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ピズモのブログ一覧

2015年12月06日 イイね!

向島百花園・根津神社・巣鴨

向島百花園は、江戸時代の文化2(1805)年頃、佐原鞠塢という粋人が、向島の寺島村で元旗本、多賀氏の屋敷跡約3000坪を購入し、当時鞠塢と親交の深かった一流の文人墨客の協力を得、梅を多く植えたことから、「新梅屋敷」と創設したのが始まりとされています。
往時は、江戸中に百花園の名が知れ渡り、多くの庶民の行楽地として賑わいました。なかでも、弘化2(1845)年には、12代将軍家慶の梅見の御成りがあり、明治になると皇室関係をはじめ、多くの著名人が来遊した記録が残っています。
その後、時代の返還と共に、小倉家に所有権が移り昭和8(1933)年2月、国の「名勝」に指定され、時至って小倉氏遺志(名勝永久保存のため)により、昭和13(1938)年10月に東京市に寄付されました。百花園を受領した東京市は、衰退著しかった庭園を復旧し、昭和14(1939)年7月8日制限公開にしています。
この後、戦災で石碑以外は全て焼失しましたが、多くの方々の努力のもと昭和24(1949)年に再び復元。その後、荒廃を余儀なくされましが初代鞠塢の「群芳暦」を基本に植栽し、昭和53(1978)年10月文化財保護法により「名勝及史跡」の指定を受け、今日に至っています。
 この庭園の特徴は、芭蕉の句碑をはじめ二十数基の石碑と園全体の雰囲気が、江戸文人趣味豊かに作庭され、大名庭園とは趣を異にした草庭にあります。また、初代鞠塢の頃から「詩経」や「万葉集」に因む歴史的草花を植栽し、春や秋の七草をはじめ、四季それぞれの植物が植え込まれ、野趣豊かな庭園となっています。
江戸の文人墨客をはじめ庶民に愛され、今日まで受け継がれてきた、貴重な財産がこの「向島百花園」と言えます。
(現地説明板などより)
向島百花園
向島百花園 posted by (C)pismo

向島百花園 (1)
向島百花園 (1) posted by (C)pismo

向島百花園 (2)
向島百花園 (2) posted by (C)pismo

向島百花園 (3)
向島百花園 (3) posted by (C)pismo

向島百花園 (4)
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向島百花園 (5)
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向島百花園 (6)
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向島百花園 (7)
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向島百花園 (8)
向島百花園 (8) posted by (C)pismo

向島百花園 (9)
向島百花園 (9) posted by (C)pismo

根津神社の主祭神は須佐之男命・大山咋命・誉田別命で、相殿として大国主命・菅原道真公が祀られています。
日本武尊が千駄木の地に創建したと伝えられています。
現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重、のちに6代将軍となる徳川家宣の誕生の地でした。5代将軍・徳川綱吉は家宣の産土神として宝永3(1706)年に千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し、権現造の社殿を造営しました。
社殿は拝殿・本殿と両社を接続する幣殿(相の間)からなり、しかも一つの屋根でまとめ、権現造の完成された姿をみせています。拝殿前に唐門を配し、その左右から透塀で社殿を囲んでいます。唐門前方の楼門を含め、権現造神社建築様式の旧規を示すものとしてすべて国指定重要文化財です。境内には「家宣の胞衣塚」(区指定民俗文化財)、「塞の大神碑」などがあります。
(現地説明板などより)
根津神社
根津神社 posted by (C)pismo

根津神社 (1)
根津神社 (1) posted by (C)pismo

根津神社 (2)
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根津神社 (3)
根津神社 (3) posted by (C)pismo

根津神社 (4)
根津神社 (4) posted by (C)pismo

高岩寺は、山号は萬頂山、「とげぬき地蔵尊」の名で親しまれる曹洞宗の寺院です。
慶長元年(1596年)に江戸湯島に開かれ約60年後、下谷屏風坂に移り巣鴨には明治24(1891)年に移転してきました。
昭和20(1945)年、東京大空襲で建物を全焼し、昭和32(1957)年に本堂が再建されました。
本尊の地蔵菩薩像(延命地蔵)は秘仏につき非公開で、本尊の姿を刷った御影(おみかげ、縦4センチメートル、横1.5センチメートルの和紙に地蔵菩薩立像が描かれている)に祈願・またはその札を水などと共に飲むなどしても、病気平癒に効験があるとされ、「巣鴨のお地蔵様」として信仰されています。
江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していたため、又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したといわれています。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされています。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来しています。
洗い観音は、境内に立つ石造の聖観音像で身の治癒したい部分に相応する観音像の部分を洗う、または濡れタオルで拭くと利益があるといわれています。かつては像の表面をタオルでなくたわしで擦っていたため、摩耗が激しく、平成4(1992)年、2代目の像が奉納されました。
寺の門前は「巣鴨地蔵通り商店街」として多くの高齢者で賑わい「おばあちゃんの原宿」と呼ばれています。
巣鴨とげぬき地蔵(高岩寺)
巣鴨とげぬき地蔵(高岩寺) posted by (C)pismo

巣鴨とげぬき地蔵(高岩寺) (1)
巣鴨とげぬき地蔵(高岩寺) (1) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/20 23:38:05 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年12月05日 イイね!

夕方から夜の横浜散歩

横浜ランドマークタワーは、横浜みなとみらい21の中核を担っている地上70階、高さ296mの超高層ビルです。
超高層ビルとしては平成26(2014)年に開業した大阪市のあべのハルカスに次いで日本で2番目に高く、構造物としては東京スカイツリー (634m)、東京タワー (332.6m)、あべのハルカス (300.0m)、明石海峡大橋 (298.3m) に次ぐ5番目の高さです。
69階には展望台フロア「スカイガーデン」を設置、また低層部にはショッピングモール「ランドマークプラザ」が併設されています。69階の展望フロア「スカイガーデン」からは横浜の夜景や、天気が良ければ富士山も見ることができる素晴らしい眺めです。
ランドマークタワー
ランドマークタワー posted by (C)pismo

ランドマークタワー (1)
ランドマークタワー (1) posted by (C)pismo

ランドマークタワー (2)
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ランドマークタワー (3)
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ランドマークタワー (4)
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ランドマークタワー (5)
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ランドマークタワー (6)
ランドマークタワー (6) posted by (C)pismo

ランドマークタワー (7)
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横浜みなとみらい21
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日本丸メモリアルパーク
日本丸メモリアルパーク posted by (C)pismo

日本丸メモリアルパーク (1)
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日本丸メモリアルパーク (2)
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横浜みなとみらい21 (1)
横浜みなとみらい21 (1) posted by (C)pismo

横浜みなとみらい21 (2)
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ナビオス横浜
ナビオス横浜 posted by (C)pismo


近代化産業遺産で「あぶない刑事」などのロケ地になった横浜赤レンガ倉庫です。開港当初の横浜には船舶が着くことのできる岸壁がなく、本格的な波止場を建設することが国家的な重要課題となっていました。明治政府による第一期築港工事として、明治29(1896)年に鉄さん橋(大さん橋の前身)が完成し、外国貿易の急速な発展に伴う取り扱い貨物の急増に対応するため、第二期工事として明治32(1899)年、東洋初の接岸式ふ頭として新港埠頭の建設が始まりました。
その一環で保税倉庫として現在の横浜赤レンガ倉庫(当時は横浜税関新港埠頭倉庫)がつくられました。新港ふ頭は、上屋、倉庫、クレーン、鉄道等を備えた日本で最初の近代的な港湾施設です。
明治40(1907)年、2号倉庫が着工され、明治44(1911)年に竣工、設計者は大蔵省臨時建築部を率いていた妻木頼黄 でした。
1号倉庫は明治41(1908)年に着工され、大正2(1913)年に竣工しました。完成した赤レンガ倉庫は日本最初の荷物用エレベーターや消火水栓(スプリンクラー)、防火扉などを備えた日本が世界に誇る最新鋭の倉庫でした。
耐震のために定聯鉄構法というレンガの中に鉄材を埋め込む当時最新の手法が採られました。
大正12(1923)年の関東大震災で、横浜港の施設も壊滅的な被害を受け、赤レンガ倉庫も、2号倉庫は倒壊を免れましたが、1号倉庫は中央部分が崩れ落ちるなど大きな被害を受けました。
昭和5(1930)年、被災した1号倉庫は、ほぼ半分の大きさに縮小され、内側に鉄筋コンクリートの補強壁が取り付けられ、2号倉庫も耐震性も高めるためクレーンが撤去されるなど改修工事が行われました。
昭和20(1945)年、GHQに接収され、アメリカ軍の港湾司令部として使用されますが、昭和31(1956)年、接収が終了し1号倉庫は税関倉庫、2号倉庫は公共の上屋となりました
平成元(1989)年、倉庫としての用途は廃止され、赤レンガ倉庫は80年の歴史に一旦幕を下ろしました。
平成4(1992)年、横浜市は、国との交渉の末、赤レンガ倉庫の土地と建物を取得し、「保存・活用検討委員会」を設置、保存活用に向け大きく前進しました。
そして平成6(1994)年から平成11(1999)年にかけて、根の改修や窓やひさしの復元、落書きの除去、鉄骨のよる構造補強など改修工事が行われ、1号倉庫は主に文化的利用、2号倉庫は主に商業的利用に決まり平成12年には活用のため内部改修工事が行われました。
平成14(2002)年4月12日、1号館はホールや展示スペースを備えた文化施設、2号館はレストランやショップなどが揃った商業施設として生まれ変わりました。
平成19(2007)年、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されました。平成22(2010)年、日本初の「ユネスコ文化遺産保全のためのアジア太平洋遺産賞」の優秀賞を受賞しています。
「あぶない刑事」「僕の生きる道」や「喰いタン」などのドラマのロケ地としても知られています。
横浜赤レンガ倉庫
横浜赤レンガ倉庫 posted by (C)pismo

横浜赤レンガ倉庫 (1)
横浜赤レンガ倉庫 (1) posted by (C)pismo

横浜赤レンガ倉庫 (2)
横浜赤レンガ倉庫 (2) posted by (C)pismo

山下臨港線プロムナード (1)
山下臨港線プロムナード (1) posted by (C)pismo

山下臨港線プロムナード (2)
山下臨港線プロムナード (2) posted by (C)pismo

山下臨港線プロムナード
山下臨港線プロムナード posted by (C)pismo

横浜中華街にある関帝廟です。
三国志の劉備、関羽、張飛の三義兄弟は有名ですが、横浜中華街では関羽が祀られています。華僑の間での関羽信仰は根強いものがあるそうです。
安政5(1859)年に横浜港が開港後、多くの中国人が商人や職人として横浜を訪れ、現在の山下町にある外国人居留地で暮らすようになり、文久2(1862)年、一人の中国人が関羽の木像を抱いて、現在の地にささやかな祠を開いたといわれます。これが横浜の関帝廟の始まりです。
関羽の祠は日々の暮らしの安寧や商売繁盛を願う華僑の心の拠りどころとなっていき、明治4(1871)年、華僑たちの募金によって、本格的な関帝廟が建立されました。
明治19(1886)年、関帝廟の敷地の拡張が行われ、明治24(1891)年には中華会館と関帝廟の大改築が行われました。
大正12(1923)年の関東大震災で関帝廟は倒壊、大正14(1925)年に二代目の関帝廟が中華会館の裏手に再建されました。
昭和20(1945)年5月29日、横浜大空襲で関帝廟は焼失、昭和22(1947)年に三代目関帝廟が再建されました。
しかし、昭和61(1986)年に火災で焼失し、現在の関帝廟は平成2(1990)年8月14日に再建された四代目の関帝廟です。
関帝廟
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関帝廟 (1)
関帝廟 (1) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/20 20:00:55 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年12月05日 イイね!

横須賀の軍港史跡巡り

三笠公園は日本の都市公園100選に選ばれている公園です。「水と光と音」をテーマとした公園で、音楽に合わせて舞う噴水や、 ダイナミックな壁泉、高さ18メートルのモニュメントなどが多数点在し、芸術・歴史を肌で感じることができます。
園内には東郷平八郎連合艦隊司令官の銅像が立っており、大正15(1926)年、公園内に記念鑑三笠が据えられました。
記念艦三笠
記念艦三笠 posted by (C)pismo

記念艦三笠 (1)
記念艦三笠 (1) posted by (C)pismo

記念艦三笠 (2)
記念艦三笠 (2) posted by (C)pismo

日露戦争中の連合艦隊の旗艦三笠を保存している記念館三笠です。「三笠」は、東郷平八郎大将の指揮する日露戦争中の連合艦隊の旗艦でした。
日清戦争に勝利した我が国は、下関条約により賠償として清国から遼東半島を割譲されましたが、強力な軍事力を極東に展開している露独仏三国の強い干渉を受け、遼東半島を清国に返還せざるを得ませんでした。
 欧米列強の軍事脅威から主権と領土を守るためには軍事力の強化が急務と痛感した時の政府は、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とする「六六艦隊整備計画」を推進しました。
 「三笠」は、英国ヴィッカース造船所に発注した6隻目の戦艦であり、明治35(1902)年3月に竣工、直ちに横須賀に回航され、日露関係が悪化し戦時体制に移行した明治36(1903)年12月、連合艦隊に編入され、その旗艦になりました。明治37(1904)年10月、ロジェストウエンスキー中将を指揮官とする第2太平洋艦隊を、次いで翌年2月15日、第3太平洋艦隊をバルト海のリバウ海軍基地から極東に派遣しました。第2、第3太平洋艦隊の総称をバルチック艦隊といいます。
東郷平八郎連合艦隊司令長官は、バルチック艦隊は必ず対馬海峡を通過してウラジオストクに向かうと判断し、朝鮮半島南端の鎮海湾に連合艦隊を集結させ、猛訓練を続けながら待ち構えました。明治38(1905)年5月27日早朝、仮装巡洋艦「信濃丸」からの「敵艦隊見ゆ」との警報を受信した連合艦隊は直ちに出撃、対馬沖でバルチック艦隊を迎撃し、5月27、28の両日にわたって激しい戦闘を繰り広げ、ロシア艦隊を撃破、降伏させました。
ワシントン軍縮条約により、日・米・英の艦艇保有隻数を制限することになり、大正12(1923)年9月、艦齢の古い「三笠」を軍艦籍から除き廃棄することを決定しましたが、日露戦争の勝利に貢献した戦艦「三笠」を、独立を守った誇りの象徴として永久に残すべきとの声が内外で高まり、記念艦としての保存が閣議決定され、国際軍事委員会においても承認されました。
当初、東京芝浦に廻航する予定でしたが、横須賀港岸壁に係留中、 関東大震災で艦底に破孔が生じ浸水したため、急遽横須賀に置くことに変更され、大正14(1925)年6月、保存工事を終えた「三笠」は、満潮時を利用して曳船により岩場を掘削した現在の場所に引き入れられ、艦首を皇居に向けて固定されました。
そして、大正15(1926)年11月12日、摂政宮殿下(後の昭和天皇)御臨席の下、盛大な保存記念式典が挙行されました。
しかし、昭和20(1945)年8月の敗戦後、ソ連代表は記念艦「三笠」を解体するよう強硬に要求しました。米海軍司令部はソ連の解体要求と日本側の保存要請を考慮し、妥協策として「三笠」の艦橋、大砲、煙突、マストなど上甲板構造物を撤去することを条件として、横須賀市に「三笠」の保存・使用を許可しました。ところが、横須賀市から「三笠」及び周辺地の使用を委託された民間企業は、上甲板構造物を撤去した跡に、水族館、ダンスホールなどを設け、「三笠」を遊興施設に変えただけでなく、「三笠」の近くに保管されていた大砲、マストなどを売却してしまいました。
昭和30(1955)年、三笠建造時の乗組員と親交が深かった英国の貿易商ルービン氏は、三笠の惨状を見て慨嘆し、その胸中をジャパンタイムスに投稿し、大きな反響を呼びました。
政財界及び旧海軍の枢要な人々が立ち上がり、昭和33(1958)年11月、三笠保存会が再興され、会長に渋沢敬三氏が、副会長には伊藤正徳、石坂泰三、澤本頼雄の三氏が、理事長に岡崎嘉平太氏がそれぞれ選出され、また、顧問には吉田茂、芦田均、小泉信三、安岡正篤、鈴木孝雄氏等が就任し、全国的な規模で「三笠」復元運動が始まりました。
そして 内外の募金1億6,000万円(米海軍の2,400万円を含む)、国の予算9,800万円とにより復元工事が実施され、観覧態勢も整い、記念艦「三笠」は往時の姿を取り戻しました。
ポーツマス(英国)に保存されている「ビクトリー」、ボストン(米国)に保存されている 「コンスティチューション」と並ぶ、世界三大記念艦として三笠公園に保存してあり、船内では日露戦争当時の物品を展示する記念館となっています。
記念艦三笠 (3)
記念艦三笠 (3) posted by (C)pismo

記念艦三笠 (4)
記念艦三笠 (4) posted by (C)pismo

記念艦三笠 (5)
記念艦三笠 (5) posted by (C)pismo

記念艦三笠 (6)
記念艦三笠 (6) posted by (C)pismo

記念艦三笠 (7)
記念艦三笠 (7) posted by (C)pismo

記念艦三笠 (8)
記念艦三笠 (8) posted by (C)pismo

YOKOSUKA軍港めぐりは、アメリカ海軍横須賀海軍施設、吾妻島、そして海上自衛隊司令部と護衛艦などがある船越地区、、横須賀本港と長浦港を結ぶため旧海軍により掘られた水路である吉井掘割水路などを約45分かけてクルーズします。
アメリカ海軍や海上自衛隊の艦船を間近に見ることができ、艦船の種類や名前、役割などを分かりやすく生解説します。横須賀港や長浦港、そして天気が良ければ富士山や東京スカイツリー、横浜ベイブリッジなどの風景を楽しむこともできます。
YOKOSUKA軍港めぐり
YOKOSUKA軍港めぐり posted by (C)pismo

YOKOSUKA軍港めぐり (1)
YOKOSUKA軍港めぐり (1) posted by (C)pismo

YOKOSUKA軍港めぐり (2)
YOKOSUKA軍港めぐり (2) posted by (C)pismo

YOKOSUKA軍港めぐり (3)
YOKOSUKA軍港めぐり (3) posted by (C)pismo

YOKOSUKA軍港めぐり (4)
YOKOSUKA軍港めぐり (4) posted by (C)pismo

YOKOSUKA軍港めぐり (5)
YOKOSUKA軍港めぐり (5) posted by (C)pismo

YOKOSUKA軍港めぐり (6)
YOKOSUKA軍港めぐり (6) posted by (C)pismo

YOKOSUKA軍港めぐり (7)
YOKOSUKA軍港めぐり (7) posted by (C)pismo

YOKOSUKA軍港めぐり (8)
YOKOSUKA軍港めぐり (8) posted by (C)pismo

YOKOSUKA軍港めぐり (9)
YOKOSUKA軍港めぐり (9) posted by (C)pismo


ヴェルニー公園は、昭和21(1946)年に市民公園として開園し、平成12(2000)年にヴェルニー公園と改称しました。公園の対岸にフランス人技師ヴェルニーが建設に貢献した横須賀製鉄所が望めることや、ヴェルニー・小栗祭りが、開催されることから、フランス庭園様式を取り入れた公園として平成13(2001)年度末に整備されました。フランス式花壇や噴水、洋風あずまやなどもあり、約2,000株のバラが彩りを添えています。
公園中心の開明広場には、横須賀の港湾施設の整備などに尽くしたヴェルニーと、小栗上野介をたたえてかつての横須賀製鉄所を望むように銅像が建っています。
ドックは現在も在日米海軍の施設船舶修理施設で使われています。
小栗上野介がドックを作ったとき、「これで、たとえ幕府が売り家になっても、蔵つきになる。」といった名言を思い出されます。
逸見波止場衛門跡は、旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所で左右2棟あり、左側は「逸見上陸場」、右側は「軍港逸見門」と表示されています。高さ約4m、屋根は銅板ぶきドーム型。本体は八角形の鉄筋コンクリート造りで、外壁はタイル張りです。建築年代は明治末期から大正初期と推定され、当時の珍しい建築物の面影を感じることができます。
フランス式花壇周辺には、横須賀に縁のある「海軍の碑」、「軍艦長門碑」、「軍艦沖島の碑」など多くの石碑が設置されています。そのうちの一つ「正岡子規句碑」には、「横須賀や只帆檣(はんしょう)の冬木立」と刻まれており、子規が横須賀を訪れたとき、港に連なる帆檣(ほばしらのこと)の印象を詠んだものです。
ヴェルニー公園
ヴェルニー公園 posted by (C)pismo

ヴェルニー公園 (1)
ヴェルニー公園 (1) posted by (C)pismo

ヴェルニー公園 (2)
ヴェルニー公園 (2) posted by (C)pismo

ヴェルニー公園 (3)
ヴェルニー公園 (3) posted by (C)pismo

ヴェルニー公園 (4)
ヴェルニー公園 (4) posted by (C)pismo

ヴェルニー公園 (5)
ヴェルニー公園 (5) posted by (C)pismo

ヴェルニー公園 (6)
ヴェルニー公園 (6) posted by (C)pismo

ヴェルニー公園 (7)
ヴェルニー公園 (7) posted by (C)pismo

ヴェルニー記念館は、横須賀製鉄所(造船所)を建設し、日本近代工業化の基礎をつくりあげたフランス人、フランソワ・レオンス・ヴェルニーの功績と、横須賀製鉄所建設の意義を永く後世に伝えるために建てられました。
ヴェルニー記念館はフランス・ブルターニュ地方の住宅の特徴である急傾斜の屋根と石の壁でできています。
館内では、ヴェルニーの功績を紹介するほか、横須賀製鉄所で使っていた3トンと0.5トンのスチームハンマーを設置しています。これは蒸気の力でハンマーを上下させ、その重さで金属を加工して船の部品を作るものです。その動きや仕組みは、蒸気で稼働する10分の1サイズの模型で見ることができます。
0.5トンハンマーは国指定重要文化財です。
記念館では、子どもたちが「重さ・エネルギー・機械」について学べるように体験器具が設置され、産業の歴史が分かる映画の上映や、歴史的建造物を見学するツアーが実施されています。
ヴェルニー記念館
ヴェルニー記念館 posted by (C)pismo

ヴェルニー記念館 (1)
ヴェルニー記念館 (1) posted by (C)pismo

ヴェルニー記念館 (2)
ヴェルニー記念館 (2) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/19 21:58:48 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年12月03日 イイね!

立川・国立

立川諏訪神社は、信州諏訪大社を勧請して弘仁2(811)年に創建された柴崎の鎮守です。
明治40(1907)年11月27日八幡神社を合祀し、次いで明治43(1910)年2月12日、浅間神社を合祀しました。
寛文10(1670)年に建てられた本殿は、立川市内で最も古い木造建造物として市の有形文化財になっていましたが、平成6(1994)年の火災で全焼し、現在の社殿は、平成14(2002)年に再建されたものです。
諏訪神社

諏訪神社 (1)

諏訪神社 (2)

普済寺は、山号は玄武山、臨済宗建長寺派の寺院です。
文和2(1353)年、鎌倉建長寺の高僧であった物外可什禅師が開山となり、立川氏の菩提寺として創建されました。
室町時代の応永の末頃から永享年間に至ると、打ち続く戦乱の中で立川氏は没落したため、普済寺も衰退しました。
その後、約100年間の歴史は不明ですが、永正年間(1504~21)に入ると、立川一帯は高幡(日野市)城主平重能の勢力下となり、普済寺も再建され旧立川城の一隅からその全域へと拡大、約一万坪の境内には七堂伽藍をはじめ、六院の塔頭が甍を並べるに至ったといわれています。
平氏はその後間もなく衰退し、天文年間末(1550年代)には、後北条氏の幕下となった立川氏が勢力を挽回し、再び普済寺の大檀那になりました。
天正18(1590)年、立川氏は主家北条氏とともに豊臣軍に敗れ、普済寺も兵火に遭いました。
翌年、徳川家康より御朱印20石の地が寄進され、命脈は保たれましたが、衰退しました。
堂宇の再建は数十年後の万治年間(1660年頃)に至って始められ、そして元禄4(1691)年までに方丈・仏殿・庫裡・鐘楼・塔頭(心源庵・有慶庵)が復興されました。
なお、仏殿と有慶庵は明治初期に、老朽化したため取り壊され、また、庫裡・本堂はそれぞれ嘉永6(1851)年、昭和15(1940)年に再建されました。
境内には、国宝・六面石幢があります。石幢は高さ166cm、幅42cmの秩父青石と呼ばれる緑泥片岩の板石6枚を柱状に組み合わせたもので2面に仁王像、四面に四天王像が刻まれています。立川市歴史民俗資料館にレプリカが展示されています。
普済寺・立川氏館

普済寺・立川氏館 (1)

普済寺・立川氏館 (2)

普済寺に土塁が残る立川氏館です。
立川氏(立河氏)は武蔵七党の一つである西党日奉氏の氏族で、地誌類の記述や、多摩川を望む眺望・防御に適した立地、現在も山門脇に残る土塁、普済寺北側の通称首塚から発見された板碑80余基などから、この普済寺の地が立川宮内少輔の居館とされます。この鎌倉時代の居館に南北朝時代に屋敷内に寺(普済寺の前身)を建立し、戦国時代末に立川氏が滅亡した後に現在の普済寺となったとされてきました。
平成8(1996)年以降の発掘調査等により、15世紀前半から16世紀前半期にかけての屋敷に伴う建物跡、井戸跡、門跡、柵列跡や東側土塁脇から区画を示すV字溝などの遺構が発見されています。居館は、切り立つ段丘崖と直行する東西二本の土塁や地割りなどから寺域を囲む長方形区画の居館が想定されていますが、地中レーダー探査による想定範囲を超えた区画溝の痕跡もあり、居館の範囲や居館と寺院の変遷過程の再検討が必要です。
(現地説明板などより)
普済寺・立川氏館 (3)

太平洋戦争の空襲で被害を受けた防空壕の跡にある山中坂地蔵堂です。
立川への空襲で被害を受けた防空壕の跡地に、地蔵堂が備えられています。山中坂は富士見町5丁目から7丁目に降りるところにある坂で、江戸時代からある古い道です。
太平洋戦争の末期、昭和20(1945)年2月16日から8月2日までの間、少なくとも13回の爆撃を受け、330余名が犠牲となりました。
山中坂にあった横穴式防空壕は、4月4日未明、B29が投下した爆弾が直撃し、中に避難していた子どもたち32名をふくむ42名が死亡しました。有志の拠出金と土地所有者の株式会社伊藤商店の協力により「山中坂悲歌」という山中坂の悲劇を叙情的に記した歌碑が建っています。
(現地碑文などより)
山中坂(山中地蔵尊/山中坂防空壕跡)

立川市歴史民俗資料館は、立川市の歴史や文化、自然風土に関する市民の知識と理解を深め、市民文化の向上に寄与するため、昭和60(1985)年12月1日に開館しました。
そして、平成3(1991)年7月23日には新館が開館し、本館で展示が行われ、新館では体験学習会などが随時実施されています。
原始から中世の立川は、縄文時代の暮らし・六面石幢・普済寺板碑・立川氏文書を紹介し、近世から近現代の立川、そして立川飛行場のあゆみや養蚕や漁法の紹介、そして立川の自然の紹介を行っています。
また、資料館がある土地は、この地に約400年にわたって暮らしてきた井上家から寄贈されたもので、井上家が代々使っていた土蔵も敷地内にあります。
立川市歴史民俗資料館

立川市歴史民俗資料館 (1)

ここに築かれた小高い塚は富士塚とよばれ、頂上に浅間神社がまつられています。
江戸時代、富士山の霊験にあやかって現世利益や病気平癒を願う「富士講」が盛んで、成人男子による富士登山が行なわれました。
 女性や子どもたちのように、実際の富士山に登れない人々は、富士に似せた塚を築いてこれに登ったといいます。
しかし、立川(旧柴崎村)に富士講の話は残っていません。この塚の頂上から、富士がよくみえることから、このようによばれたという人もあります。いずれにしても、江戸時代から地名として現われる、由緒ある場所です。
(現地説明板より)
富士塚

富士塚 (1)

三田氏の館など城主について諸説がある三田氏館です。多摩川に向かって張り出した青柳段丘の台地上縁辺にある「谷保の城山」は、中世の城館跡であったという伝承があります。
この地は、従来から「三田城」あるいは「三田氏館」と呼ばれ、中世三田氏との関連が推測されてきましたが、鎌倉御家人であった津戸三郎為守が城主であったという史料も存在します。
「新編武蔵風土記稿」では鎌倉時代初期にこの地を治めていた津戸三郎為守の居館とし、また「江戸名所図会」では菅原道武朝臣の居館と伝えています。その他、大正13(1924)年に編纂された谷保郷土史では三田県主貞盛が館主だったとしています。諸説がある故に、三田氏館は別名、谷保城、津戸三郎館、三田城とも呼ばれています。
現在、土塁や堀の跡を確認することができますが、発掘調査などが行われておらず、城館の性格や城主などその詳細は不明です。
(現地説明板より)
三田氏館

三田氏館 (1)

Posted at 2016/01/19 00:00:05 | コメント(2) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年11月29日 イイね!

片倉城・武相荘・小机城

片倉城は、湯殿川と兵衛川の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周部は約30mの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切りがなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。空堀により画された二つの郭には土塁や櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。
「新編武蔵風土記稿」などでは応永年間(1394〜1428)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後裔の長井氏の城郭とされていますが、確証はありません。
築城主体や年代の特定は困難ですが、深大寺城跡などの他の中世城郭との比較から15世紀後半以降に築城され、16世紀代に廃城となったと推定されています。しかし、城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要衝であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。
現在は片倉城跡公園として整備されています。
平成11(1999)年には東京都の指定史跡に選定されました。
(現地説明板などより)
片倉城
片倉城 posted by (C)pismo

片倉城 (1)
片倉城 (1) posted by (C)pismo

片倉城 (2)
片倉城 (2) posted by (C)pismo

片倉城 (3)
片倉城 (3) posted by (C)pismo

片倉城 (4)
片倉城 (4) posted by (C)pismo

片倉城 (5)
片倉城 (5) posted by (C)pismo

片倉城 (6)
片倉城 (6) posted by (C)pismo

片倉城 (7)
片倉城 (7) posted by (C)pismo

片倉城 (8)
片倉城 (8) posted by (C)pismo


戦後の新憲法制定に深く関わり、東北電力会長としても活躍された白洲次郎と、美術評論家・随筆家として読売文学賞2回受賞、町田市名誉市民第一号の白洲正子のご夫婦が、能ヶ谷のこの地に農家を買い取り移住されたのは、昭和17(1942)年でした。武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また白洲次郎独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。
近衛内閣の司法大臣をつとめられた風見章氏に「武相荘」と書いて頂き額装して居間に掛けていました。
寄せ棟造りで東側妻面兜造りの重厚な茅葺屋根の主屋と、カキ、シラカシなどを配した広い庭のたたずまいは、多摩地域の養蚕農家の面影をいまに伝える貴重な文化遺産です。
整型四間取や材料・構造から見て19世紀以降のもので、明治初期の建築と推定されます。
養蚕農家として明治・大正・昭和と使われてきた「家・屋敷」が原型に近いかたちで今日に残されたのは、古い民家などに限りない価値を見出した、白洲夫婦の独特なライフ・スタイルの賜物と考えられます。
冠せられた「武相荘」という愛称も、古い農家に具わる「静謐な美」に寄せる夫婦の、慎み深い敬称と読み取れます。
旧白洲邸武相荘として平成13(2001)年にオープンしました。
(現地説明板などより)
武相荘
武相荘 posted by (C)pismo

武相荘 (1)
武相荘 (1) posted by (C)pismo

武相荘 (2)
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武相荘 (3)
武相荘 (3) posted by (C)pismo

武相荘 (4)
武相荘 (4) posted by (C)pismo

武相荘 (5)
武相荘 (5) posted by (C)pismo

武相荘 (6)
武相荘 (6) posted by (C)pismo

武相荘 (7)
武相荘 (7) posted by (C)pismo

武相荘 (8)
武相荘 (8) posted by (C)pismo

武相荘 (9)
武相荘 (9) posted by (C)pismo


小机城の築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、このあたりがひらけた12世紀以降ではないかと思われます。その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、西方にはその支配下の榎下城があったことから、それとかかわりのある城と思われます。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起した時、景春に見方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ子橋付近)に帯陣した上杉方の大田道灌の率いる軍と戦いました。
城は文明10(1478)年に攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40余年間廃城となっていました。
大永4(1524)年、一族の北条氏堯の城となり、笠原越前守信為を城代として再興しました。
小机は地理的に、江戸・玉縄・榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事・経済の両面で極めて重要な役割を果すことになります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落し、やがて小田原北条氏が亡び、四代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として二百名の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。横浜市内には、小机城の他、青木城・榎下城・馬場城・荏田城などがあったと言われていますが、調査されたものは榎下城だけで、その他については、かっての城の位置が推定される程度で、その実態は明らかではありません。
小机城の縄張りは、半島形の突出た丘陵の上部を大きく平に削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築きます。また、城郭全体を二重の土塁を空掘でぐるりとめぐらす縄張で後北条氏特有の築城法と言えます。
類例より後北条、後半の築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で県下では、茅ヶ崎城も典型といえます。
現在は小机城址市民の森として、城の遺構が整備されています。
(現地説明板などより)
小机城
小机城 posted by (C)pismo

小机城 (1)
小机城 (1) posted by (C)pismo

小机城 (2)
小机城 (2) posted by (C)pismo

小机城 (3)
小机城 (3) posted by (C)pismo

小机城 (4)
小机城 (4) posted by (C)pismo

小机城 (5)
小机城 (5) posted by (C)pismo

小机城 (6)
小机城 (6) posted by (C)pismo

小机城 (7)
小机城 (7) posted by (C)pismo

小机城 (8)
小机城 (8) posted by (C)pismo

小机城 (9)
小机城 (9) posted by (C)pismo

小机城 (10)
小机城 (10) posted by (C)pismo

Posted at 2016/01/17 23:50:45 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記

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