片倉城は、湯殿川と兵衛川の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周部は約30mの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切りがなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。空堀により画された二つの郭には土塁や櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。
「新編武蔵風土記稿」などでは応永年間(1394〜1428)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後裔の長井氏の城郭とされていますが、確証はありません。
築城主体や年代の特定は困難ですが、深大寺城跡などの他の中世城郭との比較から15世紀後半以降に築城され、16世紀代に廃城となったと推定されています。しかし、城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要衝であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。
現在は片倉城跡公園として整備されています。
平成11(1999)年には東京都の指定史跡に選定されました。
(現地説明板などより)
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戦後の新憲法制定に深く関わり、東北電力会長としても活躍された白洲次郎と、美術評論家・随筆家として読売文学賞2回受賞、町田市名誉市民第一号の白洲正子のご夫婦が、能ヶ谷のこの地に農家を買い取り移住されたのは、昭和17(1942)年でした。
武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また白洲次郎独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。
近衛内閣の司法大臣をつとめられた風見章氏に「武相荘」と書いて頂き額装して居間に掛けていました。
寄せ棟造りで東側妻面兜造りの重厚な茅葺屋根の主屋と、カキ、シラカシなどを配した広い庭のたたずまいは、多摩地域の養蚕農家の面影をいまに伝える貴重な文化遺産です。
整型四間取や材料・構造から見て19世紀以降のもので、明治初期の建築と推定されます。
養蚕農家として明治・大正・昭和と使われてきた「家・屋敷」が原型に近いかたちで今日に残されたのは、古い民家などに限りない価値を見出した、白洲夫婦の独特なライフ・スタイルの賜物と考えられます。
冠せられた「武相荘」という愛称も、古い農家に具わる「静謐な美」に寄せる夫婦の、慎み深い敬称と読み取れます。
旧白洲邸武相荘として平成13(2001)年にオープンしました。
(現地説明板などより)
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小机城の築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、このあたりがひらけた12世紀以降ではないかと思われます。その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、西方にはその支配下の榎下城があったことから、それとかかわりのある城と思われます。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起した時、景春に見方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ子橋付近)に帯陣した上杉方の大田道灌の率いる軍と戦いました。
城は文明10(1478)年に攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40余年間廃城となっていました。
大永4(1524)年、一族の北条氏堯の城となり、笠原越前守信為を城代として再興しました。
小机は地理的に、江戸・玉縄・榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事・経済の両面で極めて重要な役割を果すことになります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落し、やがて小田原北条氏が亡び、四代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として二百名の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。横浜市内には、小机城の他、青木城・榎下城・馬場城・荏田城などがあったと言われていますが、調査されたものは榎下城だけで、その他については、かっての城の位置が推定される程度で、その実態は明らかではありません。
小机城の縄張りは、半島形の突出た丘陵の上部を大きく平に削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築きます。また、城郭全体を二重の土塁を空掘でぐるりとめぐらす縄張で後北条氏特有の築城法と言えます。
類例より後北条、後半の築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で県下では、茅ヶ崎城も典型といえます。
現在は小机城址市民の森として、城の遺構が整備されています。
(現地説明板などより)
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Posted at 2016/01/17 23:50:45 | |
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