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ピズモのブログ一覧

2011年05月06日 イイね!

南信濃〜遠江、信玄上洛への夢紀行(2日目その1・浜松城周辺の史跡)

平手監物墳墓の地〔平手神社跡〕は、三方ヶ原の戦いで平手監物汎秀が戦死した地といわれています。浜松城の南側、グランドホテル浜松の裏側にあたります。
戦没地は稲葉山で監物坂という坂も残っています。
平手汎秀は、織田信長の家臣平手政秀の子、もしくは孫ともいわれています。三方ヶ原の戦いには徳川家康への援軍として、滝川一益・林秀貞・佐久間信盛・水野信元らと共に出陣しましたが、敗軍の中浜松城近くのこの地において戦死しました。

かつてその地には汎秀およびその家臣の墓碑があり平手神社として祀られていましたが、老朽化により取り壊されました。平成18(2006)年に墓碑は平手一族の菩提寺である愛知県稲沢市の長福寺に移されました。
平手監物最後の地
平手監物最後の地 posted by (C)pismo


鎧掛松は元亀3(1572)年、徳川家康が三方ヶ原の合戦から城に帰って大きな松の木陰で休み、そのとき鎧を脱いでその松に掛けたことから、鎧掛松と呼ばれるようになりました。
現在の松は昭和56(1981)年に元城町の人々の手によって植樹された三代目です。初代は浜松城内の堀のそばにありました。
また、当寺鎧掛松の近くの清水で合戦により疲れた馬の身体を冷やしたところは馬冷(うまびやし)と言ってその地名が松城町内に残っています。
鎧掛松 - 1
鎧掛松 - 1 posted by (C)pismo

鎧掛松 - 2
鎧掛松 - 2 posted by (C)pismo

鎧掛松 - 3
鎧掛松 - 3 posted by (C)pismo

徳川秀忠公誕生の井戸〔誕生井戸〕は常盤町地内、遠州鉄道遠州病院前駅の西側にありますが、元々は現在の場所より西方に約50メートルの所にありました。昔、その一帯は旧浜松城下であり、家康公在城当時には下屋敷が構えられていました。
2代将軍徳川秀忠の生母は、側室・西郷局(於愛の方)で、天正7(1579)年4月7日、秀忠の出産は同下屋敷で行なわれたといわれています。その時に使われた産湯の井戸が誕生井戸で、その井戸は明治の頃まで残っていたそうです。又、ここの北方の誕生橋は、秀忠の生まれた下屋敷が誕生屋敷と呼ばれたことに因んで命名されたといわれています。

徳川秀忠誕生の井戸 - 1
徳川秀忠誕生の井戸 - 1 posted by (C)pismo

徳川秀忠誕生の井戸 - 2
徳川秀忠誕生の井戸 - 2 posted by (C)pismo

徳川秀忠誕生の井戸 - 3
徳川秀忠誕生の井戸 - 3 posted by (C)pismo


浜松八幡宮は、仁徳天皇の時代にが遠津淡海の海運安全のため海の神・玉依比売命を許部の里(現・浜松市小沢渡町)に祭祀したのが始まりと言われています。
許部神社は、延喜式にも「敷智郡6座の神の一座 許部神社」として名を連ねる由緒ある神社です。
その後、天慶元(938)年神託により許部の里から曳馬の里(現在地)に遷座し、この時 白狐が老翁の姿で松の小木を携えこの宮地に導き松を移し植えました。
この故事により「浜の松」すなわち「浜松」の地名になったといわれています。
その後、浜松市馬込町にあった白山神社の御祭神・伊奘諾尊、伊奘冉尊、下垂の玉依比売命が遷座されました。
浜松八幡宮は古くから武家の信仰が篤く、永承6(1051)年八幡太郎義家が陸奥に出陣の折、浜松八幡宮に参籠し、
 「契りあれば 帰り来るまで石清水 かけてぞいはふ 浜松の里」
という歌を詠み、武運を祈願して社前の楠の下に旗を立てたと伝えられています。
 また、三方ヶ原合戦の折、武田軍に追われた家康が天林寺に入り、義俊和尚の案内で浜松八幡宮に逃れ、社前の楠の洞穴に隠れて武運を祈願した際、楠の上に瑞雲が立ち上り、神霊が白馬に跨り浜松城方面に飛び立ったといわれ、家康は無事に浜松城に帰りつき、武田軍の入城を防ぐことができました。この故事から「雲立の楠」と呼ばれるようになりました。
徳川家康は、1586年(天正14年)に駿府に移るまで、浜松八幡宮を祈願所とし武運長久を祈ったと伝えられています。
慶長8(1603)年、征夷大将軍に任ぜられた徳川家康公より社領五十石の朱印を与えられ、幕府より歴世朱印を与えられたといわれています。
浜松八幡宮 - 01
浜松八幡宮 - 01 posted by (C)pismo

浜松八幡宮 - 02
浜松八幡宮 - 02 posted by (C)pismo

浜松八幡宮 - 03
浜松八幡宮 - 03 posted by (C)pismo

浜松八幡宮 - 04
浜松八幡宮 - 04 posted by (C)pismo

椿姫観音は、曳馬城の女城主お田鶴の方を祀った観音様です。
戦国時代、曳馬城(引間城・引馬城)主飯尾豊前守乗竜(連竜)亡き後、女城主になったお田鶴の方は、永禄11(1568)年12月末、徳川家康の攻撃を受け合戦に臨みました。
華やかにして壮絶な死闘の末、お田鶴の方と侍女たちは戦いに敗れ討死しました。
城を最後まで死守した女丈夫に感動した家康は、お田鶴の方と侍女18人の遺骸を厚く葬り塚を築きました。家康の正室、築山御前も手ずから塚の周囲に百余株の椿を植え供養を営みました。
椿はその後毎年美しく咲き、付近の人々はこの塚所を「椿姫塚」と呼び追善供養を捧げました。
椿姫観音 - 1
椿姫観音 - 1 posted by (C)pismo

曳馬城は浜松城の前身です。
築城年代や築城者は諸説あり、久野越中守、今川貞相、大河内貞綱、巨海新左衛門尉などの名前が挙げられています。
戦国時代、遠江守護斯波氏と駿河守護今川氏が争い、今川氏親が伊勢新九郎を派遣して遠江制圧に乗り出し飯尾乗連が曳馬城主となりました。
今川義元が桶狭間の戦いで敗死すると、飯尾連龍は松平元康(後の徳川家康)に通じたため永禄8(1565)年、曳馬城は義元の子氏真に攻撃され、後に両者は講和をしましたが氏真によって連龍は駿府で暗殺されました。
和議は謀略で、連竜は誘殺された。以後の曳馬城は、連竜の未亡人・お田鶴の方(椿姫)を中心とした飯尾氏の残党によって守られますが、徳川家康により永禄11(1568)年攻略され、家康は曳馬城を居城としました。
元亀元(1570)年になると家康は居城の拡張を開始し名前も浜松城と改め曳馬城は浜松城の一曲輪として取り込まれました。
もともと曳馬城だった部分には、江戸時代には米蔵などが置かれていましたが、明治27(1894)年、井上八郎氏によって元城町東照宮が創建されました。昭和20(1945)年に戦災により消失しましたが昭和34(1959)年に再建されました。
曳馬城(東照宮) - 1
曳馬城(東照宮) - 1 posted by (C)pismo

曳馬城(東照宮) - 2
曳馬城(東照宮) - 2 posted by (C)pismo

普済寺は、山号は広沢山(こうたくさん)、曹洞宗の寺院です。
15世紀の初め寒厳義尹が開山、その後、肥後国大慈寺からきた華蔵義曇が寒厳禅師の遺志を継ぎ、東海の禅堂としてこの地に建立しました。
教派は十三派(四百六十ヶ寺)を数え、華蔵和尚によって浜松地方に禅宗が広められました。普済寺の本尊は釈迦牟尼佛です。
徳川家康の遠江侵攻の際には、この普済寺に陣が置かれたといわれており、又、元亀 3年(1572)の三方ヶ原合戦の際には兵火により焼失していますが、由緒のある寺として徳川氏の保護を受け、家康も客殿を寄進しています。
明治30(1897)年火災に遭い、その建物も昭和20年(1945)戦災を被りました。しかしその後、昭和39(1964)年に再建されました。
山内に北山稲荷を祀っています。なお普済寺の末寺である愛知県豊川市の豊川稲荷は、日本三大稲荷の一つに数えられています。
普済寺 - 1
普済寺 - 1 posted by (C)pismo

普済寺 - 2
普済寺 - 2 posted by (C)pismo


西来院は山号は高松山、曹洞宗の寺院です。
徳川家康の正室・築山御前の廟堂(月窟廟)のある寺院として有名です。
築山御前は天正7(1579)年、佐鳴湖岸の小藪(太刀洗の池)において、家康の家臣の手にかかり悲劇的な最後をとげました。築山御前の廟堂・月窟廟(げっくつびょう、がっくつびょう)は一時戦災のため焼失しましたが、昭和53(1978)年の400年忌に復元されました。
境内には、家康の異父弟松平源三郎勝俊、江戸時代の浜松女流歌人・杉浦真崎、森繁子などの墓もあります。
西来院 - 01
西来院 - 01 posted by (C)pismo

西来院 - 02
西来院 - 02 posted by (C)pismo

西来院 - 03
西来院 - 03 posted by (C)pismo

西来院 - 04
西来院 - 04 posted by (C)pismo

西来院 - 05
西来院 - 05 posted by (C)pismo

西来院 - 06
西来院 - 06 posted by (C)pismo

西来院 - 07
西来院 - 07 posted by (C)pismo


宗源院は、山号を宝蔵山といい曹洞宗、普済寺十三派の在天派に属する寺院です。
在天弘雲が十五世紀に開創しました。
三方ヶ原の戦いの際、家康の身代わりとして戦死した成瀬藤蔵正義、旗手として討死した外山小作正重の墓があり、また浜松城主松平伊豆守信祝が娘多世姫のために建てたという墓があります。寺の南東一帯に的場があり、徳川家康が在城当時ここで弓の稽古に励んだといわれています。             
宗源院 - 1
宗源院 - 1 posted by (C)pismo

宗源院 - 2
宗源院 - 2 posted by (C)pismo

蜆塚遺跡(しじみづかいせき)は、約3,000~4,000年前の縄文時代の集落遺跡です。
周辺には4ヶ所の貝塚があり、20数軒の家の跡や30ヶ所ほどの墓が発見されました。
貝塚の貝がほとんど蜆だったので、古くから蜆塚と呼ばれていました。
蜆塚遺跡から発掘された物(土器・石器・装飾品)は、蜆塚公園内に併設されている浜松市博物館に展示してあります。
昭和34(1959)年に国の史跡に指定されました。
蜆塚遺跡 - 01
蜆塚遺跡 - 01 posted by (C)pismo

蜆塚遺跡 - 02
蜆塚遺跡 - 02 posted by (C)pismo

蜆塚遺跡 - 03
蜆塚遺跡 - 03 posted by (C)pismo

太刀洗の池は現在石碑の建っている南側10m位の場所にありました。
昔はこの周辺一帯は藪に覆われ約50㎡ほどの池がありました。
天正7(1579)年8月29日、徳川家康の正室・築山御前が信長の命により、岡崎城から浜松城に向かう途中に、佐鳴湖小藪で家康の家臣に殺害されました。築山御前は38歳でした。
このときに血刀をこの池で洗ったので、その水が涸れましたが、延宝6(1648)年、百年忌の法要が行われてから、清水に戻ったといわれています。築山御前は西来院に葬られました。
この谷一帯のことを御前谷といいます。
現在石碑は、浜松医療センターの駐車場の一角にあります。
大刀洗の池 - 1
大刀洗の池 - 1 posted by (C)pismo

大刀洗の池 - 2
大刀洗の池 - 2 posted by (C)pismo


鴨江の根上がり松は、樹齢300年と推定されるクロマツで、根の部分が2m以上も地表から浮き上がっています。
かつては鴨江寺の境内にあたり19番目の観音が安置されていたことから、「十九番観音根上がり松」とも呼ばれ親しまれてきました。
昭和34(1959)年に浜松市の指定天然記念物の登録を受けました。
当初は2本のクロマツが指定されていましたが、1本は平成19(2007)年7月14日に倒れ、現在は根の部分のみが残っています。
根上がり松 - 1
根上がり松 - 1 posted by (C)pismo

根上がり松 - 2
根上がり松 - 2 posted by (C)pismo

根上がり松 - 3
根上がり松 - 3 posted by (C)pismo

根上がり松 - 4
根上がり松 - 4 posted by (C)pismo


浜松城はかつては、今川の臣飯尾氏の居城で「曳馬城」と呼ばれていました。
永禄11(1568)年徳川家康が攻略し、自らの居城としました。
元亀元(1570)年に家康は本拠地を岡崎城から移し、浜松城と城の名前を改めました。
元亀3(1573)年、武田信玄が浜松城を素通りし、西上しようとしたところ、徳川家康は浜松城から打って出て、三方ヶ原で激突しました。しかし、徳川軍は武田軍に敗北を喫してしまいます。
その後、浜松城は武田軍へ備える必要もあり、拡張・改修を加えました。しかし、武田家滅亡後、駿河、甲斐、信濃へ領土を広げた家康は、天正14(1586)年、浜松城から駿府城に本拠を移しました。
天正18(1590)年の徳川家康の関東移封後は、堀尾吉晴、堀尾忠氏が在城しました。
江戸時代は譜代大名達の居城となり、水野忠邦他幕府閣僚への登竜門となった城で「出世城」と呼ばれました。
浜松城 - 01
浜松城 - 01 posted by (C)pismo

浜松城 - 02
浜松城 - 02 posted by (C)pismo

浜松城 - 03
浜松城 - 03 posted by (C)pismo

浜松城 - 04
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浜松城 - 05
浜松城 - 05 posted by (C)pismo
Posted at 2011/08/07 22:40:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年05月05日 イイね!

南信濃〜遠江、信玄上洛への夢紀行(1日目その3・秋葉山本宮秋葉神社下社、犬居城、天方城、崇信寺、飯田城、馬伏塚城、久野城)

秋葉山本宮秋葉神社は、和銅2(709)年に社殿を創建したとも、養老2(718)年、行基によって秋葉山が開山されたともいわれています。
かつては、三尺坊大権現を祀る秋葉社と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺とが一つの境内にあり、秋葉大権現として栄えました。
明治元(1868)年の神仏分離令や明治5(1872)年の修験宗廃止令により三尺坊大権現は萬松山可睡斎に遷座、秋葉寺は寺領や宝物を没収され廃寺となりました。
秋葉社も一旦は廃社とされましたが、翌明治6(1873)年、地元の人々の強い願いにより、祭神を火之迦具土大神とする秋葉神社として再建されました。明治13(1880)年には秋葉山秋葉寺も再建されました。
山上には上社があり、気田川の麓には下社があります。
時間の都合で下社のみ参拝しました。
秋葉神社下社 - 1
秋葉神社下社 - 1 posted by (C)pismo

秋葉神社下社 - 2
秋葉神社下社 - 2 posted by (C)pismo

秋葉神社下社 - 3
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犬居城は承久3(1221)年の承久の乱の後、山香庄の地頭に補せられ、以後犬居も地を中心に、北遠地方を代表する在地領主に成長した天野氏の居城です。
天野氏は伊豆国田方郡天野郷を出身地とし、鎌倉時代は幕府の御家人として活躍しましたが、元弘3(1333)年、鎌倉討幕軍に加わり、軍功を上げています。
南北朝時代にあると、一族が南朝・北朝それぞれの勢力に分かれて戦うなど、複雑な動きを展開しましたが、戦国時代には今川氏の配下として川根方面から天竜川のあたりの地域に勢力を及ぼしました。
永禄3(1560)年、今川義元が桶狭間の戦いで倒れると、徳川家康に属し、上洛を企てる武田信玄が北遠地方をうかがうと、武田氏に従うことになりました。このような状況の中で、光明、篠ヶ嶺、樽山、勝坂などの各地に支城が整えられていったものと考えられています。
天正2(1574)年、徳川軍の包囲を受けましたが、気田川増水のため退却する徳川軍を田能、大久保辺に追撃しています。
天正3(1575)年、長篠の戦いで武田軍が大敗すると、翌年再び徳川軍の攻撃を受け、ついに城を放棄して北遠の地を去りました。
犬居城跡は行者山(250m)の頂にあり、山の南側は断崖絶壁で険阻となっており、北側と西側は比較的穏やかで攻撃を受けやすい地形となっているため、西側から東側にかけて物見曲輪、本曲輪、東曲輪などの諸曲輪が配され、空堀、土塁、堀切などが築かれています。
現在、東曲輪周辺の空堀や堀切などの遺構がよく残っており、中世における代表的な山城として貴重です。なお、山の南側の熱田平には、天野氏の居館が築かれたと思われ、百首塚、的場が残っています。(現地説明板などより)
犬居城 - 01
犬居城 - 01 posted by (C)pismo

犬居城 - 02
犬居城 - 02 posted by (C)pismo

犬居城 - 03
犬居城 - 03 posted by (C)pismo

犬居城 - 04
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犬居城 - 05
犬居城 - 05 posted by (C)pismo

犬居城 - 06
犬居城 - 06 posted by (C)pismo

犬居城 - 07
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天方城がいつ築かれたかは不明ですが、応永年間(1394〜1428)には既に山内対馬守道美の居城でした。
応永8(1401)年には、弟山城守通秀に天方城を譲り、山城守は天方氏を称しました。
天方山城守通興(別号天方四郎三郎)の時代は戦国時代でそれまで遠江、駿河を支配していた今川氏が義元の死後衰退し、これを見た三河の徳川家康は遠州に進攻しました。
永禄11(1568)年、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきました。
天方城主天方山城守通興は今川方の勇将と知られており、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄12(1569)年6月19日家康は「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、先陣榊原小平太康政、天野三郎兵衛康景、大久保新十郎忠隣をして天方城攻略のため進撃させ郭門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦がくりひろげられました。山城守もよく防戦したがついに力尽きて降伏しました。
翌元亀元(1570)年10月位には命令に従わずに軍兵を集めてたてこもったため再び大須賀康高、榊原康政をして外曲輪を攻められました。山城守は再び降伏し徳川の支配下に入りました。
元亀3(1572)年9月下旬、武田信玄は上洛を目指し遠州に侵攻し犬居城主天野氏の案内で飯田城を攻略して天方城にせまりました。
天方山城守は風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に恐れをなし戦わずして降伏してしまいました。そこで信玄は久野氏を残して山城守とともに天方城を守らせました。
翌天正元(1573)年3月家康は「信玄に降伏したものを捨置くべきにあらず」と、天方城攻略を決行しました。先にこの城に残った武田の臣である久野氏は城兵を指揮して大手の門を切って出て戦い、寄せ手の大久保忠隣、渡辺半蔵らは烈しく攻め、ついに外堀を攻め破り本丸を攻め囲むこと3日、城主山城守、久野氏は必死に防戦したが力尽きて再び降伏しました。
遠江国風土記には、のちにまた甲州の城となりましたが、天正2(1574)年3月に家康は遠州の軍兵を率いて天方城を攻め3日のうちに攻略、この城に軍兵を置いたとされています。
その後通興の子通綱は家康の長男信康が織田信長に謀反の疑いをかけられて天正7(1579)年に二俣城にて切腹を命ぜられた際に介錯をつとめました。このため主君の長男の首を落としたという自責の念にかりたてられ高野山ののぼり仏門に入りその後越前松平秀康に仕えて越前天方氏の祖となりその子孫は明治まで松平氏に仕えました。
一方通興は天方家の存続をはかるため外孫を養子に迎え、後に家康、秀忠に従って数々の戦功をあげました。(現地説明板などより)
城ヶ平公園としてかなり整備されており、城跡まで車で登ることができます。
天方城 - 01
天方城 - 01 posted by (C)pismo

天方城 - 02
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天方城 - 03
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天方城 - 04
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天方城 - 05
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天方城 - 06
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崇信寺は曹洞宗の寺院で、山号は飯田山です。
飯田城の跡にあります。築城の年代は定かではないが応永の初め頃、天方城主の山内対馬守が武略をもって飯田の荘を取り、この地に城を築いてここに移り天方城は弟の山城守に譲りました。
永禄年代、対馬守の子孫、通泰の代に徳川家康に攻められ主従ことごとく討死して廃城となりました。城主山内道泰は討死しましたが、庶子重但(伊織)は三河国に逃れて同地に土着し、子孫は連綿と続いているそうです。
対馬守は道美と号して文武両道を極め、ことに如仲禅師について禅を修め、応永8(1401)年飯田山崇信寺を建立しました。(説明看板などより)
境内には山内氏3代(山内対馬守道美公、山内対馬守久通公、山内大和守通泰公)の墓があります。
崇信寺 - 1
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崇信寺 - 2
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崇信寺 - 3
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崇信寺 - 4
崇信寺 - 4 posted by (C)pismo

飯田城です。
室町初期、天方城主の山内対馬守道美が天方郷から飯田郷へ進出し弟の山城守に天方城を譲り、城(飯田古城、現・崇信寺)を築きました。
道美の後、久通、通泰と続きました。
永禄12(1569)年、徳川家康による遠江平定が急速に進み、榊原康政、大須賀康高らが先を争うようにして攻め通泰以下主従ことごとく討死しました。
元亀3(1572)年、西上を目指す武田信玄の大軍によって遠江が席捲された際にこの城も落とされました。
城跡は崇信寺の南側、茶畑を真っ直ぐ進んで右手の小さな丘の上にあります。
少し入口がわかりにくいです。
飯田城 - 1
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飯田城 - 2
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飯田城 - 3
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馬伏塚城の築城時期は不明ですが、文亀元(1501)年に遠江国守護であった斯波氏と駿河国守護であった今川氏が遠江国の支配権を巡って中遠地域で激しい戦闘が繰り広げられたときに、今川氏の拠点として座王城(袋井市)、天方城(森町)と共に登場しており、この時に城塞としての機能を果たしていたことがわかります。
城主として確かな史料に登場する最初は、今川氏の重臣で遠江小笠原氏と呼ばれる小笠原春茂(春義、春儀)とその子の氏興(氏清)であり、高天神城の城主も兼ねていたとされています。
今川氏が滅亡すると、小笠原氏は徳川家康の配下となります。天正2(1574)年6月17日、南遠地方の要であった高天神城が落城し、徳川方から武田勝頼の手に支配が移ると、家康は馬伏塚城を高天神城攻略の作戦本部と位置づけ、8月1日から大改造を行って現在の岡山集落全域を取り込む城郭に造り上げました。
城主には家康の重臣である大須賀康高をおき、天正9(1581)年に高天神城が落城するまで、天正6(1578)年に築かれた大須賀城と共に戦略上重要な位置を占めます。
しかし、徳川家康による遠江支配が安定する天正10(1582)年にはその役割を終えて廃城となり、跡地に岡山村が形成されていきました。
現在も小字名として残る破城(羽城)は、城打ち壊しの儀式が地名として残ったものと考えられます。城名の馬伏塚城の読み方は「まむしづか」、「まぶせづか」と両方ありますが、現在では一般的に「まむしづか」と読んでいます。
(説明看板などより)
城跡は、諏訪神社となっています。
馬伏塚城 - 1
馬伏塚城 - 1 posted by (C)pismo

馬伏塚城 - 2
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馬伏塚城 - 3
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馬伏塚城 - 4
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久野城は、久野宗隆が明応年中(1492~1500)もしくは永正年中(1504~1520)に築城したといわれています。
宗隆は今川氏に属し、多くの戦功を立てましたが、孫の久野宗能は永禄11(1568)年、徳川家康の旗下に入り城主となり、掛川城・高天神城攻撃、小牧長久手の戦いなどに戦功を立てました。
天正18(1590)年、家康の関東転封に伴い宗能は下総に移封され、代わって松下之綱が丹波より移り城主となりました。
その後松下重綱・久野宗能(再任)・久野宗成・北条氏重が城主となりました。しかし、最後の城主北条氏重は寛永17(1640)年下総関宿へ移封され、久野城は正保元年(1644)年廃城となりました。
城跡は良く整備され、土塁、堀切などが良く残っています。
久野城 - 01
久野城 - 01 posted by (C)pismo

久野城 - 02
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久野城 - 03
久野城 - 03 posted by (C)pismo

久野城 - 04
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久野城 - 05
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久野城 - 06
久野城 - 06 posted by (C)pismo

久野城 - 07
久野城 - 07 posted by (C)pismo


この日はここまで。浜松に泊まるので次の日は浜松市内の史跡を中心に回ります。
Posted at 2011/08/07 22:26:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年05月05日 イイね!

南信濃〜遠江、信玄上洛への夢紀行(1日目その2・武田軍が越えた兵越峠、青崩峠から高根城)

兵越峠は、武田信玄が上洛を志ざし、元亀3(1573)年10月3日(新暦11月18日)約2万5千の大軍を率いて信濃国遠山領を通って、青崩峠の少し手前で分隊し、一隊はこの兵越峠も越したと言われています。
信玄が上洛のため信濃国、遠江国の国境の峠を越すことに意を決めたのは信玄の家来秋山信友が永禄11(1568)年、遠江国奥山、天野の両氏を味方につけるためにこの峠を越し、探索ののち5年後に天野氏を道案内として天野氏居城へ向いました。
この国境にある2つの峠は青崩峠方面奥領家の谷は距離が短いため信玄の本体が通ったとしていますが、兵越峠方面地頭方の谷は、北遠の穀庫といわれる谷で戦力を増すため雑兵、荷運搬馬は勿論の事、馬の餌、馬の草履、兵の草履、乾食料などの徴発や、敵が潜んでいるのを予想してこの峠を越したもので両峠は10月10日(新暦11月25日)に越し南下しました。
この峠は信玄の兵が越したと言われることから兵越峠(ひょうごしとうげ、ひょうこしとうげとも)と呼ばれるようになりました。
毎年十月、信州軍(長野県飯田市・旧南信濃村)と遠州軍(静岡県浜松市天竜区・旧水窪町)に分かれて「国境」をかけて綱引きで対決する「峠の国盗り綱引き合戦」が行われています。
兵越峠 - 1
兵越峠 - 1 posted by (C)pismo

兵越峠 - 2
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兵越峠 - 3
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兵越峠 - 4
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兵越峠 - 5
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兵越峠 - 6
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兵越峠 - 7
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青崩峠は遠州と信州の国境にあって古くからある信州街道(秋葉街道)の峠です。この道は昔から海の幸や山の幸が馬や人の背によってこの峠を越して運ばれたことから「塩の道」ともいわれています。
戦国時代、元亀3(1572)年、上洛を志す武田信玄は遠江・三河を攻略するために軍を三方に分け、自身は小川路峠から青崩峠を越えて天野氏の犬居城に入りました。
近世には多くの人々が信州、遠州、三河の神社、仏閣に参詣するために、近代においては可憐な少女達が製糸工女として他郷で働くために越した峠としても知られています。
国道152号の未通区域です。
青崩峠 - 01
青崩峠 - 01 posted by (C)pismo

青崩峠 - 02
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青崩峠 - 03
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青崩峠 - 04
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青崩峠 - 05
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高根城(久頭郷城)は、応永21(1414)年、奥山金吾正並びに諸士が宗良親王の皇子伊良親王を守護して、周智郡奥山に仮宮を設け、葛郷高根の城を築いたのが城の始まりと伝えられています。。
その後奥山氏は、16世紀前半の永正から大永年間(1504~28)頃に、駿河守護の今川氏の配下に組み入れられ、北遠江のほぼ全域を支配下としました。
永禄年間(1558~70)後半、今川家が凋落傾向をたどると、奥山氏内部で、今川・徳川・武田への帰属を巡って内部分裂が勃発し、信州の遠山土佐守に攻められ城は落城したと考えられています。
元亀から天正年間初頭(1570~76)にかけて、武田氏が遠江侵攻戦を開始し、本城は、武田信玄・勝頼父子によって大改修され、国境を守る橋頭堡とされましたが、天正4(1576)年に遠州から武田軍が一掃されるとこの時点で廃城になったと考えられています。
江戸時代には、奥山氏を祀る稲荷神社が造られ、現在も山頂に稲荷が祀られています。この稲荷神社に伴う改変を若干受けていますが、武田氏時代の原型を良く留めています。
本曲輪を中心に、発掘調査成果を元に復元整備が実施されています。
武田氏独特の二重堀切の規模も雄大で、また曲輪を接続する城内道も検出、復元されています。
高根城 - 01
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高根城 - 02
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高根城 - 03
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高根城 - 04
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高根城 - 05
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高根城 - 06
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高根城 - 07
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高根城 - 08
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高根城 - 09
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高根城 - 10
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高根城 - 11
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高根城 - 12
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高根城 - 13
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高根城 - 14
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Posted at 2011/08/07 09:43:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年05月05日 イイね!

南信濃〜遠江、信玄上洛への夢紀行(1日目その1・遠山郷)

GWを利用して、武田信玄が上洛を目指した、信濃〜遠江をドライブしてみました。
まず、現在は飯田市になっているかつての南信濃村にあった遠山郷です。

武田信玄が顔を映したと伝えられている信玄滝です。元亀3(1573)年甲斐の雄、武田信玄は三河攻めを行う際、この地を訪れました。
豪快に水を壺に叩き落としている滝を見ていると轟音とともに繁吹が信玄の身を覆って、顔を洗おうとした時、水面は鏡のように澄み渡り信玄の顔がはっきり映りました。
信玄は大変驚き「霊感身を震わせた」と言い、さっそく家来に命じて不動明王を建立させ、滝の守り神としました。
その後三河攻めのおりに、腹心の家来が戦線祈願に訪れたとも言われ、この滝は信玄ゆかりの滝で護り神とした「滝不動明王」が祀られています。

信玄滝 - 01
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信玄滝 - 02
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信玄滝 - 03
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龍渕寺(りゅうえんじ)は「遠山氏」一族の墓をまつる菩提寺です。
大永元(1521)年5月遠山郷和田城主遠山遠江守景廣が親交のあった遠江城飼郡川村庄牛渕(現静岡県菊川市牛渕)極楽寺二世宗誉和尚を招請しましたが、老齢のため固辞され第2法子洞光和尚が尾の島に遠山氏の牌寺として創建しました。
遠山氏滅亡後、慶安4(1651)年に和田城跡に移されました。享保3(1718)年の震災、文化7(1810)年の火災に見舞われましたが、文化12(1815)年に書道が再建されました。
境内の老杉のもとに遠山氏一族の墓所があります。敷地内には名水「観音霊水」が湧き出ています。
龍淵寺 - 01
龍淵寺 - 01 posted by (C)pismo

龍淵寺 - 02
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龍淵寺 - 03
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龍淵寺 - 04
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龍淵寺 - 05
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龍淵寺 - 06
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龍淵寺 - 07
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龍淵寺 - 08
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和田城は遠山郷の領主遠山氏の居城です。
遠山景広は多年居住していた長山城からこの地に移り和田城を築城したのは天文19(1550)年頃のことでした。以来景直、景重と続きましたが元和3(1617)年に遠山氏は家督相続のもつれから家督不取締のかどにより改易となり徳川直轄領となったため武家諸法度の一国一城令により和田城は廃止されました。
その後慶安元(1648)年龍渕寺へ朱印地として下附され境内地となっていました。
現在は一角に遠山郷土館和田城が建設されています。
また、徳川家康と城主遠山土佐守景直の対面の銅像が建っています。
和田城 - 01
和田城 - 01 posted by (C)pismo

和田城 - 02
和田城 - 02 posted by (C)pismo

和田城 - 03
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和田城 - 04
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和田城 - 05
和田城 - 05 posted by (C)pismo

和田城 - 06
和田城 - 06 posted by (C)pismo

次は信玄が遠州をめざした兵越峠、青崩峠に向かいます。
Posted at 2011/08/06 22:16:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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