高遠城の桜を楽しんだ後は、諏訪へ向かいます。
安国寺門前古戦場です。
安国寺は、足利尊氏が、幕府の威信を示すため興国6(1345)年に全国66ヶ国に一寺一塔を建立したものです。信濃国の安国寺は、幕府の奉行人として活躍した諏訪円忠の働きによりこの地に建立したものです。戦国時代にはこの門前で戦いが繰り広げられました。
武田晴信(信玄)は諏訪家の一族であった高遠城主高遠頼継と手を結び天文11(1542)年に諏訪を攻略し、諏訪頼重を降伏させました。この戦いの後、宮川を境に東は武田、西は高遠頼継が領するところになりました。しかし、高遠頼継はこれを不満とし、兵をあげて諏訪を一手におさめようとしました。しかし、晴信は直ちに5千の軍団を引き連れ諏訪頼重の遺児虎王を擁して出陣し9月25日に安国寺門前のこの辺一帯で両軍の大激戦があり、700余人の戦死者を出して高遠頼継は敗退しました。戦後、安国寺は武田信玄や諏訪満隣により再建されました。山門の道路を挟んだ向かい側に説明看板が建っています。
高島城は、戦国時代は茶臼山にありました。区別するため茶臼山の高島城は「高島古城」「茶臼山城」と呼ばれています。
現在の高島城は天正18(1590)年に諏訪に入封した日根野高吉の築城です。
文禄元(1592)年に築城を開始し、慶長3(1598)年に完成しました。
関ヶ原の戦いの後、諏訪頼水が再び諏訪に入封し、幕末まで諏訪氏の居城として続きました。
明治8(1875)年に建造物が撤去されましたが、昭和45(1970)年に天守・櫓・門・塀が復元されました。
1階は郷土資料室、2階は高島城資料室、3階天守閣は高島城資料室と諏訪の平を一望できる展望室になっています。
かつては諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城」と呼ばれていましたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われたため、残念ながら水城の面影は残っていません。
現在は高島公園として、桜の名所として知られています。
この後は、塩尻峠の戦いの史跡を見てみようと言うことで、塩尻市に向かいましたが、途中できれいな水芭蕉を見かけました。
みどり湖・水芭蕉公園です。
みどり湖は昭和7(1932)年に農業用水を確保するための溜池として造られましたが、のちに観光用となりました。
水芭蕉公園があり、4月上旬から中旬にかけ水芭蕉を見ることができます。
塩尻峠〔勝弦峠〕古戦場、首塚・胴塚です。
塩尻峠の戦いは天文17(1548)年7月19日武田晴信(信玄)と信濃林城主小笠原長時との間で起こりました。
永井坂において交戦し数時間に及ぶ激戦の末、小笠原勢は敗れ多くの戦死者を残して退却をしました。
武田軍は家臣の戦功を賞する為、首実験を行った後、戦死者の遺体を放置したまま引き上げて行ったので、柿沢の村人はこれを哀れに思い、ここに埋葬したのが柿沢集落にある首塚・胴塚です。
時代が経つにつれ荒れ果てていましたが、昭和10(1935)年、柿沢の熊谷善蔵氏により多くの有志者と共に寄付金を集め小笠原氏支流の末裔である小笠原長生子爵の揮毫を得て首塚・胴塚の碑を建立し、冥福を祈りました。
場所は柿沢集落の少しわかりにくい場所にありますが、集落内には方角を示す看板がでています。
今回はいつものように日没まで活動せずに、ここで切り上げました。信州は何度でも来たくなる場所。また来年も訪れると思います。
Posted at 2008/05/07 21:50:02 | |
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