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2015年10月17日 イイね!

松陰神社・世田谷城・豪徳寺・世田谷八幡宮・世田谷代官屋敷など

松陰神社は、幕末の思想家、教育者である吉田松陰を祀る神社です。
世田谷区の松陰神社の他、故郷萩にも松陰神社があります。
明治15(1882)年に長州藩士吉田松陰の旧藩士門弟らが中心となって、吉田松陰の墓のあった当地(旧毛利藩主毛利大膳大夫の抱屋敷)に堂を建てて創建しました。昭和の初め社殿は大修理され、府社に昇格しています。境内には、吉田松陰をはじめとした松下村塾の子弟、松下村塾の模擬、石燈籠があります。

吉田松陰は幕末の思想家、教育者として知られ、松下村塾を開いて後の明治維新の志士たちを育てましたが、安政の大獄により安政6(1859)年江戸伝馬町にて処刑されました。
世田谷若林の地は、江戸時代から長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸があり「大夫山」と呼ばれていました。
文久3(1863)年正月、高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬されました。
同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく小塚原回向院より改葬し、その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から、同11年、福原乙之進を埋葬しました。
禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されましたが、木戸孝允等の手により明治元(1868)年に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫冶良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てました。その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進されました。
明治8(1875)年、来原良蔵妻和田春子が埋葬されました。

明治15(1882)年11月21日に墓所のあるこの地に松陰神社が創建されました。

そして、明治37(1904)年、桂太郎が長州藩第四大隊招魂碑を建立。明治42(1909)年、遺言により野村靖を、明治44(1911)年、野村靖夫人野村花子が埋葬されました。
昭和33(1958)年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵が修復されました。
境内には復元された松下村塾もあります。
松陰神社
松陰神社 posted by (C)pismo

松陰神社 (1)
松陰神社 (1) posted by (C)pismo

松陰神社 (2)
松陰神社 (2) posted by (C)pismo

松陰神社 (3)
松陰神社 (3) posted by (C)pismo

松陰神社 (4)
松陰神社 (4) posted by (C)pismo

松陰神社 (5)
松陰神社 (5) posted by (C)pismo

松陰神社 (6)
松陰神社 (6) posted by (C)pismo

松陰神社 (6)
松陰神社 (6) posted by (C)pismo

松陰神社 (7)
松陰神社 (7) posted by (C)pismo

松陰神社 (8)
松陰神社 (8) posted by (C)pismo

松陰神社 (8)
松陰神社 (8) posted by (C)pismo

松陰神社 (9)
松陰神社 (9) posted by (C)pismo

松陰神社 (10)
松陰神社 (10) posted by (C)pismo

松陰神社 (11)
松陰神社 (11) posted by (C)pismo

松陰神社 (12)
松陰神社 (12) posted by (C)pismo

松陰神社 (13)
松陰神社 (13) posted by (C)pismo

松陰神社 (14)
松陰神社 (14) posted by (C)pismo

松陰神社 (15)
松陰神社 (15) posted by (C)pismo

松陰神社 (16)
松陰神社 (16) posted by (C)pismo


世田谷城は、清和源氏・足利氏一族である吉良氏の居城として知られています。
貞治5(1366)年、吉良治家によって築城されたと言われていますが、定かではありません。
永和2年(1376)に吉良治家が鎌倉八幡宮にあてた文書から、おそくとも14世紀後半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。
吉良氏は清和現時・足利氏の氏族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。
応永33(1426)年には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在でした。はじめ鎌倉公方に仕え、15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・江戸城の太田道灌に与力し、武蔵国の中心勢力として繁栄します。北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄3(1530)年には世田谷城は攻略されたと伝えられが、のち吉良氏の手に復しました。
その後、吉良頼康の代には、小田原北条氏と縁戚関係をもつようになりますが、天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城になりました。
その後しばらくして、当地は彦根藩井伊家の所領となりますが、城内にあったとされる吉良氏の小庵、弘徳院は豪徳寺の前身といわれています。
武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入ります。世田谷城の濠・土塁の構造は天文6(1537)年の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、16世紀前半に防御の為、大改築がなされた事が窺えます。
(現地説明板などより)
現在は世田谷城址公園として整備されています。
世田谷城
世田谷城 posted by (C)pismo

世田谷城 (1)
世田谷城 (1) posted by (C)pismo

世田谷城 (3)
世田谷城 (3) posted by (C)pismo

豪徳寺は、山号は大谿山、曹洞宗の寺院です。
世田谷城主吉良政忠が、文明12(1480)年に亡くなった伯母の菩提のために臨済宗弘徳院として創建したと伝えられます。高輪泉岳寺初世の門奄宗関が曹洞宗に改め、天正12(1584)年中興開山しました。
寛永10(1633)年世田谷領が彦根藩領となり、当寺が井伊家の江戸における菩提寺となったことから、寺号を藩主井伊直孝の法号久昌院殿豪徳天英大居士より豪徳寺と改号しました。
直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めました。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修埋菩薩像、及び石灯籠二基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられています。
境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があります。墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、十三代直弼(宗観院殿)墓があります。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院般・直孝長女)墓がその中央西側に位置しています。 墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元(1658)年に建てられました。直孝が没したのは万冶2(1659)年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られています。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造されました。また、幕所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられています。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅されています。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な通産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20(2008)年3月28日、国史跡に指定されました。
ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道、近代三大書家の随一日下部鳴鶴(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑があります。また同寺の草創を物語る、洞春院(吉良政忠)と弘徳院の宝靡印塔が残されています。
(現地説明板などより)
豪徳寺
豪徳寺 posted by (C)pismo

豪徳寺 (1)
豪徳寺 (1) posted by (C)pismo

豪徳寺 (2)
豪徳寺 (2) posted by (C)pismo

豪徳寺 (3)
豪徳寺 (3) posted by (C)pismo

豪徳寺 (4)
豪徳寺 (4) posted by (C)pismo

豪徳寺 (5)
豪徳寺 (5) posted by (C)pismo

豪徳寺 (6)
豪徳寺 (6) posted by (C)pismo

豪徳寺 (7)
豪徳寺 (7) posted by (C)pismo

豪徳寺 (8)
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豪徳寺 (9)
豪徳寺 (9) posted by (C)pismo

豪徳寺 (10)
豪徳寺 (10) posted by (C)pismo

豪徳寺 (11)
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豪徳寺 (12)
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豪徳寺 (13)
豪徳寺 (13) posted by (C)pismo

豪徳寺 (14)
豪徳寺 (14) posted by (C)pismo

豪徳寺 (15)
豪徳寺 (15) posted by (C)pismo

世田谷八幡宮は、寛治5(1091)年、源義家が、陸奥国(奥州)の鎮守府将軍として任ぜられた源義家が、幾多の苦を重ねて清原家衡を金沢柵にて攻め平定した後三年の役(1087-1094)からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待つため10数日間滞在し、備前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を勧請創建したと伝えられています。その際、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われています。また、そのとき兵士に奉祝相撲を取らせた事でも有名であり、現在でも奉納相撲として伝えられています。
その後、天文15(1546)年8月に世田谷城主の吉良頼貞(後に頼康と改名)が社殿を修築造営した時に、備前雲次太刀を一振寄進し、吉良氏領内第一の神社として尊崇されました。吉良家の祈願所として、神職はその当時の家臣一家老職大場家の一分家たる大場氏により祭典が行われてきました。
天正18(1590)年、吉良氏と婚姻関係にあった小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされた後、徳川家康が関東に入国し、翌天正19(1591)年、家康は世田谷八幡宮の旧領11石を朱印地としました。
明治維新後の明治5(1872)年、郷社となり、この時、社名を宇佐神社と改めましたが、太平洋戦争後、もとの世田谷八幡宮に復しています。
昭和39(1964)年5月に社殿を改築し、文化10(1813)年建立の旧本殿が社殿内に納められ現在の荘厳な社殿となり世田谷の鎮守の神様として多くの人達に厚く信仰されています
(現地説明板などより)
世田谷八幡宮
世田谷八幡宮 posted by (C)pismo

世田谷八幡宮 (1)
世田谷八幡宮 (1) posted by (C)pismo


江戸時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(2300石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。
世田谷代官屋敷はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。
大場氏は中世に世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原城攻めにより、北条方についた主家
吉良家が没落すると、世田谷新宿(上町)に留まり帰農していました。
寛永10(1633)年、井伊家が世田谷領15箇村(後に20箇村)を拝領した際に、代官に起用れました。以後、明治4(1871)年の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきました。
屋敷は、江戸中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約70坪(約231.4㎡)、茅葺きの寄棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、白州跡などの一部が今も現存し、往時の代官屋敷の面影を伝えています。
大場家7代六兵衛盛政が元文2(1737)年と宝暦3(1753)年の2度にわたる工事によって完成したものであります。
大場家は、元文4(1739)年から幕末まで彦根藩世田谷領の代官職を世襲したので その役宅として使用されていました。
昭和27(1952)年11月3日、東京都史跡に指定されています。
江戸中期上層民家の遺構をよく保存する建物として、主屋及び表門の2棟が昭和53(1978)年1月21日 国の重要文化財に指定されました。
(現地説明板などより)
世田谷代官屋敷(大庭家住宅)
世田谷代官屋敷(大庭家住宅) posted by (C)pismo

世田谷代官屋敷(大庭家住宅) (1)
世田谷代官屋敷(大庭家住宅) (1) posted by (C)pismo

世田谷代官屋敷(大庭家住宅) (2)
世田谷代官屋敷(大庭家住宅) (2) posted by (C)pismo

世田谷区立郷土資料館は、世田谷区政30周年事業の一環として昭和39(1964)年9月10日に開館した都内最古の公立地域博物館です。世田谷(大場)代官屋敷敷地内にあります。
建物の設計は日本近代建築の歴史に大きな足跡を残した建築家・前川國男氏によるものです。
その後、収蔵資料の増加により手狭となったので、昭和62(1987)年に新館を増築しました。
平成26(2014)年9月10日で開館50周年を迎えました。
世田谷区に関する区内外の歴史・民俗資料等の収集・保存、展示、調査・研究を行っています。
世田谷区立郷土資料館
世田谷区立郷土資料館 posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/01 20:53:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年10月12日 イイね!

江戸東京たてもの園・練馬区立美術館のシスレー展・石神井城

江戸東京たてもの園は、都立小金井公園内に平成5(1993)年3月28日に開園した野外博物館です。
江戸東京たてもの園が建設されたこの地には、平成3(1991) 年まで「武蔵野郷土館」が、原始・古代から近・現代にいたる武蔵野の生い立ちをテーマに、さまざまな博物館活動を行っていました。江戸東京たてもの園は、旧武蔵野郷土館の貴重な資料を引き継ぎ、その資料を展示室と屋外に展示しています。
敷地面積は約7ha園内には江戸時代から昭和初期までの、30棟の復元建造物が建ち並んでいます。
ビジターセンターでは、江戸東京の建物やまちづくりの歴史など、園内の観覧に役立つ展示や武蔵野の歴史や自然、生活文化にちなんだ展示を行っています。

江戸東京たてもの園・ビジターセンター(旧光華殿)
江戸東京たてもの園・ビジターセンター(旧光華殿) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・前川國男邸
江戸東京たてもの園・前川國男邸 posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・前川國男邸 (1)
江戸東京たてもの園・前川國男邸 (1) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・三井八郎右衞門邸
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江戸東京たてもの園・三井八郎右衞門邸 (1)
江戸東京たてもの園・三井八郎右衞門邸 (1) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・三井八郎右衞門邸 (2)
江戸東京たてもの園・三井八郎右衞門邸 (2) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・小出邸
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江戸東京たてもの園・小出邸 (1)
江戸東京たてもの園・小出邸 (1) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・八王子千人同心組頭の家
江戸東京たてもの園・八王子千人同心組頭の家 posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・デ・ラランデ邸
江戸東京たてもの園・デ・ラランデ邸 posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・吉野家(農家)
江戸東京たてもの園・吉野家(農家) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・旧自証院霊屋
江戸東京たてもの園・旧自証院霊屋 posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・高橋是清邸
江戸東京たてもの園・高橋是清邸 posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・高橋是清邸 (1)
江戸東京たてもの園・高橋是清邸 (1) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・高橋是清邸 (2)
江戸東京たてもの園・高橋是清邸 (2) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・西川家別邸
江戸東京たてもの園・西川家別邸 posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・伊達家の門
江戸東京たてもの園・伊達家の門 posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・大和屋本店(乾物屋)
江戸東京たてもの園・大和屋本店(乾物屋) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・植村邸、大和屋本店(乾物屋)
江戸東京たてもの園・植村邸、大和屋本店(乾物屋) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・天明家(農家)
江戸東京たてもの園・天明家(農家) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・子宝湯
江戸東京たてもの園・子宝湯 posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・子宝湯 (1)
江戸東京たてもの園・子宝湯 (1) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・子宝湯 (2)
江戸東京たてもの園・子宝湯 (2) posted by (C)pismo

江戸東京たてもの園・仕立屋
江戸東京たてもの園・仕立屋 posted by (C)pismo

練馬区立美術館は、練馬区立美術の森緑地にある美術館です。
昭和60(1985)年10月1日に開館しました。
練馬区立貫井図書館との複合施設で、1Fが図書館、2F、3Fが美術館となっています。
日本の近・現代美術を中心に近世、西洋の企画展なども開催されています。
ちょうど、「アルフレッド・シスレー」の展覧会が開催されていたので立ち寄りました。
練馬区立美術館
練馬区立美術館 posted by (C)pismo

練馬区立美術館 (1)
練馬区立美術館 (1) posted by (C)pismo

練馬区立美術館 (2)
練馬区立美術館 (2) posted by (C)pismo

石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城の一つです。
石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約49mの舌状台地上に所在し、東西約350mの規模の主郭と外郭からなり全体では9ha前後の規模であったと推定されている、比較的単純な構造の中世城館です。
当時の城は、土塁と濠で土地を四角形に区画した場所(郭)をいくつか築き、防御施設としていました。北側と南側は、三宝寺池と石神井川という自然の地形を利用して防御されていました。
昭和31(1956)年以降の数次の発掘調査によって、主郭や土塁築土から12世紀から16世紀前半までに属する陶磁器が出土しています。
文明8(1476)年の長尾景春の乱の際、当時の城主豊島泰経は景春に与したので、扇谷上杉氏の家宰太田道灌に攻められることとなり、翌年の文明9(1477)年、太田道灌に攻められ石神井城は落城しました。
「太田道灌状」によれば、最後の城主豊島泰経は、石神井城落城の後、平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年の1月25日、再び道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げています。その後の泰経の足どりは、記録として文献には残っていません。
落城後、康経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、長女照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられています。
(現地説明板などより)
石神井城
石神井城 posted by (C)pismo

石神井城 (1)
石神井城 (1) posted by (C)pismo

石神井城 (2)
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石神井城 (3)
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石神井城 (4)
石神井城 (4) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/01 14:42:39 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年10月10日 イイね!

柴又帝釈天・旧岩崎邸庭園

柴又帝釈天は、正式には経栄山題経寺という日蓮宗の寺院です。帝釈天という名称ですが、本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」です。
寛永6(1629)年に、禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創され、18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになりました。
夏目漱石の「彼岸過迄」を始め、多くの文芸作品に登場し、20世紀後半以降は、人気映画シリーズ「男はつらいよ」の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになりました。
帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われています。
法華経に説かれる代表的な説話10話の法華経説話の浮き彫り10面は、大正11(1922)年から昭和9(1934)年にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作しました。
本堂裏に位置する昭和4(1929)年完成の大客殿、昭和40(1965)年に向島の庭師永井楽山の設計による邃渓園と彫刻ギャラリーの拝観は有料です。
帝釈天参道
帝釈天参道 posted by (C)pismo

柴又帝釈天(題経寺)
柴又帝釈天(題経寺) posted by (C)pismo

柴又帝釈天(題経寺) (1)
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柴又帝釈天(題経寺) (2)
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柴又帝釈天(題経寺) (3)
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柴又帝釈天(題経寺) (4)
柴又帝釈天(題経寺) (4) posted by (C)pismo

柴又帝釈天(題経寺) (5)
柴又帝釈天(題経寺) (5) posted by (C)pismo

柴又帝釈天(題経寺) (6)
柴又帝釈天(題経寺) (6) posted by (C)pismo

柴又帝釈天(題経寺) (7)
柴又帝釈天(題経寺) (7) posted by (C)pismo

柴又帝釈天(題経寺) (8)
柴又帝釈天(題経寺) (8) posted by (C)pismo

柴又帝釈天(題経寺) (9)
柴又帝釈天(題経寺) (9) posted by (C)pismo

柴又帝釈天(題経寺) (10)
柴又帝釈天(題経寺) (10) posted by (C)pismo

旧岩崎邸庭園は、明治から昭和にかけての実業家、岩崎久弥のかつての住宅です。
同一敷地内に洋館は社交の場、和館は生活の場を併立する大邸宅では明治20(1887)年頃から建てられましたが、岩崎邸はその代表例であり、現存する明治建築として貴重です
完成当時の岩崎邸は、15,000坪の敷地に20棟以上の建物がありました。
現存する3棟のうちの1棟が、木造2階建・地下室付きの洋館で、本格的な洋風建築で明治期の上層階級の邸宅を代表する西洋木造建築です。
洋館は、ジョサイア・コンドルの設計により、明治29(1896)年に完成しました。コンドルは、上野の博物館(現在の東京国立博物館)や鹿鳴館など数多くの官庁の建造物の設計監督にあたり、19世紀後半のヨーロッパ建築を紹介して日本の近代建築の発展に指導的役割を果たしました。
17世紀の英国ジャコビアン様式を基調に、ルネッサンスやサラセン風のモティーフなどが取り入れられています。
洋館の正面に向かって左半分が主屋でスレート葺の大屋根をかけ、その右にやや規模の小さい棟が続いています。両者のあいだの玄関部には塔屋がたち、角ドーム屋根となっています。
南側ベランダには装飾を施された列柱が並び、全体的にはイギリス・ルネッサンス風となっています。
1階部分に玄関・食堂・厨房・書斎・客室、2階に客室・集会場・、地下には倉庫・機械室・通路が設けられていました。
建物自体は、主に年1回の岩崎家の集まりや外国人や賓客を招いてのパーティーなどに使用されました。
併置された和館との巧みなバランスは、世界の住宅史においても稀有の建築とされています。
戦後、GHQに接収され、返還後、昭和22(1952)年に国有財産となり、昭和45(1970)年まで最高裁判所司法研修所などとして使用(~1970)されました。
コンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は、洋館から少し離れた位置に別棟として建っています。洋館から地下道でつながっています。
ジャコビアン様式の洋館とは異なり、当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りとなっています。
全体は木造建築で、校倉造り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、木造ゴシックの流れをくむデザインです。
洋館と結合された和館は、書院造りを基調にしている。
完成当時は建坪550坪に及び、洋館を遥かにしのぐ規模を誇っていました。
施工は大工棟梁として、政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた大河喜十郎と伝えられています。
玄関近くに構えた書院造りの広間には、明治を代表する日本画家・橋本雅邦の障壁画が残っています。
広間奥に設けられた岩崎家の居住空間は、南北に分けられ、南に主人と夫人部屋、子供部屋などが置かれました。
北には使用人部屋、台所、事務方詰所、倉庫などがありました。
現存する大広間を中心に、巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができます。
庭園は、江戸期に越後高田藩・榊原氏、及び明治初期は舞鶴藩・牧野氏などの屋敷だったため、大名庭園の形式を一部踏襲していました。
本邸建築時に広大な庭に芝を張り、庭石・灯篭・築山が設けられました。
建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しています。
往時をしのぶ庭の様子は、江戸時代の石碑、広間前の手水鉢や庭石、モッコクの大木などに見ることができます。
この和洋併置式の邸宅形式は、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えました。
平成6(1994)年に文化庁の所管となり、平成13(2001)年には東京都の管理となっています。
昭和36(1961)年には洋館と撞球館が重要文化財に指定され、昭和44(1969)年には和館大広間が洋館東脇にある袖塀と、更に宅地、煉瓦塀を含めた屋敷全体と実測図が平成11(1999)年に重要文化財に指定されています。
平成22(2010)年の大河ドラマ「龍馬伝」最終回「龍の魂」の龍馬伝紀行でも紹介されました。
(パンフレットなどより)
旧岩崎邸庭園
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旧岩崎邸庭園 (1)
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旧岩崎邸庭園 (2)
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旧岩崎邸庭園 (3)
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旧岩崎邸庭園 (4)
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旧岩崎邸庭園 (5)
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旧岩崎邸庭園 (6)
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旧岩崎邸庭園 (7)
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旧岩崎邸庭園 (8)
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旧岩崎邸庭園 (9)
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Posted at 2015/12/31 19:58:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年10月10日 イイね!

亀有から松戸へ

しばらく、仕事の事情で東京での生活が2ヶ月半続くことに。

合間を見て史跡めぐりです。

松戸へ行く途中、亀有駅に立ち寄ると「こちら葛飾区亀有公園前輩出所」の舞台だけにあちこちに「両さん」の銅像が立っていました。

亀有駅周辺
亀有駅周辺 posted by (C)pismo

亀有駅周辺 (1)
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亀有駅周辺 (2)
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亀有駅周辺 (3)
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亀有駅周辺 (4)
亀有駅周辺 (4) posted by (C)pismo

亀有駅周辺 (4)
亀有駅周辺 (4) posted by (C)pismo

水戸藩最後の藩主・徳川昭武が建てた戸定邸の敷地の内、約三分の一は戸定が丘歴史公園として整備公開されています。
公園内には徳川昭武と彼の兄徳川慶喜の資料を展示する戸定歴史館、徳川昭武が住んでいた戸定邸(国指定重要文化財)と庭園(国指定名勝)、昭和53(1978)年に松戸市が市制施行35周年を記念して建設したお茶室の松雲亭があります。
松戸市戸定歴史館は、戸定邸に隣接して建つ、徳川昭武と徳川慶喜についての専門博物館です。
昭武の遺品を中心とする松戸徳川家伝来品や、昭武と交流の深かった慶喜の遺品が収蔵されています。
展示は、数ヶ月に一度変更されます。
これまで慶応3(1867)年パリ万博、幕末から明治にかけての古写真、かつての戸定邸の姿や徳川慶喜の事跡など、テーマを決めて展示を行っています。
戸定邸
戸定邸 posted by (C)pismo

松戸市戸定歴史館
松戸市戸定歴史館 posted by (C)pismo


戸定邸は、徳川昭武が彼専用の屋敷として建設し、明治17(1884)年に落成しました、木造平屋一部2階建、延床面積725平方メートル。9棟の建物に23の部屋があります。
明治21(1888)年、子息武定が生まれ、明治25(1892)年、松戸徳川家の成立後は、実質的に同家の本邸となりました。
明治35(1902)年4月22日には大正天皇となられた皇太子の行啓を仰ぐなど 多くの皇族方も長期にわたって滞在された由緒ある屋敷です。
なお庭園は 慶応3年(1867)年、パリの万国博覧会に将軍代理として渡欧された昭武が心をひかれた洋式庭園の長所を取り入れて造園した当時としては画期的な庭園です。
大名の下屋敷の面影を色濃く伝えながらも、平面配置や規模は権力の座を離れた徳川家の暮らしに対応した変化を見せています。
武定は子爵を賜り工学博士号を得て後に海軍技術中将に累進し潜水艦の最高権威として著名な方で当邸に永く居住されていましたが 昭和26(1951)年当邸を市民の文化施設として利用して欲しいという意向をもって敷地と建物を市に寄贈されました。
昭和61(1986)年には千葉県指定名勝となりました。そして、明治初期の上流住宅がほぼ完全に残す歴史的価値が高く評価され、平成18(2006)年7月に国の重要文化財に指定されました。
建物の南側、西側には軒下まで芝生が植えられています。洋風の芝生の張り方をしたわが国最古の例です。徳川昭武はコウヤマキやアオギリの大木を標高25mの高台上に運び上げて植えました。160人もの人手と多額の経費を要したと記録にあります。平成17(2005)年11月には、関東の富士見百景に選ばれ、平成27(2015)年3月には学術的、芸術的価値が評価され国の名勝に指定されました。
戸定邸 (1)
戸定邸 (1) posted by (C)pismo

戸定邸 (2)
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戸定邸 (3)
戸定邸 (3) posted by (C)pismo

戸定邸 (4)
戸定邸 (4) posted by (C)pismo

戸定邸 (5)
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戸定邸 (6)
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戸定邸 (7)
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戸定邸 (8)
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戸定邸 (9)
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戸定邸 (10)
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戸定邸 (11)
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戸定邸 (12)
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戸定邸 (13)
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戸定邸 (14)
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戸定邸 (15)
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戸定邸 (16)
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戸定邸 (17)
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戸定邸 (18)
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Posted at 2015/12/31 18:56:41 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年08月22日 イイね!

横浜・八丈島・東京(4日目その2・東京大学・板橋・王子・赤羽)

次は、東京大学へ行きました。
東京大学 - 01
東京大学 - 01 posted by (C)pismo

東大の農学部の正門を入った北側に「朱舜水先生終焉之地」の碑が建てられています。
朱舜水は、日本に帰化した明の遺臣です。名は之瑜、舜水は号です。
祖国明朝の復興運動を図りますが果たさず、万治2(1659)年長崎に来た際、柳川藩の儒学者安東省庵の援助を受けて亡命しました。
寛文5(1665)年、小宅生順の推挙で水戸藩の賓客となり、水戸藩徳川家の中屋敷(現在の東京大学農学部の南東側)に入り、障害この地で過ごしました。学風は朱子学・陽明学の中間に位置する実学(実行の学)で、空論を避け、道理を重んじ、水戸光圀や安積澹泊、林鳳岡、木下順庵らに大きな影響を与えました。
天和2(1682)年に83歳で没し、常陸太田の瑞竜山に葬られました。
この記念碑は、日本渡来250年祭にあたり水戸藩邸内に朱舜水記念会が建てたものですが、農学部内で移転しています。そのため、現在記念碑が設置されている農学部正門附近は水戸藩邸の区域ではありません。
昭和30(1955)年3月28日、東京都指定旧跡となっています。
(現地説明板などより)
東京大学・朱舜水記念碑 - 02
東京大学・朱舜水記念碑 - 02 posted by (C)pismo

東京大学 - 03
東京大学 - 03 posted by (C)pismo

東京大学 - 04
東京大学 - 04 posted by (C)pismo

安田講堂は、東京大学本郷キャンパスにある講堂で、正式には東京大学大講堂といいます。
安田財閥の創始者・安田善次郎の、匿名を条件での寄付により建設され、安田の死後に寄付を行ってたことが知られるようになったことで安田を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになりました。内田祥三が基本設計を行い、弟子の岸田日出刀が担当し大正10(1921)年に起工、大正14(1925)年7月6日に竣工しました。
昭和43(1968)年の東大紛争では、全学共闘会議により選挙され、最終的には機動隊により強制排除されました。
平成8(1996)年12月20日に国の登録有形文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
東京大学・安田講堂 - 05
東京大学・安田講堂 - 05 posted by (C)pismo

元白虎隊士で、東京帝国大学総長を務めた山川健次郎像です。
安田講堂の東側、理学部1号館前に胸像があります。
平成18(2006)年12月21日、山川健次郎氏の曾孫である福田宏明氏より寄贈されたものです。
会津藩士、山川重固の三男として生まれ、少年時代に白虎隊士を経験した後、米国エール大学で物理学を学びました。
帰国後、東京開成学校教授補などを経て、明治12(1879)年に26歳の若さで東京大学理学部の物理学主任教授に就任しました。
清廉潔白な人柄は多くの人の信頼を集め、社会を導く人という意味で「星座の人」と呼ばれました。
大学が自治問題に揺れる中、2度にわたり東京帝国大学総長を務めました。2度の在任中に自治紛争で揺れる京都帝国大学にも総長を依頼され、10ヶ月にわたって東京帝国大学と京都帝国大学の総長を兼ねました。
九州帝国大学初代総長、貴族院勅選議員、東宮御学問所評議員ほか多くの要職を務め、大正4(1915)年に男爵の爵位を授与されました。多くの弟子を育てたことでも知られており、学問と教育に情熱を注ぎ、日本の礎を築きました。
(現地説明板などより)
東京大学・山川健次郎像 - 06
東京大学・山川健次郎像 - 06 posted by (C)pismo

現在、東京大学の敷地になっている敷地はかつては加賀藩主前田家の上屋敷でした。
加賀藩主前田氏が、現在の赤門から池にかけての一体の地を将軍家から賜ったのは、大坂の役後のことです。寛永15(1638)年、その性、豪宕で風雅を好んだという当主前田利常の時に園池の大築造を行いました。利常の死後、綱紀がさらに補修して、当時江戸諸侯邸の庭園中第一と称せられました。
育徳園と命名され、園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数寄をきわめたものだといわれています。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の正式名称は「育徳園心字池」といいますが、夏目漱石の小説「三四郎」以来、三四郎池の名で親しまれています。
(現地説明板などより)
東京大学・三四郎池(育徳園) - 07
東京大学・三四郎池(育徳園) - 07 posted by (C)pismo

東京大学の赤門は、旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門であり、文政10(1827)年に第12代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女、溶姫を迎える際に造られました。
三位以上の大名が将軍家から妻を迎えた場合、その人・居所を御守殿と称し、表通りからその場所へ出入りする朱塗りの門を御守殿門と呼んでいました。
左右に唐破風造の番所を置く薬医門で、切妻造となっています。旧国宝で、国の重要文化財に指定されています。
東京大学・赤門 - 08
東京大学・赤門 - 08 posted by (C)pismo

東光寺は、山号は丹船山、院号は薬王樹院という浄土宗の寺院です。
創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳3(1491)年に入寂した天誉和尚が開山したといわれています。当初は、船山(現板橋3-42)あたりにありましたが、延宝7(1679)年、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。
移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町屋が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、度重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。
境内には、昭和58(1983)年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文2(1662)年の庚申塔と平成7(1995)年度、板橋区の有形文化財に登録された石地蔵菩薩坐像、明治になって子孫が供養のために建立した宇喜多秀家の墓などがあります。八丈島に流された秀家の子孫が明治2(1869)年、東京に戻り、秀家の妻豪姫の実家の縁で前田家の下屋敷地を開拓した時に建立したものです。
(現地説明板などより)
東光寺 - 01
東光寺 - 01 posted by (C)pismo

東光寺 - 02
東光寺 - 02 posted by (C)pismo

東光寺 - 03
東光寺 - 03 posted by (C)pismo

東光寺 - 04
東光寺 - 04 posted by (C)pismo

東光寺 - 05
東光寺 - 05 posted by (C)pismo

近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕です。
慶応4(1868)年4月25日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。
その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。平尾一里塚の南側にあり、刑の前日宿泊した石山家の敷地内であるとされています。(三鷹市の龍源寺にも近藤勇の養子勇五郎が胴体を埋葬したとされる墓所があり、胴体の埋葬場所としては両説があります。)
本供養塔は没後の明治9(1876)年5月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。
高さ3.6m程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。
正面には、「近藤勇 冝昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお、近藤勇の諱である昌宜が冝昌とされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。
永倉はこの地の隅に自らの墓を建てて分骨するように遺言し、天寿を全うしました。「新選組永倉新八墓」と刻まれた墓が境内にあります。
本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。
(現地説明板などより)
近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 01
近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 01 posted by (C)pismo

近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 02
近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 02 posted by (C)pismo

近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 03
近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 03 posted by (C)pismo

近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 04
近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 04 posted by (C)pismo

飛鳥山公園は、明治6(1873)年に定められたわが国最初の公園の一つです。
この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。
このあたりは、古くから人が住んでいたらしく先土器時代(日本で最も古い時代)縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。
ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台の所)に飛鳥明神の祠が祀られていたからと伝えられています。
江戸時代の中頃の元文2(1737)年、八代将軍徳川吉宗が、この地を王子権現に寄進し、荒地を整備してたくさんの桜や松、楓などを植えたので、それからは桜の名所として有名になり付近に茶屋などもできました。
飛鳥山のお花見は、向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語にでてくるような、仇討の趣向や、変装などのためにたいへんな賑わいでした、又、東側の崖からは、カワラケ投げも行われ、土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になって、危険防止のため禁止されました。
この山は、東から西へのなだらかな斜面でしたが、道路拡張のために狭められ、先に中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の光に輝いています。
(現地説明板などより)
飛鳥山公園 - 01
飛鳥山公園 - 01 posted by (C)pismo

飛鳥山公園 - 02
飛鳥山公園 - 02 posted by (C)pismo

飛鳥山公園 - 03
飛鳥山公園 - 03 posted by (C)pismo

渋沢史料館は、飛鳥山公園にあります。「紙の博物館」「北区飛鳥山博物館」と並び「飛鳥山3つの博物館」といわれています。
渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、昭和57(1982)年に開館しました。
かつて栄一が住んでいた旧渋沢邸跡に建ち、公益財団法人渋沢栄一記念財団が運営しています。
栄一の生涯と事績に関する資料を収蔵・展示し、関連イベントなども随時開催しています。
渋沢史料館 - 01
渋沢史料館 - 01 posted by (C)pismo

渋沢史料館 - 02
渋沢史料館 - 02 posted by (C)pismo

日本の都市公園百選にも選定されている音無親水公園です。
王子付近を流れる石神井川は、「音無川」と呼ばれる景勝地で、江戸時代の浮世絵にも数多く描かれています。
江戸時代の天保7(1836)年に完成した「江戸名所図会」や、嘉永5(1852)年の近吾堂板江戸切絵図、また、 安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかります。
「江戸名所花暦」「游歴雑記」などには、一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、谷間の樹木は見事で、実にすぐれていると記されています。
現在は、戦後の護岸工事で石神井川の流路が変わったため、自然の川を模した音無親水公園として生まれかわり、桜の名所、水遊びのできる公園としてにぎわっています。
日本の都市公園百選にも選定されています。
(現地説明板などより)
音無親水公園 - 01
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稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
昭和62(1987)年、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10(1582)年頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
また、静勝寺に伝存する貞享4(1687)年の「静勝寺除地検地地図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
道灌の死後、この城は孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
明暦元(1655)年に道灌の子孫資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
(現地説明板などより)
稲付城 - 01
稲付城 - 01 posted by (C)pismo

稲付城 - 02
稲付城 - 02 posted by (C)pismo

稲付城 - 03
稲付城 - 03 posted by (C)pismo

稲付城西側の天然の防御だった亀ヶ池の名残が残る亀ヶ池弁天です。
赤羽駅の西口一帯にあった大きな池があり、亀ヶ池と呼ばれていました。
亀ヶ池は稲付城(今の静勝寺)西側の、天然の防御でした
一角のほこらには無数の亀がおり、大亀は甲の周囲8.9尺もあり、小さな子供はその上に乗って戯れたが、大人が行けば隠れてけっして出てこなかったといわれています。
また、伝説では、池には一対の大蛇が住んでいたとも言われています。
現在の亀ヶ池弁財天の池はその亀ヶ池の名残りといわれていて、中の島に祀られている祠はかつて亀ヶ池の一角にあったもので、中には弁天像が納められています。
この弁財天では願いが叶ったらお礼の印に細い絵馬型の御札をかけることになっているそうです。
(現地説明板などより)
亀ヶ池弁天 - 01
亀ヶ池弁天 - 01 posted by (C)pismo
Posted at 2015/10/04 20:32:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記

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