)pismo

首塚八幡宮 (1)
首塚八幡宮 (1) posted by (C)pismo

胴塚稲荷古墳は径14m、高さ2.2mの円墳と推定され、かつて直刀や人骨が発見されたとの言い伝えが残っています。
現在、この上に鳥居と稲荷社があります。
天正10(1582)年6月、合戦史上関東最大の神流川合戦における戦死者の胴を埋葬したと伝えられるところから胴塚稲荷と呼ばれています。近くには高崎市(旧新町)指定史跡首塚(首塚八幡)があります。このように古墳と推定され、さらに神流川合戦の胴塚とも伝えられるところから大変貴重です。
(現地説明板などより)
胴塚稲荷古墳
胴塚稲荷古墳 posted by (C)pismo

胴塚稲荷古墳 (1)
胴塚稲荷古墳 (1) posted by (C)pismo

麻場城(あさばじょう)は、この地の豪族白倉氏の居城であり、約500m東方にある仁井屋城と合わせて白倉城と呼ばれ、別城一郭(双子城とも言って、二つの城が一人の城主のもとに相助けて戦う構造)の形態といわれています。
白倉氏は、小幡氏と並んで関東管領上杉氏の重鎮でしたが、天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に重家は小田原城に籠り、重家の弟重高が麻場城(白倉城)を守りましたが、麻場城は前田利家・上杉景勝ら北国勢に攻め落とされました。
平成4(1992)年4月、麻場城址公園となりました。
麻場城
麻場城 posted by (C)pismo

麻場城 (1)
麻場城 (1) posted by (C)pismo

麻場城 (2)
麻場城 (2) posted by (C)pismo

麻場城 (3)
麻場城 (3) posted by (C)pismo

後閑城は嘉吉・文安の頃(15世紀中葉)、信州の依田忠政が築いたと伝えられています。上後閑の長源寺にある文明2(1470)年10月3日付けの依田信濃入道寄進状もそれを裏付けています。
天文7(1538)年依田光慶が鷹巣城(板花)に移った後に北条政時が一時在城しましたが、永禄3(1560)年、政時は丹生城主新田景純との争いで敗れ、その後新田氏が後閑城に移りました。
新田氏は姓を後閑に改め、景純の子信純の頃、武田信玄に従い、天正10(1582)年武田氏滅亡後、北条氏に従いますが、天正18(1590)年北条氏滅亡後に後閑城は廃城になりました。
後閑城は、後閑川と九十九川の合流地点に突き出した、南北につづく丘陵の末端部分に築かれた山城です。この山城は四ヶ所の掘切で断たれ、南端の最も高い部分に本丸があります。
本丸は南北約60メートル、幅約30メートルで、西には階段状に3つの大郭(西第一~西第三郭)がならび、東にも階段状に郭(東郭、東郭群)がならんでいます。また本丸の東南と西南には枝尾根が分岐していて、それぞれの尾根の基部は掘切で断たれています。
これにより二の丸と南郭は本城から切り離され、いわゆる一城別郭の構造になっています。二の丸は本丸より約16メートル低く、大堀切に面して櫓台が築かれています。
このたび後閑城址公園整備にあたり、発掘調査を行いましたが、本丸虎口部分の柱穴、二の丸櫓台上の柱穴の他には、建物に関係する遺構は検出することができませんでした。
(現地説明板などより)
後閑城
後閑城 posted by (C)pismo

後閑城 (1)
後閑城 (1) posted by (C)pismo

後閑城 (2)
後閑城 (2) posted by (C)pismo

後閑城 (3)
後閑城 (3) posted by (C)pismo

後閑城 (4)
後閑城 (4) posted by (C)pismo

後閑城 (5)
後閑城 (5) posted by (C)pismo

後閑城 (6)
後閑城 (6) posted by (C)pismo

後閑城 (7)
後閑城 (7) posted by (C)pismo

後閑城 (8)
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後閑城 (9)
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Posted at 2016/09/21 21:23:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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