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ピズモのブログ一覧

2015年11月01日 イイね!

迎賓館赤坂離宮と赤坂周辺散歩

迎賓館は、かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった広大な敷地の一部に、明治42(1909)年に東宮御所(後に赤坂離宮となる。)として建造されたものです。構造は鉄骨補強煉瓦造りで、地上2階、地下1階の耐震、耐火構造となっており、明治時代の建築家片山東熊の総指揮の下に、当時の一流建築家や美術工芸家が総力を挙げて建設した、日本における唯一のネオ・バロック様式の西洋風宮殿建築です。
この建物は、昭和天皇や今上天皇が一時期お住まいになった以外、東宮御所としてあまり使用されることがなく、戦後、建物、敷地共に皇室から行政に移管され、国立国会図書館、内閣法制局、東京オリンピック組織委員会などの公的機関に使用されていました。
この間、わが国が国際社会へ復帰し、国際関係が緊密化し、外国の賓客を迎えることが多くなったため、国の迎賓施設をつくる方針がたてられ、これに伴い建設地や施設内容等の検討を行った結果、昭和42(1967)年に「旧赤坂離宮」を改修してこれに充てることとなりました。
改修工事は昭和43(1968)年から5年有余の歳月と総額108億円の経費をかけて行われ、賓客に対し和風の接遇を行なうための別館の新設と合わせて、昭和49(1974)年に現在の迎賓館が完成しました。
開館以来、世界各国の国王、大統領、首相などの国賓、公賓がこの迎賓館に宿泊し、歓迎行事をはじめとし、政財学界要人との会談、レセプションでの懇談など、華々しい外交活動の舞台となっています。また、先進国首脳会議(1979、1986、1993)、日本・東南アジア諸国連合特別首脳会議(2003)などの重要な国際会議の会場としても使用されています。
平成18(2006)年から3年間、大規模な改修工事を行い、平成21(2009)年4月から迎賓施設としての運用を再開しました。同年12月、創設当時の建造物である旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)本館、正門、主庭噴水池等が国宝に指定されました。
平成27(2015)年11月1日から3日までの前庭公開を利用して、訪れました。本館及び主庭が公開されることもあります。
迎賓館赤坂離宮
迎賓館赤坂離宮 posted by (C)pismo

迎賓館赤坂離宮 (1)
迎賓館赤坂離宮 (1) posted by (C)pismo

迎賓館赤坂離宮 (2)
迎賓館赤坂離宮 (2) posted by (C)pismo

迎賓館赤坂離宮 (3)
迎賓館赤坂離宮 (3) posted by (C)pismo

迎賓館赤坂離宮 (4)
迎賓館赤坂離宮 (4) posted by (C)pismo

迎賓館赤坂離宮 (5)
迎賓館赤坂離宮 (5) posted by (C)pismo

迎賓館赤坂離宮 (6)
迎賓館赤坂離宮 (6) posted by (C)pismo

迎賓館赤坂離宮 (7)
迎賓館赤坂離宮 (7) posted by (C)pismo

迎賓館赤坂離宮 (8)
迎賓館赤坂離宮 (8) posted by (C)pismo


喰違見附は、江戸時代初期の慶長17(1612)年に甲州流兵学者の小幡景憲によって縄張りされたと伝わる、江戸城外郭門のひとつです。通常江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣を巡らしたものとなりますが、ここは土塁を前後に伸ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)構造となります。
この地域は、二つの谷に挟まれた、江戸城外堀の中では最も高い地形に立地するため、寛永13(1636)年築造の江戸城外郭門に先駆けて、江戸城防御の要として構築されたと考えられます。現在は一部土塁が削り取られているものの、その形状は保存されており、往時の様子を留めています。この遺構は江戸城築城史を捉える意味で重要です。
(現地説明板などより)
喰違見附
喰違見附 posted by (C)pismo

喰違見附 (1)
喰違見附 (1) posted by (C)pismo

この坂を紀尾井坂といいます。「新撰東京名所図会」には「喰遠より清水谷公園の方へ下る坂を称す」また「喰違内坂を、紀尾井坂といふ、蓋し此坂の両側に、紀州、尾州、井伊三公の邸宅ありしが故に、各頭字を取り名とせるものなりといふ」と記されています。
このあたりが紀尾井町と呼ばれているのもそのためです。また坂下が清水谷なので清水谷坂の別の名もあったといいます。
なお、明治11(1878)年5月に内務卿大久保利通公が殺害された事件は、この坂ではなく、麹町清水谷(清水谷公園付近)で起きています。「紀尾井坂の変」と誤って伝えられているのは、灯火を持ち馬車を先導した人物がこの坂を上っている最中に事件が発生したためです
(現地説明板などより)
紀尾井坂
紀尾井坂 posted by (C)pismo

紀尾井坂 (1)
紀尾井坂 (1) posted by (C)pismo

明治11(1878)年5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人びとに衝撃を与えました。
また、大久保の同僚であった明治政府の官僚達(西村捨三・金井之恭・奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場での周辺であるこの地に、明治21(1888)年5月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。
「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27mにもなります。石碑の材質は緑泥片岩。台座の材質は硬砂岩と思われます。
「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人びとの痕跡を残しつつ、この地にたたずんでいます。
碑がある清水谷公園は、明治23(1890)年から東京市の公園とされています。
井伊家との境目付近が谷だったことと、井伊家との境目付近の紀州徳川家の屋敷から清水が沸き出ていたことから、付近は「清水谷」と呼ばれていました。
石碑は、千代田区の文化財に指定されています。園内には麹町大通り拡幅工事の際に出土した玉川上水の石枡が展示してあります。
(現地説明板などより)
清水谷公園・大久保公哀悼碑
清水谷公園・大久保公哀悼碑 posted by (C)pismo

清水谷公園・大久保公哀悼碑 (1)
清水谷公園・大久保公哀悼碑 (1) posted by (C)pismo

この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。
明暦3(1657)年の大火の後、この地を拝領しました。紀伊徳川家は、徳川家康の十男頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は慶長8(1603)年常陸水戸藩主、ついで慶長14(1609)年駿河府中藩主を経て、元和5(1619)年に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています。石高はほぼ55万5000石でした。明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。
(現地説明板などより)
紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡
紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡 posted by (C)pismo

明治から亡くなるまでこの地に住んだ勝海舟の屋敷跡・勝安房邸跡です。
この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が明治5(1872)年の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な「氷川清話」などを遺しました。その時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5(1993)年春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校になったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成15(2003)年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。
(現地説明板などより)
勝安房邸跡
勝安房邸跡 posted by (C)pismo

勝安房邸跡 (1)
勝安房邸跡 (1) posted by (C)pismo

勝安房邸跡 (2)
勝安房邸跡 (2) posted by (C)pismo

幕末の動乱期の勝海舟邸跡です。
港区赤坂6丁目10番39号のソフトタウン赤坂が建つこの地は、幕末から明治にかけて幕臣として活躍した勝海舟が安政6(1859)年から明治元(1868)年まで住んだ旧跡です。
海舟は終生赤坂の地を愛し、3ヶ所に住みましたが、当初居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たります。海舟は号で名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めました。夫人は民子です。
海舟は文政6(1823)年、本所亀沢町の旗本屋敷、現墨田区両国4丁目の両国公園の地で、貧しい御家人の子として出生しました。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸、のちの福吉町、現赤坂2丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地に通って蘭学を学び、その縁から新婚23歳で赤坂田町中通り、現赤坂3丁目13番2号のみすじ通りの借家で所帯を持ちました。
36歳からは赤坂本氷川坂下、のちの氷川町のこの地に住みました。
明治元(1868)年45歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移りましたが、明治5(1872)年再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地、現赤坂6丁目6番14号に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5(1993)年春まで区立氷川小学校敷地として使われました。
当初に住み始めた翌年の安政7(1860)年、幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸艦長として上司の軍艦奉行木村摂津守、その従僕福沢諭吉らを乗せ、正使のの外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。
文久2(1862)年11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所です。
明治元(1868)年3月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救いました。
第1回会談は、高輪の薩摩藩邸品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪3丁目のホテルパシフィックの地で行われました。第2回については芝田町薩摩藩邸、のち三田四国町、現港区芝5丁目芝税務署辺りの地または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷の裏側にある民家、現港区芝5丁目の三菱自動車ビル周辺で行われたとの両説があります。いずれも当所居住中のことです。
明治維新では、明治元(1868)年5月、海舟の留守中に、一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入しましたが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞恵(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救いました。
海舟は終生赤坂の地を愛しましたが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木1丁目に、次いで洗足池に面して造られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
勝海舟邸跡
勝海舟邸跡 posted by (C)pismo

勝海舟邸跡 (1)
勝海舟邸跡 (1) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/11 18:03:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年11月01日 イイね!

子規庵・増上寺

東京で晩年を暮らした正岡子規の家・子規庵を訪れました。
夏も訪れましたが、(→横浜・八丈島・東京(4日目その1・伝馬町・根岸・上野・谷中・田端))その時は閉まっていたので再チャレンジです。「ひょうたん」が印象的です。
子規庵
子規庵 posted by (C)pismo

子規庵 (1)
子規庵 (1) posted by (C)pismo

子規庵 (2)
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子規庵 (3)
子規庵 (3) posted by (C)pismo

子規庵 (4)
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子規庵 (5)
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子規庵 (6)
子規庵 (6) posted by (C)pismo

子規庵 (7)
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子規庵 (8)
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子規庵 (9)
子規庵 (9) posted by (C)pismo

子規庵 (10)
子規庵 (10) posted by (C)pismo

子規庵 (11)
子規庵 (11) posted by (C)pismo

子規庵 (12)
子規庵 (12) posted by (C)pismo

増上寺は、山号は三縁山で三縁山広度院増上寺と称する浄土宗のの大本山です。
明徳4(1393)年に開山され、天正18(1590)年の徳川家康が関東入府の際に、増上寺の前を通りかかり源誉存応上人(普光観智国師存応大僧正)と対面したのがきっかけで徳川家の菩提寺になりました。
当初、増上寺は貝塚にあり、一時日比谷にありましたが、江戸城の拡張に伴い慶長3(1598)年に芝の現在地に移りました。寺領1万石、20数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。
その後、明治維新後の神仏分離の影響などにより寺域が縮小され、かつての寺域の一部は芝公園となりました。
太平洋戦争の空襲により、徳川家霊廟や五重塔が焼失。その後更に寺域が縮小され、徳川家霊廟跡地に東京プリンスホテルや、ザ・プリンスパークタワー東京などが建てられています。また、増上寺墓地の一部を取り壊して東京タワーが建設されました。当時の建築物として三解脱門などが残っています。徳川家霊廟は焼失後、昭和33(1958)年調査発掘され、その後桐ヶ谷斎場にて火葬され、墓所は安国殿裏手に移転しました。埋葬されているのは、二代秀忠、五代将軍兄弟の綱重、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人の将軍の他、女性では将軍正室として二代秀忠夫人崇源院、六代家宣夫人天英院、十一代家斉夫人広大院、十三代家定夫人天親院、十四代家茂夫人静寛院の5人、将軍の側室としては三代家光の桂昌院、六代家宣の月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人です。
正面右側に二代秀忠公の墓所があります。焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものでありました。しかし、惜しくも木造のため、戦災で焼失。現在は、内室崇源院と共に合祀されています。
静寛院宮の宝塔は当時のもので、実際、家茂公と並んで祀られていました。
増上寺
増上寺 posted by (C)pismo

増上寺 (1)
増上寺 (1) posted by (C)pismo

増上寺 (2)
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増上寺 (3)
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増上寺 (4)
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増上寺 (5)
増上寺 (5) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/09 23:21:46 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年11月01日 イイね!

試衛館跡・六義園・旧古河庭園・平塚神社

試衛館は、江戸市中にあった天然理心流の剣術道場で天保10(1839)年、近藤勇の養父である三代目近藤周助が開業しました。
4代目を近藤勇が嗣ぎ、土方歳三・沖田総司・井上源三郎・山南敬助、食客に永倉新八・原田左之助・藤堂平助・斎藤一といった新選組の中核をなす人物がこの道場にいました。
東京都営地下鉄大江戸線牛込柳町駅下車徒歩5分・柳町病院の東側の道路を南下(少し坂道)すると、駐車場脇に案内看板と、神社があります。
試衛館跡
試衛館跡 posted by (C)pismo

試衛館跡 (1)
試衛館跡 (1) posted by (C)pismo


六義園は、元禄15(1702)年、武蔵川越藩主柳沢出羽守吉保が築造した庭園です。
元禄8(1695年)年、五代将軍・徳川綱吉から与えられたこの地に、「回遊式築山泉水庭園」を造りました。ここは平坦な武蔵野の一隅だったので、庭を造るにあたり池を掘り、山を築き、千川上水の水を引いて大泉水にしました。
園の中央に池を設け、中島を置き島に妹背山があり、東南部に平坦な芝生、その他の部分には大小多数の築山が起伏し、園の北部に最大の築山藤代峠を設け、各所に桃の茶屋・滝口の茶屋・吟花亭・熱海の茶屋・つつじの茶屋・芦辺の茶屋等あづまやを配しています。その後改修、また今時大戦により焼失したものもあります。またこの庭園の作庭については、吉保自身の培った文芸趣味の思想に基づき、自分から設計七年余りの歳月を費やし池を掘り、山を築き流れを見せて、紀川和歌の浦の景勝を、あるいは「万策集」や「古今集」から名勝を選び園内に八十八景を写しだすという園の構成です。
 「六義園」の名は、中国の古い書物である毛詩に配されている賦・比・興・風・雅・頌の六義に由来する和歌の六体によるもので、吉保自身「むくさのその」と島呼ばせ、館を「六義館」と書いて「むくさのたち」と読ませています。

このような庭園も吉保が没した後は荒れる一方でしたが、文化七年にいたり漸く整備され、明治11(1878)年、付近の藤堂・安藤・前田の各氏邸とともに、明治時代に入って三菱の創業者である岩崎家の所有となりました。
明治38(1905)年には岩崎家が日露戦争から凱旋した連合艦隊司令長官東郷平八郎大将をはじめとする将兵6,000人を招待し、一大戦勝祝賀会を催しました。
昭和13(1938)年に岩崎久弥は東京市に寄付されて一般公開されました。昭和15(1940)年8月史跡名勝天然記念物保存法によって名勝の指定を受け、なお、昭和28(1895)年3月31日に国の特別名勝に指定されました。
六義園 (1)
六義園 (1) posted by (C)pismo

六義園
六義園 posted by (C)pismo

六義園 (2)
六義園 (2) posted by (C)pismo

六義園 (3)
六義園 (3) posted by (C)pismo

六義園 (4)
六義園 (4) posted by (C)pismo

六義園 (5)
六義園 (5) posted by (C)pismo

六義園 (6)
六義園 (6) posted by (C)pismo

六義園 (7)
六義園 (7) posted by (C)pismo

六義園 (8)
六義園 (8) posted by (C)pismo

六義園 (9)
六義園 (9) posted by (C)pismo

六義園 (10)
六義園 (10) posted by (C)pismo

六義園 (11)
六義園 (11) posted by (C)pismo

六義園 (12)
六義園 (12) posted by (C)pismo

六義園 (13)
六義園 (13) posted by (C)pismo

六義園 (14)
六義園 (14) posted by (C)pismo

旧古河庭園は、武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かし、北側の小高い丘には洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配したのが特徴です。
この庭園はもと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅でしたが、次男が古河家の養子になった時、古河家の所有となりました。尚、この当時の建物は現存していません。
現在の洋館と洋風庭園の設計者は、英国人ジョサイア・コンドル博士(1852~1920)です。博士は当園以外にも、旧岩崎邸庭園洋館、鹿鳴館、ニコライ堂などを設計し、我が国の建築界に多大な貢献をしました。
日本庭園の作庭者は、京都の庭師植治こと小川治兵衛(1860~1933)の手によるものであり、彼は当園以外にも、山県有朋の京都別邸である無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園、南禅寺界隈の財界人の別荘庭園などを作庭しました。
戦後、国へ所有権が移りましたが、地元の要望などを取り入れて、東京都が国から無償で借り受け、一般公開されました。
数少ない大正初期の庭園の原型を留める貴重な存在で、伝統的な手法と近代的な技術の融和により、和洋の見事な調和を実現している秀逸で代表的な事例であ り、また、現存する近代の庭園の中でも、極めて良好に保存されている数少ない重要な事例であるとして、平成18(2006)年1月26日に文化財保護法により国の名勝指定を受けました。
洋館は英国貴族の邸宅にならった古典様式で、天然スレート葺きのレンガ造りで外壁は真鶴産の赤味をおびた新小松石(安山岩)で仕上げられており、雨に濡れると落ち着いた色調をかもしだします。(洋館見学は事前往復ハガキによる申し込みが必要)
旧古河庭園
旧古河庭園 posted by (C)pismo

旧古河庭園 (1)
旧古河庭園 (1) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (2)
旧古河庭園 (2) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (3)
旧古河庭園 (3) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (4)
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旧古河庭園 (5)
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旧古河庭園 (6)
旧古河庭園 (6) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (7)
旧古河庭園 (7) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (8)
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旧古河庭園 (9)
旧古河庭園 (9) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (10)
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旧古河庭園 (11)
旧古河庭園 (11) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (12)
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旧古河庭園 (13)
旧古河庭園 (13) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (14)
旧古河庭園 (14) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (15)
旧古河庭園 (15) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (16)
旧古河庭園 (16) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (17)
旧古河庭園 (17) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (18)
旧古河庭園 (18) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (19)
旧古河庭園 (19) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (20)
旧古河庭園 (20) posted by (C)pismo

旧古河庭園 (21)
旧古河庭園 (21) posted by (C)pismo


平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。
平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を域内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明10(1478)年1月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。
江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、250石の知行地を与え、この内の50石を朱印地として平塚明神に寄進させました。
平塚神社の南側入口付近に説明看板が立っています。
(現地説明板などより)
平塚城(平塚神社) (3)
平塚城(平塚神社) (3) posted by (C)pismo

平塚城(平塚神社) (4)
平塚城(平塚神社) (4) posted by (C)pismo


平塚神社は、源義家、源義綱、源義光を祀る神社です。
創立は平安後期元永年中といわれています。
八幡太郎源義家が兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ、領主の豊島太郎近義に鎧一両を下賜されました。
近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。
塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれました。
さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願いました。
徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得て、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たしました。
その後、家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願しました。
将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復しました。
家光自らも50石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れました。
(現地説明板などより)
平塚城(平塚神社) (5)
平塚城(平塚神社) (5) posted by (C)pismo

平塚城(平塚神社) (6)
平塚城(平塚神社) (6) posted by (C)pismo

平塚城(平塚神社) (7)
平塚城(平塚神社) (7) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/09 21:50:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記

プロフィール

「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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