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ピズモのブログ一覧

2008年02月23日 イイね!

逸翁美術館「蕪村・呉春展」

逸翁美術館「蕪村・呉春展」この日は、逸翁美術館を訪れました。
逸翁美術館は、小林一三の旧邸「雅俗山荘」を展示場として昭和32(1957)年に開館しました。「逸翁」とは小林一三の雅号で、小林一三の与謝蕪村・呉春などの絵など5000点に及ぶ個人コレクションを収蔵しています。
雅俗山荘での建物では平成20(2008)年3月までで、しばらく休館し、平成21(2009)年に阪急学園池田文庫のとなりの用地に新築移転されます。「雅俗山荘」は現在地で保存され、小林一三の記念館になるそうです。
「蕪村・呉春展」が雅楽山荘での展示の最後になるそうで、記念に行ってきました。
呉春と言えば、池田に長らく滞在した画家です。与謝蕪村の弟子でしたが、蕪村の死後、池田をに滞在しました。池田はかつては「呉服の里」といわれていたので、呉春という名を名乗ったそうです。その後、円山応挙の弟子になり、画風も応挙の画風を受け継ぎ四条派の祖となりました。
池田の地酒といえば、「呉春」。もちろんこの画家の呉春にちなんだ銘酒です。このお酒は絶品で、私はいつも呉春が置いてある飲み屋では、このお酒を頼んでしまいます。
そんなこともあり、呉春にはかねがね興味がありました。逸翁美術館では初めて呉春の絵を興味深く見ることができ、良い体験ができました。

近くには池田城の跡があったので、帰りに立ち寄りました。
池田城は築城時期は定かではありませんが、建武3(1336)年の「平国茂軍忠状」には池田城の名が見られます。
しかし、初代城主は池田教依とされており、室町時代から戦国時代にかけて、摂津国豊嶋郡の有力な国人領主として勢力を拡大していきました。
池田氏は、細川家の内紛などに巻き込まれ、池田城は何度か落城の憂き目に遭いますが、三好氏の時代に至るまで、摂津の中でも繁栄した一族でした。しかし、織田信長の上洛の際には、池田勝正は抵抗しましたが、降伏してその配下になりました。しかしその後は池田氏は内紛などで力を弱め、池田城は家臣の荒木村重に乗っ取られました。荒木村重は伊丹城を落城させ有岡城を築き、そちらに移ったため、池田城は廃城となりました。しかし、荒木村重が織田信長に謀反を起こした際は、有岡城攻めの信長本陣として、廃城となっていた池田城が使用されたようです。
現在池田城は城跡公園となっていて、史実に忠実な再現ではありませんが、同じ時代の城を参考に塀や櫓、庭園などが作られています。また、発掘調査を元に土塁、排水溝、建物の礎石などが復元されています。
Posted at 2008/02/29 23:40:24 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2007年12月15日 イイね!

慶沢園と四天王寺

大阪市立美術館の後は少し天王寺を散歩しました。
慶沢園は、住友家がこの地に移った際、約10年をかけて本邸(茶臼山邸)とともに造営した庭です。大名庭園をモデルとした林泉式回遊庭園で、山県有朋の無鄰菴なども手がけた庭師小川治兵衛の作庭です。
住友家15代吉左衛門(春翠)は明治28(1895)年からこの地の用地買収を始め、同41(1908)年に着工した。大正4(1915)年にはまず本邸を鰻谷から移転しましたが、その間、春翠は庭園を「恵沢園」と命名し、大正7(1918)年の完工時に「慶沢園」と改めました。
大正14(1925)年、住友家は神戸住吉に本邸を移し、翌昭和元年(1926)に敷地12,940坪を大阪市へ寄贈しました。
昭和9(1934)年に一般公開されました。


四天王寺は今から1400年以前、推古天皇元(593)年に聖徳太子が建立された日本仏法最初の官寺です。太子が四天王寺を創建したときには、敬田、悲田、施薬、療病の四箇院を構え、以って鎮護国家の道場として、また済世利民の実践所として物心両面の救済により、平和国家の樹立と文化国家の荘厳を果たされ、その意味で当寺が政治外交上の中枢となったのみならず、美術工芸産業あらゆる方面に於いて日本文化の発生地となりました。
度重なる戦災、天災などで焼失と再建を繰り返してきました。昭和20(1945)年3月14日の空襲により七堂伽藍の大半は焼失しましたが、元和年間に再建された西門石鳥居、本坊通用門、六時堂、五智光院、元三大師堂、湯屋方丈などの建物は焼失を免れました。中心伽藍は昭和38(1963)年に飛鳥時代創建当時の様式で復元されました。ただし鉄筋コンクリート造りです。






四天王寺の本坊庭園「極楽浄土の庭」は、極楽浄土を再現した庭園です。中国の僧侶である善導が説いた「二河白道」の喩話に基づいて造られています。自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」と「火の河」があり、水の河は人生の順境にあるときの貪(むさぼる)のことで、火の河は人生の逆境にあるときの瞋(じん、怒り恨むこと)です。この二つの河に挟まれた白道が極楽浄土への道と喩えているそうです。
そして2つの池「瑠璃光の池」と「極楽の池」が配されています。
この広さ1万m²の池泉廻遊式庭園の造園は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に、火災による焼失から復興されたもので、このときにの喩話に基づいた作庭がなされました。
「極楽浄土の庭」では湯屋方丈とその前庭である座視式庭園「補陀落の庭」、ルネッサンス様式の西洋建築「八角亭」、五智光院なども見ることができます。












Posted at 2007/12/18 22:01:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2007年12月15日 イイね!

大阪市立美術館 特別展「BIOMBO/屏風 日本の美」

大阪市立美術館 特別展「BIOMBO/屏風 日本の美」この日は大阪市立美術館の特別展「BIOMBO/屏風 日本の美」が12月16日が最終日ということであわてて行くことにしました。
最終日前日と言うことで混雑を心配していましたが、それほどでもなく大きな屏風を少し離れた位置から見ることもでき、楽しめました。
「関ヶ原合戦図屏風」「祇園祭礼図屏風」「泰西王侯騎馬図屛風」などが特に印象に残りました。
今年は狩野永徳展も楽しめましたが、ここは落ち着いてみることができて良かったです。
Posted at 2007/12/16 23:12:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2007年05月12日 イイね!

堺の町を散歩

この日は所用で大阪府の堺市に用事があったので、ついでに古い町の面影を求めて散歩してみました。
ビルの谷間に千利休屋敷跡がありました。 千利休は堺の豪商魚屋の長男として生まれ、幼名は与四郎といいました。後に、千宋易もしくは抛筌斎といい、後に織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇より利休居士号を賜りました。
茶は初め北向道陳に茶湯を学び、更に道陳の師武野紹鴎に師事しました。武野紹鴎とともに茶の湯の改革に取り組み、遂に「わび茶」を大成させました。
天正15(1587)年10月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席をもうけるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこらし、わび・さびの境地をきりひらきました。
その後天正19(1591)年2月秀吉の怒りをかい、京都から追放され堺にて謹慎していましたが、京都に呼び戻され同月28日尼子三郎左衛門らを検使として切腹させられました。
利休が茶湯に常用していたといわれる椿井が残っています。また南宗寺には実相庵と称する二畳台目の茶席(塩穴寺より明治9(1876)年南宗寺に移築、第二次大戦で焼失し、昭和35(1960)年7月復興)があります。


堺都市周濠遺跡は南宗寺近くの土居川に案内看板がありました。「町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、また他の側は深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり」と宣教師ガスパル・ビレラが伝えた環濠は自治都市堺の象徴でした。
しかし、豊臣秀吉は天正11(1583)年大阪城を築造し、城下町を発展させるためこの城の近くに環濠を備えた武装都市を置くことは危険ということで、天正14(1586)年この濠の埋没を命じ、自ら出馬してその工事を催促し、遂にその面影もなくなりました。
元和元(1615)年大阪夏の陣に際して、堺の市街は全焼しました。徳川幕府は早速堺の復興に尽力しました。この時、再び環濠もつくられました。
しかしこの元和の町割は、中世の市街よりも東・北・南ともに相当拡張されたようで、堺周辺の村々から約19万坪(約63万平方米)が市内に入れられてました。中世環濠の跡は定かでなく、近世の環濠も戦後は殆ど埋められ、高速道路となりました。僅かに南部にその面影を残しているのみです。


南宗寺は弘治3(1557)年三好長慶が父三好元長の菩提を弔うために、普通国師(大林宗套)を招いて開山とした臨済宗大徳寺派の寺で、宿院の南方に寺地を構えていました。
南宗寺は慶長20(1615)年大坂夏の陣によって堺市街とともに全焼しましたが、当時の住職であった沢庵和尚によって元和3(1617)年に現在地に再建されました。
承応2(1653)年建立の仏殿、正保4(1647)年建立の山門(甘露門)、江戸時代初期建立の唐門は国・重要文化財に指定されています。仏殿の本尊は釈迦牟尼仏、左右に文殊・普賢両菩薩をまつっています。
また、境内には、茶道を大成し名人と呼ばれた武野紹鴎と千利休の供養塔、堺の豪商津田宗達・宗及父子の墓碑、堺伝授でよく知られている牡丹花肖柏の墓碑、さらに国の名勝である江戸時代の枯山水の庭園、第二次大戦で焼失したもものの昭和35(1960)年7月に再建された利休好みのニ畳台目の茶室「実相庵」、利休遺愛の向泉寺伝来袈裟形の手水鉢、紹鴎遺愛の六地蔵灯籠などがあります。
忘れてはいけないのが「徳川家康の墓」。南宗寺は元和9(1623)年に徳川秀忠、家光が参拝されたことや、境内に東照宮が祀られていることにより、家康が後藤又兵衛の槍に刺され、南宗寺開山堂下に埋葬されていたという伝説が残りました。境内の東照宮は戦災で焼失し、跡地に戦後「徳川家康の墓」が建てられました。


今井屋敷跡は今井宗薫の屋敷跡です。今井宗薫は、堺の豪商で茶人の今井宗久の長男として生まれ、茶の湯を父に学び、豊臣秀吉の近侍となりました。
秀吉の死後は徳川家康の寵をうけ、家康の六男松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫との婚約を整えました。また関ケ原の戦いでも徳川方に尽力したため、河内・和泉二国の代官となりました。
堺市五ヶ荘花田に屋敷があったが、大坂冬の陣に際して関東に通じる嫌疑を受け、家財を没収され、大坂城に監禁されました。
のち、逃れて城中の様子を家康に伝え、徳川軍に従いました。この地にあった宗薫の屋敷は、織田有楽斎から譲り受けたもので、当時の尺度で東西29間(約55m)・南北32間(約61m)と考えられています。


与謝野晶子生家跡は紀州街道沿いにありました。歌人・与謝野晶子は明治11(1878)年12月7日、当時の堺県甲斐町46番屋敷で菓子商駿河屋を営む鳳宗七の三女として生まれました。本名は志よう(しよう)といいます。幼い頃から源氏物語などの古典に親しみ、17歳頃から歌を詠み始め、明治34(1901)年与謝野鉄幹のもとへ上京するまで、青春時代を堺のまちで過ごしました。
石碑、説明看板の隣にある歌碑は、堺市内で最初の晶子の歌碑として、没後20年にあたる昭和36(1961)年に建立されました。
「海こひし潮の遠鳴りかぞへつゝ
  少女(おとめ)となりし 父母(ちちはは)の家」
晶子26歳、明治37(1904)年の雑誌「明星」に初出した歌で、巻物「春風抄」(堺市博物館所蔵)の中に記されている自筆を刻字しています。
中央にあるアマリリスと百合の花は晶子が好んだ花といわれ、碑全体の形は晶子の旧姓「鳳」より「鳳凰」が大きく羽を広げている姿を象徴してるそうです。


ザビエル公園はフランシスコ・ザビエルの来堺を記念する公園です。フランシスコ・ザビエルは、天文18(1549)年に来日し、日本各地で布教を行いました。堺は、天文19(1550)年に訪れ、豪商日比屋了慶が厚くもてなしました。
昭和24(1949)年に日比屋了慶の屋敷跡を来航400年を記念して「ザビエル公園」と命名しました。園内には彼の功績を顕彰する記念碑が建てられています。(写真上)
また、園内には「堺鉄砲之碑」も建立されています。
堺は中世末期に種子島から堺へ伝来した火縄銃を、古代から金属産業の伝統を持つこの地で量産化され、我が国最大の生産地となりました。記念碑は、堺火縄銃保存会が平成12(2000)年10月に創立20周年にあたり郷土の歴史の栄華を称えて建立しました。(写真下)


堺奉行所は江戸幕府の遠国奉行の一つです。奉行所の位置は現在の車之町東・櫛屋町東両町の2丁から3丁にまたがる一帯に、江戸時代には奉行屋敷、与力同心屋敷など武家屋敷が立ち並んでいました。
安土桃山時代から江戸時代のはじめにあった「堺政所」を貞享年間(1684年~1687年)頃に「堺奉行所」と改称されました。与力10騎、同心50人とともに堺の支配にあたりました。         
元禄9(1696)年に堺奉行所は廃止され大坂町奉行所が堺を管轄しましたが、元禄15(1702)年に再興され、慶応3(1867)年まで堺の支配を行いました。明治25(1892)年には、奉行所跡に堺市庁舎が建設され昭和19(1944)年に南瓦町へ移転するまでの52年間は、ここに庁舎が置かれていました。
殿馬場中学校西側に案内板がありました。殿馬場中学校西側の道路を挟んで西側には、石碑も建っていました。


妙国寺は、当時摂津・河内・和泉を支配していた三好実休(義賢)と開山日こう(こうは王へんに光)上人の実父である堺の豪商油屋常言・実兄常祐によって永禄5(1562)年に創建された日蓮宗の本山です。朝廷より勅願寺と定められ、豊臣・徳川氏より朱印地を給せられました。
境内には国の天然記金物に指定(大正13年12月9日指定)されている大蘇鉄があります。織田信長が蘇鉄を安土城へ移植しましたが、夜毎堺へ帰りたいと泣き、さすがの信長も畏れて堺へ返したと言う伝説が残されています。
妙国寺は堺事件の舞台にもなりました。慶応4(1868)年、当時は外国に対して開港地となっていなかったにもかかわらず、堺港に上陸してきたフランス兵と堺の警備にあたっていた土佐藩士との間で争いがおこり、フランス兵多数が死傷しました。この事件は国際問題となり、責任を追及された土佐藩士十一名が妙国寺の境内で切腹しました。この事件を題材に、森鴎外の作品をはじめとして多くの小説に描かれています。


宝珠院は、栄亮大僧正の開基で真言宗高野派叡福寺に属し、本尊に虚空像菩薩をまつるお寺です。明治35(1902)年7月に北隣の金光寺を併合しました。
境内には、明治維新に起きた堺事件で割腹した土佐11烈士のお墓があります。
烈士の墓は、昭和13(1938)年8月8日国の史跡に指定されました。
現在、宝珠院は宝珠幼稚園を経営されており、お墓は幼稚園の中にあります。訪れたのが土曜日ということで門は閉まっていました。入口に石碑がありました。


西本願寺堺別院は、足利義氏の第四子祐氏が、本願寺覚如(親鸞の曾孫)に帰依して、ー寺を創建したのがその初めと伝えられています。
後に第五世樫木屋道顕が、文明2(1470)年堂宇を再建し蓬如を招き落慶の導師としました。
また 文明8(1476)年には境内に信証院というー宇を営み、蓮如がここに居住しました。よって、現在も信証院と呼んでいます。また、北の御坊とも呼ばれています。
明治4(1871)年より明治14(1881)年まで、堺県庁がここにおかれており、明治10(1877)年には明治天皇も、堺県へおこしになられた時、ここへも立ちよられました。
現在の本堂は文政8(1825)年に再建されたもので、堺市に現存する木造建築としては最大のものです。


山口家住宅は堺の豪商屋敷です。
堺の町は元和元(1615)年大坂夏の陣で焼け野原になりましたが、山口家住宅の建造年代はその直後と考えられています。
元禄2(1689)年の堺大絵図には越前屋久右衛門家として記載されています。
主屋は南面する切妻造妻入の建物で桁3.8m梁間9.4mの一部二階建てとなっていますが、安永4(1775)年南側に入口・式台・座敷を増築し、さらに江戸中期以降に北側に座敷が設けられ今日に至っています。
山口家住宅は堺の豪商住宅の雰囲気を今日に伝えるのみならず、全国的にも江戸前期の町屋側として極めて貴重な民家で昭和41年(1966)6月11日国の重要文化財に指定されました。
残念ながら非公開ですが、昔の堺の雰囲気を伝える建造物で貴重なものだと思いました。


旧鉄砲鍛治屋敷も昔の面影を残す旧家です。旧鉄砲鍛治屋敷の辺りは、第2次世界大戦の戦災を免れたため、江戸後期を偲ばせる古い街並みが残されている。井上邸は堺にただひとつの現存する当時の鉄砲鍛冶屋敷です。江戸初期から末期にわたる鉄砲鍛冶の生活の実態を伺う上で貴重な建物で、堺市指定有形文化財に指定されています。


小西行長屋敷跡は石碑が残るのみです。小西行長は堺の薬商小西隆佐の息子として生まれました。幼名は弥九郎といいます。キリスト教徒でアウグスティヌスという洗礼名を持っていました。堺に孤児院や病院をつくりました。
秀吉から肥後半国(24万石)を与えられ、宇土城を築城しました。関ヶ原の戦いでは、西軍の主力の一つとして戦いましたが敗退。行長は伊吹山に逃れましたが、東軍の軍勢に捕まり、石田三成、安国寺恵瓊とともに斬首されました。行長は主の名を唱え、手にキリストの小画像を持ちながら刑についたといわれています。


堺の町の散歩はこれで終了ですが、すこし車で移動して、綾井城に行ってみました。織田信長にも仕えた沼間氏の居城です。沼間氏は和泉の国人衆として勢力があったようです。
城跡は専称寺となっています。門前には堀があり、かつて城跡の雰囲気があります。
堀沿いには「沼間日向守綾井城趾」の碑が立てられています。


堺は政令指定都市になっただけあって、道路も拡幅され、昔ながらの町並みを残しているところは少ないですが、歩いてみるとところどころ木造建築が残っていて、昔の堺の姿を偲ぶことができます。
堺には、仁徳天皇陵や、堺市博物館など他にも見たいスポットがありましたが、時間切れになったのが残念です。そんなに遠い場所ではないのでまた再訪しようと思います。
Posted at 2007/05/15 21:45:21 | コメント(3) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2006年12月18日 イイね!

お土産の楽しみ方

お土産の楽しみ方この土日で兵庫県の香住(香美町)の方に「かに」を食べに行っていました。
かにももちろんおいしかったのですが、「香住鶴」という地酒がお気に入りなので、お土産に買って帰りました。
おすすめはしぼりたて生酒という季節限定のお酒。アルコール度数は20度近くあり、すこしきつめですが、非常においしいお酒です。
さて、話題は変わりますが、「お土産」という習慣はいつから、どこから始まったのでしょう?

辞書によると土産の意味は
(1)旅行先や外出先から家などへ持って帰るその土地の産物。つと。

(2)人を訪問する際持って行く贈り物。手みやげ。

とあります。

また、昔は餞別とセットで考えられていたようです。遠出の旅行は大変だった昔はなむけに餞別を贈り、そのお返しという感じでしょうか?
ただ、友人の中には「土産をよろしく!」とか、「土産期待しています」とか旅先にメールを送ってくる人がいます。本来土産は気持ちのもので、人に要求するものではないような気がしますが・・・そういう人に限ってあまりお土産を自分から買ってくることはないようです。
ただ、地元でしか手に入れることができないものを吟味していろいろ買うのも旅行の楽しみの一つですし、地元に戻ってから土産を知人やお世話になっている人に配り、また旅の話に花を咲かせるのも楽しいものです。

(写真はかに旅行の帰りに寄った余部鉄橋です。)
Posted at 2006/12/19 00:13:54 | コメント(6) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記

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