12月は雪が見たいということで、信州に来ました。
最初に
妻女山を訪れました。ここは再訪です。
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冬の北信ドライブ(2日目その1・前日に続き川中島古戦場巡りなど)
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斎場山古墳(五量眼塚古墳)は、斎場山の山頂の標高512.8mにある直径35.2mの円墳です。
地元では、招魂社が建つあたりを「赤坂山」と呼んでおり、本来の妻女山山頂は、そこからさらに南西に登った斎場山古墳のことといわれています。
斎場山古墳(五量眼塚古墳) (1) posted by
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斎場山古墳(五量眼塚古墳) (2) posted by
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鞍骨城(くらぼねじょう)は、標高798mの鞍骨山にあった山城です。
善光寺平や千曲市東部を見下ろす格好の地にあり、清野氏の主城でした。
清野氏は村上氏に属し、村上九家の上座に列していました。
天文19(1550)年の戸石城の戦いの際、武田氏に出仕し、その後再び村上氏に従属しましたが、天文22年(1553)武田軍の川中島進出によって、清野氏は家名を残すため、武田・村上双方に分かれたとも伝えられていますが、永禄2(1559)年には清野信秀は武田家に仕えています。
東は竹山城、西は雨宮の唐崎城、南西の倉科の鷲尾城などを外郭としていました。
主郭への道は、妻女山からあんずの里ハイキングコースを延々と歩いてたどり着きます。
石垣などがよく残る「天空の山城」です。
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玉依比賣命神社は、神社創建の縁起によれば8代孝元天皇16年4月16日、東条斎川の地に勧請されたとされています。
斎川は現在の松代町東条岩沢にあたります。。その後磯並(現在の松代町東条中川)に移り、磯並三社大明神と称しました。
現在の地に鎮座してのは寛喜2(1230)年と伝えられています。
延長5(927)年左大臣藤原忠平らにより撰進された延喜式五十巻の中の神名帳に記載された信濃国四十八座の 式内社の一つです。
現社殿は天保4(1833)年に改築された、八棟造りを模した荘厳な建築です。
(現地説明板などより)
尼飾城の登城口にあります。
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尼飾城 posted by
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伝承によれば、
尼厳城(東条城)は、鎌倉時代以前から築城されていた難攻不落の山城です。周りの霞城、金井山城、寺尾城はその支城と伝えられています。
弘治2(1556)年、武田信玄は真田幸隆に尼厳城の攻略を命じました。城主の東条氏はよくこれに抗しましたが、高坂弾正らの武田軍の加勢により、ついに城は落城し、東条氏は越後の上杉謙信の元へ逃れました。
その後、城は信玄の命により改築され、永禄3(1560)年頃、山本勘助により海津城(松代城の原形)が完成すると、防衛的な山城として重要視されました。
天正10(1582)年、武田勝頼が織田信長との天目山の戦いに敗れ、武田氏が衰退すると、上杉景勝らの援護のもとに、北信濃の所将は旧地を回復し、上杉家臣となっていた東条信広も尼厳城将として復帰しました。
慶長3(1598)年、上杉景勝が会津120万石に移封され、これにともなって東条氏ら川中島の将士達も会津に移ったため、尼厳城は400年以上の山城の歴史に幕を閉じ廃城となりました。
現在も急峻な山頂一帯に、永い風雪に耐えた本郭、腰郭、堀切などの一部が残っています。
(現地説明板などより)
松代付近では、「一に春山(若穂綿内・綿内氏)、二に鞍骨(松代町清野・清野氏)、三に尼飾」といわれる城です。三方は断崖絶壁で、北西だけが尾根続きになっています。
尼飾城 (1) posted by
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吉窪城は、海抜619mの吉窪城山の山頂にあり、南に川中島平を一望できる要害の地に築城されました。
城主は小田切氏で、始祖は佐久郡臼田小田切郷の氏人で、鎌倉時代に地頭となって小市に移住し、小市今里等に居館を構え、背面にこの吉窪城を築きました。
戦国時代、城主小田切駿河守幸長は、始め村上義清に属し、更に村上氏と共に上杉方に加わりました。
弘治3(1557)年葛山城を守った頃は春日、朝日、長嶺、久保寺、平林、布施、横山等組下七騎衆を率いた武将でしたが、武田方の火災攻めに遭い越後軍の援軍到着寸前に落城し、幸長は戦死しました。
武田方の治世になってからは幸長の一子民部少輔は一時武田方から400貫の知行を受けたこともありましたが、衰微し流転を重ね、末裔は高井郡に移ったと伝えられています。
(現地説明板などより)
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Posted at 2017/01/13 22:04:22 | |
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