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ピズモのブログ一覧

2008年06月13日 イイね!

広島県へドライブ(1日目その2・安芸の小京都・竹原)

次は安芸の小京都「竹原」です。
木村城は正嘉2(1258)年、沼田小早川茂平の四男、政景が、都宇竹原荘の地頭職を得て入部し、この城を居城としたのが始まりです。
天文10(1541)年、武田氏の佐東銀山城を元就と共に攻めていた竹原小早川氏の当主の小早川興景が陣中で病没し、興景の夫人が元就のめい(元就の兄、興元の娘)であった縁で、毛利元就の三男隆景が天文13(1544)年、竹原小早川家を相続し14代竹原小早川氏当主として木村城へ入りました。しかし、天文20(1551)年、隆景は沼田小早川家を相続して高山城に移りました。
木村城は国道432号沿いの和賀神社(小早川神社)の裏山にあります。登城口は神社と反対側の東側にあります。堀切や土塁などが比較的良く残っている山城です。


和賀神社(小早川神社)は、小早川隆景を祀る神社です。
慶長7(1597)年6月に小早川隆景は三原城で没しましたが、新庄ほか数ヶ村の人々が木村城跡の若宮社に隆景を祀り、陰暦9月13日を祭日として旧竹原 8ヶ村の村役人等や毛利家からも度々参拝し、祭は300年間続きましたが、明治維新後中止となり若宮社も衰退しようとしたので、城の麓に明治 22(1889)年、社殿を建立し、翌明治23(1890)年には県社となりました。なお、小早川家は明治12(1879)年12月に毛利家の3子三郎を迎えて小早川家を再興しました。
大正12(1923)年献納の灯籠に小早川四郎の名があります。昭和20(1945)年の豪雨による山津波で損壊したそうで、現在も社殿は崩落し荒れるに任せているのが残念です。


手島屋敷は、木村城下にある中世の武家屋敷の遺構です。
かつては「西殿屋敷(にしんどんやしき)」(西の殿屋敷)と呼ばれていました。
小早川氏が竹原を去った後、竹原小早川氏の家臣であった手島氏がその屋敷と居館を受けついだと想像されています。
現在は石垣がかつての雰囲気を保っています。


竹原小早川家の墓地は木村城の西北の方角、手島屋敷のすぐ北側にあることから竹原小早川家の墓地であるといわれています。
宝篋印塔約10基、五輪塔約20基ほどがあり、中世末期の様式で二基の宝篋印塔は隆景の養父の竹原小早川興景夫妻の墓と伝承されています。
竹原小早川菩提寺の法常寺跡(現在は三原市西町に移転)にも宝篋印塔や五輪塔の残欠があるそうです。


ここからは安芸の小京都・竹原の町です。





龍頭山照蓮寺は、中世は定林寺という禅宗の寺院で竹原小早川氏代々の子弟の学問所でした。その後一時荒廃しましたが、慶長8年(1603年)に浄土真宗の寺として復興し、現在も浄土真宗の寺院となっています。



頼惟清旧宅です。頼山陽の祖父、頼惟清(らいこれすが)が紺屋(こうや)を営んでいた旧宅です。頼山陽の父、春水、春風、杏坪の三頼を輩出しました。惟清は、生涯の望みとして、「男子を学者にすること」「富士山をみること」「家を新築すること」でしたが、長男の頼春水は広島藩の儒者になり、三男頼春風は医者と儒者を兼ねて竹原の家を継ぎ、四男頼杏坪は春水とともに広島藩の儒者になりました。子供達の努力により夢が叶ったと言えます。
旧宅は安永4(1775)年頃の建物とされ、当時の様子をよく残しています。昭和32(1957)年、広島県の史跡に指定されました。


西方寺・普明閣です。西方寺の地には禅寺の妙法寺がありましたが、慶長7(1602)年に火災で焼失し、翌年、別の場所にあった西方寺が妙法寺跡のこの地へ移り、浄土宗に改宗しました。高台にあり、竹原の街が一望できる場所にあり、石垣が城郭を思わせる造りです。
境内の普明閣は宝暦8(1758)年の建築で、京都の清水寺を模して建てられました。普明閣からの竹原の町並みは見事です。




西方寺からの眺めです。


西方寺の近くの古い町並みです。格子も特徴的です。


松阪邸





頼山陽銅像です。
頼山陽の祖父頼惟清は、竹原の出身です。父頼春水が大坂に私塾を開いていた時に生まれました。後に春水は広島藩の儒者になり、山陽は広島で育ちました。
山陽の銅像は生誕二百年を記念し山陽の玄孫(五代目)頼新氏所蔵の像を拡大し、日府展評議員彫刻家、南部祥雲氏によって制作されたもので昭和55(1980)年7月19日に建立除幕式が行われました。
鞭聲肅肅夜過河 (鞭聲肅肅夜河を過る)
曉見千兵擁大牙 (曉に見る千兵の大牙を擁するを)
遺恨十年磨一劍 (遺恨なり十年一劍を磨き)
流星光底逸長蛇 (流星光底に長蛇を逸す)
の「不識庵機山を撃つの図に題す」の詩碑が銅像横に建っています。


ここは町歩きが中心で、あまり建物の中には入っていません。しかし、古い家が残る落ち着いた町並みで「安芸の小京都」の名にふさわしい町並みでした。町並みの近くには村上水軍の鎮海山城などもあるのですが、時間の関係で割愛しました。この日は暑かったので体力の消耗も激しかった・・・
Posted at 2008/06/25 23:32:08 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年06月13日 イイね!

広島県へドライブ(1日目その1・小早川氏の史跡が残る三原)

久し振りに広島県へドライブです。
広島には以前からよく行っていたと思うのですが、毛利両川の一つ・小早川氏の史跡と宮島にはあまり行ったことがないのでその辺をメインに回りたいという考え方でドライブしました。
まずは三原に向かいます。

三原城は、小早川隆景が毛利氏の広島築城と相前後する天正8(1580)年、沼田川口の三原の小島をつないだこの場所に城郭を築き新高山城から居城を移しました。
天正15(1587)年、隆景は豊臣秀吉から筑前国を加増され、名島城に移りましたが、養子秀秋に家督を譲った後は、三原城に隠居しました。
慶長5(1600)年関ヶ原合戦の後は福島正則が安芸・備後を与えられ三原城は福島正之が城主となりました。元和5(1619)年、福島正則が改易された後は、浅野長晟が広島へ入ることになり、三原城は、浅野家筆頭家老・浅野忠吉が紀伊新宮から入り代々城主となり明治まで続きました。
かつては三原城は海に向かって船入りを開いた「浮城」でしたが現在はJR三原駅があるなど市街地化でその面影はありません。しかし日本でも最も大きな天主台が残ります。ただし天守閣が建築されたことはありません。天主台にはJR三原駅構内から登ります。(開放時間は6:30~22:00)
隣接する「隆景広場」には小早川隆景の銅像が立っています。その他船入櫓跡及び本丸中門跡が残ります。


三原城はほとんどが市街地化されていますが、数少ない遺構として本丸中門跡付近に堀と石垣が残っています。
太刀掛呂山先生による七言絶句の漢詩が刻まれた三原ライオンズクラブによる石碑などが建っています。
浮城往昔扼山
陽名将造営厳
保障遺構僅留
残址在居然礎
石認金湯


そしてこちらは船入櫓です。
三原駅の南東側に大きな石垣が残っています。
櫓跡は城町公園となっています。


米山寺は沼田小早川氏の菩提寺です。
仁平3(1153)年に天台宗の寺として建てられました。
嘉禎元(1235)年小早川茂平が念仏堂を建立して氏寺としました。
小早川家の菩提寺で初代実平から17代隆景までの宝篋印塔(国の重要文化財指定)20基の墓が整然と並んでいます。
寺の宝庫には絹本著色小早川隆景像があります。有名な肖像画です。宝庫は拝観料200円で5人以上で開館すると説明看板にありました。私は朝早かったので当然見ることはできていません。


ここからは三原市に合併された本郷町の区域になります。
新高山城は、沼田小早川氏の城です。
鎌倉・室町時代を通じて沼田小早川氏が本拠地としたのは、沼田川対岸の高山城でした。毛利元就の三男で沼田小早川家を継いだ小早川隆景は、これまで高山城の副塁であった新高山城の大改修を行い、天文21(1552)年から以来慶長元(1596)年に三原城に移るまでの45年間居城としました。
新高山城は、標高197.6mの新高山城の天嶮を利用した山城で東西400m、南北500mの全山を城塞としています。
山頂尾根を削平した本丸、二の丸、三の丸など各種の郭は60余に及んでいます。
駐車場もあり、登城は山城だけあってそれなりにきついですが、石垣、堀切、釣井の段の井戸、小早川氏の菩提寺跡で小早川隆景が天正5(1577)年亡父毛利元就の七回忌、亡母妙玖尼の三十三回忌になどを行った匡真寺跡など見応えの多い城です。


高山城〔妻高山城・古高山城〕は隆景以前の小早川氏の居城です。
小早川氏の祖先、土肥実平・遠平父子は、源頼朝の平氏追悼に当って終始勲功をたて、はじめ備前・備中・ 備後の三国の守護の地位を与えられたが、安芸国沼田荘、沼田川流域一帯、蓮華王院領の地頭職を得てこの地に移りました。
建永元(1206)年、遠平の孫・茂平が東国より沼田荘地頭に任ぜられ高山城を築きました。後に茂平は、三男雅平を惣領として沼田本荘を継がせ、弟季平に沼田新荘を、長男経平に船木郷を、四男政景には竹原荘を譲り、それぞれ一族庶子に分割相続を行いました。鎌倉・室町時代を通して高山城は、沼田小早川(本家)が居城しました。
天文19(1550)年嫡流・小早川氏の当主・繁平が病弱だったため、竹原小早川氏から妹婿として隆景が17代として迎えられ、 本家と分家はひとつになり、翌年には木村城から高山城へ移ってきました。
隆景は中世の縄張りである高山城を廃し、 戦国時代に相応しい城として沼田川対岸の支城であった新高山城を大改修し居城としました。
高山城は、山頂は谷を挟んで前後に区画され、北側に本丸・ 二の丸・北の丸を配し、南側に西から出丸・権現丸・イワヲ丸・南丸・出丸など多数の曲輪が構築され、広さ16haに及ぶ巨大な山城です。
登城口は標識や説明看板などがないため少しわかりにくいです。
本郷駅から城山団地を目指し、墓地の脇の道を上っていくと高山城です。 


梨羽城(なしわじょう)は梨羽氏の城です。
梨羽氏は小早川氏九代春平の三男梨羽時春がこの地を与えられを初代となりました。その後、潔景ー元仁ー景行ー康平ー友行ー景宗と続きましたが関ヶ原の戦いの後、毛利氏の移封により長州に移転し、城は廃城になりました。
登城口は北方小学校の向かい側にありました。
「梨羽城跡さくらの杜」として整備され、周辺住民の方々の努力により維持されているようです。
歩きやすいですが個人的にはコンクリートで固められた登城道は?ですが少しでも維持管理の労力を減らすためにはやむを得ないことかも知れません。


次は竹原市へ向かいます。
Posted at 2008/06/21 19:41:52 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年06月07日 イイね!

丹波・但馬~山城巡りドライブ

この日は梅雨の谷間で天気が良かったので、運動不足解消も兼ねて丹波から但馬にかけて山城を巡ってみました。

黒井城は別名を保筑城・保月城とも呼ばれる山城です。
猪ノ口山(標高365m)にある山城で、南北朝時代の建武2(1335)年赤松貞範(則村の次男)が築きました。
天文23(1554)年には赤井直正(悪右衛門・荻野直正)が城主となり、大改修を加えました。
天正7(1579)年8月、丹波平定を目指す明智光秀の大軍の前に落城をとげました。その後、斎藤利三、堀尾吉晴、川勝秀氏が城主となりましたが、江戸時代初期に廃城となりました。
現在も本城部分には、野面積みの石垣が残ります。
中腹には三段曲輪・太鼓の段・石踏の段・西の丸・東出丸などの曲輪があり、千丈寺・龍が鼻・的場・百間馬場などの砦跡がある巨大な山城です。国の史跡に指定されています。


興禅寺は、山号を大梅山といい、曹洞宗の寺院です。
本尊には仏師春日の作の釈迦如来を祀り、七道伽藍が良く整った名刹として知られています。
戦国時代は、この寺域一帯は黒井城の下館でした。天正7(1579)年8月、明智光秀が落城させ、ここに入ったのが重臣の斎藤内蔵助利三です。この興禅寺は斎藤屋敷の伝承が残り、お福(後の春日局)の生誕地の伝承が残っています。寺内にはお福の産湯の井戸や腰かけ石などが残っています。
また、寺も高石垣や白の練塀の佇まいが往事の景観をよく残していて、国の史跡の一部となっています。


養父市八鹿町朝倉は越前国の戦国大名、朝倉氏の発祥の地です。
平安時代末期に地名を苗字として朝倉氏が興り、朝倉高清を初代とした。分流として八木氏、宿南氏、奈佐氏などの多くの武将を輩出しました。
朝倉城は朝倉集落の南西の丘陵にあり、東西130m、南北110mの規模です。
登城口には宝篋印塔の向かい側に説明看板があります。墓地の中を通り、登っていくと、動物対策に設けられた金網の扉が設けられますが、自由に入ることが出来ます。ただし、金網はちゃんと閉める必要があります。そこから登っていくと主郭部にたどり着きます。
主郭部の奥、南側の曲輪にはいくつか堀切を見ることができます。


比丘尼城は朝倉城の近くにあります。
詳細は不明ですが、朝倉城の支城であったと思われます。
登城は朝倉天満宮南側の道を上がります。駐車場はありますが、ダートのためスポイラー付きの車などは歩いていく方が無難だと思います。途中で右手に小さな案内の標柱があり、そこを登っていけばすぐです。


八木城です。
八木城は石城土城があります。
鎌倉時代初期、朝倉高清がこの西方の峯に築かれていた八木土城の城主閉伊十郎行光に勝った後三男重清を初代城主としました。その後重清は八木安高と名乗り以来豊信まで15代続きました。
八木氏は南北朝時代から戦国時代にかけて、八木石城を築きました。
その後、八木氏は山名氏の傘下に入り代々山名四天王の一人として重きをなしました。
15代豊信の天正8(1580)年3月、羽柴秀吉の播磨・但馬攻略により、八木城も落城しました。
天正13(1585)年秀吉の配下であった別所重棟が新たに八木城に入りました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに西軍に属した別所吉治は敗戦で所領を没収されましたが徳川家に仕える春日の局が伯母にあたるよしみをもって許され翌年丹波北由良城へ移封され、八木城は廃城となりました。
登城はかなり山道を登らなければなりませんが、本丸には石垣が残り、一見の価値がある城です。


八木土城は、平安末期に閉伊四郎頼国が築いたとされていますが、詳しいことはわからないようです。八木氏は南北朝時代に八木新城(八木石城)を築いて移りましたが、引き続き土城も詰めの城としての役割を果たしていたと思われます。
八木石城の主郭部を更に奥に登っていったところに八木土城があります。八木土城は案内や説明看板などはありません。土塁や堀切など遺構もしっかりと残っていて見応えがあるので八木城登城の際は土城にも登ってみると良いと思います。

Posted at 2008/06/15 22:54:21 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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