久し振りに広島県へドライブです。
広島には以前からよく行っていたと思うのですが、毛利両川の一つ・小早川氏の史跡と宮島にはあまり行ったことがないのでその辺をメインに回りたいという考え方でドライブしました。
まずは三原に向かいます。
三原城は、小早川隆景が毛利氏の広島築城と相前後する天正8(1580)年、沼田川口の三原の小島をつないだこの場所に城郭を築き新高山城から居城を移しました。
天正15(1587)年、隆景は豊臣秀吉から筑前国を加増され、名島城に移りましたが、養子秀秋に家督を譲った後は、三原城に隠居しました。
慶長5(1600)年関ヶ原合戦の後は福島正則が安芸・備後を与えられ三原城は福島正之が城主となりました。元和5(1619)年、福島正則が改易された後は、浅野長晟が広島へ入ることになり、三原城は、浅野家筆頭家老・浅野忠吉が紀伊新宮から入り代々城主となり明治まで続きました。
かつては三原城は海に向かって船入りを開いた「浮城」でしたが現在はJR三原駅があるなど市街地化でその面影はありません。しかし日本でも最も大きな天主台が残ります。ただし天守閣が建築されたことはありません。天主台にはJR三原駅構内から登ります。(開放時間は6:30~22:00)
隣接する「隆景広場」には小早川隆景の銅像が立っています。その他船入櫓跡及び本丸中門跡が残ります。
三原城はほとんどが市街地化されていますが、数少ない遺構として
本丸中門跡付近に堀と石垣が残っています。
太刀掛呂山先生による七言絶句の漢詩が刻まれた三原ライオンズクラブによる石碑などが建っています。
浮城往昔扼山
陽名将造営厳
保障遺構僅留
残址在居然礎
石認金湯
そしてこちらは
船入櫓です。
三原駅の南東側に大きな石垣が残っています。
櫓跡は城町公園となっています。
米山寺は沼田小早川氏の菩提寺です。
仁平3(1153)年に天台宗の寺として建てられました。
嘉禎元(1235)年小早川茂平が念仏堂を建立して氏寺としました。
小早川家の菩提寺で初代実平から17代隆景までの宝篋印塔(国の重要文化財指定)20基の墓が整然と並んでいます。
寺の宝庫には絹本著色小早川隆景像があります。有名な肖像画です。宝庫は拝観料200円で5人以上で開館すると説明看板にありました。私は朝早かったので当然見ることはできていません。
ここからは三原市に合併された本郷町の区域になります。
新高山城は、沼田小早川氏の城です。
鎌倉・室町時代を通じて沼田小早川氏が本拠地としたのは、沼田川対岸の高山城でした。毛利元就の三男で沼田小早川家を継いだ小早川隆景は、これまで高山城の副塁であった新高山城の大改修を行い、天文21(1552)年から以来慶長元(1596)年に三原城に移るまでの45年間居城としました。
新高山城は、標高197.6mの新高山城の天嶮を利用した山城で東西400m、南北500mの全山を城塞としています。
山頂尾根を削平した本丸、二の丸、三の丸など各種の郭は60余に及んでいます。
駐車場もあり、登城は山城だけあってそれなりにきついですが、石垣、堀切、釣井の段の井戸、小早川氏の菩提寺跡で小早川隆景が天正5(1577)年亡父毛利元就の七回忌、亡母妙玖尼の三十三回忌になどを行った匡真寺跡など見応えの多い城です。
高山城〔妻高山城・古高山城〕は隆景以前の小早川氏の居城です。
小早川氏の祖先、土肥実平・遠平父子は、源頼朝の平氏追悼に当って終始勲功をたて、はじめ備前・備中・ 備後の三国の守護の地位を与えられたが、安芸国沼田荘、沼田川流域一帯、蓮華王院領の地頭職を得てこの地に移りました。
建永元(1206)年、遠平の孫・茂平が東国より沼田荘地頭に任ぜられ高山城を築きました。後に茂平は、三男雅平を惣領として沼田本荘を継がせ、弟季平に沼田新荘を、長男経平に船木郷を、四男政景には竹原荘を譲り、それぞれ一族庶子に分割相続を行いました。鎌倉・室町時代を通して高山城は、沼田小早川(本家)が居城しました。
天文19(1550)年嫡流・小早川氏の当主・繁平が病弱だったため、竹原小早川氏から妹婿として隆景が17代として迎えられ、 本家と分家はひとつになり、翌年には木村城から高山城へ移ってきました。
隆景は中世の縄張りである高山城を廃し、 戦国時代に相応しい城として沼田川対岸の支城であった新高山城を大改修し居城としました。
高山城は、山頂は谷を挟んで前後に区画され、北側に本丸・ 二の丸・北の丸を配し、南側に西から出丸・権現丸・イワヲ丸・南丸・出丸など多数の曲輪が構築され、広さ16haに及ぶ巨大な山城です。
登城口は標識や説明看板などがないため少しわかりにくいです。
本郷駅から城山団地を目指し、墓地の脇の道を上っていくと高山城です。
梨羽城(なしわじょう)は梨羽氏の城です。
梨羽氏は小早川氏九代春平の三男梨羽時春がこの地を与えられを初代となりました。その後、潔景ー元仁ー景行ー康平ー友行ー景宗と続きましたが関ヶ原の戦いの後、毛利氏の移封により長州に移転し、城は廃城になりました。
登城口は北方小学校の向かい側にありました。
「梨羽城跡さくらの杜」として整備され、周辺住民の方々の努力により維持されているようです。
歩きやすいですが個人的にはコンクリートで固められた登城道は?ですが少しでも維持管理の労力を減らすためにはやむを得ないことかも知れません。
次は竹原市へ向かいます。
Posted at 2008/06/21 19:41:52 | |
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