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ピズモのブログ一覧

2009年05月03日 イイね!

天地人紀行(2日目その3・天地人紀行番外編、北越戦争紀行・小千谷市)

小千谷に入りました。
ここからは天地人から少し離れて幕末の「北越戦争」の史跡めぐりです。
慈眼寺(じげんじ)は、正式には船岡山観音院慈眼寺という真言宗智山派の寺院です。
白鳳時代、天武天皇の時代に薩明大徳が創建したと伝えられています。
観音堂のご本尊聖観世音菩薩は、大同年間にこの地に来られた弘法大師が彫られたものと伝えられています。
元禄4(1691)年にはご本尊を江戸に奉じて出開帳したところ、参拝の善男善女が押しかけたため、60日も開帳法会を行ったそうです。徳川綱吉公もわざわざ参詣したそうです。
慶応4(1868)年5月2日(旧暦)には越後長岡藩家老河井継之助と新政府軍監の岩村精一郎(のちの岩村高俊)が会談したことで知られています。河井は中立和平を訴えましたが、決裂し、戊辰戦争の内でも激戦として知られる北越戦争に突入しました。
作家司馬遼太郎は河井継之助を主人公とする小説「峠」の中でこの談判を追想して「継之助の恨みは、この北越の野になお息づいているのであろう」と書きました。談判の間は今も当時のまま保存されています。
平成16(2004)年10月23日の中越大震災により再建不可能と思われるほど壊滅的な被害を受けましたが、大勢の寄進者のおかげで再建を遂げました。ご本尊は住職一代につき一回しか開帳されない秘仏でしたが、大震災以降、常時開帳することになりました。
境内には、山門、船岡観音堂、慈眼寺本堂、庫裡、小千谷幼稚園などの建物と岩村軍監、河井総督会見談判所(本堂内)、同上記念碑の戊辰史蹟などがあります。
岩村河井会見記念碑は、昭和14(1939)年、当山先代住職船岡芳快の発願によって建てられたもので、碑文は徳富蘇峰の撰、篆額と書は、小千谷市出身の島田博の筆です。
慈眼寺(小千谷市) - 01
慈眼寺(小千谷市) - 01 posted by (C)pismo

慈眼寺(小千谷市) - 02
慈眼寺(小千谷市) - 02 posted by (C)pismo

慈眼寺(小千谷市) - 03
慈眼寺(小千谷市) - 03 posted by (C)pismo

浦柄神社は、浦柄地区から朝日山への入口にあります。
境内には「戊辰戦蹟記念碑」「朝日山殉難者墓碑」があります。
「戊辰戦蹟記念碑」は、山本五十六の書で昭和16(1941)年に建立されたものです。
「朝日山殉難者墓碑」については、北越戦争で長岡・会津藩等同盟軍(東軍)と新政府軍(西軍)が激戦を繰り広げた朝日山で戦後、東軍の遺体は西軍により埋葬を禁じられ、中でも会津藩兵には厳しい放置を命じましたが、小栗山村(現在の小千谷市大字小栗山)の福生寺住職や、浦柄村の人々が昭和28(1953)年に戦死の地に墓標を建て、遺体を手厚く葬ると同時に22基の石碑を建てて英霊を祀ったものです。墓標の中にはに会津藩の少年で新国英之助(16歳)がありますが、これは戦後20数年を経て父が遺体を探し当て建立したものだそうです。
浦柄神社(小千谷市) - 01
浦柄神社(小千谷市) - 01 posted by (C)pismo

浦柄神社(小千谷市) - 02
浦柄神社(小千谷市) - 02 posted by (C)pismo

浦柄神社(小千谷市) - 03
浦柄神社(小千谷市) - 03 posted by (C)pismo

朝日山古戦場は、北越戦争の激戦地です。
この地は、もともと大平木(大開)と称していたが、北越戊辰戦争の激戦地であることから、朝日山と称されるようになりました。一説には麓から見上げた西軍兵が、山頂に輝く朝日を見たので名づけたというが定かではないそうです。
慶応4(1868)年5月10日、三国街道の榎峠で始まった戦いは、翌11日午後3時ころから、朝日山の争奪戦となりました。その間にあった浦柄の集落には、火が放たれ、村人は逃げまどいました。
東軍は長岡・会津・桑名藩兵と衝鉾隊。西軍は薩摩・長州両藩兵と信越諸藩の兵で構成されていました。雨中、山頂を制したのは東軍兵でした。早速、大砲をあげ、麓の西軍兵を砲撃しました。
5月13日早朝、長州藩参謀時山直八は奇兵隊を率い、朝日山を攻撃しましたが桑名藩雷神隊長立見鑑三郎らの逆襲に会い落命しました。
西軍参謀山県狂介は、時山の首級と対面し落涙したそうです。この戦いを山県は「あだ守る砦のかがり影ふけて夏も身にしむ越の山風」と詠みました。
攻撃に難を感じた征討軍は作戦を変え、直接長岡城をめざし、信濃川西岸を進攻しました。
古戦場には車道があるものの狭いため、浦柄神社付近に「車では登れません」と書いてありました。軽自動車なら注意して登ればいけそうでしたが。神社からは徒歩40分程度。頂上には東軍陣地の塹壕跡、東軍兵士の墓、展望所などがあります。
朝日山古戦場(小千谷市) - 01
朝日山古戦場(小千谷市) - 01 posted by (C)pismo

朝日山古戦場(小千谷市) - 02
朝日山古戦場(小千谷市) - 02 posted by (C)pismo

朝日山古戦場(小千谷市) - 03
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朝日山古戦場(小千谷市) - 04
朝日山古戦場(小千谷市) - 04 posted by (C)pismo

朝日山古戦場(小千谷市) - 05
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朝日山古戦場(小千谷市) - 06
朝日山古戦場(小千谷市) - 06 posted by (C)pismo

朝日山古戦場(小千谷市) - 07
朝日山古戦場(小千谷市) - 07 posted by (C)pismo

朝日山古戦場(小千谷市) - 08
朝日山古戦場(小千谷市) - 08 posted by (C)pismo

朝日山古戦場(小千谷市) - 09
朝日山古戦場(小千谷市) - 09 posted by (C)pismo

もうかなり周りが暗くなってきたのであわてて下山しました。夜の古戦場は少し怖いので・・・
この日は長岡市内に宿泊しました。
Posted at 2009/05/24 12:49:03 | コメント(4) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年05月03日 イイね!

天地人紀行(2日目その2・南魚沼市〔旧塩沢町エリア〕~湯沢町)

雲洞庵は、金城山の麓にある曹洞宗の寺院です。
養老元(717)年に藤原氏ゆかりの尼寺として開かれましたが衰退し、室町時代に上杉憲実が、藤原氏の末裔であることから曹洞宗の寺院として再建しました。
戦国時代には十世、北高全祝禅師は越後の国主上杉謙信、甲斐の国主武田信玄の禅の師として活躍したそうです。また、上杉景勝やその家臣である直江兼続が幼少期に北高全祝より勉学を学んだ寺とされています。
越後国では、「雲洞庵の土踏んだか」「関興寺の味噌なめたか」という言葉があります。雲洞庵には赤門から本堂正面までの石畳の下に法華経が一石一字ずつ刻まれていて、踏みしめてお参りすると御利益があるそうです。そこから「雲洞庵の土踏んだか」という言葉が生まれたそうです。
宝物館では上杉氏ゆかりの品々を見ることができます。
ここは、多くの観光客が押し寄せていました。駐車場のキャパを完全にオーバーしており、周辺は渋滞していました。普段は静かな落ち着いた雰囲気なのでしょうが。やはり天地人で景勝、兼続が幼少時に学問を学んだシーンが数多くあったので、視聴者にとっても一番興味のあるスポットなのでしょう。
雲洞庵 - 01
雲洞庵 - 01 posted by (C)pismo

雲洞庵 - 02
雲洞庵 - 02 posted by (C)pismo

雲洞庵 - 03
雲洞庵 - 03 posted by (C)pismo

雲洞庵 - 04
雲洞庵 - 04 posted by (C)pismo

雲洞庵 - 05
雲洞庵 - 05 posted by (C)pismo

雲洞庵 - 06
雲洞庵 - 06 posted by (C)pismo

関興寺は正式には最上山関興寺といい、臨済宗円覚寺派の寺院です。
本尊は釈迦牟尼佛です。
応永17(1410)年、上杉憲顕の子、覚翁祖伝和尚が開基しました。上山の地に一宇を建て、白崖和尚を請じて開山とし自らその次位となりました。
上田長尾氏、鎌倉公方足利持氏が帰依しました。
天正6(1578)年の御館の乱により堂于を焼失しました。その際関興寺に納められていた上杉家寄進の大般若経六百巻は味噌桶の中に埋められて難を逃れました。
このことから御利益のある「関興寺の味噌なめたか」との言葉が生まれたと伝えられています。
また、境内には南方稲荷があります。これは御館の乱の時、形勢不利な景勝軍に三百余人を率いて加勢した渡邉藤兵衛が戦後論功行賞の際に八方探したが見つからず、武具が稲荷の祠の前に脱ぎ捨ててあるのが発見されたのみで、このことから藤兵衛を稲荷権現の化身であったという噂が立ち、景勝が城の南方にあることから南方稲荷権現と名付けたと言われています。
天正14(1586)年、上杉景勝により諸堂が再建されました。しかし、再び焼失の難に遭い、寺は衰退の道を辿りました。
慶長5(1600)年、上杉景勝が米沢に移封せれると第三十二世東岩和尚が米沢に新たに関興庵を建立しました。
寛永6(1629)年、火災により再び焼失、寛文4(1571)年に米沢から現在地に寺を移し、萬源和尚を迎え再興し、末寺嘉祥庵を改め関興寺としました。
関興寺 - 01
関興寺 - 01 posted by (C)pismo

関興寺 - 02
関興寺 - 02 posted by (C)pismo

関興寺 - 03
関興寺 - 03 posted by (C)pismo

関興寺 - 04
関興寺 - 04 posted by (C)pismo

関興寺 - 05
関興寺 - 05 posted by (C)pismo

樺沢城の築城時期は不明ですが、南北朝時代は新田義貞の家臣である田中右衛門尉の居城していたと言われています。
戦国時代は、上田長尾氏の家臣栗林氏が城代をつとめていました。
上杉謙信の関東出兵の際の宿城としても機能していたようです。
長尾政景夫人の仙桃院もこの城にいたという説があり、弘治元(1555)年、長尾政景と仙桃院の子卯松(後の上杉景勝)もここで生まれたとも言われています。
御館の乱の際には上杉景虎の兄である北条氏政は北条氏照、氏邦に命じ大軍を率いて三国峠を越境し、上田の庄(魚沼)に乱入し、樺沢城を攻略し激しい戦いが繰り広げられました。国境近くの荒戸城とともに樺沢城は落城し、北条軍は樺沢城を本拠として坂戸城などを攻撃しましたが、雪に阻まれ一部を残して撤退しました。
当初景勝軍は劣勢でしたが、武田勝頼を味方につけた景勝は戦いに勝利し、樺沢城の奪回にも成功しました。
この戦いにおいて当城の番将である栗林政頼は「肥前守」の位を与えられ、樺沢城主を命じられました。
慶長3(1598)年に景勝は豊臣秀吉から会津に国替えを命じられ、樺沢城はそのころ廃城になったと考えられています。
城跡保存会が城郭保存に熱心に取り組んだそうで、遺構その他城下には上田衆家臣団等の屋敷跡についてあちこちに石碑が建てられています。城内には上杉景勝の胞衣塚、郭、堀切などが残っています。
樺沢城 - 01
樺沢城 - 01 posted by (C)pismo

樺沢城 - 02
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樺沢城 - 03
樺沢城 - 03 posted by (C)pismo

樺沢城 - 04
樺沢城 - 04 posted by (C)pismo

樺沢城 - 05
樺沢城 - 05 posted by (C)pismo

樺沢城 - 06
樺沢城 - 06 posted by (C)pismo

樺沢城 - 07
樺沢城 - 07 posted by (C)pismo

樺沢城 - 08
樺沢城 - 08 posted by (C)pismo

樺沢城 - 09
樺沢城 - 09 posted by (C)pismo

樺沢城 - 10
樺沢城 - 10 posted by (C)pismo

樺沢城 - 11
樺沢城 - 11 posted by (C)pismo

龍澤寺は、臨済宗円覚寺派の寺院です。山号は福聚山です。
応永27(1420)年に不蔵青単禅師により開創されました。開山は夢庵祖観禅師です。
現在の伽藍は、元文2(1737)年再建のものです。本尊は智慧の仏様「文殊菩薩」(大聖文殊師利菩薩)です。
樺沢城のすぐ隣にあり、境内には上杉景勝公生誕之地碑や、山門下には「仙桃院のお花畑」の碑があります。仙桃院は樺沢城下の御館近くに薬草園を兼ねて花々を愛し育てたといわれるそうです。正しくは碑のあるところから南西150m先で、現在はJRの鉄道敷になっているそうです。
本堂内では上杉謙信公の御朱印状、長尾政景公夫婦画像などを見ることができます。
龍沢寺 - 1
龍沢寺 - 1 posted by (C)pismo

龍沢寺 - 2
龍沢寺 - 2 posted by (C)pismo

龍沢寺 - 3
龍沢寺 - 3 posted by (C)pismo

龍沢寺 - 4
龍沢寺 - 4 posted by (C)pismo

龍沢寺 - 5
龍沢寺 - 5 posted by (C)pismo

次は南下し湯沢町です。
荒戸城は天正6(1578)年の御館の乱の際、景勝は景虎救援の小田原北条軍を阻止するため、登坂与衛門尉に命じ三国街道を見下ろす芝原峠に築いた城です。
景勝の命を受けた坂戸城将の深沢利重・樋口主水助兼久(兼続の一族)らは、坂戸・荒戸の二城に兵力を結集し防備を固めます。しかし、荒戸城・樺沢城は北条軍によって攻略され、北条軍は坂戸城の景勝軍と対峙しました。冬を前に関東への退路を経たれることを恐れた北条軍は、河田重親・北条高広らを樺沢城に残し撤退しました。
翌天正7(1579)年3月、雪解け前を狙い北条氏の援軍が来ない前に景勝軍は荒戸城を奪還しました。それ以後は三国街道監視のために城代が置かれましたが、慶長三年(1598)、上杉景勝の会津移封により廃城となりました。
土塁で固めた本丸跡を中心に空堀で囲まれた二ノ丸と三ノ丸があり、郭の入口は外桝形で固められた小規模ながら堅固な城であり、中世の山城の形態を伝えるものとして昭和51(1976)年3月31日、新潟県指定文化財(史跡)となっています。
荒戸城 - 01
荒戸城 - 01 posted by (C)pismo

荒戸城 - 02
荒戸城 - 02 posted by (C)pismo

荒戸城 - 03
荒戸城 - 03 posted by (C)pismo

荒戸城 - 04
荒戸城 - 04 posted by (C)pismo

荒戸城 - 05
荒戸城 - 05 posted by (C)pismo

荒戸城は、写真ではわかりにくいですが、まだ雪が残っていました。さすがに日本有数の豪雪地帯です。
湯沢周辺は良いスキー場が多く関東の人は訪れる人も多いようです。いつかこの辺でスキーも楽しんでみたいものです。お酒もおいしいらしいですし。
この日はここでもう夕方になってしまっています。先を急ぎますので、高速道路に乗り、小千谷、長岡を目指します。


Posted at 2009/05/23 23:56:01 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年05月03日 イイね!

天地人紀行(2日目その1・直峰城から坂戸城周辺の南魚沼市〔六日町エリア〕の史跡探訪)

2日目です。この日は上杉景勝、直江兼続の生誕地、南魚沼市を目指します。
途中、直江兼続の父樋口兼豊が城主に任ぜられた直峰城に行ってみました。
直峰城は築城時期は不明ですが、南北朝時代に新田義貞に味方した南朝方の武将風間信濃守信昭の居城でした。
風間信濃守信昭は、越後南朝方の武将として越後のみならず北陸、関東、信濃へも出陣して活躍しました。戦歴を偲んで毎年5月8日には風間祭が催されるそうです。
戦国時代は、越後守護代長尾為景の家臣、吉田周防守英忠が城主でした。上杉謙信の時代は城主は不明ですが、越後府中から関東へ通じる三国街道を眼下に望む直峰城は戦略上重要視され上杉謙信死後の御館の乱では城主の長尾景明は景虎方に味方しましたが、策略により自害し、景勝方の小日向隼人佐が城将となりました。
御館の乱は景勝方の勝利となり、直峰城は御館の乱で戦功のあった直江兼続の父、樋口兼豊に与えられました。
上杉景勝の会津移封後、越後は堀秀治の所領となり、直峰城には家臣の堀光親が在城しました。
しかし、慶長15(1610)年、堀氏が除封されたため、廃城となりました。
昭和34(1959)年、新潟県の史跡に指定されています。
城跡は公園として整備され、中腹まで車で登ることが出来ます。郭には、家臣の屋敷跡である旨を示す木製の標柱があちことに建てられています。
直峰城 - 01
直峰城 - 01 posted by (C)pismo

直峰城 - 02
直峰城 - 02 posted by (C)pismo

直峰城 - 03
直峰城 - 03 posted by (C)pismo

直峰城 - 04
直峰城 - 04 posted by (C)pismo

直峰城 - 05
直峰城 - 05 posted by (C)pismo

直峰城 - 06
直峰城 - 06 posted by (C)pismo

直峰城 - 07
直峰城 - 07 posted by (C)pismo

直峰城 - 08
直峰城 - 08 posted by (C)pismo

直峰城 - 09
直峰城 - 09 posted by (C)pismo

直峰城 - 10
直峰城 - 10 posted by (C)pismo

直峰城 - 11
直峰城 - 11 posted by (C)pismo

直峰城 - 12
直峰城 - 12 posted by (C)pismo

南魚沼市に入り、六日町の駅前に行くと周りは「天地人」一色です。
南魚沼市役所前には、現在の南魚沼市の出身、上杉景勝、直江兼続主従のレリーフが建てられています。
左が上杉景勝、右が直江兼続です。
南魚沼市役所前「上杉景勝・直江兼続レリーフ」 - 1
南魚沼市役所前「上杉景勝・直江兼続レリーフ」 - 1 posted by (C)pismo

南魚沼市役所前「上杉景勝・直江兼続レリーフ」 - 2
南魚沼市役所前「上杉景勝・直江兼続レリーフ」 - 2 posted by (C)pismo

愛・天地人博は、平成21(2009)年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公である「直江兼続」の生誕地である南魚沼で開催される博覧会です。
大河ドラマゾーン、南魚沼ゾーンとあり、南魚沼で行われたロケの様子や、南魚沼市の見所などの展示があります。
土産物コーナーも南魚沼産コシヒカリ、日本酒、直江兼続に関連するグッズの販売など充実しています。
入場者に大人は南魚沼産コシヒカリ1合、小人は愛の3点セットがプレゼントされます。
六日町駅前
六日町駅前 posted by (C)pismo

愛・天地人博
愛・天地人博 posted by (C)pismo

直江兼続公伝世館は、坂戸城近くの銭渕公園内にある資料館です。
兼続の生家の雰囲気を出した古民家の中に、甲冑のレプリカや古文書の写しなどを展示しています。
直江兼続公伝世館
直江兼続公伝世館 posted by (C)pismo

銭渕公園は、坂戸城にとって外堀の役目を果たしていた魚野川が、坂戸山裾にぶつかり大きく蛇行し、渦巻いていたところにありかつては「野田尻ヶ淵(野尻池)」(銭淵)と呼ばれていました。
長尾政景が溺死したのはここだったという説もあります。
平成8(1996)年に河川改修されて、銭淵公園となっています。
銭渕公園 - 1
銭渕公園 - 1 posted by (C)pismo

銭渕公園 - 2
銭渕公園 - 2 posted by (C)pismo

坂戸城の築城時期は不明ですが、南北朝時代に越後守護上杉氏の家臣長尾氏がこの上田荘に入り、領国支配をはじめたといわれています。以後、上田長尾氏は守護代長尾氏と並んで越後と関東を結ぶ交通路の抑えとして重要な位置を占めました。
戦国時代には長尾房長、政景が活躍し守護代長尾家、栖吉長尾家などの同族と反目しました。上杉謙信の父である守護代長尾為景と守護上杉氏が争った永正の争乱(16世紀)に長尾房長により山頂部から山麓部にかけて本格的な山城となりました。
守護代長尾家は長尾為景の死後家督を嗣いだ晴景が病弱で、越後は晴景派と弟の景虎(後の上杉謙信)派に分かれて戦いが繰り広げられましたが、坂戸城主の長尾房長、政景は晴景に味方しました。天文17(1548)年、守護上杉定実の仲介で長尾景虎が兄・晴景から守護代の座を譲り受けることで両派は和睦しましたが、政景らは従わず、景虎方の諸将と戦いを繰り広げました。
天文20(1551)年政景は景虎に臣従しました。その後、政景は景虎の重臣として仕え、春日山城の留守を預かるなど活躍しましたが、永禄7(1564)年、野尻池で宇佐美定満と舟遊び中に謎の死を遂げました。政景の子顕景は上杉謙信の養子となり上杉景勝となりました。
天正6(1578)年、上杉謙信(長尾景虎)の死によって「御館の乱」が勃発し景勝と、北条氏康の子で謙信の養子となった上杉三郎景虎が後継を巡って争いました。三郎景虎を支援する北条氏は滝山城の北条氏照を派遣し、樺沢城を占拠し坂戸城に来襲しましたが上田衆の奮戦もあり持ちこたえました。戦いは景勝が勝利し、越後国主となりました。
慶長3(1598)年、上杉景勝は会津へ転封となり、坂戸城には堀直竒が入城し、直竒は坂戸城を山麓の居館部を中心に近世城郭へと改修しました。しかし、慶長15(1610)年、直竒は信州飯山城へ転封となり廃城となりました。
山頂部一帯の郭から構成される実城、主水郭などの多くの郭と、山麓には石垣をもつ居館跡の御館などで構成される規模の大きな山城です。御館の石垣は堀氏時代のものと言われています。
居館跡には「上杉景勝、直江兼続生誕の地」の石碑が建っています。
山上の実城までは居館から片道1時間以上かかります。山上からの八海山などの眺めは最高です。天地人ブームで恐ろしく多くの人が来ていました。片道1時間以上かかる山城でこれだけ多くの人が来ているとは・・・昨日の春日山城以上の賑わいでした。
坂戸城 - 01
坂戸城 - 01 posted by (C)pismo

坂戸城 - 02
坂戸城 - 02 posted by (C)pismo

坂戸城 - 03
坂戸城 - 03 posted by (C)pismo

坂戸城 - 04
坂戸城 - 04 posted by (C)pismo

坂戸城 - 05
坂戸城 - 05 posted by (C)pismo

坂戸城 - 06
坂戸城 - 06 posted by (C)pismo

坂戸城 - 07
坂戸城 - 07 posted by (C)pismo

坂戸城 - 08
坂戸城 - 08 posted by (C)pismo

坂戸城 - 09内堀跡
坂戸城 - 09内堀跡 posted by (C)pismo

上田長尾氏史跡公園は、坂戸山麓にあります。かつては上杉景勝の実父長尾政景の菩提寺・龍言寺がありました。
長尾政景墓所のほか、歴代上田長尾氏及び直江兼続の供養塔が建てられています。

上田長尾氏史跡公園 - 01
上田長尾氏史跡公園 - 01 posted by (C)pismo

上田長尾氏史跡公園 - 02
上田長尾氏史跡公園 - 02 posted by (C)pismo

上田長尾氏史跡公園 - 03
上田長尾氏史跡公園 - 03 posted by (C)pismo

Posted at 2009/05/23 00:58:38 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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