石上神宮は、非常に歴史の古い神社で古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、大和朝廷の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられています。
拝殿、摂社出雲建雄神社拝殿、七支刀は国宝に指定されています。
この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていました。しかし、明治7(1874)年に発掘され出土した剣(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造することになり、大正2(1913)年には、本殿が完成しました。
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内山永久寺は、永久年間(1113年-1118年)に鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第2世頼実が創建した寺院でした。
大和の国では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受けていましたが、その規模と伽藍の壮麗さから西の日光と称されていました。
しかし、明治の神仏分離令・廃仏毀釈により、壮麗を極めた堂宇や什宝はことごとく破壊と略奪の対象となり、仏像・仏画・経典などは国内外へ散逸しました。
各地に残る難を逃れた宝物と、この地に残る本堂池のみが、かつての大寺の栄華を伝えています。
「うち山や とざましらずの 花ざかり 宗房」という松尾芭蕉の句碑もあります。まだ出生地の伊賀上野に住んで「宗房」と号していた頃の作品です。
今、内山永久寺に参詣してみると、見事なまでに満開の桜でうめつくされている。土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもない」という意味だそうです。
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夜都伎神社は、武甕槌命、姫大神、経津主神、天児屋根命を祭神とする神社です。元は夜都伎神社と春日神社の2社がありましたが、夜都伎神社の社地を約400m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は春日神社1社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられています。
昔から奈良春日神社に縁故が深く、明治維新までは当社から蓮の御供えと称する神選を献供し、春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっているそうです。
現在の本殿は明治9(1906)年に改築したもので、春日造檜皮葺、高欄、浜床、向拝彩色7種の華麗な同形の四社殿が末神の琴平神社と並列して美観を呈しています。拝殿は藁葺でこの地方では珍しい神社建築です。
鳥居は嘉永元(1848)年4月に奈良の春日若宮から下げられたものといわれています。
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竹之内町は
竹之内環濠集落があることで知られています。建武3(1336)年の記録(春日神社文書)にも現れる歴史の古い集落です。中世に築かれたと考えられる濠が集落の西側に現在も残っており、「竹之内環濠集落」として知られています。
奈良盆地には集落の周囲に濠をめぐらす「環濠集落」が多くみられます。一般に環濠集落は室町時代以降に出現したもので、戦国の動乱の中、外敵から集落を守るための防御施設として築かれたものと考えられています。現在も環濠の姿を留めている集落では、濠が用・排水に利用されている例が多いことから、もともとこうした濠は防御施設としての機能のほかに水利施設としての性格も兼ね備えていたとする見方もあります。
天理市には竹之内町のほかに、備前町、南六条町、庵治町溝幡が比較的よく姿を留める環濠集落として知られているほか、かつて環濠を有していた可能性がある集落も多数存在しています。
多くの環濠集落は盆地内の低地に営まれていますが、竹之内町は標高100m前後の見晴らしのよい斜面上にあり、環濠集落としては奈良盆地内でも最も高いところにあります。
竹之内町では集落西側の入口付近に最近まで残っていた環濠が埋め戻されて公園となっていますが、その北側には今も環濠が残り、往時の佇まいを偲ぶことができます。
(現地説明板などより)
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西山塚古墳は萱生町集落西端の緩斜面に位置する、古墳時代後期前葉の前方後円墳です。
前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけです。
墳丘は前方部二段、後円部三段になるものと思われ、現状では全長114m、後円部径
65m、後円部の高さ13m、前方部幅70m、前方部の高さ8mの規模を持ちます。
大和古墳群の中では唯一、前方部を北側に向けているのが特徴です。古墳の周囲を囲む幅12~20mの溜池は周濠の痕跡と考えられ、後円部南西側の溜池の外側には幅10m、高さ2mほどの外堤が残っています。
発掘調査は行われておらず、副葬品や埋葬施設は不明ですが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されています。明治20(1887)年ごろに墳頂部が開墾された際、石棺や勾玉、管玉、鈴、土器、人造石が出土したとの記述が『山辺郡誌』に見られますが、現在その所在は明らかになっていません。
なお、この古墳の南東に所在する西殿塚古墳が「手白香皇女衾田陵」に治定されていますが、西殿塚古墳が3世紀後半ごろの築造と考えられるのに対し、手白香皇女は6世紀後半ごろの人物であり、西山塚古墳が手白香皇女の真陵ではないかとする考え方があります。
(現地説明板などより)
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西殿塚古墳は東殿塚古墳と共に大和古墳群のなかで最も高いところに位置する前方後円墳で、ともに前方部を南に向けて築かれています。これら2基の古墳が築かれた丘陵の尾根上には、中山大塚古墳・燈籠山古墳などの前方後円墳が連なるように立地し、大和古墳群中山支群と呼ばれています。
西殿塚古墳は全長約230m、後円部径145m、前方部130mを測ります。墳丘は東側で三段、西側で四段の段築により形成されており、後円部および前方部の墳頂に方形壇が存在します。
現在、墳丘部分については「手白香皇女衾田陵」として宮内庁により管理されています。平成元年(1989)には宮内庁書陵部により墳丘の調査が実施され、墳丘の各所から特殊器台形土器や特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪などの遺物が採集されています。
また、平成5年(1993)~平成7年(1995)には天理市教育委員会により墳丘周辺の範囲確認調査がおこなわれ、墳丘東側くびれ部と前方部東掘において墳丘斜面の基底石と掘割(周濠相当の落ち込み)が存在することが確認されました。この調査の際にも、有段口縁が特徴の特殊円筒埴輪など多量の初期埴輪が出土しました。
西殿塚古墳・東殿塚古墳の築造時期については、これまでの発掘調査等で出土した初期埴輪からみて、特殊器台形埴輪を主体とする西殿塚古墳が先行し、次に朝顔形埴輪・円筒埴輪・鰭付楕円筒埴輪が出現する東殿塚古墳が築造されたものとみられます。しかし、出土遺物が示すそれぞれの古墳の時期に大きな隔たりはなく、埴輪の出現から成立期(3世紀後半)に連続的に築造されたものと考えられています。
(現地説明板などより)
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長岳寺は、山号は釜の口山、本尊は阿弥陀如来、高野山真言宗の寺院です。関西花の寺二十五霊場第19番札所です。
天長元(824)年に淳和天皇の勅願で弘法大師が開いたとされる古刹です。大和神社の神宮寺として創建された古刹であり、盛時には塔中四十八ヶ坊、衆徒三百余名を数えました。
花の寺として知られています。4月下旬から5月上旬だ。数多くのヒラドツツジが花開きます。
近くの天理市トレイルセンターで山の辺の道のハイカーはゆっくりと休養できます。
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崇神天皇陵は、行燈山古墳ともいう前方後円墳です。以前は景行天皇陵とされていましたが、慶応元(1865)年に崇神天皇陵と比定されました。
行燈山古墳は天理市柳本町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれています。現在は「崇神天皇陵」として宮内庁により管理され、アンド山古墳・南アンド山古墳を含む周辺の4基が陪塚に指定されています。
墳丘は全長242m、後円部径158m、前方部幅約100mを測り、前方部を北西に向けています。柳本古墳群では渋谷向谷古墳(景行天皇陵)に次ぐ大きさです。
墳丘は後円部、前方部ともに3段築成です。周濠は3ヶ所の渡り堤によって区切られ、前方部側は高い外堤によって囲まれていいますが、現在の状況は江戸時代末の柳本藩がおおなった修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものになっています。
周濠の護岸工事に先立つ宮内庁書陵部による調査では、円筒埴輪、土器が出土しました。また、江戸時代末の修陵の際に、後円部周濠の南東くびれ部から銅板が出土したと伝えられます。残されている拓本によると、片面には内行花文鏡が、もう一方の面には田の字形の文様が表現されています。
行燈山古墳の築造時期については、埴輪の特徴や銅板の存在から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、続けて築造された渋谷向谷古墳(景行天皇陵)とともに重要な古墳です
(現地説明板などより)
国道169号側に「御陵餅本舗」という店があり、名物「御陵やきもち」は前方後円墳の形をした餅でなかなかおいしいです。
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景行天皇陵は、渋谷向山古墳といい天理市渋谷町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は「景行天皇陵」として宮内庁により管理され、上の山古墳を含む古墳3基が陪塚に指定されています。
墳丘は全長約300m、後円部径約168m、前方部幅約170mを測り、前方部を西に向けています。古墳時代前期に築造されたものとしては国内最大の古墳です。墳丘の形状については諸説ありますが、後円部4段築成、前方部3段築成とする見方が有力です。また周濠は後円部6ケ所、前方部4ケ所の渡り堤によって区切られていますが、現在の状況は江戸時代末におこなわれた修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものです。
これまでの宮内庁書陵部の調査等により、普通円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪が確認されています。このほか、関西大学所蔵の伝渋谷出土石枕が本古墳出土とされたこともありますが、詳しいことは分かっていません。また、渋谷村出土との伝承がある三角縁神獣鏡の存在も知られています。
渋谷向山古墳の築造時期については、埴輪の特徴から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、先に築造された行燈山古墳(崇神天皇陵)とともに重要な古墳です。
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纒向日代宮(まきむくひしろのみや)は景行天皇・大足彦忍代別命(オオタラシヒコヲシロワケ)が、即位後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた地です。
その立役者は、皇后の播磨稲日太郎姫(ハリマノイナヒヲイラツメ)との間に生まれた皇子の小碓尊(オウスノミコト)、別名、倭建命(日本武尊・ヤマトタケルノミコト)です。
倭建命は、天皇の命を受けて大和に従わない九州の熊襲(クマソ)や出雲の国へ、一度帰朝してまた東の国々へと遠征を重ね、次々に服従させていったという古代の英雄です。
「大和は国のまほろば たたづく青垣 山ごもれる 大和し美し」は、命が遠征の帰途、病を得て亡くなる時に、ふるさと大和への思いを詠まれた歌の一節とされています。(※日本書紀には、景行天皇が九州の日向国で詠んだ歌とされています。)
景行天皇の業績で注目すべきことは、日本の国の真の歴史並びに天成(アマナリ)の道(宗教・政治の理念)を子々孫々に遺すべしとの日本武尊の遺言に従い、五・七調の神代文字で記された秀眞伝(ホツマツタエ)文献を、三輪君の祖となる大直根子(オオタタネコ)に命じて編纂させ、後世に遺したことです。
(現地説明板などより)
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相撲神社は穴師坐兵主神社の摂社で野見宿彌を祀る神社です。
相撲は国土安穏,護国豊穣を祈る平和と繁栄の祭典であり,第11代垂仁天皇の7年,大兵主神社神域の小字カタヤケシにおいて、野見宿彌と大麻蹶速が初めて天皇の前で相撲をとり相撲節(七月七日)となりそれがもとで後世,宮中の行事となりました。これが日本の国技である相撲のはじまりとされています。
昭和37(1962)年10月6日,大兵主神社に日本相撲協会時津風理事長(元横綱双葉山)を祭主に二横綱(大鵬,柏戸)五大関(琴ヶ浜,北葉山,栃ノ海,佐田ノ山,栃光)をはじめ,幕内全力士が参列し、相撲発祥の地で顕彰大祭がおこなわれ,この境内のカタヤケシゆかりの土俵に於いて手数入りが奉納されました。
(現地説明板などより)
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桧原神社は、「元伊勢」とも呼ばれる神社です。大神神社の摂社で、大神神社と同じ三輪山を御神体としています。
神殿や拝殿の無い形式は昔の神社形式を伝えています。
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玄賓庵(げんぴあん)は、真言宗醍醐派の寺院です。
平安時代、高徳僧で名医でも有った玄賓僧都が隠棲したと伝える庵です。
謡曲で有名な「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたものです。
玄賓は弘仁9(818)年に亡くなりました。
(現地説明板などより)
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大美和の杜展望台は、狭井神社のそばにあり、大和三山(天香久山・畝傍山・耳成山)と二上山、金剛山、葛城山系、大和平野が見渡せる眺望スポットです。特定非営利活動法人地域活性化支援センターが主催する「恋人の聖地プロジェクト」により選定されたデートスポット「恋人の聖地」にも選定されています。
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