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ピズモのブログ一覧

2008年10月18日 イイね!

茨木市&交野市の史跡

この日は、北摂方面に少し用事があったのでついでに史跡めぐりです。

茨木市の佐保栗栖山砦は、国見街道と佐保より福井に通ずる道路の双方を押える位置にあり、標高184mの栗栖山頂に築かれた連郭式の砦です。戦国時代に築かれたと推定されていますが、築城者などは不明のようです。
彩都の開発の時に発掘調査が行われたようです。
砦の跡には遺構がよく残っているそうですが、登城口がよくわかりません。だいたいの場所はわかるのですが・・・ちなみに石碑の位置は少し離れた場所にあります。


次は交野市へ行ってみました。
交野城(かたのじょう)は、私部城(きさべじょう)ともいい、文和元年・正平7(1351)年、南朝方だった安見清儀が築城しました。安見氏はその後北朝方となり、正平年間(1346年~1370年)末、河内守護となった畠山義深の重臣となり、遊佐・木沢両氏とならんで畠山氏の河内守護代となりました。
戦国時代、清儀から9代後の安見宗房(直政)は、畠山氏に替わって河内守護と称しましたが、三好長慶に攻められ一時大和へ逃れました。
永禄12(1569)年、織田信長の河内統一後、安見宗房は所領を回復し交野城を居城としました。
安見宗房が病没後、筒井順慶に交野城は攻められ落城し、天正3(1575)年に織田信長の命により廃城となりました。
交野郵便局と交野市役所の間が城跡です。一部宅地化されていますが、遺構が点在しています。民家の敷地にある「私部城」の石碑と、駐車場や畑地にかつての城跡を偲ぶことが出来ます。


交野代官所は、旗本の高家畠山氏(3000石)の代官所として寛文元(1661)年に築かれました。高家畠山氏は、室町時代河内守護であった畠山氏の子孫にあたります。北田氏は交野城主安見氏の重臣でしたが、土着して代官を務めました。
北田家住宅として重要文化財になっていて、北田氏の子孫の方がお住まいなので外から静かに見学しましょう。


旗掛け松跡です。現在の星田公園の敷地はかつては新宮山八幡宮の敷地でした。
天暦3(949)年、当時三宅山と呼ばれていた星田公園一帯の土地を石清水八幡宮に寄進し、八幡宮の分霊を勧請して祀ったことから、石清水八幡宮の本宮に対し、新宮と呼ばれるようになりました。しかし、明治5(1872)年に廃止され、星田神社に合祀されました。
山頂の本殿前には、慶長20(1615)年の大坂夏の陣の際、当地に本陣を置いた徳川家康が軍旗を掲げたと伝えられる旗掛け松と呼ばれる松の大木がありました。残念ながら明治時代に枯れてしまい、現在は星田公園の山頂付近に石碑が建っているのみです。


大坂夏の陣・徳川家康陣営跡碑です。交野市の星田は大坂夏の陣で徳川家康が陣営を置いた場所として知られています。大坂夏の陣の際、市橋長勝は星田宿営地の防備を固めました。
豊臣方により交野の村や寺などは焼かれましたが、星田だけは防備のために焼かれずにすんだそうです。そして慶長20(1615)年5月5日、徳川家康が京から大坂へ向けて出発した後に星田の平井清貞宅で宿営し、5月6日に大坂城へ向けて出陣しました。
市橋氏はこの合戦の功績により越後三条藩、後に近江仁正寺藩に封じられ、文化2(1805)年に子孫の仁正寺藩主市橋長昭が家康陣営の跡を記念するため、この石碑を建立しました。


星田妙見宮は、小松神社ともいい弘仁年間(810~823)に、弘法大師が交野の私市獅子窟寺の岩屋で仏眼仏母尊の修法をされた時、七曜の星が降り、それが地に落ちた三ヶ所のうちのひとつとされています。
現在は星田神社の境外摂社とされているそうです。
妙見山の頂上近くにあり、かなり急な階段を上ってお参りします。


星田妙見宮の北側参道ちかくに伝家康ひそみの藪があります。
天正10(1582)年6月2日、織田信長が明智光秀により本能寺の変で自害した時、徳川家康は少人数の家臣と共に酒井に滞在していました。本能寺の変の情報を入手した家康は、即刻堺から本国の三河へ帰ることにしました。その日の深夜家康はこの竹やぶにひそみ、村の長の平井氏に連絡して山城方面に出るため道に精通した農民を道案内人として出すよう依頼しました。
平井家では沢山の握り飯を鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用のおける農民を選出して無事に道案内の大役を果たさせたといわれています。


この日は「ついで」の史跡めぐりだったのですが、大阪府の北部地域にも色々史跡があるものだと思いました。探せばまだありそうです。
Posted at 2008/10/28 23:32:54 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年10月12日 イイね!

姉川古戦場めぐり&石田三成ゆかりの地めぐり

次は姉川の戦いの古戦場を巡ります。
三田村氏館跡は、京極氏、のち浅井氏に仕え、姉川北岸で勢力をもっていた三田村氏の屋敷跡です。
姉川の戦いでは、朝倉軍の指揮を担った朝倉景健の本陣として使用されたとも考えられています。
三田村氏は横山城を守るなどしており、その後は小谷城の中丸を守備していましたが、元亀3(1572)年に木下秀吉を通じて降参しましたが、討伐されたため三田村氏館は廃城となったようです。
現在は伝正寺の周囲に土塁などが残っています。発掘調査などが行われ、平成19(2007)年7月26日に「北近江城館跡群」の一つとして国指定史跡になりました。


血原はその名が示すとおり姉川の戦いの激戦地です。
姉川の戦いの直前、6月24日に浅井長政は援軍に来た朝倉景健と姉川の北方3kmにある大依山に布陣しました。合戦当日の28日未明、長政と景健の両将は姉川北岸に前進して織田・徳川軍と決戦に及ぶことを決断しました。朝倉景健の本陣はこの北西にあたる三田集落内の三田村氏館付近に置かれたと推定されており、南の姉川の対岸にある岡山には徳川家康の本陣が置かれました。
その中間にある血原は、朝倉軍と徳川軍が激突した地で、多くの戦死者で血に染まったので「ちはら」と呼ばれるようになったそうです。
両軍の戦いでは朝倉軍の武将で、刃長五尺三寸(160cm)の大太刀を振るって奮戦した真柄十郎左衛門直隆の討死です。最初は徳川家康の家臣向坂式部と渡り合い、途中から弟の向坂吉政が十文字槍を持って助太刀に入り、真柄の首を討ち取ったという説や、青木一重が討ち取ったという説があるようです。
血原は公園になっており、姉川古戦場跡の石碑や説明看板が建っています。


七十士の墓は、姉川の戦いの戦死者を葬った場所に建てられたと言われている石塔群です。もとは、現在地の西北の「西三昧」と呼ばれる場所にあった地蔵堂付近の墓石を、昭和55(1980)年に完成した三田町の圃場整備に際してまとめたものです。「西三昧」は三田村氏館跡に移転した伝正寺の跡地とされ、移転の時期は江戸時代の正徳5(1715)年頃とされています。なお、この石塔群は三田村左衛門一族の墓という説もあります。


野村橋の近くには姉川古戦場の碑があります。


血川は元亀元(1570)年の姉川の戦いにおいて、浅井長政が本陣を置いた野村集落の南側にあたります。姉川の戦いに際して血に染まったと伝えられる血川がかつては流れていましたが、昭和60(1985)年に完成した野村町の圃場整備により流路がなくなりました。現在は説明の看板が建つのみです。


陣田(じんでん)は、姉川の戦いの際、浅井長政の本陣があった場所と伝えられています。
合戦当日の元亀元(1570)年6月28日の前日まで浅井長政はこの地の北方にある大依山に布陣して、対岸の織田、徳川軍に対峙していました。しかし、28日の未明、重臣の遠藤直経の進言に従い、この地に軍を進めたと言われています。
昭和60(1985)年の野村町の圃場整備まで、この地には「陣田」と呼ばれていた小高い丘がありました。野村集落内には他にも土塁が点在しているようです。


勝山は元々岡山と言われていた山です。
姉川の戦いの時に徳川家康が陣を敷き、戦いに勝ったことに因んで「勝山」といわれるようになりました。徳川家康は激戦の末に朝倉勢を敗走させ、それにより劣勢の織田軍も盛り返し、勝利を得たと言われています。
勝山は江戸時代以来、「流岡神社」が鎮座していました、明治41(1908)年に上坂神社に合祀されました。この流岡神社には織田信長が勝利祈願をしたとの社伝があり、境内の上部が枯れているのは、合戦の折両軍の矢が飛び交って枝を折ったためと言われています。上坂神社には織田信長が寄進した金灯籠が現存しているそうです。


龍ヶ鼻(たつがはな)は、姉川の戦いの直前に織田信長や徳川家康が本陣を置いた曲輪の跡です。横山城から続く丘陵の北突端にあたります。
元亀元(1570)年6月19日、浅井長政を攻めるため、織田信長は大軍を率いて近江に入り、21日から小谷城を攻めましたが、構えが固いと見るや、わずか1日の攻撃で兵を返し、24日にはこの龍ヶ鼻へ陣を移しました。徳川家康もそこへ合流して、南方の横山城を攻撃しました。
信長や家康の本陣は、標高187mの龍ヶ鼻曲輪跡や、茶臼山古墳の後円部にあたる龍ヶ鼻陣所付近にあったと見られています。合戦の当日の28日未明、浅井・朝倉連合軍が姉川北岸に前進したのを見て、織田信長は「陣杭の柳」に、徳川家康は「岡山」にそれぞれ本陣を移し合戦が行われました。


陣杭の柳(じんごのやなぎ)は、姉川の戦いにおける織田信長の本陣跡です。
信長は、東方の龍ヶ鼻砦にいましたが、姉川北岸の浅井・朝倉軍の展開を知り、この地に本陣を構えたと言われています。
この地にある柳は、信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があり、「陣杭(じんご)」は、本来「陣鼓」と書かれていたとも言われます。また、信長本陣の柵に使われた生木が自生したとも伝わっています。
現在の柳は平成元(1989)年に3代目の木から枝を取った四代目にあたります。
元々は現在地より10メートル北西にありましたが、平成9(1997)年の圃場整備により現在地に移転しました。尾上柳という種類だそうです。


姉川の戦いの時に戦死した遠藤直経が討死した場所に、遠藤直経の墓があります。
小字も「円藤(遠藤)」といいます。遠藤直経は遠藤喜右衛門ともいい、坂田郡須川(米原市)出身で、宇賀野(同米原市)にも居住していました。
姉川の戦いでは、自軍の敗色が濃くなると、味方の武将首一つを携え敵軍に偽装し、信長の陣中深く忍び込みましたが、竹中半兵衛重治の弟竹中久作重矩に見破られ討死しました。かつてこの地の40メートルほど北側に「遠藤塚」と呼ばれる塚があり、直経の墓と伝えられていましたが、昭和54(1979)年に墓標が建てられました。平成9(1997)年に、圃場整備のため現在地に移転しました。毎年7月にはその追悼法要が現在でも行われているそうです。


次は長浜市石田町です。以前、石田三成公一族家臣供養塔のみ訪れたことがあります。
今回は、石田三成屋敷跡を訪れました。石田三成は永禄3(1560)年、現在の長浜市石田町に生まれました。屋敷跡は石田会館が建っています。敷地内には石碑や銅像の他、「堀端」または「治部池」と呼ばれ石田屋敷の堀の一部遺構と伝えられるものが残っています。
石田三成の屋敷跡はここから北へ現在のバス停付近まで屋敷があったようで、この地域の小字名は「治部」と称し俗称「ごいで」とも言われています。
隣接地にも「的場」「御畑」「番場」「堀端」等の小字名が残り当時の豪族らしい構えが伺われます。


石田町から少し東に行き、米原市(旧山東町)の区域に入ります。観音寺は、正式には伊富貴山観音護国寺といい、千手観音を本尊とする天台宗の寺院です。
弥高・太平・長尾の三ヶ寺とともに伊吹山四ヶ寺の一つでしたが、正元年間(1259~1260)現在地に移ったといわれています。
観音寺は、現在の長浜市石田町、石田三成の出身地とは目と鼻の先にありますが、三成はこの寺で小僧をしていたと伝えられています。
三成が鷹狩りの際に立ち寄った羽柴秀吉に最初にぬるいお茶を一杯、次に少し熱めのお茶を半分くらい、最後に熱いお茶を少々出し、その心遣いにいたく感心したという「三献の茶」の舞台としても有名で、その時に水を汲んだ「石田三成 水汲みの井戸」が残っています。


これで今回の湖北ドライブはひとまず終了です。しかし、滋賀県はまだまだ見所がたくさんあります。長浜市だけでも結構未訪問の場所が多いです。
Posted at 2008/10/27 22:32:40 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年10月12日 イイね!

小谷城とその周辺の城めぐり

この日は10月初めに「その時歴史が動いた」「怒れる民よ、信長を討て!~浅井長政 逆襲の京都包囲作戦~」をやっていたので、なんとなく浅井氏関係の史跡を見に行きたくなりました。
ということで近江国、湖北地方をめぐります。

山本山城は治承4(1180)年に、山本義定、山本義経父子が以仁王の令旨を受け挙兵したため、本拠である山本山城を平知盛・資盛が攻撃したとの記録があります。
戦国時代には、京極氏の被官であった阿閉氏の本拠となりました。
元亀年間(1558~1573)織田信長による浅井攻めに際しては、浅井氏の居城・小谷城の支城としての役割を果たしていましたが、元亀4(1573)年阿閉貞征が織田信長に降ったことで小谷城は孤立し、浅井氏の滅亡の一因となりました。
阿閉貞征は秀吉の与力となり山本山城と伊香郡内の本領を安堵されたが、天正10(1582)年本能寺の変で明智光秀に加担して、秀吉方の長浜城を攻めましたが、山崎の合戦で光秀を破った秀吉に追討され一族全て殺され、山本山城は廃城となりました。
城跡には、南西の宇賀神社から登りました。賤ヶ岳古戦場までハイキングコースが整備されています。曲輪や空堀など遺構がよく残っています。


JR北陸本線河毛駅は小谷城の最寄り駅になります。
駅前には小谷城主浅井長政とお市の方の銅像があります。


中島城は、丁野山城の尾根伝いのすぐ東にあります。天正元(1573)年の小谷城攻防戦の時、浅井氏の家臣中島宗左衛門直親が守ったと言われています。
土塁や空堀など遺構は残っていますが、位置や規模からして丁野山城の出城か砦のようなものだったのかも知れません。


丁野山城は、の尾根伝いのすぐ東にあります。天正元(1573)年の小谷城攻防戦の時、浅井氏の家臣中島宗左衛門直親が守ったと言われています。
土塁や空堀など遺構は残っていますが、位置や規模からして丁野山城の出城か砦のようなものだったのかも知れません。


虎御前山砦は姉川の戦いの後の元亀3(1572)年、織田信長が小谷城の浅井氏を攻めるために陣地(砦)を構えた標高230mの山です。県立虎御前山教育キャンプ場となっていますが、ハイキングコースも整備され、武将達の陣地跡を見ることができます。蜂屋頼隆陣地は、虎御前山の北山古墳に置かれていました。頼隆は、織田信長に仕えた武将です。
元亀3(1572)年に江北出陣に従軍し、虎御前山に陣を構え、柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛らとともに小谷城を攻めました。その後も越前朝倉攻め、伊勢長島攻めなど各地を転戦しており、近江国愛知郡肥田城主になりました。
天正10(1582)年に勃発した本能寺の変後は、山崎合戦で羽柴秀吉に属し、天正13(1585)年越前敦賀城主に転封となり、天正16(1588)年には「羽柴」の姓を与えられ、羽柴敦賀侍従と呼ばれました。しかし、翌年の天正17(1589)年に死去しましたが後嗣がなく、家は断絶となりました。


丹羽長秀陣地は、虎御前山キャンプ場の中心部になっています。
丹羽長秀は、元亀元(1570)年の姉川の戦いの後は佐和山城攻めを担当し、磯野員昌を下して佐和山城主となりました。元亀3(1572)年の小谷城攻めではこの虎御前山に陣を構えました。


滝川一益陣地は、NTTの電波塔のすぐ隣にあります。ここまでは舗装路(電波塔管理用、キャンプ場までしか自家用車は登ることができない。)が整備されています。ここから北側の織田信長陣地跡方面へは、普通のハイキングルートになります。ハイキングルートの入口付近に石碑が建っています。


堀秀政陣地は、織田信長陣地の近くにあります。
堀秀政はなんでもそつなくこなすことから「名人久太郎」の異名のある武将です。天文22(1553)年、美濃の茜部村(現在の岐阜市茜部)に生まれ、13歳の時信長に仕えるようになります。信長の小姓だったといわれています。
「信長公記」に初めて秀政の名が出てくるのは元亀3(1572)年で、ちょうど浅井攻めの頃です。その後も雑賀攻めなどで活躍し、信長の死後は秀吉に従い、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどでも活躍し、近江佐和山城主、後に丹羽長秀の後を受けて北の庄城主となりましたが、天正18(1590)年、小田原攻めの際陣中で亡くなりました。


織田信長陣地跡は、文字通り小谷城攻めの織田軍の本陣です。
曲輪の遺構がはっきりとわかります。


木下秀吉陣地跡は、織田信長本陣より更に北側に位置します。
他の武将の陣地跡に比べて最も堀や曲輪などの遺構が明確に分かる陣地です。


柴田勝家陣地跡は、木下秀吉陣地跡の更に北側にあります。しかし、伝柴田勝家砦跡と書かれた木製の標柱の他は、藪に覆われて遺構が明確に見つけることはできませんでした。


小谷寺は、小谷城の築かれた小谷山の麓に建立された、真言宗豊山派の寺院です。山号は如意輪山です。
泰澄大師が奈良時代に築き、常勝寺と称しました。
戦国時代、浅井亮政が小谷築城の際に帰依し、小谷寺と改めました。以後3代にわたる浅井家の祈願所でしたが、浅井家の滅亡とともに焼失し、豊臣秀吉が再建しました。


小谷城戦国歴史資料館は、平成19(2007)年10月に清水谷武家屋敷跡にあった児童館を閉鎖しリニューアルオープンした小谷城に関する歴史資料館です。浅井氏、小谷城に関する資料を展示しています。
小谷城の縄張りなどがよくわかります。地図もくれますので、登城前に立ち寄ることをお勧めします。


そして、ここからいよいよ小谷城へ向かいます。今回は清水谷コースを選んでみました。
小谷城は浅井三代、亮政、久政、長政の居城として知られる山城です。
大永4(1525)年、浅井亮政が築いたとされます。その後、亮政・久政・長政と浅井氏3代に渡り、拡張整備されました。
永禄4(1562)年、浅井長政は織田信長の妹お市の方を妻に迎え、織田家と縁戚関係を結びましたが、信長が元亀元(1570)年に越前の朝倉義景を攻めた際、信長と敵対関係に入りました。この年の6月、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍は、織田・徳川連合軍の前に敗北しました。
天正元(1573)年に、織田信長は小谷城を攻めました。信長はその際、援軍に来た朝倉勢を破り、一乗谷まで追撃し朝倉氏を滅亡させました。そして、再び小谷城を総攻撃し、浅井久政、長政は自刃し小谷城は落城しました。その後、伊香郡・浅井郡・坂田郡は羽柴秀吉に与えられ、小谷城に入城しましたが、天正3(1575)年に今浜に長浜城を築城し本拠としたため小谷城は廃城となりました。
昭和12(1937)年に国の史跡となり、平成18(2006)年に日本100名城に指定されました。
小谷山全山にわたり造られた曲輪は1,000箇所もあるそうです。
春日山城、七尾城、小谷城、観音寺城、月山富田城を日本五大山城というそうです。
結構登城には体力がいる城です。

今回は清水谷コースということで、小谷城の搦手からの紹介です。通常なら一番山側になるのがこの六坊です。ここから山王丸にあがり、本丸に向かって降っていく形になります。小谷城の搦手にあたり、浅井久政の時に、軍務や政務を司っていた六つの寺院をここに集めたそうです。ここから発する山続きの道を「越前忍道」といい、大嶽城に通じています。


山王丸です。かつて山王権現が祀ってありました。


山王丸下の石垣です。


小丸です。浅井久政の隠居所です。木下秀吉が京極丸まで攻め込み、浅井長政との間を分断したため、久政はこの地で自害しました。


京極丸です。大永4(1504)年に浅井亮政が主君京極高清、高延父子を迎えた場所です。織田軍の小谷城攻めでは、京極丸は清水谷側、大野木屋敷を経て侵入してきた木下秀吉の軍勢によって占拠され、「小丸」の久政と「本丸」の長政との連絡を絶ちました。




中丸


本丸


大広間は千畳敷ともいわる城内最大の郭で、主殿の跡とされ約35アールの広さがあります。


桜馬場には浅井氏の供養塔があります。


赤尾屋敷です。重臣赤尾氏の屋敷がありました。


赤尾屋敷は浅井長政が切腹した場所です。


大嶽城(おおづくじょう)は、小谷山の最高所の標高495mに位置しています。
大永5(1525)年、小谷城が築城された際には、現在の本丸の位置ではなく、この大嶽にあったといわれています。大規模な砦ですが、本丸、山王丸、福寿丸等小谷城の遺構と比較すると土塁などの構造が古いようです。
天正元(1573)年、大嶽城は朝倉氏の援軍が守備していましたが、大嶽城の北にあった焼尾砦の守将・浅見対馬守が織田軍に寝返り、織田方を手引きしたため落城しました。


福寿丸です。大嶽城と尾根続きに降りていったところにあります。浅井氏の一族、浅井福寿庵惟安が居城としていたことからこの名があります。
元亀3(1572)年織田信長の小谷城攻めに際し、朝倉氏により築かれたともいわれています。




福寿丸から降りていくと山崎丸があります。山崎丸も福寿丸同様、浅井氏を支援する朝倉氏により築かれたとされます。




前回訪れた時は、まだ残雪が残っていたため、あまりゆっくり見ていません。ちょうど秋と言うことで山城をじっくりと見るにはよい時期でした。大嶽城も行けて良かったです。しかし、小谷城だけででほぼ3時間は使いました。
次はこの勢いで、姉川古戦場へ向かいます。
Posted at 2008/10/20 23:49:47 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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