この日は東美濃(東濃)地方の城巡りです。土岐氏、明智氏、森氏、遠山氏の関連史跡が沢山あります。
土田城(どたじょう)は文明年間(1489~87年)に近江の佐々木氏の一族であった山内秀久が土田に移り土田秀久と名乗り築城したといわれています。
土田氏は、秀久・泰久・政久と続きます。
秀久は、生駒家広の娘を妻としました。長男の泰久が生まれた後に家広と秀久は不和になり、妻を離別しました。家広の家で生まれたのが次男の政久です。
土田宗家は土田源太夫は弘治2(1556)年に明智長山城において討死して土田氏宗家は断絶しました。
政久の二男、甚助は丹羽郡小折城主の生駒家に養子となり生駒親重と改めました。
その後、親重・子の親正が土田城を継ぎましたが、天正2(1574)年に土田城を退去したため金山城の森氏の支城となりました。
生駒親正は織田信長、豊臣秀吉に使え、最終的には讃岐17万石の領主となりました。
なお、織田信長の母親の土田御前は政久の娘といわれています。
大脇地区の大脇公民館に説明看板が建っており、近くに登城口があります。ただし、あまり登城ルートは整備されているとは言い難く、険しい道を鎖などを頼りによじ登っていく箇所もあります。
大森城は奥村氏の城です。
天文年間(1530年代)の可児郡には蜂屋・堂洞城に岸氏、久々利城に土岐悪五郎、土田城に生駒氏、御嵩城に小栗氏などがあり、大森の奥村氏などと群立していたようです。
奥村又八郎元広は本能寺の変の混乱に乗して謀反を企てましたが、天正10(1582)年6月に金山城の森長可に攻撃され落城し、大森城は廃城となりました。
大森神社に石碑や説明看板があります。
久々利城は土岐三河守悪五郎の築城と云われていますが築城年代はよくわかっていないようです。
土岐三河守悪五郎は、三代目美濃守護土岐頼康の弟康貞を初代とし、代々土岐三河守悪五郎を襲名していました。
天文17(1548)年2月、土岐三河守悪五郎頼興は、斎藤正義を館に招かれて謀殺し、烏峰城(金山城)を手に入れました。
天正10(1582)年、本能寺の変後の混乱に乗じて悪五郎は、金山城主森長可に反旗を翻しました。しかし、天正11(1583)年、悪五郎は森長可に祝宴に招かれ、斎藤正義の孫、加木屋正則により討ち果たされました。
遺構は土塁・空堀などがよく残されています。
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御嵩城(本陣山城)は天文年間(1532~54)に御嵩を拠点としていた戦国武将小栗信濃守が築城した山城です。以前は権現山に城を構えていましたが、より防御の堅いこの地に城を移築したとされています。
御嵩城は本陣山城と権現山城を総称して呼ぶようです。
しかし、天文21(1552)年土岐郡高山(原土岐氏土岐町高山)にあった高山城の攻略を目論んだ小栗信濃守の軍勢は、勢い城に攻め入ったものの形勢は不利となり、逆に土岐郡小里(瑞浪市稲津町小里)に拠点を置いていた武将小里出羽守光忠と恵那郡明智(恵那市明智町)に城を構えていた武将遠山与助らの軍勢に攻め込まれ、ついに小栗信濃守は敗戦、御嵩城は落城しました。
現在、城跡は御嵩城址公園となっています。公園化で逆に遺構が消滅しているような感じです。
御嵩城(権現山城)は天文年間(1532~54)に御嵩を拠点としていた戦国武将小栗信濃守の居城です。御嵩城はこの権現山城と本陣山城の総称です。
後に本陣山城に居城を移しましたが、権現山城は支城としての役割を果たしていたと思われます。
「金峰ふれあいの森」という公園になっており、主郭部には金峰神社が建っています。
城跡を示す石碑などはないようですが、公園の中に「木もれ陽の出丸」「霧の本丸」など城をイメージする名称がつけられており、土塁や堀切など遺構が残っています。
顔戸城(ごうどじょう)は、斉藤妙椿が築いた城です。妙椿は出家していましたが、長禄4(1460)年守護代を努めていた兄利永が世を去ったため仏道を捨て、政界に乗り出し頭角を現しました。
妙椿は、顔戸の地に東・北・西の三方に戦いに備えるための豪壮な空堀と土塁を設け、南は可児川の自然の流れを防御施設に利用した平城「顔戸城」を築城し、東美濃の守りの拠点としました。
現在も空堀や土塁など遺構がよく残っています。
明智城(明智長山城)は、康永元(1345)年に土岐下野守頼兼が名字を「明智」と改めて、初代明智家棟梁となり明智城を築城したのが始まりです。
以来、およそ215年間、この地域を治めていましたが、弘治2(1565)年、斉藤道三とその子義龍の争いに巻き込まれ、義龍に攻められて落城しました。最後の城主であった明智光秀は城の脱出に成功して明智家を再興しましたが、ここへは戻らず廃城となりました。
なお、明智光秀の出生地については恵那郡の明知城と両説があるようです。
金山城は天文6(1537)年斎藤道三は東美濃の攻略のため斎藤正義に城を築かせ、鳥峰城と称しました。
天文17(1548)年久々利城主土岐悪太郎は正義を酒宴に招き殺害し家老土岐十郎左衛門を城代として居城させました。
永禄8(1565)年、織田信長は東濃諸城を攻略すると森可成に鳥峰城を与え、名も金山城と改め東濃支配の拠点としました。
しかし、可成は近江宇佐山の戦いで戦死し、長男の森可隆も朝倉攻めで戦死したため、次男の森長可が城主となり、天正11(1583)年、武田氏を滅亡させた戦功により北信濃の海津城に入りました。
本能寺の変が起きると東美濃の諸将が謀反を企てたため長可は急遽金山城に帰り治めました。
天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いで長可は討死したため、末弟の森忠政が金山城主となりました
慶長5(1600)年忠政は信州川中島に転封となり石川光吉が金山城主となりましたが、犬山城を本城としたため金山城は不要となり櫓・門などは犬山城へ運び金山城は廃城となりました。
「蘭丸ふる里の森」として整備されています。石垣や土塁、堀など遺構がよく残っています。
可成寺(かじょうじ)は、正式には大龍山可成禅寺という臨済宗妙心寺派の寺院です。
妙向尼が、江州宇佐山の戦いで戦死した夫・森可成の菩提を弔うため長可を開墓とし、栄厳禅師を請して創建した森家の菩提寺です。可成、長可、蘭丸、坊丸、力丸の墓があります。
和知城(稲葉城)は、天正18(1590)年美濃国安八郡(安八郡神戸町)西保城の城主であった稲葉右近方通が、この地に築城し居城としました。
その後方通は慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで東軍に所属し和知、野上、上牧野、細目、久田見の4431石を賜り、元和3(1617)年、尾張藩に所属し、久々利村領主千村氏と同席同列となりました。その後、主計知通、右近正通、右近良通と続きましたが、良通に子が無く他界したため、右近知通の外孫の右平次屋通に相続を命じました。しかし、屋通も延宝4(1676)年に嗣子無く早世したため和知稲葉氏は断絶となり城も廃城となりました。
城跡は稲葉城公園となっています。稲葉家の家紋付きの櫓風展望台が建てられています。遺構としては土塁、堀が残っています。
次は、多治見市へ向かいます。