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ピズモのブログ一覧

2009年05月23日 イイね!

折りたたみ自転車 KHS F20 Westwood購入

折りたたみ自転車 KHS F20 Westwood購入 以前から健康のため、または史跡めぐりに活用するため購入を検討していた折りたたみ自転車を購入することにしました。
KHSというメーカーの F20 WestWoodという製品です。
折りたたみ自転車には珍しくマウンテンバイクのようなオフロード対応で、サスペンションもついており、2×8段の16段変速。デザイン、小径車にしてはよく走りそうな感じなので購入を決めました。
ただし、ペダルは折りたたみではなく、その他の折りたたみ機構などはDAHONに劣るようです。
DAHONのSpeed P8あたりも購入候補だったのですが、殆どが車に積んで旅先などで使用するのが目的なので、折りたたみ機構は二の次としました。
今から日本の古い町などを走ってみるのが楽しみです。
Posted at 2009/06/13 22:47:16 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2009年05月16日 イイね!

南禅寺順正の湯豆腐(円通寺~鷺森神社~曼殊院~赤山禅院~南禅寺順正)

南禅寺順正の湯豆腐(円通寺~鷺森神社~曼殊院~赤山禅院~南禅寺順正)京都は南禅寺近くの「順正」に湯豆腐を食べに行きました。
昼から出かけて、時間が少しあるのでいつもの如く寺社巡りを少しばかり・・・







円通寺は、岩倉幡枝の地にある臨済宗妙心寺派の寺院です。
寛永16(1639)年、後水尾天皇が造営された幡枝離宮のあとであり、幡枝小御所、幡枝茶園とも呼ばれていました。
修学院離宮完成後の延宝6(1678)年、輪王寺宮門跡や幕府要職の尽力により、霊元天皇の乳母であった文英尼公を開基として迎え、上皇より大悲・円通の勅額を賜り、霊元天皇の勅願所となりました。
以来、皇室の祈願所として後水尾天皇以降の歴代皇族の御尊碑が皇室ゆかりの殿舎である御幸御殿に祀られています。
借景の庭、柿、ツツジの寺として有名で、庭園は国指定の名勝となっています。比叡山を借景とした枯山水庭園で、後水尾上皇の幡枝離宮の庭をそのまま今に伝えています。
現在、洛北第三土地区画整理事業が施行中で、借景の比叡山の景観が阻害されないか、懸念されています。
圓通寺 - 01
圓通寺 - 01 posted by (C)pismo

圓通寺 - 02
圓通寺 - 02 posted by (C)pismo

圓通寺 - 03
圓通寺 - 03 posted by (C)pismo

圓通寺 - 04
圓通寺 - 04 posted by (C)pismo

圓通寺 - 05
圓通寺 - 05 posted by (C)pismo

鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)は、貞観年間(859-77)創建と伝えられる素戔嗚尊を祭神とする神社です。修学院、山端地区の産土神です。
最初、比叡山麓、赤山明神の付近に祀られていましたが、応仁の乱で焼失し、現在の修学院離宮地に移りました。
その後、離宮の造営により元禄2(1689)年に現在地に遷座しました。本殿、拝殿、手水舎は安永4(1776)年、回廊は昭和42(1967)年の造営です。
鷺森神社 - 1
鷺森神社 - 1 posted by (C)pismo

鷺森神社 - 2
鷺森神社 - 2 posted by (C)pismo

鷺森神社 - 3
鷺森神社 - 3 posted by (C)pismo

曼殊院は、天台宗の門跡寺院です。青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂門跡と並び天台五門跡の一つに数えられています。
伝教大師最澄が比叡山に建立した一堂が始まりと言われており、12世紀頃に北山に本拠を移し、洛中への移転を経て明暦2(1656)年、桂離宮を造営したことで名高い八条宮智仁親王の第二皇子であり、後水尾天皇の猶子である良尚法親王のとき、現在地に移りました。
明治初期までは北野天満宮の管理職(別当)も兼務していました。大書院、小書院、八窓軒茶室、庫裏は重要文化財であり、小堀遠州の作といわれる枯山水の庭園は名勝に指定されています。
曼殊院 - 01
曼殊院 - 01 posted by (C)pismo

曼殊院 - 02
曼殊院 - 02 posted by (C)pismo


赤山禅院(せきざんぜんいん)は、天台宗の自院で比叡山の西麓にある延暦寺の塔頭です。
慈覚大師円仁の遺命により仁和4(888)年天台座主安慧が創建しました。
本尊は陰陽道の祖・泰山府君(赤山明神)です。かけ寄せの神として、また、京都の表鬼門にあり、王城鎮守、方除けの神として信仰を集めています。
拝殿屋根に瓦彫の神猿が京都御所を見守っています。境内の福禄寿殿が都七福神の一つとされています。紅葉の名所としても知られています。
赤山禅院 - 01
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赤山禅院 - 02
赤山禅院 - 02 posted by (C)pismo

赤山禅院 - 03
赤山禅院 - 03 posted by (C)pismo

赤山禅院 - 04
赤山禅院 - 04 posted by (C)pismo

赤山禅院 - 05
赤山禅院 - 05 posted by (C)pismo

赤山禅院 - 06
赤山禅院 - 06 posted by (C)pismo


ここまでくると少しお腹が空いてきたので、そろそろ主目的の南禅寺順正へ湯豆腐を食べに行くことにしました。
南禅寺順正は、南禅寺の近くにある湯豆腐店です。
天保10(1839)年に新宮凉庭(しんぐうりょうてい)によって開設された学園「順正書院」だった場所にある湯豆腐展で、書院建築は登録文化財になっています。庭園も見事です。
庭園を見ながらの湯豆腐、なかなかおいしかったですよ。

南禅寺順正 - 01
南禅寺順正 - 01 posted by (C)pismo

南禅寺順正 - 02
南禅寺順正 - 02 posted by (C)pismo

南禅寺順正 - 03
南禅寺順正 - 03 posted by (C)pismo

南禅寺順正 - 04
南禅寺順正 - 04 posted by (C)pismo
Posted at 2009/06/13 22:20:45 | コメント(4) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年05月04日 イイね!

天地人紀行(3日目その3・直江氏の本拠だった与板、そして最後に琵琶島城へ)

いよいよ最後の目的地、与板に来ました。
与板には3つの「与板城」があります。
まずは江戸時代の与板城から。

与板城〔与板陣屋〕は、寛永11(1634)年、長岡藩主牧野忠成の次男康成が与板に1万石を分与され陣屋を構えたのが始まりです。
3代目藩主の牧野康重は、元禄15(1702)年に信濃小諸へ転封となり、 一時、天領となりましたが、宝永2(1705)年、井伊直矩が遠江掛川から2万石で入封し、幕末まで井伊氏の支配でした。
6代藩主井伊直朗は、田沼意次の下で若年寄に昇進し、文化元(1804)年に城主格となり、次の井伊直暉が文政5(1822)年に小規模な城を築きました。
慶応4(1868)年の戊辰戦争では、新政府側についたので、旧幕府軍の攻撃を受けて城は炎上しました。
城跡は与板町ふれあい交流センターになっています。冠木門などかつての与板城のイメージしたつくりになっています。
大手門は本願寺新潟別院の表門として移築されています。
与板城(与板陣屋) - 1
与板城(与板陣屋) - 1 posted by (C)pismo

与板城(与板陣屋) - 2
与板城(与板陣屋) - 2 posted by (C)pismo

与板城(与板陣屋) - 3
与板城(与板陣屋) - 3 posted by (C)pismo
本与板城の築城時期、築城者は定かではありませんが、建武元(1334)年に新田氏一族の籠沢入道が築城したとも伝えられています。
南北朝期に入ると越後守護上杉氏の重臣飯沼氏が与板の地を治め、居城としていました。最初はこの城のことを「与板城」と言っていたそうです。
永正4(1507)年、越後守護代長尾為景と越後守護職上杉房能が争った「永正の乱」で、 飯沼氏は上杉氏に味方して長尾為景に攻められ滅亡しました。
その後は、長尾為景の家臣直江実網(後に直江景綱と改める。)がこの地を支配しました。
景綱は上杉謙信からの信頼が厚く、重臣として重きをなしていました。
そして、景綱の死後は、総社長尾氏から養子に迎えた信綱が直江氏を嗣ぎました。
謙信が亡くなった後の御館の乱では、本与板城主だった直江信綱は、上杉景勝に味方した。御館の乱は景勝が勝利したが、戦功を巡る家臣達の争いで直江信綱は殺されました。
信綱は実子がなく、直江家断絶を防ぐため、景勝は樋口兼豊の子・樋口与六(後の直江兼続)を直江家の跡継ぎとしました。
兼続はその後本与板城の南側に新たに与板城を築きました。このため、兼続の与板城と区別するため、この城を本与板城と呼ぶようになりました。本与板城もそのまま支城として使用されたといわれています。
慶長3(1598)年、景勝の会津若松城移封にともない、 兼続も30万石を与えられ、米沢城に入ったため本与板城も廃城になったと推定されます。
本与板城 - 01
本与板城 - 01 posted by (C)pismo

本与板城 - 02
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本与板城 - 03
本与板城 - 03 posted by (C)pismo

本与板城 - 04
本与板城 - 04 posted by (C)pismo

本与板城 - 05
本与板城 - 05 posted by (C)pismo

本与板城 - 06
本与板城 - 06 posted by (C)pismo

香積山徳昌寺(こうしゃくさんとくしょうじ)は、曹洞宗の寺院です。
文明11(1479)年直江家を開基、耕陰道夫(こういんどうふ)を開山として創始以来上杉家の帰依を受け、直江家の菩提寺として栄えました。
上杉家・直江家の会津移封、米沢移封以後、米沢に一度移転しますが、直江家が兼続、お船の死後断絶したこともあり、寛永年間頃徳昌寺は与板に戻りました。
与板に戻ってからは牧野家・井伊家藩主の崇敬と檀信徒、特に豪商大阪屋三輪家の擁護により、開山以来初代住職から連綿し、本日に至っています。
文政11(1828)年、有栖川宮家の祈願所となり、寺院の至る所に菊の御紋章が見られます。また、良寛の父の実家が与板にあったことから良寛はよく与板に訪ねており、ここ徳昌寺には良寛と交友があった三輪左一や維馨尼の墓があります。
徳昌寺 - 01
徳昌寺 - 01 posted by (C)pismo

徳昌寺 - 02
徳昌寺 - 02 posted by (C)pismo

徳昌寺 - 03
徳昌寺 - 03 posted by (C)pismo

本願寺新潟別院の創建は天保4(1833)年7月に与板藩8代藩主井伊直経の発願より本願寺第20代門主広如上人から別院建立の許可がなされ、同年11月に本願寺よりご本尊(現在の木仏)が下付されたのが別院建立の始まりです。
その後、井伊氏は与板村中島の現在地の敷地を寄進し嘉永6(1853)年には本堂の工事に入りました。しかし、藩主井伊氏の窮乏と幕末の混乱期のため元治2(1865)年6月1日に本堂の立柱式を挙行したにも関わらず、屋根も吹かないまま風雨にさらされる有様で、明治3(1870)年にようやく本堂が完工し、翌明治4(1871)年に落慶法要が行われました。
明治9(1876)年11月に本願寺第21代門主明如上人の御親修により、親鸞聖人六百回大遠忌が行われ、本願寺与板別院と名付けられました。しかし平成9(1997)年に三条別院(三条市)と合併したことにより本願寺新潟別院と改称し、旧三条別院を三条出張所として新たに出発しました。
平成13(2001)年に痛みの激しかった本堂が取り壊され、新たに本堂と庫裏が建てられ平成15(2003)年4月23、24日の両日、本願寺第24代門主 即如上人の御親修により、盛大に落慶法要が行われました。
正面の山門は旧与板城(与板陣屋)大手門を明治4(1871)年に移築されたもので戊辰戦争で焼失した数少ない与板城の遺構として長岡市指定有形文化財に指定されています。

兼続お船ミュージアム(与板歴史民俗資料館)は、長岡市与板歴史民俗資料館を平成21(2009)年の大河ドラマ「天地人」の放送に合わせて直江兼続中心の資料館にリニューアルしました。
愛の甲冑の複製品や、本与板城、与板城の資料などを展示しています。兼続お船ミュージアム(与板歴史民俗資料館) - 1
兼続お船ミュージアム(与板歴史民俗資料館) - 1 posted by (C)pismo

ミュージアムの前には与板城主であった直江兼続の銅像があります。
平成元(1989)年に旧与板町、町議会の支援により、与板城山史跡保存会、直江兼続公銅像建立委員会が茂木弘次先生の制作により建立されたものです。
兼続お船ミュージアム(与板歴史民俗資料館) - 2
兼続お船ミュージアム(与板歴史民俗資料館) - 2 posted by (C)pismo

楽山苑です。楽山苑の中にある楽山亭は越後屈指の豪商として知られる、大坂屋の別荘として11代目当主三輪潤太郎により明治25(1892)年に建てられました。
三輪家は江戸時代に信濃川の河川交通を利用して商売を行い、越後屈指の豪商となりました。
三輪家の家運が傾き一家で与板から移住すると北海道釧路市在住で郷里出身の両角氏に売却され、後に同氏から与板町へ寄贈されました。昭和45(1970)年に建物や庭の整備が整い一般公開されるようになりました。
苑内には親交の深かった良寛の歌碑が二基、北方博物館に移築された茶室「積翠庵」を復元しています。
その他、室町時代の作と言われている十一面観音菩薩像が安置されています。
楽山苑 - 01
楽山苑 - 01 posted by (C)pismo

楽山苑 - 02
楽山苑 - 02 posted by (C)pismo

楽山苑 - 03
楽山苑 - 03 posted by (C)pismo

楽山苑 - 04
楽山苑 - 04 posted by (C)pismo

楽山苑 - 05
楽山苑 - 05 posted by (C)pismo

楽山苑 - 06
楽山苑 - 06 posted by (C)pismo

楽山苑 - 07
楽山苑 - 07 posted by (C)pismo

楽山苑 - 08
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井伊神社は、文政7(1824)年に第7代藩主井伊直暉が与板城築城の際に、領民守護と井伊家祖霊を祀るためため建てたのが始まりです。
明治13(1880)年、井伊神社と改称しました。
楽山苑のすぐ近くにあります。
井伊神社 - 1
井伊神社 - 1 posted by (C)pismo

お船の方生誕御館跡です。お船の方は、本与板城下直江屋敷で直江景綱の娘として生まれました。
上野国長尾一族の子、景孝を婿として迎え、景孝は直江信綱として本与板城主となりましたが、天正9(1581)年、御館の乱の恩賞を巡って刃傷沙汰の巻き添えで亡くなりました。
その後、上杉景勝の命によりお船は樋口与六と結婚し、与六は直江兼続として直江家を継ぎました。
お船の方は兼続を支え、また景勝の子、定勝の養育にも力を注ぎ、景勝の死後定勝はお船の方は扶助三千石を与えて優遇しました。
平成20(2008)年9月、お船の方を顕彰するため、お船が生まれ育った地に「お船の方生誕御館跡」の碑を建立しました。揮毫は「天地人」の原作者・火坂雅志氏によるものです。
場所は光西寺の隣接地にあります。
お船の方生誕御館跡
お船の方生誕御館跡 posted by (C)pismo

都野神社(つのじんじゃ)は、与板の総鎮守で創建年代は不明ですが、現在の本殿は天保11(1840)年の再建、拝殿は嘉永元(1848)年の再建です。欄間の竜の彫刻は、本殿再建の際、当時の名匠、熊谷宿の小林斎源太郎です。源太郎を招いたのは大坂屋三輪家、丸津の備前屋中川正甫などの尽力によるものです。
都野神社 - 01
都野神社 - 01 posted by (C)pismo

都野神社 - 02
都野神社 - 02 posted by (C)pismo

都野神社 - 03
都野神社 - 03 posted by (C)pismo

都野神社 - 04
都野神社 - 04 posted by (C)pismo
与板城〔直江城〕です。戦国時代、上杉氏の重臣として活躍した直江氏は与板を領し実綱(景綱)・信綱・兼続の三代がこの地域を支配していました。
与板城は、本与板城から新たに直江氏の居城として築かれました。築城時期は不明で景綱が築城したとも、兼続が直江氏を相続した後とも言われています。
慶長3(1598)年、景勝の会津若松城移封にともない、 兼続も同行して米沢城に入ったため、 与板城は廃城となりました。
本丸跡には城山稲荷神社が祀られ、樹齢400年と伝えられる城の一本杉、直江兼続の碑、海音寺潮五郎の碑などが建っています。また、土塁や空堀など遺構もよく残っています。
与板城 - 01
与板城 - 01 posted by (C)pismo

与板城 - 03
与板城 - 03 posted by (C)pismo

与板城 - 04
与板城 - 04 posted by (C)pismo

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与板城 - 05 posted by (C)pismo

与板城 - 06
与板城 - 06 posted by (C)pismo

与板城 - 07
与板城 - 07 posted by (C)pismo

与板城 - 08
与板城 - 08 posted by (C)pismo

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与板城 - 09 posted by (C)pismo

与板城 - 10
与板城 - 10 posted by (C)pismo

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与板城 - 11 posted by (C)pismo

与板城 - 12
与板城 - 12 posted by (C)pismo

与板城 - 13
与板城 - 13 posted by (C)pismo

与板城 - 14
与板城 - 14 posted by (C)pismo

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与板城 - 15 posted by (C)pismo

与板城 - 16
与板城 - 16 posted by (C)pismo

与板城 - 17
与板城 - 17 posted by (C)pismo

与板城 - 18
与板城 - 18 posted by (C)pismo

与板城 - 19
与板城 - 19 posted by (C)pismo

ここで、与板の史跡めぐりは終了です。与板城の下の無料休憩所ではお茶のサービスもあり、暖かいもてなしを受けました。与板の町も天地人の影響で多くの人が訪れていました。

そして、帰路につきましたが、どうしてもいってみたかった柏崎市の琵琶島城を訪れてみました。
琵琶島城の築城年代は不明ですが、伊豆宇佐美荘(現在の静岡県伊東市宇佐美)から出た一族である宇佐美氏が、越後守護・上杉憲顕に従って入国たといわれています。
戦国時代の城主宇佐美房忠は守護上杉定実と守護代長尾為景との戦いでは、上条城主・上条定憲らとともに守護上杉氏に味方し長尾為景と戦いましたが、永正11(1514)年、房忠は討死しました。
房忠の子の定満は、没落した宇佐美家の本領を回復すべく、反為景の上田長尾家の傘下で戦いましたが、後に長尾景虎(後の上杉謙信)の軍師になったといわれています。江戸時代に宇佐美定祐が書いた「越後軍記」等の軍記物によって、「宇佐美駿河守定行」として広く知られるようになりました。
宇佐見定満は、永禄7(1564)年に長尾政景と共に野尻池で溺死し、宇佐美氏は没落しました。
その後、前野修理亮が城主となりましたが、天正6(1578)年の御館の乱では、上杉景虎に加担し、琵琶島城から御館への舟運での兵糧入れを図るが失敗し、その後、琵琶島城は上杉景勝に降伏・開城しました。
御館の乱の終結後、景勝の家臣桐沢但馬守具繁が入城しましたが、慶長3(1598)年、上杉景勝が会津に移封されると、琵琶島城は廃城となりました。
昭和30年代の河川改修、柏崎農業高校(現在の柏崎総合高校)の建設により、遺構は失われました。現在は柏崎総合高校の敷地内に、石碑と説明板が立っています。
平成19(2007)年の大河ドラマ「風林火山」第47回「決戦前夜」の風林火山紀行で、「花倉城跡」として紹介されました。
琵琶島城 - 1
琵琶島城 - 1 posted by (C)pismo

琵琶島城 - 2
琵琶島城 - 2 posted by (C)pismo

ここから長い帰路につきました。この旅行では、天地人ブームでの駐車場の混雑などはあったものの、ゴールデンウィーク、しかも高速道路1000円の割引制度ができていましたが、道路の混雑がなかったのは本当に良かったです。

Posted at 2009/06/03 23:47:37 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年05月04日 イイね!

天地人紀行(3日目その2・栖吉城~栃尾城~河井継之助記念館)

栖吉城(すよしじょう)は、築城年ははっきりしませんが、永正年間(1504~1521年)に古志長尾家の長尾孝景が築城し、蔵王堂城から古志長尾家の本拠を移したとされています。
栖吉の古志氏は上杉謙信の母虎御前の生家とも言われています。
古志長尾氏は謙信の元で重要な役割を果たしており、長尾景信は謙信が上杉家の名跡を継いだ時上杉姓を許され上杉景信となりました。
御館の乱では景勝の出身の上田長尾氏との対抗上上杉景虎に味方しましたが、居多ヶ浜の合戦で景信は討死し古志長尾氏は滅亡しました。
乱後は河田長親が古志長尾氏を継ぐ形で遺臣たちを栖吉衆として再編しました。長親の死後は嫡男の岩鶴丸が継ぎましたが早世、その後は栖吉衆が番将として治めたそうです。
慶長3(1598)年、景勝の会津移封により廃城となりました。
西側の栖吉神社、普済寺付近から登ることが出来ます。
土塁や空堀など遺構はよく残っています。
栖吉城 - 01
栖吉城 - 01 posted by (C)pismo

栖吉城 - 02
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栖吉城 - 03
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栖吉城 - 04
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栖吉城 - 05
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栖吉城 - 06
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栖吉城 - 07
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栖吉城 - 08
栖吉城 - 08 posted by (C)pismo

普済寺は、曹洞宗の寺院で栖吉城の館があった付近にあります。
裏山の境内には三間豊蔵正英や牧野金太郎正英、西郷勇英人など北越戊辰戦争において、若くして散った少年隊士の在名碑、更に石段を上ると初代藩主牧野忠成公の墓があり今も長岡の街並みを見守っています。
普済寺(長岡市) - 1
普済寺(長岡市) - 1 posted by (C)pismo

普済寺(長岡市) - 2
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普済寺(長岡市) - 3
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普済寺(長岡市) - 4
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普済寺(長岡市) - 5
普済寺(長岡市) - 5 posted by (C)pismo

栃尾城は、築城年代は不明ですが、南北朝時代の正平年間に、下野の将芳賀禅可が下越後の守護として一時ここに寄り、当山を縄張りし要害堅固な山城として築いたとも言われています。室町時代には、春日山城を本拠とする守護代長尾氏の属城となり、 古志長尾氏の家臣本庄氏の持城となりました。
天文5(1536)年春日山城で長尾為景が亡くなると、 嫡男の長尾晴景が家督を継ぎましたが、晴景は病弱のため守護職上杉氏の養子問題に絡む争乱を押さえきれなかったため、晴景は春日山城下の林泉寺で修行の日々を送っていた弟長尾景虎 (後の上杉謙信)を還俗させ、天文12(1543)年、中越の要であった栃尾城に入城させました。
近郷の豪族たちは景虎を若輩と侮って栃尾城に攻めかけましたが、栃尾城代本庄実乃(さねより)の補佐などもありで、見事に敵を撃退したため、景虎の武将としての勇名は轟きました。
越後の豪族たちは病弱の晴景に代わり景虎を守護代に擁立しようとする動きが広がり、晴景と景虎の争いになりました。
天文17(1548)年景虎は守護上杉定実の仲介で兄晴景に代って守護代職を相続することになり、春日山城に入りました。
謙信没後の天正6(1578)年の「御館の乱」の際、本庄実乃の子本庄秀綱は上杉景虎に味方しましたが、景虎が敗れた後も戦いましたが天正8(1580)年 4月景勝軍の攻撃を受けて栃尾城は落城しました。
以後、景勝の家臣が交代で城代を勤めたようです。
慶長3(1598)年景勝の会津移封にともない、栃尾城には春日山城主となった堀秀治配下の武将神子田政友が在城しましたが、 慶長15(1610)年堀家の改易にともない廃城となりました。
栃尾城 - 01
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栃尾城 - 05 posted by (C)pismo

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栃尾城 - 07 posted by (C)pismo

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栃尾城 - 09 posted by (C)pismo

栃尾城 - 10
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栃尾城 - 11
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栃尾の町は雁木の町。なかなか歩いてみるのも楽しいです。
栃尾市街地(雁木など) - 1
栃尾市街地(雁木など) - 1 posted by (C)pismo

栃尾市街地(雁木など) - 2
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上杉家の史跡も他にあるのですが、今日の最後のメインの河井継之助記念館、与板にも行かなければならないと言うことで、早々に長岡市街に引き返しました。

そして長岡市街地にある河井継之助邸跡に建てられた河井継之助記念館に来てみました。
河井継之助邸は、戊辰戦争の戦火で焼失しました。
戦後、家族が許されて長岡に帰ってきて父の河井代右衛門、母の貞、妻のすがの三人が焼け跡に小さな家を建てて住んでいました。最近までその家が残っていたそうですが、老朽化が激しく取り壊されてしまったそうです。
屋敷跡に現存する庭は、継之助の頃のままだそうですが、蒼龍窟の元になった庭の二本の松は枯れてしまい、二代目の松も昭和59(1984)年の豪雪で倒れてしまいました。
屋敷跡には、平成18(2006)年12月27日、市制100周年、合併記念事業の一環として「河井継之助記念館」がオープンしています。国の街なみ環境整備事業を活用し、継之助の屋敷跡にあった建物を改修したものです。
記念館には継之助の旅日記「塵壺」や、継之助が旅の途中に買ったものの雨が降らず使わなかった蓑、司馬遼太郎の小説「峠」の自筆原稿、河井継之助の史跡めぐりに役立つ資料なども展示しています。
入館料も安くて展示物もなかなか興味深かったです。あまり大きな記念館ではありませんが、なかなか楽しめました。
河井継之助記念館 - 01
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河井継之助記念館 - 02
河井継之助記念館 - 02 posted by (C)pismo

河井継之助記念館 - 03
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河井継之助記念館 - 04
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河井継之助記念館 - 05
河井継之助記念館 - 05 posted by (C)pismo

この後は与板に向かいます。

Posted at 2009/05/31 20:58:12 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年05月04日 イイね!

天地人紀行(3日目その1・天地人紀行・長岡市の北越戦争史跡など)

ついに最終日です。限られた時間を有効に利用しようと、早朝に起床しました。
泊まったホテルは元々長岡城の中だったらしいので周辺を歩いて散歩してみました。

長岡城は蔵王堂城に代わる居城として堀直寄により築かれた城です。
戦国時代、長岡地域は古志長尾氏などが蔵王堂城を拠点としていましたが、慶長3(1598)年、上杉景勝が会津へ移封されると、越後の大部分は、堀秀治に与えられ、蔵王堂城には堀親良が入城しました。その後松平忠輝の支城となった後、堀直寄が入城することになりました。
しかし、蔵王堂城は信濃川のたびたびの洪水による被害を受け、維持することが困難ななため、元和2(1616)年に長岡城を築城しました。
しかし、元和4(1618)年、直寄は完成を見ないまま、越後村上へと転封となり、長岡には6万2千石(後に7万4千石)をもって、 徳川譜代の牧野忠成が封じられました。
牧野氏は、堀氏の築城工事を引き継ぎ、長岡城と、その城下町を完成させました。
慶応4(1868)年の戊辰戦争(北越戦争)で、新政府軍は会津藩を攻めるために、越後に攻め入りました。5月2日、長岡藩家老・河井継之助は小千谷で新政府軍と会談し、会津征伐中止を懇願したが受け入れられず北越戦争に突入することになりました。5月10日に戦火が開かれ、榎峠、朝日山などで長岡藩は西軍をよく防ぎましたが、増水した信濃川を越えて攻め入った西軍により19日には長岡城が落城しました。その後も戦いは一進一退を続けましたが、長岡藩は7月24日夕方から翌払暁にかけて八丁沖を越えて乾坤一擲の勝負を試みて、長岡城を奪取しましたが河井継之助は重傷を負って戦列を離れたこともあり、再度落城することになりました。落城後藩主忠訓は一族とともに会津へ逃れ、河井継之助は8月16日、南会津塩沢で亡くなりました。敗残兵は会津に奔って抗戦を続けましたが、 9月25日、新政府に降伏した。
戊辰戦争が終結すると、長岡藩は7万4千石の領地を2万4千石に削減されました。長岡城は戦火によって建物の大部分を失い、その後、 石垣や堀も埋め立てられ徹底的に破壊されました。
しばらく跡地は遊覧場として公園のような形で残っていたそうですが、鉄道敷設の際に長岡駅が建設されたため、遺構は全く存在しません。駅前に本丸跡を示す標柱(写真上・地図は関連情報URL)と、二ノ丸の城内稲荷神社など(写真下・地図はみんカラマップ)が残るのみです。
現在二ノ丸の城内稲荷神社の隣の厚生会館が取り壊され、発掘調査が行われています。長岡城を復元するわけではなく、長岡市役所などが入居するシティホールが建設されるそうです。
長岡城 - 01本丸跡
長岡城 - 01本丸跡 posted by (C)pismo

長岡城 - 02本丸跡
長岡城 - 02本丸跡 posted by (C)pismo

長岡城 - 03二の丸跡
長岡城 - 03二の丸跡 posted by (C)pismo

長岡城 - 04二の丸跡
長岡城 - 04二の丸跡 posted by (C)pismo

長岡城 - 05二の丸跡
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長岡城 - 06厚生会館跡地再開発発掘中
長岡城 - 06厚生会館跡地再開発発掘中 posted by (C)pismo

ここからは車での移動です。
西軍上陸の地は北越戦争の時、長岡城をめぐり長州藩、薩摩藩を中心とする西軍と長岡藩が攻防を繰り広げていた慶応4(1868)年5月19日早朝、洪水の信濃川を強行渡河して中島に上陸しました。
長岡藩は必至に防戦しましたが、総退却しついに長岡城は落城しました。東軍は栃尾方面へ敗走しました。
長岡藩最大の悲劇となった落城の発端地点です。
「明治戊辰戦蹟」の碑、「明治戊辰之役東西両軍戦死者の墓」が建っています。
西軍上陸の地
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西福寺・維新の曉鐘です。
北越戦争で慶応4年(1868)5月19日、榎峠・朝日山の攻略に手こずっていた西軍(新政府軍)は、大島、槇下の信濃川左岸より渡河し、直接長岡城を奇襲する戦法をとりました。
西軍の侵攻を城下に知らせるため、寺町(現在の渡里町)の西福寺の梵鐘が一藩士が鐘楼にかけのぼり、この鐘を乱打したといわれています。
梵鐘は、明和3年(1766)に長岡藩お抱えの鋳物師田中多左衛門尉重定が造った長岡最古の鐘です。
長岡の歴史にとって、近代の夜明けを告げたことから「維新の暁鐘」と呼ばれるようになりました。
太平洋戦争の時も日本中の鐘が供出される中、名鐘として特に保存を命じられ、長岡の空襲の猛火にも耐えて今日に至っています。
維新の暁鐘 - 1
維新の暁鐘 - 1 posted by (C)pismo

維新の暁鐘 - 2
維新の暁鐘 - 2 posted by (C)pismo

維新の暁鐘 - 3
維新の暁鐘 - 3 posted by (C)pismo

山本記念公園は、山本五十六元帥の生誕の地です。
山本五十六は、明治17(1884)年、旧長岡藩士高野貞吉の六男に生まれました。
高野家は代々儒官と槍術師範役をつとめ、質素倹約の家風でした。
五十六は海軍兵学校に入り、大正5(1916)年、旧長岡藩家老、山本家の名跡を継ぎました。
海軍次官を経て、連合艦隊の司令長官になり、昭和18(1943)年、太平洋戦争で戦死、元帥の称号を受けました。生家は戦災で焼失しましたが、後に復元されています。また、公園には山本五十六の胸像が建っています。
山本記念公園 - 1
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山本記念公園 - 2
山本記念公園 - 2 posted by (C)pismo

山本記念公園 - 3
山本記念公園 - 3 posted by (C)pismo

栄涼寺は、正式には光輝山月照院栄涼寺という浄土宗の寺院です。
元和5(1619)年5月、大坂の陣の戦功などで戦功を挙げ、徳川秀忠の信任の厚かった牧野忠成が越後長峰城主から長岡藩主に移封された際に、玄蓮社明譽唱空上人を開山として開基されました。
歴代藩主や藩士達の菩提寺となりましたが、慶応4(1868)年の戊辰戦争(北越戦争)では、西軍の野戦病院となり、7月の長岡城奪回戦により長岡藩士に放火され境内伽藍は焼失し、墓石は半数以上が倒壊しました。
現在の境内伽藍は明治の再建です。
境内には旧長岡藩主牧野家歴代墓、幕末維新前後に活躍した河井継之助、三島億二郎(川島億次郎)、二見虎三郎、伊東道右衛門などの墓があります。
河井継之助の墓の横には「河井家の墓は此処 忠良院殿が継之助様であります」と書かれた大きな石碑が建っています。
栄涼寺 - 01
栄涼寺 - 01 posted by (C)pismo

栄涼寺 - 02小林虎三郎の碑
栄涼寺 - 02小林虎三郎の碑 posted by (C)pismo

栄涼寺 - 03戦没者の供養塔
栄涼寺 - 03戦没者の供養塔 posted by (C)pismo

栄涼寺 - 04二見虎三郎の墓
栄涼寺 - 04二見虎三郎の墓 posted by (C)pismo

栄涼寺 - 05長岡藩主牧野氏の墓
栄涼寺 - 05長岡藩主牧野氏の墓 posted by (C)pismo

栄涼寺 - 06河井継之助の墓
栄涼寺 - 06河井継之助の墓 posted by (C)pismo

栄涼寺 - 07三島億二郎の墓
栄涼寺 - 07三島億二郎の墓 posted by (C)pismo

長興寺は曹洞宗の寺院です。
長岡藩家老職山本家の墓があります。山本家は長岡藩主牧野氏に仕えた、一説には武田信玄の軍師山本勘助の血脈といわれています。
山本老迂斎精義は、名家老と賞賛され歴代藩主を50年にわたって助けました。
幕末の当主山本帯刀義路は、北摂戊辰戦争では大隊長として奮戦しました。長岡落城後も八十里越えを守るため戦い続けました。しかし、慶応4(1868)年9月、いい寺の戦いで降伏勧告を拒否し、斬首されました。取り調べの際には毅然とした態度で長岡藩が戦った理由、薩長両藩の酷いやり方をはっきり述べたそうです。享年24歳でした。
この戦いで山本家は家名断絶になりましたが、後に高野家の出身の山本五十六が山本家を継ぐことになりました。早くから航空機の重要性を説き、連合艦隊司令長官になりましたが、昭和18(1943)年4月18日、南冥に散華しました。
その他、幕末の長岡藩士で藩土を荒らしてはならないと非戦論を説いた酒井貞蔵(晦堂)の墓があります。酒井は、河井継之助を暗殺しようとしたくらいでしたが、戦いが決まると悲しみを堪え、死を覚悟して戦場に赴き戦死しました。
長興寺 - 1
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長興寺 - 2長岡藩家老山本家の墓
長興寺 - 2長岡藩家老山本家の墓 posted by (C)pismo

長興寺 - 3酒井貞蔵(晦堂)の墓
長興寺 - 3酒井貞蔵(晦堂)の墓 posted by (C)pismo

長興寺 - 4
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「米百俵の群像」は、ハイブ長岡前に建てられたブロンズ像です。今も長岡に伝わる「米百俵の精神」を山本有三の戯曲「米百俵」の一幕から再現したものです。
北越戊辰戦争で焦土と化した長岡に支藩の三根山藩(現在の西蒲原郡巻町峰岡)から見舞いの米が百俵送られてきました。食べるものに事欠く長岡藩士たちにとっては、喉から手が出るほど欲しいものでした。しかし、時の長岡藩大参事小林虎三郎は、「食えないからこそ、教育をするのだ。学校をつくるのだ。」と米を売り払い、その代金を国漢学校にそそぎこみました。
この故事は「目先のことにとらわれず、明日のために行動する」という精神は、小泉首相が第一次内閣を組閣した後の国会での所信表明演説で引用されて有名になりました。
 群像は「米を分けろ」と迫る人々に虎三郎が切々と説いている場面です。かたわらの少年は、「米百俵の精神」を引き継ぐ新しい世代を象徴しています。
米百俵の群像
米百俵の群像 posted by (C)pismo

蔵王堂城の築城時期は不明ですが、南北朝時代の築城という説があります。
本格的な築城は、越後守護代長尾景恒の次男景晴(景春とも)が蔵王堂城を本拠とし、古志郡を支配し古志長尾氏といわれるようになりました。
永正2(1505)年、房景の代に古志長尾氏は、栖吉城に本拠地を移し、古志郡の有力国人に成長しました。その後、蔵王堂城は長尾為重(長尾為景の弟・謙信の叔父)が城郭として再整備し、御館の乱の後天正10(1582)年には河田長親が城主となりました。
慶長3(1598)年、上杉景勝は会津に転封となったため、蔵王堂城には越後に入国した堀秀治の弟親良が入城しました。親良の引退後、坂戸城主堀直寄の後見の元、親良の養子鶴千代が跡を継ぎました。後見人の堀直寄は蔵王堂城が信濃川に隣接し災害の恐れがあったことと近世城郭に城域を拡大できないことから、長岡城を築城を推進しました。、慶長11(1606)年に家督を継いだ坂戸城主堀直寄の実子で親良の養子鶴千代が死去したため、蔵王堂藩は直寄の坂戸藩に吸収されました。しかし、
慶長15(1610)年、堀氏は改易され、直寄は信濃飯山に転封されます。越後には徳川家康の六男松平忠輝が入封し、蔵王堂城には城代として山田隼人が入城しました。長岡城の築城はここで一旦中断となります。
しかし、元和2(1616)に松平忠輝は改易となり、堀直寄が蔵王堂城主として戻り蔵王堂藩を復活しました。
直寄は再び長岡城の築城を推進し、完成と共に移転したため、蔵王堂城は廃城となり、蔵王堂藩は長岡藩になりました。長岡城の完成間近で直寄は長岡から村上に転封になりました。
城跡は金峯神社となっていて、堀や土塁などが残っています。その他堀直寄の銅像が建っています。
蔵王堂城(金峯神社) - 01
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蔵王堂城(金峯神社) - 02
蔵王堂城(金峯神社) - 02 posted by (C)pismo

蔵王堂城(金峯神社) - 03
蔵王堂城(金峯神社) - 03 posted by (C)pismo

蔵王堂城(金峯神社) - 04
蔵王堂城(金峯神社) - 04 posted by (C)pismo

蔵王堂城(金峯神社) - 05
蔵王堂城(金峯神社) - 05 posted by (C)pismo

八丁沖古戦場の付近は、は長岡の東北郊外、百束(ひゃくそく)、大黒(だいこく)あたりから、南は富島(とみじま)、亀貝(かめがい)にいたる南北約5km東西約3kmにわたる大沼沢地でした。
北越戦争で、長岡城を奪われた長岡藩家老河井継之助は、長岡城奪回のため、長岡全軍の力を一つにして、この八丁沖を密かに渡り、一気に城下へ突入することを計画しました。
継之助は藩兵に弾薬と切餅を配り激励し、「城に戻り両三年もすれば、もとの繁盛にすることはたしかに出来るから、御一同共、必死を極めて勝ちましょう。死ぬ気になっていたせば、生きることもでき、もし死にたくない、危うい目にあいたくないという心があるとするならば、それこそ生きることもできません」という内容の口上書を読み聞かせました。
慶応4(1868)年7月24日午後7時ごろ行動を開始し、全軍600余名声をひそめて潜行し、7月25日未明に富島へたどり着き、大激戦のすえ宮下の新政府軍前線基地を占領しました。さらに、全軍を4手に分け、長岡城をめざして猛進撃に移りました。不意を突かれた新政府軍は、必死に防戦しましたが昼すぎには勝敗は明らかとなり、長岡城の奪回に成功しました。
継之助の八丁沖渡河作戦は、この方面の防備が手薄なことを察知し、巧みにその虚をついた作戦として、現在でも高く評価されています。
現在は古戦場付近は干拓され、田園地帯となっています。古戦場の一角富島に八丁沖古戦場パークとして公園が整備されています。石碑の他、八丁沖渡河作戦で河井継之助が旧諏訪神社境内において使用されたと伝えられる手水鉢、長岡城本丸から出土した踏石があります。
八丁沖古戦場 - 1
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八丁沖古戦場 - 2
八丁沖古戦場 - 2 posted by (C)pismo

八丁沖古戦場 - 3
八丁沖古戦場 - 3 posted by (C)pismo

八丁沖古戦場 - 4
八丁沖古戦場 - 4 posted by (C)pismo

八丁沖古戦場 - 5
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西照寺は、浄土真宗本願寺派の寺院です。
ここは北越戦争で長岡城を奪われた東軍が、再奪還を目指すべく西軍と戦った大黒福井の戦いで、東軍の台場が置かれました。
西照寺 - 1
西照寺 - 1 posted by (C)pismo

西照寺 - 2
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大黒古戦場は、慶応4(1868)年の夏、北越戊辰戦争の激戦地の一つです。
大黒古戦場パークとして、地元の人に現在も大切にされているこの地は、長岡、会津、米沢藩兵らの東軍と薩摩、長州藩兵らの西軍との間で幾度も激闘がかわされた場所です。
この場所は長岡城を占拠した新政府軍が堡塁を築いていた場所で、長岡・会津・米沢などの列藩同盟軍が数回にわたって攻撃をかけながら突破することができず、長岡藩の家老河井継之助は、八丁沖を渡河し、長岡城を奪還する作戦を考え成功しました。
付近の人びとは、昭和12(1937)年9月に「大黒戊辰戦跡記念碑」を建てました。石碑正面の「戊辰戦蹟記念碑」の文字は当時海軍中将であった山本五十六の書です。
現地には「明治戊辰戦遺蹟」の石碑が建っています。
大黒古戦場 - 1
大黒古戦場 - 1 posted by (C)pismo

大黒古戦場 - 2
大黒古戦場 - 2 posted by (C)pismo


光福寺・長岡藩本陣跡です。
慶応4(1868)年5月2日、小千谷の慈眼寺での会談が決裂しこの地に戻った河井継之助は5月3日夕刻、長岡藩の諸隊長はを本陣の光福寺に集合させました。そこで継之助は「我藩の面目を保ち、藩公に殉じよう」と熱誠を弁じ新政府軍に対し、開戦の決意を諸隊長に演説しました。
光福寺は長岡城の南4kmに位置しており、5月19日に長岡城が落城し加茂に撤退するまで本陣として使用されました。
光福寺・長岡藩本陣 - 1
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光福寺・長岡藩本陣 - 2
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光福寺・長岡藩本陣 - 3
光福寺・長岡藩本陣 - 3 posted by (C)pismo

河井継之助・開戦決意の地は前島神社の中にあります。
小千谷の慈眼寺で岩村精一郎との談判が決裂した河井継之助は、長岡城に戻る途中既に戦争に備え、この前島を守衛していた川島億次郎(後の三島億二郎)を訪ね、小千谷会談の状況状況を説明しました。新政府軍の戦いに反対していた川島に対し、継之助は「もし和するなら我を斬り3万両とともに首を差し出せば戦争は避けられる」と言いました。川島は再考を求めていましたが「是非もなし。死生を共にせん」と応じました。
前島神社〔前島神明社〕の境内に石碑が建っています。
前島神社・河井継之助開戦決意の地 - 1
前島神社・河井継之助開戦決意の地 - 1 posted by (C)pismo

前島神社・河井継之助開戦決意の地 - 2
前島神社・河井継之助開戦決意の地 - 2 posted by (C)pismo

前島神社・河井継之助開戦決意の地 - 3
前島神社・河井継之助開戦決意の地 - 3 posted by (C)pismo

前島神社・河井継之助開戦決意の地 - 4
前島神社・河井継之助開戦決意の地 - 4 posted by (C)pismo

榎峠古戦場です。
長岡城から南へ約13kmの榎峠は、信濃川沿いの長岡城を守るための要所でした。
北越戦争で河井継之助は、慈眼寺での談判が決裂した後小千谷を占領しこの辺境まで布陣していた新政府軍から峠を奪い返す作戦を立てました。
慶応4(1868)年5月10日、長岡藩は発砲し戦いが始まりました。長岡藩は新政府軍と激しい戦闘を繰り広げ、榎峠を奪還し朝日山での戦いに主戦場を移しました。
現在は榎峠古戦場パークになっており、石碑が建っています。
平成16(2004)年10月23日に発生した中越地震で子供さんが崩れた岩の中の車から奇跡的に助け出された場所の近くです。
榎峠古戦場パーク - 1
榎峠古戦場パーク - 1 posted by (C)pismo

榎峠古戦場パーク - 2
榎峠古戦場パーク - 2 posted by (C)pismo

榎峠古戦場パーク - 3
榎峠古戦場パーク - 3 posted by (C)pismo

榎峠古戦場パーク - 4
榎峠古戦場パーク - 4 posted by (C)pismo

司馬遼太郎「峠」文学碑は、榎峠古戦場に程近い国道17号の「越の大橋」が平成5(1993)年に開通した記念に建てられた文学碑です。
司馬遼太郎の「峠」は長岡藩家老河井継之助を主人公に描いた歴史小説です。
石碑は小さいですが、近代的な発想で長岡藩を改革した継之助が最後は武士の論理で戦うという選択をとり、歴史にむかって語りつづけているという意味のことが短いながらもよく表現されています。
石碑があまり目立たない、小さな自然石であるのも司馬さんの意向を反映しているそうです。
峠文学碑(越の大橋) - 1
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峠文学碑(越の大橋) - 2
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Posted at 2009/05/31 20:56:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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