立川諏訪神社は、信州諏訪大社を勧請して弘仁2(811)年に創建された柴崎の鎮守です。
明治40(1907)年11月27日八幡神社を合祀し、次いで明治43(1910)年2月12日、浅間神社を合祀しました。
寛文10(1670)年に建てられた本殿は、立川市内で最も古い木造建造物として市の有形文化財になっていましたが、平成6(1994)年の火災で全焼し、現在の社殿は、平成14(2002)年に再建されたものです。
普済寺は、山号は玄武山、臨済宗建長寺派の寺院です。
文和2(1353)年、鎌倉建長寺の高僧であった物外可什禅師が開山となり、立川氏の菩提寺として創建されました。
室町時代の応永の末頃から永享年間に至ると、打ち続く戦乱の中で立川氏は没落したため、普済寺も衰退しました。
その後、約100年間の歴史は不明ですが、永正年間(1504~21)に入ると、立川一帯は高幡(日野市)城主平重能の勢力下となり、普済寺も再建され旧立川城の一隅からその全域へと拡大、約一万坪の境内には七堂伽藍をはじめ、六院の塔頭が甍を並べるに至ったといわれています。
平氏はその後間もなく衰退し、天文年間末(1550年代)には、後北条氏の幕下となった立川氏が勢力を挽回し、再び普済寺の大檀那になりました。
天正18(1590)年、立川氏は主家北条氏とともに豊臣軍に敗れ、普済寺も兵火に遭いました。
翌年、徳川家康より御朱印20石の地が寄進され、命脈は保たれましたが、衰退しました。
堂宇の再建は数十年後の万治年間(1660年頃)に至って始められ、そして元禄4(1691)年までに方丈・仏殿・庫裡・鐘楼・塔頭(心源庵・有慶庵)が復興されました。
なお、仏殿と有慶庵は明治初期に、老朽化したため取り壊され、また、庫裡・本堂はそれぞれ嘉永6(1851)年、昭和15(1940)年に再建されました。
境内には、国宝・六面石幢があります。石幢は高さ166cm、幅42cmの秩父青石と呼ばれる緑泥片岩の板石6枚を柱状に組み合わせたもので2面に仁王像、四面に四天王像が刻まれています。立川市歴史民俗資料館にレプリカが展示されています。
普済寺に土塁が残る
立川氏館です。
立川氏(立河氏)は武蔵七党の一つである西党日奉氏の氏族で、地誌類の記述や、多摩川を望む眺望・防御に適した立地、現在も山門脇に残る土塁、普済寺北側の通称首塚から発見された板碑80余基などから、この普済寺の地が立川宮内少輔の居館とされます。この鎌倉時代の居館に南北朝時代に屋敷内に寺(普済寺の前身)を建立し、戦国時代末に立川氏が滅亡した後に現在の普済寺となったとされてきました。
平成8(1996)年以降の発掘調査等により、15世紀前半から16世紀前半期にかけての屋敷に伴う建物跡、井戸跡、門跡、柵列跡や東側土塁脇から区画を示すV字溝などの遺構が発見されています。居館は、切り立つ段丘崖と直行する東西二本の土塁や地割りなどから寺域を囲む長方形区画の居館が想定されていますが、地中レーダー探査による想定範囲を超えた区画溝の痕跡もあり、居館の範囲や居館と寺院の変遷過程の再検討が必要です。
(現地説明板などより)
太平洋戦争の空襲で被害を受けた防空壕の跡にある
山中坂地蔵堂です。
立川への空襲で被害を受けた防空壕の跡地に、地蔵堂が備えられています。山中坂は富士見町5丁目から7丁目に降りるところにある坂で、江戸時代からある古い道です。
太平洋戦争の末期、昭和20(1945)年2月16日から8月2日までの間、少なくとも13回の爆撃を受け、330余名が犠牲となりました。
山中坂にあった横穴式防空壕は、4月4日未明、B29が投下した爆弾が直撃し、中に避難していた子どもたち32名をふくむ42名が死亡しました。有志の拠出金と土地所有者の株式会社伊藤商店の協力により「山中坂悲歌」という山中坂の悲劇を叙情的に記した歌碑が建っています。
(現地碑文などより)
立川市歴史民俗資料館は、立川市の歴史や文化、自然風土に関する市民の知識と理解を深め、市民文化の向上に寄与するため、昭和60(1985)年12月1日に開館しました。
そして、平成3(1991)年7月23日には新館が開館し、本館で展示が行われ、新館では体験学習会などが随時実施されています。
原始から中世の立川は、縄文時代の暮らし・六面石幢・普済寺板碑・立川氏文書を紹介し、近世から近現代の立川、そして立川飛行場のあゆみや養蚕や漁法の紹介、そして立川の自然の紹介を行っています。
また、資料館がある土地は、この地に約400年にわたって暮らしてきた井上家から寄贈されたもので、井上家が代々使っていた土蔵も敷地内にあります。
ここに築かれた小高い塚は
富士塚とよばれ、頂上に浅間神社がまつられています。
江戸時代、富士山の霊験にあやかって現世利益や病気平癒を願う「富士講」が盛んで、成人男子による富士登山が行なわれました。
女性や子どもたちのように、実際の富士山に登れない人々は、富士に似せた塚を築いてこれに登ったといいます。
しかし、立川(旧柴崎村)に富士講の話は残っていません。この塚の頂上から、富士がよくみえることから、このようによばれたという人もあります。いずれにしても、江戸時代から地名として現われる、由緒ある場所です。
(現地説明板より)
三田氏の館など城主について諸説がある
三田氏館です。多摩川に向かって張り出した青柳段丘の台地上縁辺にある「谷保の城山」は、中世の城館跡であったという伝承があります。
この地は、従来から「三田城」あるいは「三田氏館」と呼ばれ、中世三田氏との関連が推測されてきましたが、鎌倉御家人であった津戸三郎為守が城主であったという史料も存在します。
「新編武蔵風土記稿」では鎌倉時代初期にこの地を治めていた津戸三郎為守の居館とし、また「江戸名所図会」では菅原道武朝臣の居館と伝えています。その他、大正13(1924)年に編纂された谷保郷土史では三田県主貞盛が館主だったとしています。諸説がある故に、三田氏館は別名、谷保城、津戸三郎館、三田城とも呼ばれています。
現在、土塁や堀の跡を確認することができますが、発掘調査などが行われておらず、城館の性格や城主などその詳細は不明です。
(現地説明板より)
Posted at 2016/01/19 00:00:05 | |
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