野口英世青春広場は、平成17(2005)年に完成した新しい広場です。奥に建つ野口英世像は、昭和32(1958)年、中央公民館前に建立されたものをへ野口英世青春広場の完成により現在地へ移転しました。
碑文には、英語で下記のように刻まれています。
(英文訳文)
博士野口英世―ロックフェラー医学研究所員
1876年 (明治9年) 11月9日 日本猪苗代に生る、
1928年 (明治3年) 8月21日アフリカ黄金海岸に死す。
科学と人生への献身の故に彼の生涯は 喜んで黄熱病の征服の斗いの為に捧げられた。
この銅像は、彼の親愛なる市民によって彼の偉大なる業績を記念し、かつ将来の若き世代の人々に彼の示範と激励とを要請すべく建立されたものである。 1957年
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興徳寺(こうとくじ)は、山号は瑞雲山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
弘安10(1287)年、蘆名氏第5代蘆名盛宗が鎌倉より大円禅師を招き開山したと伝えられています。
その後、蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が会津支配の仮館をおき、また豊臣秀吉が奥州仕置の御座所としました。
蒲生氏郷により城下町が整備され寺院が郭外に移された際も、その由緒と格式により唯一郭内に留まる事を許されました。
戊辰戦争により、堂宇(堂の建物)をことごとく焼失しました。
再建されたものの、昭和20(1945)年に神明通りが開通し、境内は縮小されてしまいました。
現在、寺内には、蒲生氏郷の五輪塔(墓)があり氏郷没後に子の蒲生秀行によって建立されたもので、病のため京都で亡くなった氏郷の遺髪がおさめられています。当時は御霊屋がありましたが、戊辰の兵火で焼失しました。
また、すぐ脇には氏郷の辞世の歌碑も残っています。会津史談会が昭和28(1953)年に氏郷公360年祭を記念して建てたものです。
「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風」
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蒲生氏郷は若松の町割りを行い、城下町を武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分け、郭内と郭外の間は深い濠と土塁、16の郭門によって仕切られました。
特にこの
甲賀口門は大手門として他の郭門より厳重な構えをとったとされています。
外濠は、明治4(1871)年に田畑にする条件で払い下げられ埋め立てられました。
甲賀町口の石垣はただ1つ残る郭門の一部です。
明治から昭和にかけて、城内にあった鐘撞堂が置かれていましたが、第二次世界大戦後城内に戻されました。
若松城跡は、昭和9(1934)年12月28日国指定史跡となりましたが、「甲賀町口門跡」は、天寧寺町土塁、三の丸堀跡と共に平成5(1993)年10月29日、追加指定を受けたものです。
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会津戊辰戦争終結の地です。
明治元(1868)年9月22日午前10時、1ヶ月の籠城戦に耐えた鶴ヶ城に、遂に降伏の白旗が揚げられ、会津戊辰戦争は終結しました。この日の正午、錦旗を擁した西軍の軍監・中村半次郎などを迎え、会津降伏式が行われました。式はここ甲賀町通りの路上で行われたのです。
式場には、薄緑という畳表に緑布を付けた物を敷き、その上に十五尺四方(約4.5m)の緋毛氈が敷かれました。
その上で、松平容保、喜徳公父子によって降伏の調印が成されました。それは天皇家に忠誠を尽くした会津が、逆賊の汚名を着せられての敗戦でした。
終了後、会津藩士達はこの日の無念を忘れぬ為に、その場に敷かれた緋毛氈を小片に切り刻み、おのおの懐中深く持ち帰ったと言われています。
後にその毛氈は「泣血氈」と呼ばれ、会津人の心の奥深く刻み込まれる事となりました。
明日よりは いづくの誰か ながむらん
なれし御城に 残す月影
開城前夜 山本八重子 詠(後に同志社大学創設者・新島襄の妻となる)
(現地説明板などより)
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大山捨松誕生の地です。
日本初の女子留学生としてアメリカに渡り、日米交流の先駆者となった大山捨松は、会津藩家老・山川尚江の五女としてここに生まれました。
8歳の時に戊辰戦争が起こり、鶴ヶ城での籠城戦を体験、そして敗戦、という逆境にもくじけることなく、捨松は明治4年、日本で初めての女子留学生となります。
時に12歳、津田梅子らとともに渡米し ヴァッサー・カレッジなどで学びました。アメリカ滞在は11年にも及び、優秀な成績で卒業、捨松の卒業演説は新聞にも掲載されたほど有名です。
帰国後は、薩摩出身の陸軍卿大山厳と結婚します。時あたかも欧化主義の時代で、鹿鳴館では毎夜のように饗宴が開かれ、西洋の習慣や文化を身につけた捨松は「鹿鳴館の華」とうたわれ社交界で注目を集めます。しかし、実際の捨松は日本の伝統的な文化や風土を心から愛し、さらにアメリカ文化の最善なものを日本に取り入れようと熱心に取り組んだのです。また、女子英学校(のちの津田塾大学)を創設した津田梅子を助け、婦女教育に力を注ぐと共に 日赤の仕事にも熱心に取り組み、積極的に社会運動に参加したのです。
会津藩家老から陸軍少将になった山川浩、東京帝大総長を務めた山川健次郎は捨松の兄です。
(現地説明板などより)
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萱野権兵衛屋敷跡です。
萱野権兵衛は、名は長修、戊辰戦争の際の会津藩国家老で、一刀流溝口派の奥義を極めた剣豪でした。
萱野家は会津藩の侍大将を務める名家であり、父の長裕は家老に取り立てられました。
会津藩敗戦後は、その首謀者として戦争責任を一身に背負い、城の明け渡し、藩主父子の助命嘆願などに奔走し、明治2(1869)年戦争責任を負って切腹しました。
切腹前に最後の膳の箸を使い、会津藩士に一刀流の秘儀を伝えたといわれています。利を求めずに一心に義に生きた典型的な会津武士といわれています。
郡長正は萱野権兵衛の次男です。成績優秀で戊辰戦争後、九州小笠原藩に留学しました。ある日 長正は母親に食物がまずいと嘆き、会津の柿が食べたいとホームシックの心境を綴りました。その態度を厳しく諫めた母からの手紙を運悪く同級生に見られ嘲笑を浴びてしまったのです。後日、藩対抗の剣道試合に出場した長正は見事完勝、しかし試合後に屈辱を晴らすため切腹したのです。時に16歳、恥を知り誇りを忘れぬ会津武士の子でした。
現在、跡地は会津若松市の埋蔵文化財管理センターとなっています。
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柴四朗・柴五郎生誕の地です。
柴四朗は、日新館に学び戊辰戦争に参戦しました。ハーバード、ペンシルバニア両大学で政治学と経済学を修めます。明治18(1885)年、東海散士のペンネームで「佳人之奇遇」を著しベストセラーとなります。一方、ジャーナリスト、政治家として活躍しました。代議士当選8回、大隈・板垣内閣では農商務次官、外務参事官に就任、大正4(1915)年には外務参政官をつとめ活躍しました。
柴五郎は柴四朗の弟で、日清・日露戦争でも活躍し福島県初の陸軍大将となりました。戊辰戦争では母、妹が自刃し、五郎はわずか8歳で下北の斗南藩に流され草や木の根まで食べるような苦しみを味わいます。軍人として最高位まで昇りつめた五郎がその不屈の生涯を自ら描いた「ある明治人の記録」は、明治に生きた日本人、会津の人々の心を知る記録として今も永遠のベストセラーとなっています。
現在、生誕の地はつばくろ公園となっています。
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そして、
会津若松城(鶴ヶ城)のライトアップです。赤瓦に葺き替えられていますが、雪と夜では少しわかりにくいですね。
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直江兼続屋敷跡・山鹿素行生誕地です。
この場所は城にも近く、さらに往時の主要な道路である「本一之丁」と「大町通り」が交差する場所であるため、蒲生氏郷による町割以後この地には重臣のひときわ大きな屋敷が置かれました。
慶長3(1598)年に越後から会津120万石の城主として移ってきた上杉景勝は、上杉家の筆頭家臣である直江兼続の屋敷にと、ここの場所を与えました。
兼続は、さまざまな武将たちと親交があり、また景勝からも厚い信頼を受け、米沢領(約6万石)の支配を任されていました。 さらに慶長5(1600)年には、景勝が神指原に新城を築こうとした際、兼続が普請奉行としてその指揮にあたりました。しかし、同年秋の関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利すると、上杉家は敵側として米沢30万石へ減封され、兼続もこれに従いました。
また、後に江戸時代の代表的兵学者、山鹿素行が生まれた場所でもあります。
山鹿流兵学を教え、いわゆる赤穂四十七士の生みの親ともなったことは余りにも有名で、元和8(1622)年8月16日、このち町野左近の邸内に生まれました。
時の会津藩主は蒲生忠郷(氏郷の孫)であり、この辺一帯は武家屋敷がたくさん並んでいたところです。
素行は通称を甚五左ヱ門といい、父貞以が伊勢亀山から会津に来た年に生まれたといわれます。
6歳の時、父に従って江戸に出て、9歳で林羅山の門に入り儒学・国学・神道・兵学の奥義をきわめ、特に兵学においては山鹿流の一派をなすに至り、その名声は天下にとどろきました。
なお、現在の碑は「山鹿素行誕生地 大正15年春 元帥伯爵東郷平八郎書」と雄渾な文字が刻まれており、大正15(1926)年4月、東郷平八郎の書によって建立されたものです。
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日新館天文台跡です。天文台は、会津の藩校日新館天文方の天文観測の場として設けられたものです。
日新館は、5代藩主松平容頌公のとき、寛政11(1799)年4月より5年を費して、享和3(1803)年に完成しました。
天文台は、つねに星の観測をするところでしたが、特に、毎年、冬至の日には、学校奉行・天文方の師範・暦家が集まり、晴雨・考暦を編したところで、重要な施設の一つでした。観台は、当時の規模の半分となりましたが、藩校日新館の施設の中では、唯一の保存されているものです。(現地説明板より)
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山本覚馬・新島八重生誕の地です。
会津藩士・山本覚馬 (1828~1892) は、砲術師範で日新館教授です。
文久2(1862)年、藩主の京都守護職就任に伴い、京都に転住し、鳥羽・伏見の戦いで囚われますが、その識見を買われて、維新後に京都府顧問となり、京都の近代化に貢献しました。
明治8(1875)年、新島襄と同志社英学校 (現同志社大学)を創立しました。
覚馬の妹・八重(1845~1932)は、砲術が得意で、白虎隊員指導の一方で、戊辰戦争では自ら鶴ヶ城に籠城しました。
城明け前夜、城壁に「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」とかんざしで刻みました。
明治4(1871)年、兄を頼って京都に転じ、明治9(1876)年に新島襄と結婚しました。同志社女学校(現同志社女子大学の前身)の舎監を務めました。
兄同様に、京都でキリスト教に入信しました。共に洛東・若王子の同志社墓地に眠ります。
生誕地碑は、宮崎家のご支援を得て建立し、平成元(1989)年5月30日に除幕しました。(現地説明板より)
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日新館跡です。
日新館は江戸時代、全国300諸藩の中でも随一との評判の藩校でした。
寛政11(1799)年、家老田中玄宰(はるなか)の尽力により日新館が着工しました。
享和3(1803)年、鶴ヶ城の西隣7千余坪の敷地に、1千人もの生徒が集う学問の殿堂が、5年の歳月を費やして完成しました。
「書経」の「日日新而又日新」と、「易経」の「日新之謂盛徳」から名付けられました。
日新館は日本三大藩校に数えられ、優秀な人物を輩出しました。のちに白虎隊士らも学びました。
慶応4(1868)年、戊辰戦争により校舎は焼失しました
日新館を設立した田中玄宰は、代々会津藩の家老を務めた田中家の出です。玄宰は寛政時代、財政逼迫にあえいでいた会津藩を見事な改革案で立て直したことで有名です。
会津藩は天明2(1872)年〜3(1873)年に大変な冷害を受けました。特に天明3(1873)年は餓死者も出るほどの大飢饉となり、藩も膨大な赤字を抱えました。
儒学を学び、34歳で家老となった田中玄宰はこの時、藩主松平容頌に藩政の抜本的改革を願い出ますが、許されず一度は職を辞します。しかし、天明5(1875)年に再び家老に任命され、天明7(1877)年にもう一度藩主に改革案を提出し、認められ有名な「寛政の改革」が実施されます。玄宰がすすめた殖産興業や軍制、学制改革は、多方面で大きな成果を上げます。特にその功に挙げられるのが藩校日新館の創設です。玄宰の改革が、文武と共に天下の雄藩と呼ばれる礎をつくったのです。
「我が骨は城と日新館の見えるところに埋めよ」という遺言に従い、小田山山頂に墓があります。
(説明看板などより)
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この日の史跡めぐりはここまでです。