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ピズモのブログ一覧

2008年09月28日 イイね!

東濃・城めぐり(その3・恵那市・中津川市)

次は恵那市の明智町を訪れました。ここは「日本大正村」でおなじみです。以前にも訪れたことがありますが、今回は明知城を見てみたくて再訪しました。
明知城は宝治元(1247)年加藤次景廉の孫、景重が築いたと伝えられます。
明知遠山氏の居城として戦国時代を迎えましたが、東美濃は信濃・三河に国境を接するため武田・織田の争奪の場となりました。
明知城主遠山景行は織田信長と結び武田氏と対峙していましたが、元亀3(1572)年に武田信玄が上洛を開始すると、東美濃は別働隊として秋山信友が美濃侵攻を開始します。同年11月の「上村の戦」で遠山連合軍は秋山信友の武田軍に敗れ、景行は自害し明知城は武田氏に攻略され落城しました。
しかし信玄が死去すると武田軍は退却を余儀なくされました。天正2(1574)年、武田勝頼は東美濃に侵攻し明知城を襲撃しました。明知城主遠山一行・叔父利景らは兵五百でこれを防ぎ、織田信長に急を報じました。信長は、信忠、明智光秀とともに、三万の兵にて明知城西八丁の鶴岡山に布陣し、包囲された明知勢と連絡して武田勢を挟撃しようとしましたが、勝頼は山県三郎兵衛昌景に命じて兵六千で信長の退路を断ったため、信長は山岳戦の不利を思い、撤退したため明知城は落城しました。しかし、天正4(1575)年に長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗し、明知城も織田方に奪還され遠山一行、利景は帰還することができました。
天正10(1582)年の「本能寺の変」の際、一行・利景は甲斐に在番しこの後は徳川氏の配下に属したため、羽柴秀吉方の兼山城主森長可の圧迫を受けることとなり明知城から徳川領(足助鈴木氏)に落ち延びました。天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いで遠山勢は菅沼定利軍に属し、明知城の奪回に成功しますが、羽柴・徳川の和睦で明知城の返却を与儀なくされました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで利景は妻木城主妻木頼忠等とともに東軍に属し西軍に属した岩村城を攻略、明知城の奪回に成功し、戦後恵那・土岐郡内で6700石の所領を与えられました。以後遠山氏は徳川旗本として残りますが、元和元(1615)年の「一国一城令」で明知城は破却され、西麓に明知陣屋が構えられました。
城跡は、日本大正村界隈の東側、龍護寺や旧三宅家付近から登城できます。空堀、土塁など遺構がよく残っています。


龍護寺は山号は大明山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
大永元(1521)年ここ塔仙坊に楞厳院という草庵があり、柏庭和上が京都妙心寺、三河旭村の三玄寺を経て住んでいました。
慶長元(1596)年明智城主遠山利景は、城の北に浄地を選んで禅刹一宇を建立し、楞厳院を改め龍護寺としました。
この時の和尚椽室がいわゆる中興の開山です。建立の直後、覚岩和尚が法詞をついで第一世となり、この時以来龍護寺は代々遠山氏の菩提寺となりました。
境内には遠山氏累代の墓、明智光秀の供養塔があります。


明知陣屋〔代官所〕は、元和元(1615)年、旗本二代領主方景に江戸邸が与えられ、明知城は廃城となり、かわりに城山下の大手門近くに陣屋がおかれることになったため築かれたものです。
旗本遠山氏の御陣屋として、代官が江戸時代から明治の大政奉還まで行政を行いました。
日本大正村・大正ロマン館の下に堀跡があり、説明看板が建っています。


明智川のほとり、中馬街道沿いに遠山氏の屋敷跡があります。
明治30(1897)年頃に遠山家は東京に移住しましたが、今も屋根瓦に遠山家の家紋が残ります。
日本大正村の中に説明看板が建っていました。
明知城、明知陣屋との関係はよく分かりません。もう少し資料が欲しいところです。


次は、苗木城に行くか岩村城に行くか迷いました。岩村城は訪れたことがありますが、素晴らしい石垣が忘れられずに再訪することにしました。岩村城は大和高取城、備中松山城と並ぶ日本三大山城の一つです。別名を霧ヶ城といい、源頼朝の御家人加藤景廉が遠山荘地頭に補せられたのに始まります。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に攻め、以降遠山氏が代々居城しました。
戦国時代、遠山景任の妻で織田信長の叔母に当たるおつやの方が景任亡き後女城主となりました。天正元(1573)年に武田方の秋山信友の攻略を受けたが、講和の条件として信友の妻になりました。
長篠の戦いの後、織田信忠の攻略を受け、城は落城しました。開城の際、助命が約されていたが織田方はこれを翻し、信友夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑されました。
その後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行い現在の城郭に近いものとなりました。河尻秀隆が甲斐国に移封となると、森氏の居城となり蘭丸、長可、忠政の3代続きました。その後、田丸直昌が城主となりましたが、
慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで西軍に属したため、松平家乗(大給松平家)が城主となりました。江戸時代の城主は松平氏2代、丹羽氏5代の後、大給松平分家の松平氏7代を経て明治維新を迎えました。
廃城令により、明治6(1873)年に城は解体され石垣のみとなりました。
平成18(2006)年、日本100名城に指定されました。
立派な石垣が残る、見応えのある山城です。
















岩村城に行ったため、苗木城に到着した頃は周囲は真っ暗でした。なんとかスローシャッターで撮影しましたが。
苗木城は、天文年間に遠山直廉によって築かれました。
直廉は、岩村城主遠山景友の次男で織田信長の妹を正室としていました。直廉の娘が後に信長の養女となり武田勝頼に嫁ぎ、勝頼の嫡男信勝を生んでいます。
元亀3年、直廉が病没すると継嗣なく、信長の命により一族飯羽間城主遠山友勝が城主となりました。
武田氏の東美濃侵攻により岩村城が武田氏の拠点となると、苗木城が織田方の苗木城が最前線となりました。
天正11(1583)年、本能寺の変後、苗木城は金山城主森長可に攻められ落城し、遠山友忠・友政父子は徳川家康を頼って落ち延びました。
苗木城は、森氏の所有となりましたが、慶長4(1599)年には河尻直次の所領となりました。
慶長5(1600)年、西軍に与した河尻直次は改易となり、関ヶ原の戦功により遠山友政が旧領を回復して10521石を領して入城します。以後代々遠山氏がこの地を領し、明治維新を迎えました。昭和56(1981)年、国の史跡に指定されました。
1万石の大名の居城とは思えない、石垣が立派な城です。

ここは資料館もあるので、是非再訪したいと思います。
ここで今回の史跡めぐりは終了です。
Posted at 2008/10/15 20:35:19 | コメント(4) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年09月28日 イイね!

東濃・城めぐり(その2・多治見市・土岐市・瑞浪市)

次は多治見市です。
池田城は池田氏の城です。
備前岡山、因幡鳥取藩池田氏の先祖がこの城にいたそうですが、摂津池田氏の出身という説、また揖斐郡池田荘の出身という説もあり、この城との関わりはよくわかりません。
池田不動、池田稲荷神社の付近が城跡だそうです。石垣のようなものがあり、また池田城主のお墓があります。


多治見国長邸はぎんざ商店街内にあり県史跡になっています。多治見国長は、美濃源氏土岐氏の一族です。
後醍醐天皇は正中元(1324)年、鎌倉幕府打倒を目指し倒幕を呼びかけました。しかし、同族の土岐頼員が計画を六波羅探題の奉行、斎藤利行の娘である妻に漏らしてしまったことから事前に露顕し、国長の京都の屋敷は襲撃され、一族郎党とともに自害しました。
石碑が建っていますが、遺構などは無いようです。


永保寺(えいほうじ)は、山号は虎渓山、臨済宗南禅寺派の寺院です。
鎌倉時代の正和2(1313)年創建、夢窓疎石が開祖です。
光明天皇の勅願寺になり、守護大名土岐氏の庇護を受けました。
夢窓疎石作の池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されています。
平成15(2003)年9月、本堂と庫裏が焼失する火災が発生し、平成20年現在再建が進められています。
拝観は無料です。


次は土岐市に入ります。
妻木城士屋敷です。妻木城は山上と山麓に存在し、山麓は山麓の御殿跡および武家屋敷の跡が残り岐阜県史跡「妻木城士屋敷跡」として指定されています。
妻木城は、暦応2(1339)年、土岐明智氏の祖である明智頼重が妻木郡の領主となり妻木城を築城したと言われています。
その後、土岐明智氏の居城でしたが、戦国時代は一族の妻木氏代々の居城になりました。
妻木頼忠は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで東軍に味方し、岩村城 (恵那市)を攻略したため、その戦功により土岐郡内7500石の領主として旧領を安堵され、山麓の御殿(居館・陣屋)と士屋敷 (さむらいやしき)を大改修して所領支配の拠点としました。
その後、妻木氏は頼忠-頼利-頼次と3代続きましたが、万治元(1658)年城主頼次が後継ぎがないまま急死した為、断絶し廃城となりました。
士屋敷跡は、石垣などの遺構がよく残っています。


妻木城の山上は「妻木城跡」として岐阜県史跡に指定されています。
山上の城跡には、一の曲輪付近に石垣がよく残っています。
山麓の「妻木城士屋敷」から歩いて登るのが大手道ですが、名岐国際ゴルフ場への道に入り、100mがほど進むと右手に未舗装の林道を走ると、主郭部近くまで車で登ることができます。ダートなので、車高の低いスポーツカーなどは少し危険かも知れませんが。


崇禅寺は、美濃国守護土岐頼貞の孫にあたる妻木城主土岐明智彦九郎頼重が、文和3(1354)年に夢窓国師を勧請開山として創建しました。その後代々の妻木城主の菩提寺として手厚い保護により、この地方屈指の禅寺として栄えました。
山門は妻木城の城門を移築したものだそうです。


大富館は源頼光の子頼国が居住したのが始まりと言われています。
頼国の五世の孫光衡は一日市場館(瑞浪市)に移り土岐氏を称しました。その後土岐光行、光定の二代は大富館の対岸浅野に館を構えて住みましたが、頼貞の代に美濃国の守護職になり再び大富館に居住しました。
しかし 頼貞の子頼遠は長森城に移り土岐氏は西美濃を本拠とするようになりました。
石碑が建っている地点は、屋敷の西北角でこれより東南へ それぞれ約300㎡にもひろがる正方形の広大な敷地があったそうです。
昭和31(1956)年5月9日土岐市の史跡に指定されました。


ここからは瑞浪市です。
一日市場館は、源頼朝に仕え美濃国守護となった土岐光衡の館跡です。光衡歯一日市場館(神戸城、国府野城、神篦城等とも)にあって勢力を伸ばし、子孫は鎌倉幕府と共に栄えました。
南北朝時代、光衡の曽孫頼貞は足利尊氏により、美濃国守護に任ぜられましたが、大富館に移りました。
館跡は、八幡神社となっています。明智光秀ゆかりの地として銅像が建っています。光秀の先祖は土岐頼貞の九男頼元の子頼重が明智氏初代で、八代目の頼尚の子頼典の孫として生まれた光秀がこの一日市場館の井戸水で湯浴みをし、2歳で明智城代光安に引き取られたとの伝承があると、説明の石碑に書かれていました。


鶴ヶ城は、土岐光衡が一日市場館の詰めの城として、神篦のこの地に城を築いて鶴ヶ城と称しました。土岐頼貞の十男土岐頼兼が正中の変で亡くなった後は、遠山氏に備えとして一族が居城しました。
天正10(1582)年の織田軍の武田攻めの際には、信長・信忠はこの城に入城し、ここから攻略の軍を発しています。
一部は中央道に削り取られていますが、堀切、井戸などがよく残っています。



小里城御殿場です。小里城(おりじょう)は、土岐氏一族の小里出羽守光忠が天文3(1534)年に築城し、以降代々の居城としました。
光忠は元亀 3(1572)年、武田勢の美濃侵入に際し、明智の遠山景行らと共に織田方となって12月の上村合戦に戦死し、家督は光明が継ぎました。その翌年の天正元(1573)年には武田方の秋山信友によって岩村城は攻略され、武田勢の美濃侵入の拠点となったため、天正3(1575)年、織田信長は岩村城を奪回しようとして小里、神箆両城を固めました。
命を受けた光明らによって小里城は大規模に広げられましたが、一方岩村城はこの工事途中の12月、信忠を大将とする織田方の攻撃で落城したので、小里城の改築も一の木戸の石垣や本丸(桜)構築の途中で中止されました。御殿場は、小里城の山麓の居館で慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の後に、旧領地を回復した小里光親が居住したところです。
元和9(1623)年に小里氏は、光親の子光重は嗣子が無く断家となり小里城は廃城となりました。


御殿場から登っていくと小里城です。山頂に残る城跡は、織田信長の命により武田氏への備えとして築かれたものです。天守台などに石垣がよく残っています。


次は恵那市へ向かいます。
Posted at 2008/10/14 20:32:22 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年09月28日 イイね!

東濃・城めぐり(その1・可児市、御嵩町、八百津町)

この日は東美濃(東濃)地方の城巡りです。土岐氏、明智氏、森氏、遠山氏の関連史跡が沢山あります。
土田城(どたじょう)は文明年間(1489~87年)に近江の佐々木氏の一族であった山内秀久が土田に移り土田秀久と名乗り築城したといわれています。
土田氏は、秀久・泰久・政久と続きます。
秀久は、生駒家広の娘を妻としました。長男の泰久が生まれた後に家広と秀久は不和になり、妻を離別しました。家広の家で生まれたのが次男の政久です。
土田宗家は土田源太夫は弘治2(1556)年に明智長山城において討死して土田氏宗家は断絶しました。
政久の二男、甚助は丹羽郡小折城主の生駒家に養子となり生駒親重と改めました。
その後、親重・子の親正が土田城を継ぎましたが、天正2(1574)年に土田城を退去したため金山城の森氏の支城となりました。
生駒親正は織田信長、豊臣秀吉に使え、最終的には讃岐17万石の領主となりました。
なお、織田信長の母親の土田御前は政久の娘といわれています。
大脇地区の大脇公民館に説明看板が建っており、近くに登城口があります。ただし、あまり登城ルートは整備されているとは言い難く、険しい道を鎖などを頼りによじ登っていく箇所もあります。


大森城は奥村氏の城です。
天文年間(1530年代)の可児郡には蜂屋・堂洞城に岸氏、久々利城に土岐悪五郎、土田城に生駒氏、御嵩城に小栗氏などがあり、大森の奥村氏などと群立していたようです。
奥村又八郎元広は本能寺の変の混乱に乗して謀反を企てましたが、天正10(1582)年6月に金山城の森長可に攻撃され落城し、大森城は廃城となりました。
大森神社に石碑や説明看板があります。


久々利城は土岐三河守悪五郎の築城と云われていますが築城年代はよくわかっていないようです。
土岐三河守悪五郎は、三代目美濃守護土岐頼康の弟康貞を初代とし、代々土岐三河守悪五郎を襲名していました。
天文17(1548)年2月、土岐三河守悪五郎頼興は、斎藤正義を館に招かれて謀殺し、烏峰城(金山城)を手に入れました。
天正10(1582)年、本能寺の変後の混乱に乗じて悪五郎は、金山城主森長可に反旗を翻しました。しかし、天正11(1583)年、悪五郎は森長可に祝宴に招かれ、斎藤正義の孫、加木屋正則により討ち果たされました。
遺構は土塁・空堀などがよく残されています。



御嵩城(本陣山城)は天文年間(1532~54)に御嵩を拠点としていた戦国武将小栗信濃守が築城した山城です。以前は権現山に城を構えていましたが、より防御の堅いこの地に城を移築したとされています。
御嵩城は本陣山城と権現山城を総称して呼ぶようです。
しかし、天文21(1552)年土岐郡高山(原土岐氏土岐町高山)にあった高山城の攻略を目論んだ小栗信濃守の軍勢は、勢い城に攻め入ったものの形勢は不利となり、逆に土岐郡小里(瑞浪市稲津町小里)に拠点を置いていた武将小里出羽守光忠と恵那郡明智(恵那市明智町)に城を構えていた武将遠山与助らの軍勢に攻め込まれ、ついに小栗信濃守は敗戦、御嵩城は落城しました。
現在、城跡は御嵩城址公園となっています。公園化で逆に遺構が消滅しているような感じです。


御嵩城(権現山城)は天文年間(1532~54)に御嵩を拠点としていた戦国武将小栗信濃守の居城です。御嵩城はこの権現山城と本陣山城の総称です。
後に本陣山城に居城を移しましたが、権現山城は支城としての役割を果たしていたと思われます。
「金峰ふれあいの森」という公園になっており、主郭部には金峰神社が建っています。
城跡を示す石碑などはないようですが、公園の中に「木もれ陽の出丸」「霧の本丸」など城をイメージする名称がつけられており、土塁や堀切など遺構が残っています。


顔戸城(ごうどじょう)は、斉藤妙椿が築いた城です。妙椿は出家していましたが、長禄4(1460)年守護代を努めていた兄利永が世を去ったため仏道を捨て、政界に乗り出し頭角を現しました。
妙椿は、顔戸の地に東・北・西の三方に戦いに備えるための豪壮な空堀と土塁を設け、南は可児川の自然の流れを防御施設に利用した平城「顔戸城」を築城し、東美濃の守りの拠点としました。
現在も空堀や土塁など遺構がよく残っています。


明智城(明智長山城)は、康永元(1345)年に土岐下野守頼兼が名字を「明智」と改めて、初代明智家棟梁となり明智城を築城したのが始まりです。
以来、およそ215年間、この地域を治めていましたが、弘治2(1565)年、斉藤道三とその子義龍の争いに巻き込まれ、義龍に攻められて落城しました。最後の城主であった明智光秀は城の脱出に成功して明智家を再興しましたが、ここへは戻らず廃城となりました。
なお、明智光秀の出生地については恵那郡の明知城と両説があるようです。


金山城は天文6(1537)年斎藤道三は東美濃の攻略のため斎藤正義に城を築かせ、鳥峰城と称しました。
天文17(1548)年久々利城主土岐悪太郎は正義を酒宴に招き殺害し家老土岐十郎左衛門を城代として居城させました。
永禄8(1565)年、織田信長は東濃諸城を攻略すると森可成に鳥峰城を与え、名も金山城と改め東濃支配の拠点としました。
しかし、可成は近江宇佐山の戦いで戦死し、長男の森可隆も朝倉攻めで戦死したため、次男の森長可が城主となり、天正11(1583)年、武田氏を滅亡させた戦功により北信濃の海津城に入りました。
本能寺の変が起きると東美濃の諸将が謀反を企てたため長可は急遽金山城に帰り治めました。
天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いで長可は討死したため、末弟の森忠政が金山城主となりました
慶長5(1600)年忠政は信州川中島に転封となり石川光吉が金山城主となりましたが、犬山城を本城としたため金山城は不要となり櫓・門などは犬山城へ運び金山城は廃城となりました。
「蘭丸ふる里の森」として整備されています。石垣や土塁、堀など遺構がよく残っています。


可成寺(かじょうじ)は、正式には大龍山可成禅寺という臨済宗妙心寺派の寺院です。
妙向尼が、江州宇佐山の戦いで戦死した夫・森可成の菩提を弔うため長可を開墓とし、栄厳禅師を請して創建した森家の菩提寺です。可成、長可、蘭丸、坊丸、力丸の墓があります。


和知城(稲葉城)は、天正18(1590)年美濃国安八郡(安八郡神戸町)西保城の城主であった稲葉右近方通が、この地に築城し居城としました。
その後方通は慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで東軍に所属し和知、野上、上牧野、細目、久田見の4431石を賜り、元和3(1617)年、尾張藩に所属し、久々利村領主千村氏と同席同列となりました。その後、主計知通、右近正通、右近良通と続きましたが、良通に子が無く他界したため、右近知通の外孫の右平次屋通に相続を命じました。しかし、屋通も延宝4(1676)年に嗣子無く早世したため和知稲葉氏は断絶となり城も廃城となりました。
城跡は稲葉城公園となっています。稲葉家の家紋付きの櫓風展望台が建てられています。遺構としては土塁、堀が残っています。


次は、多治見市へ向かいます。
Posted at 2008/10/07 22:09:59 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年09月13日 イイね!

大和宇陀と伊賀の城めぐり

この日は奈良県東部の宇陀市と三重県の伊賀地方の城を巡ってみました。

旧松山城西口門は旧松山城大手筋にあたる西口関門です。
建築は徳川初期のもので、門を含む地域は桝形になっています。
松山城は、旧名秋山城と呼ばれていましたが、福島正則の弟福島掃部頭孝治(別名福島高晴・正頼とも)が関ヶ原の戦いの後に入城して整備しました。
この西門もその頃の構築で、宇陀松山城の唯一残る建築物です。


宇陀松山城は、旧名秋山城と呼び、戦国時代に秋山氏が城を築き本拠地としていました。
天正13(1585)年に秋山氏が追放された後、豊臣秀長の領地となり、配下の武将により改修されました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦後、福島正則の弟福島掃部頭孝治(別名福島高晴・正頼とも)が城主となり、本格的な近代城郭として大改修が加えられました。
元和元(1615)年、孝治の改易にともない松山城は破却され、織田信長の次男信雄が城主となりました。織田氏は、山麓に「御上屋敷」や「長山屋敷」を設け藩政を行いました。
しかし、元禄7(1694)年に4代目藩主織田信武が家臣2人を殺害のうえ自殺した為、翌8(1695)年 領地を没収され、藩主となっていた織田信休は減封の上、丹波柏原へ転封となり、 以後天領となりました。
城跡は、春日神社から登ります。(ホームページURL)
本丸付近には石垣など遺構がよく残っています。眺望も良く、お勧めの城です。
発掘調査が進められています。


高山右近の碑は宇陀市の旧榛原町地域にあります。高山右近は永禄7(1564)年、父ダリヨ飛騨守(高山友照)の感化により「ジェスト」即ち正義の教名をもって洗礼を受けました。
高山友照は、摂津の出身でしたが、松永久秀に従い大和国の沢城の城主になったため、右近は少年時代を沢城で過ごしたました。
そのため、沢城近くに高山右近とその父を称えて沢城址を顕彰するため高山右近の碑が昭和45(1971)年建てられました。


沢城は、正平年間(1346~1370)に宇陀三将の一人沢氏の居城として築かれました。
永禄3(1560)年から永禄10(1567)年までは高山右近の父高山飛騨守図書(友照)が城主となりました。高山右近も幼い頃はこの地で過ごしたそうです。
土塁や堀の跡が残っています。
高山右近の碑の近くから登城口への説明看板が出ています。


柏原城は、伊賀の土豪滝野氏の城です。
天正9(1581年)年の天正伊賀の乱の際、織田軍に攻められ各地で敗れた伊賀勢が最後に立てこもった城です。
柏原城主・瀧野十郎吉政は開城し、天正伊賀の乱は終わりを告げました。

勝手神社脇に「天正伊賀乱四百年記念 決戦之地柏原城」と書かれた石碑が建てられています。
城跡は勝手神社の東側のようです。


名張藤堂家邸〔名張陣屋、名張城〕は、丹羽長秀の三男で藤堂高虎の養子となった藤堂高吉が、寛永13(1636年)年に2万石で名張を与えられ、かつて筒井定次の家臣松倉勝重、重政、藤堂高虎の家臣梅原勝右衛門らが居館を構えた古城跡に屋敷を構えました。
宝永10(1710)年の名張大火で屋敷は焼失しましたが、再建されました。明治時代に建物の大部分が失われましたが、中奥、祝の間、茶室などが残っています。


壽榮神社(ひさかじんじゃ)の祭神は名張藤堂家の初代藤堂高吉です。
高吉の法名徳蓮院殿徳翁壽榮大居士に因んだ社名です。
境内には旧名張藤堂家邸の正門(太鼓門)が移築されています。


千賀地氏城は千賀地氏の城です。千賀地氏は服部家の宗家とされています。
平安時代の武将服部家長が、平家に味方し壇ノ浦の戦いの後伊賀に落ち延びて千賀地氏を名乗ったとされています。
子孫の服部保長は千賀地氏から元の服部氏に戻し、足利義輝に仕えた後、松平清康、広忠に仕えました。その後徳川家康の時代に服部正成(半蔵)が活躍したことはよく知られています。
藤堂采女元則もこの千賀地氏の出で、藤堂高虎に仕え、藤堂姓を与えられました。
大坂夏の陣などで活躍し、伊賀上野城代になりました。
城跡には「服部半蔵、藤堂采女正誕生の地」と書かれた石碑が建っています。


丸山城は、天正6(1578)年、北畠氏の養子に入った織田信長の次男信雄の家臣、滝川雄利によって築かれました。
天守も備えた本格的な城でしたが、完成間近で伊賀の土豪衆の襲撃を受け、築城半ばで放棄、撤退しました。この丸山城襲撃事件が有名な「天正伊賀の乱」の原因となりました。
天正9(1581)年、織田信長による伊賀攻めの後、雄利は城に戻り、城を完成させました。
遺構としては、本丸の天守台と枡形虎口、堀切など遺構がよく残っています。
登城口は南側ということでしたが、私は西側から登りました。そして北側へ降りていきました。登城口はどの方角からも非常にわかりにくいです。案内の看板もありません。旧天守台跡に石碑が建てられています。


福地城は、福地氏の城です。
天正9(1581)年天正伊賀の乱で福地伊予守宗隆は、織田信長に与して伊賀侵攻の案内者となり、福地氏城には信長の家臣不破彦三を置きました。天正伊賀の乱の後は池尻平左衛門尉が城主となりました。
現在、城跡は芭蕉公園となっています。松尾芭蕉の先祖は福地氏の一族であるということで、句碑と生誕碑が建てられています。
石垣や土塁、空堀など遺構がよく残っています。



萬寿寺は、元は徳雲山長福寺といいました。後に萬寿寺と改称しました。
伊賀市柘植出身の松尾芭蕉の菩提寺として知られています。
福地城のすぐ隣にあります。



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Posted at 2008/10/02 23:01:55 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年09月07日 イイね!

福岡・熊本・太宰府紀行(3日目・太宰府近辺の史跡めぐり)

この日は熊本から太宰府に移動です。

水城は664年に天智天皇の命により築造された土塁です。
白村江の戦いで百済に味方し、唐・新羅連合軍に大敗した日本は、博多湾から大宰府に攻め込まれるのを防ぐために、水城を築いたとされています。文永11(1274)年の元寇・文永の役で防衛線として改修が行われましたが、戦いの場となることはなかったそうです。
土塁は国分側の丘陵と吉松丘陵との間の1.2kmを塞ぐように作られた人工の盛り土です。周囲は住宅などになっていますが、かつては博多側に幅60mの外濠があったとされ、太宰府側には内濠があったと考えられています。
東門跡付近に駐車場と展望台が整備されています。


次は大宰府政庁です。
大宰府は、古代西海道と呼ばれていた九州一円を統括しており、外交や貿易など対外交渉の窓口としての重要な任務を担っていました。
「遠の朝廷(とおのみかど)」といわれその機構は中央政府に準じていて、地方機関としては最大規模の行政組織を有していました。
平安時代末期にはその役割を終え、田畑になっていましたが、福岡藩黒田氏が江戸時代に建物礎石の調査を行い、明治から昭和にかけても簡単な保存整備が行われていました。
昭和30年代後半、宅地開発の計画が持ち上がりましたが、行政と地元の協力の下、文化財として保護されています。


太宰府天満宮は学問の神様として知られる菅原道真を祭神とする神社です。
延喜元(901)年、菅原道真は大宰府に権帥として左遷され、延喜3(903)年にこの地で亡くなりました。遺骸は都に送ろうとしましたが、大宰府から外れたところで牛車を曳いていた牛が動かなくなりました。そこに留まりたいという道真の意志と考えられたため、そこに墓が建てられました。その後延喜19(919)年に墓所の上に社殿が建てられ太宰府天満宮が創建されました。
梅の名所としても知られています。


太宰府天満宮宝物殿は、太宰府天満宮内にある昭和3(1928)年に開館した博物館です。
菅原道真公の真筆や佩刀、幕末に太宰府に滞在した五卿の宝物などを展示しています。
現在の建物は平成4(1992)年に菅公御神忌1090年御本殿再建400年を記念して全面改築されたものです


そして、次は今回の旅行で最も行きたかった場所といって過言ではない岩屋城です。
岩屋城は天文年間に宝満城の支城として大友氏の武将であった高橋鑑種により築かれました。しかし、永禄10(1567)年に鑑種は大友氏に反旗を翻し、永禄12(1569)年には岩屋城を追われ大友家の宿老吉弘鑑理の弟で吉弘鎮種が高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種(後に高橋紹運)」と名乗り宝満・岩屋の両城主となりました。
天正14(1586)年に九州制覇を目指す島津義久は、筑前に島津忠長、伊集院忠棟を大将とする5万の大軍で攻め込みました。筑前では高橋紹運、宝満城の紹運の次男高橋統増(立花直次)、立花城の紹運の長男立花宗茂だけでした。
島津氏は降伏勧告をするも高橋紹運は徹底抗戦を決意し、763名のみで籠城しました。半月近く戦いましたが、全員玉砕しました。
しかし、島津氏はこの城の攻略に手間取り、豊臣秀吉の九州征伐が行われたため、九州制覇の野望は絶たれました。
城跡には車で主郭部付近まで登ることができます。本丸跡には「嗚呼壮烈岩屋城址」の石碑が建っており、大宰府政庁跡などがよく見えます。


二の丸跡には高橋紹運の墓があります。
「流れての末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水」
「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき」


大野城は天智天皇2年(663)、白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗したため翌年の天智天皇4(665)年に百済の亡命高官2名の指導により唐、新羅の侵攻に備えて築かれた朝鮮式山城です。
大宰府政庁の北に聳える四王寺山中雄大な備えの朝鮮式山城で、山の稜線に沿って土塁を巡らし、谷には石垣を築き、その内側に倉庫等の建物を設け、大宰府が危急の場合に逃げ込み、長期間籠城防戦できるしくみになっています
現在も土塁や石垣、城門跡など数多くの遺構が残っていて、日本100名城にも指定されています。


これで今回の九州旅行は終了です。九州は考えてみるとまだまだ行っていない史跡が沢山あります。もう少し歴史的な背景を勉強して、色々回ってみたいものです。
Posted at 2008/09/27 18:36:20 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記

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