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ピズモのブログ一覧

2007年12月30日 イイね!

冬の北信ドライブ(3日目その2・中野市~小布施町~高山村~須坂)

次は中野市です。
高梨氏館跡は、東西約130m、南北約100mの規模で四方に土塁と堀がめぐる北信地方最大の中世の方形館跡です。
別名は中野城、中野小舘、高梨小舘、高梨城などいろいろあるようです。
本館跡は、平安時代末期に始まる頼季流信濃源氏の有力武士団である高梨氏の築造によるものと推測されます。高梨氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて北信地方で勢力を拡大し、室町時代後期までには中野地方を完全に支配下においたとみられ、この勢力拡大の過程の中で、この地に本拠地を構えたものと考えられます。
戦国時代、甲斐武田氏と越後上杉氏の抗争の中、高梨政頼はかねて親交の深かった上杉氏を頼り、越後に一時退去するなどの紆余曲折を経たのち、慶長3(1598)年に上杉氏が会津に移封されると、共に会津へ移りました。それに伴い館も廃館となったと考えられます。
館は、東側の鴨ヶ嶽城を詰の城としていました。
昭和61(1986)年から平成4(1992)年にかけて実施された公園整備のための発掘調査では、門跡一棟、礎石建物跡五棟、掘立柱建物七棟、庭園跡等が確認されました。
現在は、高梨小館城跡公園として整備されています。
平成19(2007)年、国の史跡に指定されました。


中野陣屋は、幕府領中野陣屋があった場所です。
陣屋がここに置かれたのは、織田信長死後の上杉陣屋を始めとすると伝えられています。
陣屋が置かれたのが確実になるのは、元和2(1616)年幕府代官陣屋以降になります。
中野陣屋は、慶応4(1868)年3月、天朝御料尾州取締所、同年8月伊奈県中野分局として明治3(1870)年9月からは中野県庁として使用されました。ところが同年12月の中野騒動で焼失し、中野町の嘆願にもかかわらず再建されず、長野へ県庁が移りました。県庁としてはわずか10ヶ月の命でした。今では石垣、陣屋井戸、陣屋稲荷が当時の名残をとどめています。また、陣屋跡に「中野陣屋・県庁記念館」が建っています。


更に南下し、小布施町です。ここは以前にも訪れたことがあります。「栗の和菓子」「美術館」などこじんまりとした町ですが、魅力的な町です。今回は町並みを楽しむ時間的余裕がないので、岩松院を訪れたのみです。
岩松院は文明4(1472)年雁田城主の荻野備後守常倫公の開基で、開山は不琢玄珪禅師です。
本堂は136.5坪。その他庫裡、鐘楼、座禅堂、仁王門があります。本尊仏は宝冠をいただく釈迦牟尼仏で、江戸時代初期(慶長かその直後)の作です。本堂内の天井画には葛飾北斎の八方睨み鳳凰図が描かれ見事なものです。
また、福島正則公の菩提寺としても知られています。安芸広島城主でしたが元和5(1619)年に改易され、信濃高井野藩4万5千石となりました。寛永元(1624)年、64歳でなくなり、岩松院の霊廟に埋葬されました。(写真下)
正則のこの地への左遷状や、文書、所用の品も展示してありました。


高山村には福島正則屋敷跡があります。福島正則屋敷跡はは東西57間半(約104.5m)、南北40間(72.7m)面積7反6畝(約76アール)あり、四方に高土塁を築き塁の外に空濠を廻らしてあったそうです。現在東北隅に高さ約2メートル、長さ約19メートルの土塁が残存しています。
福島正則は元和5(1619)年6月に安芸広島49万石を城地没収となり、上高井郡2万石、越後魚沼郡2万5千石併せて4万5千石の捨扶持を与えられ高井野の地に住居を定めました。
正則の在館年数はわずか数年でしたが、領内の検地を行い、高井野原の用水堤を開き松川治水の築堤西条新田の開拓など民政に尽くしました。
正則は、寛永元(1624)年7月13日64歳で病死しました。正則はかねて本村赤和に海福寺を興して菩提寺としようとしましたが、故あって位牌は領内雁田(小布施町)の岩松院に納められ、廟所も同寺境内に設けられました。
高井寺の西側に標柱が、門前に説明看板が建っています。


最後に須坂市を訪れました。
須坂陣屋は須坂藩堀家の陣屋跡です。
須坂藩は、「名人久太郎」といわれ、織田信長、豊臣秀吉に仕えた堀秀政の家老であった堀直政の家系です。堀直政は元々奥田直政といいましたが、秀政の従兄弟であることから堀姓を与えられました。須坂藩を立藩したのは、直政の四男、堀直重で1万石を領しました。幕末期の藩主・第13代堀直虎は、藩政改革に取り組み洋式軍制を取り入れ、幕府においても若年寄になりましたが、徳川慶喜に意見を聞き入れられず、江戸城中で自刃しました。
陣屋跡には初代直重と、13代直虎を祀る奥田神社が建立されています。須坂藩堀氏は明治維新後、奥田氏に復姓したとのことです。
その他、遺構は、須坂小学校北側に石垣が残っています。


須田城は臥竜山に築かれた山城です。
須田氏は鎌倉時代に、井上城主の井上氏の分家で、井上満実の子為実にはじまります。南北朝の頃、須田氏は南朝に属して功績がありました。
本拠の城は本郷にある大岩城で、蓮生寺の辺りに館を構えていました。従って、須田城は出城的な役割を果たしたと思われます。
須田氏は戦国時代の武田・上杉の争いで城主須田満親は上杉方につきました。慶長3(1598)年、上杉氏の会津への国替えに伴い、須田氏がこの地を離れた時に廃城になったと考えられています。
現在、城跡の臥竜山は臥竜公園の一部になっています。臥竜山には第十三代須坂藩主堀直虎の霊廟などがあります。山の麓は桜の名所としても知られています。


ここで史跡めぐりの旅は終わりです。牧之島城や、別所の塩田城なども時間があれば行きたかったのですが、きりがありません。
信州は佐久や、大町付近はまだ訪れていません。特に佐久は志賀城や、海ノ口城、長窪城、内山城あたり、そして、山梨県の北杜市あたりをセットにして、訪れてみたいと思います。
Posted at 2008/01/15 22:25:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年12月30日 イイね!

冬の北信ドライブ(3日目その1・長野市~飯縄町~信濃町~飯山市~栄村)

いよいよ最終日です。
昨日訪れた葛山城に近い、旭山城〔朝日山城〕を早朝から訪れました。旭山城は、長野市西側にあり、葛山城の南側の旭山に築かれた山城です。
弘治元年(1555)年、第二次川中島の戦いで栗田鶴寿が武田晴信(信玄)に味方し、旭山城に籠もりました。長尾景虎(上杉謙信)は旭山城の機能を減殺するため、葛山城を築きました。その後、今川義元の仲介で両軍は和睦し、和睦の条件として旭山城は破却されました。
しかし、弘治3(1557)年、武田方により葛山城が落城すると、長尾景虎は旭山城を再興し、拠点としました。
城跡には南側の旭山観世音付近から登ります。比較的高所まで車で登れるので、葛山城に比べ登城は楽でした。
主郭部は眺望はさほどではありませんが、見晴台からは長野市街地が一望できます。


次は長野市の北部長沼城です。長沼城は、戦国期から江戸初期にかけての平城です。この地は天然の要害である千曲川、また北国街道(越後街道)に通じる渡河地点として海津城に次ぐ北信濃の最重要拠点でした。
元は太田荘地頭の島津氏の居城でした。
戦国時代、武田晴信(信玄)の北信濃侵攻により弘治3(1557)年、葛山城が落城すると、島津忠直(月下斎)は、城から退却し、長沼城は武田氏のものとなりました。
永禄11(1568)年、馬場信房(信春)により、城は改修されました。
天正10(1582)年、武田氏滅亡後は織田信長の将森長可の城となりましたが、本能寺の変後は上杉景勝の城となり、かつての領主島津忠直が城主となりました。
慶長3(1598)年、上杉景勝が会津に移封されると、島津忠直は陸奥の長沼城(須賀川市・旧長沼町)へ移りました。
元和元(1615)年、佐久間勝元が長沼藩1万8千石の城主となりました。長沼藩は元禄元(1688)年、4代目藩主佐久間勝親のときに除封されて、天領となったため廃城となりました。
城址は洪水のために流出したため、遺構などは残っていません。
千曲川の堤防道路沿い、貞心寺に盛り土があるところに石碑があります。そこは天王宮が祀られたところで、城本丸はここより北200mのところにあったとのことです。


次は長野市と上水内郡飯綱町(旧牟礼村)の境界付近にある山城、髻山城です。
城の東側には、近世の北国街道と中世の主要道路(神代坂)が通っている越後と信濃を結ぶ交通の要所です。戦国時代数次の川中島合戦において葛山,大峰,旭山,横山,飯山の諸城と共に上杉方の重要な城でした。
弘治3(1557)年の第2次川中島の戦いでは、麓の上野原で武田軍と上杉軍が戦いました。また永禄4(1561)年第四次の川中島大決戦後は北信濃が武田軍のものとなったため、武田信玄により修築整備されました。
平成19(2007)年の大河ドラマ「風林火山」では、川中島の決戦後、善光寺の本陣(横山城?)に戻った上杉政虎(謙信)が、「髻山で首実験を行う」という台詞がありました。
永禄7(1564)年、直江実綱 は飯山城に入った謙信に対し、「敵もとどり山へ小旗45本にて、毎日武具致し候」と書状を送っています。
城跡は、石垣や堀切なども残っていて、景色も良い山城です。


北国街道を北上し、野尻湖近くの信濃町、割ヶ嶽城を訪れました。
割ヶ嶽城は、柴津の城山に築かれた城です。標高767.8m、麓の集落から120mほど登る険しい山です。斑尾火山の寄生火山で輝石安山岩でできた山です。
北には野尻湖から信越国境を望み、東に豊田から飯山、西に柏原、南には三水、牟礼へとつながる交通の要所にあたります。頂上には本丸などがあった7つの曲輪と堀があります。城へ登る大手道もかなり残されていて、信濃町では最も良く残された城跡です。もとは柴津為信という在地領主の城であったといわれていますが、戦国時代には信越の前線にあって重要な軍事拠点となっていたようです。
永禄4(1561)年5月には、上杉政虎(謙信)の関東出兵の時に、武田信玄は、多田淡路守満頼、浦野民部左衛門遠隅、原美濃守虎胤(鬼美濃)に命じ、割ヶ嶽城を攻め落とされました。
この城の攻略が激戦となった9月の第四次川中島の戦いの原因となりました。原虎胤は、ここの城の攻略戦で負傷し、川中島の戦いには参加できませんでした。
城跡は南側の民家の庭先から登ります。城址は堀切などが残っています。


次は飯山市です。
綱切橋〔安田の渡し・綱切りの渡し〕を訪れました。
永禄4(1561)年、第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)の後、上杉政虎(謙信)は、和田喜兵衛を従え、落武者狩りの目を避けながら、千曲川の安田の渡しを小菅権現(現在の飯山市、瑞穂小菅神社)の導きで安田の渡しを渡ることができました。和田喜兵衛は野武士の追っ手を行く手を断つため、渡し場の水面に張ってあった大綱を切り落とし、船の往来ができないようにしました。
現在、渡しのあった上流には綱切橋が掛けられています。


飯山城は泉氏の居城でしたが、後に上杉謙信の属城となり、永禄7(1564)年頃武田信玄の侵攻に備えて築かれました。
天正11(1583)年上杉景勝が岩井信能に命じ、修築を行いました。
慶長3(1598)年上杉氏の会津移封後は、関、皆川、堀、佐久間、松平、永井、青山氏が城主となりましたが、享保2(1717)年からは、本多助芳(康重の子孫)が移封され明治維新まで本多氏が城主でした。
城跡は本丸は葵神社、二の丸は城址公園となっています。また、城門が復元されています。飯山市柳原南条の丸山家に残されていた長屋門で、飯山城関係の門の可能性があるとのことで、平成5(1993)年の丸山家の旧住居の解体に伴い、移築復元したものです。平成4(1992)年の南中門などの遺構が発掘され、規模構造を南中門にあわせて復元したとのことです。


英岩寺は曹洞宗の寺院で長峰山英岩寺といいます。永仁年間天台宗の修験道場として創立されたと伝えられています。
当時は江岸寺といいました。戦国時代に衰微しましたが、文禄4(1595)年高源七世通庵寿貫和尚によって栄巌寺として中興され、安永年中に英岩寺と改名して現在に至っています。
現在の本堂は安永3(1774)年に建立されたものです。
境内には鬼小島弥太郎の墓があります。戦国時代の上杉謙信の家臣で小島弥太郎といいますが、その武勇のため「鬼小島」と称せられました。
永禄4(1561)年9月10日の第四次の川中島大激戦は、前半は上杉軍が有利に戦を進め、後半は武田軍が優勢の内に、謙信は主従数騎逃れて安田の渡しにさしかかりました。伝承によれば、この時謙信に従うもの小島弥太郎ただ一騎であったといいます。
千曲川を渡った謙信主従は追っ手を遮るために渡綱を切って落とし、市ノ口から小佐原にさしかかりましたが、弥太郎は前日来深手に耐えかね、主君の無事を祈りながら割腹して果てました。
鬼小島弥太郎最後の地というので、後人この所を鬼が峯と呼ぶようになったと伝えられています。
この鬼小島弥太郎の墓は鬼が峯と数百メートル隔てる英岩寺墓地に文禄4(1595)年、弥太郎ゆかりの者によって建てられたものと推定されています。弥太郎は伝説が多い人物で、鬼小島弥太郎戦死の地というのが長岡市(旧栃尾市)の大野の天神山にもあるそうです。


飯山市から栄村に向けて北上すると、上野の館〔大蔵崎館〕がありました。上野の中世館跡は大倉崎館跡とも呼ばれる中世(鎌倉~室町時代)の豪族が居住した館跡です。館主については竹内源内という言い伝えがありますが、今のところははっきりしたことは分かっていません。千曲川に接した要害の地に築城し、中世の争乱期における地方豪族の居城としては典型的な様相を示しています。館は東を千曲川の断崖に接し、北・西・南を幅10m、深さ5m以上の壮大な堀で囲んでいます。堀の長さは北辺が34m、西辺が104m、南辺が42mあります。
昭和63(1988)年、国道117号の常磐大橋が館の中央に建設されることから発掘調査が行われました。その結果、中国から輸入された白磁、青磁、能登半島で焼かれた珠州焼、越前焼、美濃・瀬戸焼等の焼き物の他、中国銭、鎧の一部の小札、釘などの鉄製品、茶臼、硯など貴重な品が多く発見されました。
これらのことから14~15世紀頃、当地には有力な豪族(武将)が居城していた想像されます。なお、現在は国道117号により南北に二つに分断されていますが、土塁や堀などは現在でもよく残っており、当時の面影を今に伝えています。
この城の断崖は、越後から平丸峠などの関田山脈を越えて運ばれてくる塩屋魚などの海産物を積み込んだ拠点でもありました。城崖に残る棚のように続く通路跡は無風の碑に人力で通船(帆船)を引き揚げた往時を偲ばせる貴重な遺構です。
国道117号を走っていて偶然発見しました。常盤大橋西詰に大きな説明看板があります。


栄村の森宮野原駅です。森宮野原駅は長野県下水内郡(しもみのちぐん)栄村にあるJR飯山線の駅です。
昭和20(1945)年、2月12日に7.85mの積雪があり、JR日本最高積雪地点を示す標柱が立っています。
さすがに栄村付近では雪を見かけますが、12月末はまだ豪雪と言うには至らない感じです。


信越国境の栄村に来た目的の、内池館〔中野氏、市河氏館〕です。市河氏は信越国境付近のこの地を治めていた豪族です。
市河氏は甲斐市川郷の出身で鎌倉時代に中野氏から志久見郷を手に入れてこの地を治めました。戦国時代には当主市川藤若(市河房幸)は、武田氏に仕えました。
市河氏は、武田氏滅亡後は上杉氏に仕え、会津、米沢へと移住しました。そして、明治維新後は北海道へ移住しました。昭和44(1969)年、「市河文書」の中にに当時の市河藤若を「山本菅助」が使者に訪れ、「くわしくは山本管助が口上で申し上げる」という意味のことが記されている文書が発見され、実在が疑われていた山本勘助の存在が証明されました。
平成19(2007)年の大河ドラマ風林火山第32回「越後潜入」で「市河氏館跡碑」が紹介されていたので興味を持ち、訪れました。
場所がわかりにくいですが、志久見地区には、「内池館」と書かれている小さな木の標識が建てられていました。集落の西側の小高い所へ行くと、人家はなく、辺り一面農地が広がっているところに石碑が建っています。


栄村の秋山郷や、越後国も興味がありますが、今回は国境をこえることはありません。このまま、中野市へ戻ることにします。
Posted at 2008/01/13 18:01:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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