篠原の戦いは源平時代、木曽義仲と平家軍との戦いで、
首洗池は斎藤別当実盛の首を洗ったとされる池です。
寿永2(1183)年、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に大敗した平維盛率いる平家の軍勢は、加賀平野を南下し、篠原の地で陣を立て直し、義仲との決戦を図りました。
しかし勢いづいた義仲軍を阻止することはできず、平家軍はふたたび敗れ去りました。
このとき、敗走する平家軍で、ただ一騎踏みとどまって、戦ったのが斉藤別当実盛でした。
実盛は、老武者とあなどられることを恥とし、白髪を黒く染めて参戦しましたが、手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最後を遂げました。
樋口次郎兼光が討ち取った首をこの池で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変わりました。
実盛は、かつて義仲の父義賢が源義平に討たれた際に、幼い義仲を木曽に逃した恩人でした。
この物語は「源平盛衰記」などに記されており江戸時代から人口に膾炙されていました。
なお、実盛着用の甲冑を、木曽義仲が多太神社に奉納したと伝えており、元禄2(1689)年芭蕉が「奥の細道」の行脚の途中に立ち寄り、この甲に寄せて「むざんやな 兜の下のきりぎりす」と呼んでいます。
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実盛塚は寿永2(1183)年6月、篠原の戦いで敗走する中ただ一騎、踏みとどまって戦い源氏の若武者手塚太郎光盛に討ち取られ最期を遂げた斉藤別当実盛を葬った墓所です。
康応2(1390)年時宗総本山(相模藤沢の清浄光寺)十四世遊行上人太空が此の地へ来錫(しゃく)の節、実盛の亡霊が現れたため、上人の回向を受けて成仏し、実盛には「真阿」という法名を与えられたと伝えています。
以来歴代の遊行上人が加賀寺を巡錫(しゃく)の節には必ず立寄って此の塚に回向された謡曲「実盛」はこれらの伝説に基いて作られたものです。
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山田光教寺は、文明年間(1469年~1487年)に吉崎御坊の本願寺蓮如によって開かれました。
文明18(1486)年頃には蓮如の四男蓮誓が入寺しており、賀州三ヶ寺(若松本泉寺・波佐谷松岡寺・山田光教寺)の一つとして数えられました。
長享元(1487)年、加賀国守護冨樫政親が一向一揆によって滅ぼされた後は、加賀国は賀州三ヶ寺が連合して支配し「百姓の持ちたる国」と呼ばれるようになりました。
大永元(1521)年、蓮誓が没した後は三男顕誓が相続し、享禄4(1531)年、越前国の藤島超勝寺が加賀へ進出して賀州三ヶ寺と対立すると、超勝寺方に山田光教寺は攻められて敗れ山田光教寺は廃寺となりました。
顕誓は越前国へ逃亡したものの捕まり、播磨国本徳寺に蟄居させられました。
現在は現在光闡坊が建っており、蓮如上人の銅像が建っています。
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大聖寺城は、標高67mの錦城山に築かれた城です。
南北朝以後、加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていました。
織田信長が加賀に侵攻した天正3(1575)年に大聖寺城は攻略され、戸次広正、拝郷家嘉、溝口秀勝が城主となりました。 現在の配置は溝口秀勝が天正11(1583)年、大聖寺城主となり4万4千石で封ぜられた頃に修築したと推定されています。
本丸、二の丸、鐘ヶ丸などが巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防備を固めていました。
慶長3(1598)年、溝口秀勝が越後新発田に転封した後、小早川秀秋の重臣山口宗永が7万石の城主となりました。
宗永は慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の際には西軍に与したため金沢城の前田利長と敵対することになりました。 同年8月3日早朝、山口軍1,200人に対して前田軍は25,000人の圧倒的兵力で攻められ落城、自刃しました。落城後、利長はすぐに修築し城代を置きましたが、元和元(1615)年の一国一城令により廃城となりました。
廃城後の寛永16(1639)年、金沢城主前田利常の三男利治が7万石を分封されて大聖寺城の山麓に陣屋 (大聖寺陣屋)を築いて以降、大聖寺前田氏は14代続き明治を迎えました。
藩政時代は、錦城山には一般人の入山を禁じていました。
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長流亭は、大聖寺藩の庭園だった江沼神社境内の西北角、旧大聖寺川に面したところにあり、宝永6(1709)年、大聖寺藩第3代藩主前田利直の休憩所として建てられました。
国の重要文化財に指定されています。
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次は、吉崎御坊へ向かいます。
Posted at 2009/10/06 21:32:16 | |
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