次はいよいよ松代です。
明徳寺(めいとくじ)は明徳元(1390)年に建立された曹洞宗の寺院です。
高坂弾正公(春日虎綱、香坂虎綱、高坂昌信)の墓があります。
高坂弾正は、武田氏の兵糧係の頭領だった甲斐石和の豪農春日大隅の子として生まれ、その後武田晴信(武田信玄)に仕え、26歳で騎馬150騎を預かる侍大将となり、海津城主となりました。
永禄4(1561)年の第4次川中島の戦いでは、妻女山別働隊を指揮したとされ、合戦後に敵味方の区別無く戦死者を丁重に葬り、この行為に感激した上杉謙信は、後に塩不足に悩む武田氏に対し、塩を送ったとされ、ここから「敵に塩を送る」という言葉が生まれたとも言われています。
高坂弾正は、山本勘助から兵法や築城の教えを受けたとされ、有名な「甲陽軍艦」は高坂弾正が甥の春日惣次郎と家臣の大蔵彦十郎の協力を得て作成したのが原本といわれています。
墓石の下部が不自然に削り取られているのは、墓石に塩を供えて祈ると熱病に効き目があると伝えられていたことからできた痕跡といわれています。
なお、明徳寺には硫黄島の戦いで勇名を馳せた、栗林忠道中将のお墓もあります。
長国寺は、天文16(1547)年に真田幸隆が真田郷に真田山長谷寺として建立し、伝為晃運禅師を開山とした真田家の菩提寺を、元和8(1622)年、上田から松代に移封された真田信之が移転し、寺号を長国寺と改めました。
境内は無料ですが、松代藩主真田家墓所と、真田信之霊屋、4代藩主真田信弘の霊屋などは拝観料が必要なようです。
その他、松代藩の財政改革に取り組んだ家老恩田木工民親の墓もあります。
松代城は、かつては海津城といいました。
甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との「川中島の戦い」に備えて、山本勘助に命じ、清野氏の館を改築して築いたといわれています。永禄3(1560)年頃に普請が完了したものと伝えられています。
城主として高坂弾正昌信(春日虎綱、香坂虎綱)が命ぜられ、川中島の戦いでは武田軍の本陣にもなりました。
武田氏滅亡後は森長可、田丸直昌が城主になりました。
慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃に、二の丸、三の丸を整備し、土塁を石垣に築きなおしたものと考えられています。森氏の後は、松平忠輝、松平忠昌、酒井忠勝が城主となりましたが、元和8(1622)年に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。城の名は、海津城から森忠政の時代に「待城」に、松平忠輝の時代に「松城」となり、真田第三代藩主幸道の正徳元(1711)年に松代となりました。
江戸時代の松代城は北西側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、最奥部に本丸、南側の城下に向けて二の丸、三の丸、花の丸などの曲輪を構えていました。しかし、千曲川は大洪水を何度も起こしたため、河川の瀬直しが行われ、水害は減りましたが、要害としての価値は減少したとされています。
明治5(1872)年の廃城以降、建物はなくなったものの、昭和56(1981)年に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。平成16(2004)年には太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元され、平成18(2006)年には日本100名城に指定されました。
復元により、海津城より真田氏の松代城といった雰囲気の方が強い城です。このあたりは歴史ファンの中でも意見が分かれるところかもしません。ただ、一部土塁なども復元されています。
風林火山の旗が入口にありました。
本丸には海津城の碑が建っています。
真田邸〔松代城附新御殿跡〕は、松代城内の諸建築のうち、唯一残ったものです。
新御殿は、文久2(1862)年の参勤交代の緩和により、九代藩主・真田幸教の母お貞(貞松院)が松代に帰るにあたっての住居(隠居所)として建てられました。
新御殿は、文久3(1863)年から翌年の元治元(1864)年にかけて建築工事が行われました。
その後明治時代に東南部の「御役所」や二階部分を増築するなど部分的な改造が行われ、現在に至っています。
明治維新後は真田家の私邸となりましたが、昭和41(1966)年に当時の松代町に寄贈されました。
ここは、以前にも訪れたことがあります。ただ、今回は平成21(2009)年度まで修復工事中とのことで庭のみの見学しかできませんでした。
真田宝物館の南側の
恩田木工民親屋敷跡です。
真田宝物館の南側に恩田木工民親(おんだもくたみちか)の屋敷跡がありました。
恩田木工は松代藩の家老で、藩中第4位の大身で知行高1000石を拝領していました。第6代藩主幸弘の元、質素倹約、贈収賄の禁止などの藩政改革を行いました。
恩田木工の活躍については、池波正太郎氏が「真田騒動-恩田木工-」という短編小説で描いています。
現在、屋敷跡は石碑と説明看板が建っているのみです。かつては松代城の大御門に向かう道に面していました。
真田宝物館は、昭和41(1966)年、真田家第12代当主、真田幸治氏により、当時の松代町に寄贈された大名道具を収蔵展示しています。
真田家伝来の武具、刀剣、調度品、絵画作品、古文書など豊富な展示物が魅力です。真田家の歴史に興味がある方は是非訪れてみてください。
旧文武学校は、松代藩の藩校として八代藩主真田幸貫が、水戸の弘道館に範をとって藩校を計画し、九代藩主幸教がこれを引き継いで嘉永6(1853)年に完成、安政2(1855)年に開校しました。
明治に入り兵制士官学校を併設しましたが、明治4(1871)年廃藩と共に閉校となりましたた。
他藩の藩校と違い、儒教の教えを排除し、構内に孔子廟がない特徴を持ちます。この学校での教育は、藩士に対し文学(学問)と武道の両道をめざし、漢学・国史・剣術・総術・柔術・弓術をはじめ、特に西洋医学・西洋砲術を教育したところに時代を先取する気風がうかがえ、後に幾多の人材を輩出しています。明治6(1873)年から松代学校校舎などに使用され、正庁(文学所・御役所)・東序・西序・剣術所・柔術所・弓術所・文庫蔵・番所・門および槍塀などの建物が残っており、昭和48(1973)年より五ヶ年かけて保存修理と腰塀土塀などを復元施工し、現在残る建物群は開校当時の姿をほぼそのまま伝えています。また、槍術所は長国寺庫裏として使用されていましたが、平成4(1992)年に再移築され、創建当時の状態に復元されています。
旧白井家表門は、もと表柴町に建っていましたが、平成12(2000)年に旧文武学校の南側に移築復元しました。建築年代は松代藩文書などから弘化3(1846)年であることがわかりました。
白井家は、松代藩の中級武士であり、石高は100石でした。白井初平は元方御金奉行、御宮奉行などを勤めました。この平左衛門は文武学校権教授に出仕し、佐久間象山との親交を密にしています。
表門は、三間一戸門形式の長屋門で、文部は太い槻の角材で造っています。間口が20m余りの長大な門で、背面に三つの居室部を付設し、白井家の陪臣武士などが居住したとみられ、門に住宅が続いているのも珍しい例といえます。桟瓦葺きの大型な長屋門は松代藩では天保期から多くなりますが、、以前には茅葺きの門が一般的であったようです。
旧白井家表門では、ボランティアの方が湯茶を接待して下さいます。
真田勘解由家は、初代藩主真田信之の子二代信政と京の小野お通の子(二代目お通)圓子との間に生まれた信就を始祖とする家です。通称勘解由信就は長子でしたが大名家に入ることを好まず末弟の幸道が三代目を継ぎました。
幸道には子がなかったため、信就の六男信弘が四代目藩主となりました。
勘解由家は四代目は祢津家から養子を迎えました。
建物は、約160年前、花の丸の長局を移築したもので、その前は茅葺きでした。
現在もお住まいのようで、外からの見学のみです。門前に説明看板があります。
象山神社は幕末の思想家で松代藩出身の佐久間象山を祀ります。
儒学、蘭学のみならず、砲術などにも通じていました。吉田松陰の師としても知られています。
象山は元治元(1864)年、上洛中に三条木屋町で尊攘派の凶刃に倒れ、非業の最期を遂げました。
大正2(1913)年、象山殉職五十年祭を前に、元大審院長横田秀雄博士の主催で神社建立の計画が進められ、地元などの協力で昭和13(1938)年県社として創建されました。
佐久間象山は一般的には「しょうざん」と読まれることが多いですが、地元では「ぞうざん」と呼ばれることが多いため神社の名称は「ぞうざんじんじゃ」と読みます。
高義亭は象山神社境内にある建造物です。松代藩家老望月主水の下屋敷にあった建物でした。安政元(1854)年、佐久間象山は吉田松陰に渡航事件に連座し、国元蟄居を命ぜられて聚遠楼に住んでいましたが、来客があるとしばしばこの高義亭の2階7畳半の間で応対し、国家の時勢を論じたという由緒深い建物です。明治以後住人が替わり、増築して原形を一部変えたところもありましたが、現在地に移建した際、当時の構造に復元したものです。
佐久間象山宅跡は象山神社の隣接地にあります。象山の曽祖父国品以来の佐久間家の宅跡で、象山は文化8(1811)年2月11日にこの地で生まれました。
天保10(1839)年の二度目の江戸留学まで二十九年間ここに住み、藩の青年たちに学問を教えて後進の指導に努めた。
象山の父は佐々木国善(一学、神渓)といい、五両五人扶持(七十石相当)の家でしたが、剣は卜伝流の達人で、また易学をもって知られた名門でした。
屋敷の指定面積は877.8平方メートルで、南方中程に表門、西方中程に裏門がありました。住宅は屋敷東寄り中央に東西五間、南北三間半の茅葺き平屋造りのもので、表門西脇に父神渓の槍、剣道場、学問所があり、、裏門の北と南に長屋二棟があって、藩中軽輩士分の屋敷構えでした。屋敷東北隅には硝石製造原土置場がありました。
元治元(1864)年3月、徳川幕府の招きで上洛し、開国公武合体論を主張し多いに画策しましたが、同年7月11日京都三条木屋町で刺客の凶刃に倒れました。享年54歳でした。佐久間家は断絶となり、屋敷は藩に取り上げられ、後に住宅も破壊されたため、当時を偲ばせるものは住宅の西北隅にあった井戸のみです
煙雨亭は、佐久間象山が松代での9年の蟄居の後、元治元(1864)年、徳川幕府の命により上洛した際、京都の川べりに建てた家の一部(茶室)を昭和56(1981)年に象山神社の境内に移築したものです。東山や八坂の塔が見える眺めのよい家だったそうで、その雨に煙る情緒豊かな風情を愛で、象山が「煙雨楼」と名付けました。7月11日に凶刃に倒れるまで二ヶ月の住居としていました。
山寺常山邸が象山神社の南側にあります。山寺常山は幕末、松代藩で160石の中級武士の家に生まれ、佐久間象山、鎌原桐山とともに松代の三山と称えられました。常山は号で名は久道、のちに信龍と名のり、通称は源太夫といいました。
常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎や中村敬宇らと親交を深めました。8代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐していました。
明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。
山寺常山邸は、平成17(2005)年に一般公開しました。
江戸時代終わりから明治初期にかけて建てられたと推定される表門と、この表門の南側に大正時代終わりから昭和初期にかけて建てられたと推定される書院(対竹廬)が残されています。
公開してから日が浅いこともあって、庭園などは整備してきれいに管理されているようです。
松代象山地下壕は、第2次世界大戦末期、軍部が本土決戦最期の拠点として極秘のうちに、大本営、政府各省庁等を松代に移すという計画の下に構築したものです。
着工は昭和19(1944)年11月11日午前11時。翌昭和20(1945)年8月15日の終戦の日まで、約9ヶ月の間に当時の金で約2億円の巨費とおよそ延べ300万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され1日3交代徹夜で工事が進められました。
食料事情が悪く、工法も旧式な人海作戦を強いられ、多くの犠牲者を出したと言われています。
松代象山地下壕は、舞鶴山(現気象庁精密地震観測室)を中心に皆神山、象山の3か所に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は10km余に及んでいます。
全工程の75%の時点で終戦となり工事は中止されました。
現在は一部の西条口(恵明寺口)から約500mの区間を平成元(1989)年より公開しています。照明や柵、落石防止の支保工などがされていますが、壕は素掘りのままになっています。
象山記念館は、幕末に活躍した松代藩士・佐久間象山が亡くなって100年目にあたる昭和39(1964)年、地元有志によって象山先生100年祭奉賛会が設立され、翌年に展示施設・象山記念館が完成しました。
昭和42(1967)年に長野市に寄贈されました。
象山の遺品や愛用の品々をはじめ、発明品なども展示してあり、思想家、兵学者、科学者などさまざまな面を持つ象山を紹介しています。
旧横田家住宅松代藩の武家屋敷です。横田家の先祖は、奥会津横田に住んでいた山内大学と伝えられ、江戸時代には信州松代真田家家臣として幕末まで150石の禄を受けていました。横田家が現在の屋敷地に移った時期は18世紀末です。
屋敷地は面積3,340.82平方メートル(約1,012坪)で、建物、庭園、菜園などがほぼ完全に残されています。
この屋敷構は江戸時代末期の様子を伝え、泉水を配した庭園、塀で仕切られた庭、菜園の広さ、建物の間取り、構造と大きさ、土間が狭く、座敷きが整っている点など城下町松代に残る中級武士の住宅の特徴をよく表わしています。
この家で育った横田秀雄は大審院長に、その子横田正俊は最高裁判所長官になり、ニ代続いて裁判官の最高の地位につきました。その他秀雄の弟謙次郎(小松)は鉄道大臣になり、姉の和田英は「富岡日記」の著者として有名であるなど、多くの秀才を生んだ家です。
昭和59(1984)年に屋敷地の寄贈を受け、昭和64(1989)年1月から保存修理工事に着手し、平成3(1991)年に保存解体修理が完了しました。平成4(1992)年から一般公開されています。
皓月山大英寺は松代藩の初代藩主真田信之が、その妻小松姫の菩提を弔うために建立しました。
小松姫は徳川家の重臣本多忠勝の娘で、徳川家康の養女として信之に嫁ぎました。小松姫の戒名は大連院英譽皓月大禅定尼で、お寺の名前もこの戒名からきています。
小松姫が亡くなったのは信之が上田城主であった時のことで、最初は常福寺(現在の芳泉寺)に葬られました。元和8年に信之が松城(現在の松代)に移封されたので、大連院殿の上田にあったお霊屋と鐘楼を運んで建て直しました。このお霊屋が現在の本堂です。
旧松代藩鐘楼は、真田信之が元和8(1622)年10月、上田城から松代城主となって間もない寛永元(1624)年に設けたもので、ここに松代藩足軽千人余の番割りをした割番役所を置いたので、割番所ともいいました。
この鐘は、昼夜の別なく一時(約二時間)ごとにつかせて時刻を知らせ、また城下に出火の際に非常を知らせました。
城下町の度重なる大火で、享保2(1717)年、天明8(1788)年、寛政12(1800)年の三回類焼にあい、初代と二代の鐘は焼損し、文化3(1806)年につくられた鐘は太平洋戦争中に供出されました。
現在の鐘は平成3(1991)年に旧鐘の寸法、重量を模して新しく取り付けたものです。
鐘楼は、寛永元(1624)年当初は鐘楼と火の見が一棟建てでしたが、寛政の火災時に別棟になり、享和元(1801)年に再建されたのが今のもので、北隣にあった火の見櫓は明治初期に取り壊されました。
また、この鐘楼は、嘉永2(1849)年に佐久間象山がオランダ語の書物を元に電信機を作り、北東七十メートルにあった御使者屋に電線を張り、両者の間で電信実験に成功した「日本電信発祥の遺跡」でもあります。石碑が建っています。敷地は柵で入ることができないので、外からの見学のみでした。
こちらは、
旧矢沢家表門です。矢沢家は松代藩の筆頭家老の家柄です。矢沢家の始祖は真田幸隆(幸綱)の弟綱頼(頼綱)で、沼田城代や岩櫃城代として活躍しましました。表門は長屋門でかなり立派なものだそうですが、平成17(2005)年5月14日に近隣の火災の類焼被害を受けたため、現在修復工事中です。平成20(2008)年3月完成予定とのことです。
こちらは
小山田家です。小山田家は松代藩真田家の家老の家柄です。
初代は小山田壱岐守茂誠で、祖父は武田24将として知られた小山田備中守昌辰(古備中)、父は小山田備中守昌行です。昌行は武田氏滅亡時の高遠城の戦いで戦死しました。小山田茂誠は武田氏滅亡後真田昌幸に仕えました。妻は真田昌幸の長女村松殿で、信之、幸村の姉にあたります。
元和8(1622)年の真田信之の松代移封とともに現在地に移りました。以来松代藩次席家老として明治の廃藩まで続きました。
家屋は嘉永2(1850)年9月5日建立のものだそうです。現在もお住まいのようですので、外からの見学のみです。門前に説明看板があります。
もう夕方になっています。歴史の詰まった松代をもう少し散策してみたかったのですが、今回の旅行の目的の一つである典厩寺が年末年始は休みということで、できるだけ早めに訪れようということで、千曲川を渡り川中島に向かいます。