• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ピズモのブログ一覧

2016年03月06日 イイね!

伊豆の桜・滝・史跡紀行(3日目その4・伊豆長浜城)

長浜城は北条水軍の城です。戦国時代の水軍の拠点の多くは、陸地から離れた島に築かれていますが、この長浜城は全国的にも珍しい山城の特徴を持つ水軍の城です。
長浜城が城として使われたのは、戦国時代の終わりの天正7(1579)年~天正18(1590)年頃と考えられています。
氏直の時代に、甲斐の武田氏が駿河へ攻め狩野川河口に三枚橋城を築いて水軍を配置しました。そして黄瀬川に出陣し、北条氏政と戦うなどこの地を巡り争いを繰り広げたため、北条氏の城として武田氏に対抗するために長浜城は築かれました。
北条水軍は武田氏に対抗するため、梶原備前守景宗を大将として、ここ長浜城に特別な軍船隊を置きました。梶原景宗は伊勢の出身で、当時西国で発達していた「安宅船」と呼ばれる大型軍船の運用を得意としていました。長浜城は梶原景宗の指揮する「安宅船」船隊の基地として整備され、武田水軍に対して有利に戦いを進めるための足場になったのです。天正8(1580)年には武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦が行われました。
一方、天正18(1590)年の記録からは、最終的にこの地の土豪(有力者)が、武将として城に立てこもり、敵に備えたことがわかっています。
しかし、豊臣秀吉の攻撃によって、三島市にある山中城が落城するなど、その影響で長浜城も廃城になったと考えられます。
昭和63(1988)年、国の史跡に指定され、平成3(1991)年度から平成16(2004)年度にかけて沼津市が土地を取得し、平成13(2001)年度から平成26(2014)年度にかけて史跡整備を行いました。
(現地説明板などより)
長浜城
長浜城 posted by (C)pismo

長浜城 (1)
長浜城 (1) posted by (C)pismo

長浜城 (2)
長浜城 (2) posted by (C)pismo

長浜城 (3)
長浜城 (3) posted by (C)pismo

長浜城 (4)
長浜城 (4) posted by (C)pismo

長浜城 (5)
長浜城 (5) posted by (C)pismo

長浜城 (6)
長浜城 (6) posted by (C)pismo

長浜城 (7)
長浜城 (7) posted by (C)pismo

長浜城 (8)
長浜城 (8) posted by (C)pismo

長浜城 (9)
長浜城 (9) posted by (C)pismo

長浜城 (10)
長浜城 (10) posted by (C)pismo

長浜城 (11)
長浜城 (11) posted by (C)pismo

長浜城 (12)
長浜城 (12) posted by (C)pismo

長浜城 (13)
長浜城 (13) posted by (C)pismo

長浜城 (14)
長浜城 (14) posted by (C)pismo

長浜城 (15)
長浜城 (15) posted by (C)pismo

長浜城 (16)
長浜城 (16) posted by (C)pismo

長浜城 (17)
長浜城 (17) posted by (C)pismo

長浜城 (18)
長浜城 (18) posted by (C)pismo

長浜城 (19)
長浜城 (19) posted by (C)pismo

長浜城 (20)
長浜城 (20) posted by (C)pismo
Posted at 2016/04/18 23:27:08 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年03月06日 イイね!

伊豆の桜・滝・史跡紀行(3日目その3・沼津御用邸記念公園)

沼津御用邸は明治26(1893)年、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために造営されました。
御用邸は皇室が主として保養のために用いる別邸で、気候が温暖で、前面には駿河湾、背後には富士山という風光明美な地であり、すでに大山巌(陸軍大臣)、川村純義(海軍大臣)、大木喬任(文部大臣)、西郷従道(陸、海軍大臣)の別荘が建てられていました。川村純義は後に皇孫殿下(昭和天皇と秩父宮殿下)の養育係になりました。こうした理由の他明治22(1889)年に東海道線が開通し交通の便がよくなったことも御用邸設置の理由として挙げられます。
本邸は明治25(1892)年末から翌26(1892)年にかけて最初の新築工事が行われ、同年7月に竣工しました。御座所(居間)、御寝室、御食堂、湯殿、臣下詰所などを含む1,200平方メートル(370坪余)の木造平屋建ての和風建築でした。
明治33(1900)年1月には260坪増築され、同年11月には新御殿の東側に230平方メートル(約70坪)の洋館が新築されました。この洋館は当時の御用邸としてははじめての洋風建築物です。
東附属邸は明治36(1903)年4月、本邸の東側に赤坂離宮東宮大夫官舎を移築し、皇孫殿下(昭和天皇、秩父宮、高松宮)の御学問所として造営されました。木造平屋建て、552平方メートル(約167坪)です。その際附属建物の増築が少し行われた以外は当時の姿のまま今日に至っています。
西附属邸は、明治38(1905)年8月、宮内省は本邸西隣にあった川村純義伯爵の別荘を買い上げて皇孫殿下(昭和天皇、秩父宮、高松宮)のための御用邸としました。翌39(1906)年6月に皇居内の附属建物424平方メートル(約128坪)を移築して継ぎ足しました。これが現在御座所や女官室などがある部分です。さらに明治41(1908)年7月に御車寄、御料浴室などが増築され、大正11(1922)年には御玉突所が増築されて渡り廊下で結ばれ、全体面積1,270平方メートル(約384坪)の附属邸が完成しました。
昭和20(1945)年7月17日に本邸が焼失した後は西附属邸が本邸の役目を果たすようになり、昭和44(1969)年12月6日に沼津御用邸が廃止になるまで、昭和天皇をはじめ皇室の方々に利用されてきました。
昭和45(1970)年3月には、昭和天皇・皇后両陛下が沼津御用邸とのお別れのため訪れました。昭和45(1970)年7月1日からは記念公園として庭園や邸が公開され、多くの来園者を集めています。西附属邸は建物だけでなく室内の家具・調度品まで復元されており、当時の皇族の暮らしにふれることができます。東附属邸は、皇孫殿下の御学問所としての性格を受け継ぎ、文化活動のための施設となっています。
また、焼失した御用邸本邸の跡地に建てられた歴史民俗資料館では、駿河湾で使われてきた漁具類や沼津の地場産業となった干物作りの道具、湿田農耕の資料などを展示しています。平成18(2006)年には日本の歴史公園100選に選定されています。
沼津御用邸記念公園
沼津御用邸記念公園 posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (1)
沼津御用邸記念公園 (1) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (2)
沼津御用邸記念公園 (2) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (3)
沼津御用邸記念公園 (3) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (4)
沼津御用邸記念公園 (4) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (5)
沼津御用邸記念公園 (5) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (6)
沼津御用邸記念公園 (6) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (7)
沼津御用邸記念公園 (7) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (8)
沼津御用邸記念公園 (8) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (9)
沼津御用邸記念公園 (9) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (10)
沼津御用邸記念公園 (10) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (11)
沼津御用邸記念公園 (11) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (12)
沼津御用邸記念公園 (12) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (13)
沼津御用邸記念公園 (13) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (14)
沼津御用邸記念公園 (14) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (15)
沼津御用邸記念公園 (15) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (16)
沼津御用邸記念公園 (16) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (17)
沼津御用邸記念公園 (17) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (18)
沼津御用邸記念公園 (18) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (19)
沼津御用邸記念公園 (19) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (20)
沼津御用邸記念公園 (20) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (21)
沼津御用邸記念公園 (21) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (22)
沼津御用邸記念公園 (22) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (23)
沼津御用邸記念公園 (23) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (24)
沼津御用邸記念公園 (24) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (25)
沼津御用邸記念公園 (25) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (26)
沼津御用邸記念公園 (26) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (27)
沼津御用邸記念公園 (27) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (28)
沼津御用邸記念公園 (28) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (29)
沼津御用邸記念公園 (29) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (30)
沼津御用邸記念公園 (30) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (31)
沼津御用邸記念公園 (31) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (32)
沼津御用邸記念公園 (32) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (33)
沼津御用邸記念公園 (33) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (34)
沼津御用邸記念公園 (34) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (35)
沼津御用邸記念公園 (35) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (36)
沼津御用邸記念公園 (36) posted by (C)pismo

沼津御用邸記念公園 (37)
沼津御用邸記念公園 (37) posted by (C)pismo
Posted at 2016/04/18 23:17:08 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年03月06日 イイね!

伊豆の桜・滝・史跡紀行(3日目その2・MOA美術館)

MOA美術館は、熱海市にあり、美術館のメインロビーからは、相模灘に浮かぶ初島や伊豆大島が一望でき、遠くは房総半島から三浦半島、伊豆半島まで180度の大パノラマが楽しめる景勝の地にあります。
創立者である岡田茂吉(1882~1955)は、東洋美術の優品の蒐集に努め、海外への流出を防ぐため、昭和27(1952)年に財団法人東明美術保存会(現:公益財団法人 岡田茂吉美術文化財団)を設立しました。同時に、「美術品は決して独占すべきものではなく、一人でも多くの人に見せ、娯(たの)しませ人間の品性を向上させる事こそ、文化の発展に大いに寄与する」という信念のもと、神奈川県箱根町強羅に箱根美術館を開館しました。
そして、昭和32(1957)年にまず、熱海市に熱海美術館を開き、昭和57(1982)年の創立者生誕百年の年に、「Mokichi Okada Association」の頭文字を冠するMOA美術館と改め新たに開館しました。
尾形光琳の紅白梅図屏風などを所蔵していることでも知られています。
平成28(2016)年3月7日から平成29(2017)年春まで休館し、リニューアルオープンを予定しています。
MOA美術館
MOA美術館 posted by (C)pismo

MOA美術館 (1)
MOA美術館 (1) posted by (C)pismo

MOA美術館 (2)
MOA美術館 (2) posted by (C)pismo

MOA美術館 (3)
MOA美術館 (3) posted by (C)pismo

MOA美術館 (4)
MOA美術館 (4) posted by (C)pismo

MOA美術館 (5)
MOA美術館 (5) posted by (C)pismo

MOA美術館 (6)
MOA美術館 (6) posted by (C)pismo

MOA美術館 (7)
MOA美術館 (7) posted by (C)pismo

MOA美術館 (8)
MOA美術館 (8) posted by (C)pismo

MOA美術館 (9)
MOA美術館 (9) posted by (C)pismo

MOA美術館 (10)
MOA美術館 (10) posted by (C)pismo

MOA美術館 (11)
MOA美術館 (11) posted by (C)pismo

MOA美術館 (12)
MOA美術館 (12) posted by (C)pismo

MOA美術館 (13)
MOA美術館 (13) posted by (C)pismo

MOA美術館 (14)
MOA美術館 (14) posted by (C)pismo

MOA美術館 (15)
MOA美術館 (15) posted by (C)pismo

MOA美術館 (16)
MOA美術館 (16) posted by (C)pismo

MOA美術館 (17)
MOA美術館 (17) posted by (C)pismo

MOA美術館 (18)
MOA美術館 (18) posted by (C)pismo

MOA美術館 (19)
MOA美術館 (19) posted by (C)pismo

MOA美術館 (20)
MOA美術館 (20) posted by (C)pismo

MOA美術館 (21)
MOA美術館 (21) posted by (C)pismo

MOA美術館 (22)
MOA美術館 (22) posted by (C)pismo

MOA美術館 (23)
MOA美術館 (23) posted by (C)pismo

MOA美術館 (24)
MOA美術館 (24) posted by (C)pismo

MOA美術館 (25)
MOA美術館 (25) posted by (C)pismo
Posted at 2016/04/17 22:52:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年03月06日 イイね!

伊豆の桜・滝・史跡紀行(3日目その1・熱海)

伊豆山神社は古来伊豆大権現、走湯大権現、又は伊豆御宮、走湯山とも呼ばれていましたが、明治の神仏分離令により現在の社名に改称されました。伊豆の地名の発祥地ともなっています。
社伝によると当社は最初、日金山(万葉集にいう伊豆の高嶺)に鎮まり、次いで本宮山に移り、さらに三遷して現在の地に鎮座しました。
源頼朝は平治の乱の後、平家の手により伊豆の蛭ヶ小島に配流の身となっていましたが、源氏再興のことを当社に祈願し、後に鎌倉に幕府を開くに及び関八州総鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外に、鎌倉、室町期を通して武州、相州、上州、豆州、駿州、越州に二十三ヵ所の社領を所有していたことが室町時代の文書「寺領知行地注文」に記され、その所領範囲の広大であったことが当社の最隆昌期における状況を示しています。
また、伊豆山神社は源頼朝と北条政子の恋の舞台となりました。恋に落ちた二人でしたが、政子の父北条時政は、政子を伊豆国の目代、山木判官平兼隆に嫁がせることを決めてしまいました。
婚礼の夜、政子は伊豆山へ逃れ、足川の地に隠れ住みました。そして、伊豆権現の坊にいた頼朝は部下の知らせをうけ、逢初橋の上で政子と劇的な対面をしたと言われています。境内には頼朝と政子が愛を育んだとされる腰掛石があります。
戦国時代、小田原の北条氏の篤い崇敬を受けたが、豊臣秀吉の小田原征伐で焼失しました。
鎌倉、室町の時代を経て徳川家康は江戸に幕府を開くに先立ち二百石を寄進し、次いで慶長になって百石と、併せて三百石の朱印料を寄進して崇敬の誠を示しており、歴代の将軍もこれに習い崇敬していました。
又、天皇家にあっては、第十六代仁徳天皇が勅願所となされてより、22代清寧、30代敏達、33代推古、36代孝徳、105代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、殊に、御奈良天皇は御宸筆の般若心経一巻(国指定重要文化財)を奉納されました。
大正3(1914)年1月13日、皇太子時代の昭和天皇が御参拝され、若松一株をお手植えされました。
また、昭和55(1980)年9月12日には浩宮徳仁親王がご参拝されています。
明治以前においては神仏習合が盛んに行われた社で、役小角をはじめ 弘法大師、多くの山岳仏教徒や修験者が入峰して修行を積んだ霊場で御白河法皇の御撰による梁塵秘抄に「四方の霊験所は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山」と著され、東国 東海における第一の霊場として聞こえていたことが知られています。
平成22(2010)年には女優の小泉今日子さんが鳥居を奉納しています。(現地説明板などより)
伊豆山神社
伊豆山神社 posted by (C)pismo

伊豆山神社 (1)
伊豆山神社 (1) posted by (C)pismo

伊豆山神社 (2)
伊豆山神社 (2) posted by (C)pismo

伊豆山神社 (3)
伊豆山神社 (3) posted by (C)pismo

伊豆山神社・台湾緋桜
伊豆山神社・台湾緋桜 posted by (C)pismo

伊豆山神社 (4)
伊豆山神社 (4) posted by (C)pismo

伊豆山神社 (5)
伊豆山神社 (5) posted by (C)pismo

伊豆山神社 (6)
伊豆山神社 (6) posted by (C)pismo

伊豆山神社の桜
伊豆山神社の桜 posted by (C)pismo

伊豆山神社 (7)
伊豆山神社 (7) posted by (C)pismo

伊豆山神社 (8)
伊豆山神社 (8) posted by (C)pismo

伊豆山神社 (9)
伊豆山神社 (9) posted by (C)pismo

尾崎紅葉の代表作小説金色夜叉にちなんだ貫一お宮の像とお宮の松です。
明治の文豪尾崎紅葉の代表作小説金色夜叉は、明治30(1897)年1月1日から5年半に亘り読売新聞に連載されたちまち単行本になり、劇化されるなど当時空前の反響を呼び起こしました。
ストーリーは、ヒロインの鴫沢宮がカルタ会の席で、銀行家の息子富山唯継に見染められました。しかし、宮には第一高等中学校の生徒であった婚約者間貫一がいたにもかかわらず、宮の両親はそれを承知の上で富山の求婚を受け入れたことにはじまる悲恋物語であり、作中のクライマックスの場に熱海の海岸が選ばれたことと、金色夜叉の歌熱海の海岸散歩する
貫一お宮の二人連れ
共に歩むも今日限り
共に語るも今日限り
が広く人々に愛唱されたことから、熱海は一躍脚光を浴びるようになり、今日、国際観光温泉文化都市として、全国有数の観光地に発展を成し得たのは、丹那トンネルの開通と共に金色夜叉が大きなきっかけになったのは言うまでもありません。
金色夜叉の主人公貫一とお宮の名は「一月の十七日来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか!再来年の今月今夜・・・・十年後の今月今夜・・・・」の名台詞と共に、歳月の移り変わりのもかかわらず、人々の記憶に残り、いつまでも愛されていくでしょう。
紅葉は、37歳の若さで死去し金色夜叉はついに未完に終わってしまいましたが、紅葉の死後、彼の残した「腹案覚書」をもとに紅葉の高弟であった小栗風葉によって完成されました。熱海市では毎年1月17日、作者を偲んで尾崎紅葉祭が行われます。
貫一お宮のブロンズ像は、熱海市在住の日展審査委員館野弘青氏により製作され、熱海ロータリークラブが創立30周年の記念に、昭和61(1986)年1月17日熱海市に寄贈したものです。
また、隣にはお宮の松があります。大正8(1919)年熱海に別荘を持っていた「煙草王」村井吉兵衛や土地の有志によって、横磯に紅葉の門人であった小栗風葉の句「宮に似たうしろ姿や春の月」が刻まれた「金色夜叉」の碑が建立されました。羽衣の松のかたわらに建てられたことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となりました。また、この碑も女性的な感じから川端康成は、「石そのものも可憐な女の後姿に似た記念碑」と認めています。
昭和24(1949)年、キティ台風により道路が崩壊されたことにより道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう「お宮の松」は枯れだしました。(初代「お宮の松」の樹齢はおよそ300年で、現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約2メートルの場所にありました)。市では、市民皆様の協力を得て、二代目「お宮の松」の選定を始めました。
その結果、50数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを「お宮の松」に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏により寄贈を受け、小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大な協力により、昭和41(1966)年現在の場所に二代目「お宮の松」として完成したものです。
「お宮の松」の樹齢は、平成13(2001)年現在でおよそ95年、添松はおよそ75年になります。
なお、貫一お宮の像は昭和60(1985)年お宮の松の左側に建てられましたが、「貫一お宮の像とお宮の松が一緒に写真撮影できない」との意見や、紅葉祭を行うとき、貫一お宮の像前の広場が手狭となっていたため、平成24(2012)年11月、お宮の松の右側に移設されました。
(現地説明板などより)
貫一お宮の像・お宮の松
貫一お宮の像・お宮の松 posted by (C)pismo

貫一お宮の像・お宮の松 (1)
貫一お宮の像・お宮の松 (1) posted by (C)pismo

貫一お宮の像・お宮の松 (2)
貫一お宮の像・お宮の松 (2) posted by (C)pismo

古来から数ある源泉の中でも、熱海温泉の歴史に重要な位置を占めてきたのが「熱海七湯」です。
その一つが河原湯です。
このあたりを東浜といい、道もなく石のごろごろした河原で、温泉が絶えず豊富に湧き出ていて村人の入浴場でした。
湯治客は大湯の源泉が主に使われ、ほかの源泉も限られた家のみが使用するお湯で、熱海村の農民や漁師や近郷の人達が自由に入浴できるのは、この「河原湯」だけでした。
寛文6(1666)年小田原城主稲葉美濃守が、村民のために浴室を設けてその屋根を瓦葺としたため、「瓦湯」と称したともいわれています。
この湯は神経痛やリューマチなどに効能があり塩分が多く、人が入ると透明な湯が白く濁るほどであったといいます。
(現地説明板などより)
河原湯
河原湯 posted by (C)pismo

佐治郎の湯です。
佐治郎という者の邸内にあったことから「佐治郎の湯」といわれました。 また、この源泉は明治のころには上杉助七という者の邸内にあり、のち新かど旅館の所有になったので「新かどの湯」ともいわれました。
この湯は火傷にも良いが眼病にもよく効くといわれ、別名を「目の湯」ともいいました。
(現地説明板などより)
佐治郎の湯(目の湯)
佐治郎の湯(目の湯) posted by (C)pismo

大湯です。
古来からの間歇泉で世界でも有名な自噴泉でありました。
「大湯」の噴出は昼夜6回で、湯と蒸気を交互に激しい勢いで噴出し、地面が揺れるようであったといいます。 明治中ごろから次第に減少し末ごろには止まってしまいましたが、関東大震災のとき再び噴出しました。 しかし、その後も噴出回数は減少をつづけ、昭和のはじめついに止まってしまいました。
昭和37(1962)年に人工的に噴出する間歇泉として整備され、市の文化財として保存し現在に至っています。
(現地説明板などより)
大湯
大湯 posted by (C)pismo

大湯 (1)
大湯 (1) posted by (C)pismo

大湯 (2)
大湯 (2) posted by (C)pismo

湯前神社(ゆぜんじんじゃ)は、社伝では天平勝宝元(749)年、少彦名神が、小童に神託し、この温泉に浴せば諸病悉く治癒すると示し、里人が祠をたて祀ったのが創始とされています。
しかし、熱海に温泉の湧出した時には既に祀られていたと考えられています。永正18(1521)年、寛文7(1667)年に再興されました。平安朝の頃より徳川時代、そして明治に至るまで公家、将軍、大名等を始め入浴者及び一般庶民の崇敬を集めました。
献湯祭が2月10日と10月10日に行われ、江戸時代に江戸城へ熱海温泉の湯水を献上した古例に因み、毎春秋2季の例祭に神前に大湯の温泉を献じて浴客の健康を祈るとともに、「湯汲み道中」が再現されます。
石鳥居、石燈籠は、久留米藩7代藩主頼徸の寄進で熱海市指定文化財になっています。
(現地説明板などより)
湯前神社
湯前神社 posted by (C)pismo

湯前神社 (1)
湯前神社 (1) posted by (C)pismo

湯前神社 (2)
湯前神社 (2) posted by (C)pismo

来宮神社(きのみやじんじゃ)は、大己貴命 五十猛命 日本武尊をご祭神とする神社です。
社伝によると、大己貴命(大国主命)が国を治めるため、遠い西の国(現在の島根県)より諸神を率いて海を渡り伊豆の国のこの地に(現在の熱海の海岸)に上陸されこの地方をお治めになり、ここは温泉に恵まれ気候風土よく、その上諸物資の豊かな所なので、非常にお喜びになり、ここに居を定められました。
来宮神社はその跡と伝えられています。その後第12代景行天皇の御代に御東征になられた日本武尊をお祀りし、第43代元明天皇の時代の和銅3(710)年、五十猛命をお祀りしたと伝えられています。
境内には大楠(阿豆佐和気神社の大クス)があります。大昔の大楠を御神体として信仰していたもので、いわゆるひもろぎ神社でした。樹齢は2000年以上といわれており、古くからそのまわりを一周廻ると一年間生き延びると伝えられ、廻った人は医者いらずといい、一名不老の楠とも呼ばれています。
この大楠の由来は宮地直一・加藤玄智両博士の著書にも明らかで、昭和8(1933)年2月28日に文部省より国定の天然記念物に指定されました。天然記念物指定名称に「阿豆佐和気神社」と冠せられているのは、それが指定当時の社名であったためです。
(現地説明板などより)
来宮神社
来宮神社 posted by (C)pismo

来宮神社 (1)
来宮神社 (1) posted by (C)pismo

来宮神社 (2)
来宮神社 (2) posted by (C)pismo

来宮神社 (3)
来宮神社 (3) posted by (C)pismo

来宮神社 (4)
来宮神社 (4) posted by (C)pismo

小沢の湯です。沢口弥左衛門、藤井文次郎、米倉三左衛門の庭の湯を「平左衛門の湯」と称していました。また土地の人は小沢にあったので「小沢の湯」とも称しました。
「清左衛門の湯」と同様、人が大きな声で呼べば大いに湧き、小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。
(現地説明板などより)
小沢の湯
小沢の湯 posted by (C)pismo

坂町の寺桜です。明治14(1881)年、現在地(咲見町)に移るまでここに医王寺がありました。
明治の初め頃に、寺の境内に植えられたうちの1本と言われています。
この桜は「大寒桜」という品種で樹齢およそ130年、例年2月下旬から3月中旬まで咲き続けます。
この桜は昭和19(1944)年の「本町大火」、昭和25(1950)年の「熱海大火」を生き抜けました。
坂町とは、当時のこのあたりの地名です。
坂町の寺桜 (1)
坂町の寺桜 (1) posted by (C)pismo

坂町の寺桜
坂町の寺桜 posted by (C)pismo

風呂の湯・水の湯です。「風呂の湯」は、昔の坂町高砂屋の庭から湧き出ていました。今の福島屋旅館の西側です。
この湯は外傷に良いといわれ、また、湯気の上騰が盛んで饅頭を蒸したり酒を温めたりして販売していました。
「風呂の湯」の傍ら1.5mほど東のところに塩分のない温泉が湧き出ていました。
明治11(1878)年、大内青巒の熱海史誌には、淡白無味常水を温めるもののごとし、故に「水の湯」と名付くと記されています。(現地説明板などより)
風呂の湯・水の湯
風呂の湯・水の湯 posted by (C)pismo

清左衛門の湯です。昔、農民の清左衛門という者が馬を走らせて、この湯壺に落ちて焼け死んだので、その名が付いたといいます。
明治までは、昼夜常に湧き出て絶えることがありませんでした。
人が大きな声で呼べば大いに湧き、小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。
(現地説明板などより)
清左衛門の湯
清左衛門の湯 posted by (C)pismo
Posted at 2016/04/17 20:10:46 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

プロフィール

「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2016/3 >>

  123 4 5
6789101112
131415 161718 19
20212223242526
2728293031  

リンク・クリップ

沖縄県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2024/06/26 22:49:38
 
鹿児島県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/26 23:05:24
 
宮崎県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/22 08:03:34
 

愛車一覧

スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation