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ピズモのブログ一覧

2012年12月29日 イイね!

越後・会津・信濃紀行(2日目その3・恵倫寺、建福寺、善龍寺)

恵倫寺(えりんじ)は、山号は金剛山、曹洞宗の寺院です。
天正18(1590)年蒲生氏郷が父賢秀の菩提を弔うために建立しました。
尊敬する下総国結城郡安穏寺の高僧、曹月存靏を迎えて開山しました。
当時は鶴ヶ城の西の米代にありましたが、慶長17(1612)年、現在の小田山麓に移転されました。会津領の僧録寺として天寧寺、善龍寺とともに各寺院を管轄しました。
戊辰戦争の戦火にあい山門、鐘楼など七堂伽藍が消失しました。大正8(1919)年、本堂が再建され、昭和30年代以降、位牌堂と開山堂の併設、庫裏や会館の建立、無縁仏整理や境内墓地の整理が進み、平成10(1998)年に山門が完成しました。
境内には蒲生賢秀の墓、柴四朗、五郎はじめ柴家の墓があります。
恵倫寺 - 1
恵倫寺 - 1 posted by (C)pismo

恵倫寺 - 2
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恵倫寺 - 3
恵倫寺 - 3 posted by (C)pismo

建福寺は、山号は大宝山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
元々は信濃高遠にありましたが、保科正之が最上、会津に転封となった時移転しました。
高遠にも建福寺は残り、武田勝頼の母諏訪御料人の墓があります。
寛永20(1643)年、保科正之に従った鉄舟和尚により開山され、延宝8(1680)年に現在の地に堂塔伽藍を建立しました。
貞享2(1685)年、3代藩主松平正容は、江戸芝東禅寺の黙水和尚を迎えました。
士族寺として隆盛をきわめましたが、戊辰の戦火により、堂塔伽藍は焼失しました。
明治3(1870)年再建されましたが、寺域はかなり縮小されました。
少し離れた山側の墓地には長岡藩家老河井継之助の遺骨を最初に埋骨したところがあります。
あまりに雪が深かったため、お参りすることができなかったのが残念です。
建福寺 - 1
建福寺 - 1 posted by (C)pismo

建福寺 - 2
建福寺 - 2 posted by (C)pismo

善龍寺は山号は祥雲山、曹洞宗の寺院です。
寛永20(1643)年、曹洞一派の泉海という僧侶が会津藩祖保科正之の会津入部にともない市内花畑に建立しました。
その後寛文7(1667)年、現在の地に移りました。保科家の祖保科筑前守正則の霊を守る保科家の菩提所として発展しました。
戊辰戦争の際、本堂は焼けてしまいましたが、寛政9(1797)年に建造されたといわれる山門は戦火をまぬがれ、今もなお当時の面影を残しています。この山門は、竜宮門あるいは竜宮造と呼ばれる珍しい様式で、この地方ではほとんど例を見ない山門です。
奥にある墓地には西郷頼母夫妻の墓や西郷邸で自決した「二十一人の墓」があります。会津の人々に深く信仰されていたお寺。その境内には、会津藩家老・西郷頼母や妻・千重子、頼母の母など西郷一族21人を祀った「二十一人の墓」や会津戦争で戦死した会津藩士の遺体の埋葬に尽力した伴百悦の墓、明治期の外交官・赤羽四郎の墓など、多くの会津藩士のお墓があります。
その他、「なよ竹の碑」が有名です。家老西郷頼母の妻千重子のか弱い婦女子の心を曲がらぬ竹の節になぞらえ、会津女子の精神の強さを歌い上げた辞世の句「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」というから名づけられたもので、戊辰戦争終結から60年目に当たる昭和3(1928)年、「なよ竹の碑」として善龍寺に建立されました。碑の裏には戊辰戦争で散った233名の会津藩の婦人名が刻まれています。 毎年5月1日に奈与竹墓前祭がおこなわれます。
善龍寺 - 01
善龍寺 - 01 posted by (C)pismo

善龍寺 - 02
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善龍寺 - 03
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Posted at 2013/02/01 22:18:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年12月29日 イイね!

越後・会津・信濃紀行(2日目その2・会津藩主松平家墓所〔院内御廟〕、天寧寺)

会津藩主松平家墓所とは、会津松平家初代・保科正之が眠る猪苗代町見禰山の「土津神社」と会津若松市の「院内御廟」2カ所の総称で、昭和62(1987)年に国の史跡に指定をされています。
「院内御廟」は明暦3(1657)年、正之の長男・正頼が亡くなった時に、墓をこの場所に定めたのが最初で、以後、保科家(松平家)の墓所に定められたといわれています。
2代正経は仏教で、3代正容から9代・容保まで神道で葬られており、他に家族や子孫の墓があります。神道の墓所は、碑石、表石、鎭石の3体からなっています。
西之御庭、中之御庭には各代藩主の夫人、側室、子女が葬られており、正之の嗣子正頼の墓もあります。
会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 01
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 02
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 03
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 04
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 05
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 06
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 07
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 08
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 09
会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 09 posted by (C)pismo

天寧寺は、山号は萬松山、曹洞宗の寺院です。
応永28(1422)年、会津にきた傑堂禅師が11代蘆名盛信の建立により創建されました。
かつては会津曹洞宗の僧録司で、末寺33カ寺、12の寺院をかぞえました。
蘆名氏は、天正17(1589)年の摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ、天寧寺も焼失しました。蘆名氏の菩提寺としての面影は、本堂の礎石にわずかに残るのみです。 
天寧寺の裏手の墓地には新選組の近藤勇の墓があります。土方歳三が遺髪もしくは首を持っていて会津での戦いの際、ここに仮埋葬したといいます。
墓石には貫天院殿純忠誠義大居士の法号と、その上に丸に三つ引の近藤家の家紋が彫られています。4月25日の命日には、墓前祭りが開催されます。隣には土方歳三慰霊碑が後世建てられました。
また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2(1869)年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もあります。会津萱野家の始祖は萱野権兵衛長則と称し、加藤嘉明の上級家臣として国替えにより会津に移りましたが、嘉明の嫡子明成が石見に減封された後、会津藩主として高遠藩から最上を経て入府した保科正之に召しかかえられました。長則は寛文6(1666)年没し、ここ天寧寺に葬られ、代々天寧寺が萱野家の菩提寺となりました。
郡長正は戊辰戦争後の明治3(1870)年、会津の教学復興のために選ばれた藩内の少年7名の一人として現福岡県豊津町の小笠原藩藩校育徳館に留学しました。
郡長正は最年少ながら文武ともに秀でていましたが、郷愁を覚え母へ手紙を書きました。しかし、後に届いた母からの戒めの手紙を落とし、小笠原藩士に大衆の面前で罵られ、会津武士道を汚したとして明治4(1871)年5月1日、異郷の地において切腹しました。時に16歳でした。
小笠原藩は郡長正の死を悼み、会津の方角に向けて墓をたて、その霊を弔いました。
境内には会津藩の家老田中家の墓や、会津士魂の碑、小説「会津士魂」の作者、早乙女貢氏の墓もあります。
天寧寺 - 01
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天寧寺 - 02
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天寧寺 - 03
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天寧寺 - 04
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天寧寺・近藤勇の墓 - 05
天寧寺・近藤勇の墓 - 05 posted by (C)pismo

天寧寺・近藤勇の墓、土方歳三の供養碑 - 06
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天寧寺・会津士魂の碑 - 07
天寧寺・会津士魂の碑 - 07 posted by (C)pismo

天寧寺・郡長正の墓 - 08
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天寧寺・萱野権兵衛の墓 - 09
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Posted at 2013/01/21 22:57:46 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年12月29日 イイね!

越後・会津・信濃紀行(2日目その1・秀長寺、長岡藩士殉節の碑、光明寺)

秀長寺は、山号は龍雲山、曹洞宗の寺院です。
永正2年(1505)10月下旬、塩川において葦名盛高・盛滋父子の確執による合戦があり、富田志摩守秀長という家臣が戦死したため、天文6(1537)年その子の右馬允時長が、亡父の菩提を弔うべく水月庵という草庵を建てたのが始まりです。
慶長10(1605)年、焼失した猪苗代の隣松院から来て水月庵に仮寓していた伝廓禅師のために、当時猪苗代城主であった町野左近が領主蒲生秀行の許しを得て水月庵の地に寺地を加えて一宇を建立しました。これが現在の秀長寺で、寺名は左近の父である備前守秀長の法号「龍雲院殿花陽秀長大居士」にちなんで付けられました。
戊辰戦争の際、佐川官兵衛はこの寺と隣の住吉神社に兵を伏せておき、新政府軍相手に奇襲を仕掛けました。奇襲は成功をおさめ、ここで確保した補給線が、この後の籠城戦に大きく影響したと言われています。
この戦いは会津城下の戦いにおいて、会津藩が唯一新政府軍に勝利した戦いでした。
境内には「秀長寺古戦場碑」「戦没者の供養塔」「佐川官兵衛の歌碑」が、3つ並んで立っています。
秀長寺 - 1
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秀長寺 - 2
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秀長寺 - 3
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秀長寺 - 4
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長岡藩士殉節の碑です。
戊辰戦争時、長岡城落城後、長岡藩藩士山本帯刀を隊長とする44名はは八十里峠の難関を越えて会津に入り奮戦しました。
しかし早朝の濃霧の中飯寺河原で新政府軍に包囲され、隊長以下44名が戦死しました。
明治23(1890)年村民が供養の碑を建てて霊を弔いましたが、その後昭和31(1956)年会津史談会が新たに殉節の碑を建てて供養しました。
昭和34(1959)年9月長岡藩士弔霊会が設立され、昭和38(1963)年8月長岡藩士殉節顕彰会と改名し、毎年法要が営まれています。
長岡藩士殉節の碑のある墓地を管理しているのは本光寺です。
本光寺は来迎山と号する天台宗の寺院で、天平12(740)年開基、開山は行基菩薩と伝えられています。
場所は本光寺から少し離れた場所にあります。
長岡藩士殉節の碑 - 1
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長岡藩士殉節の碑 - 2
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長岡藩士殉節の碑 - 3
長岡藩士殉節の碑 - 3 posted by (C)pismo

光明寺は天台宗の寺院です。
慶応4(1868)年、戊辰戦争の際に鶴ヶ城の南側に位置する一ノ堰は、城への食料補給路の確保をめぐって会津藩軍と新政府軍による激しい戦闘が繰り広げられた場所で、小田山、青木、御山、堤沢、面川、雨屋、新村、中野、井出、徳久、羽黒等当時の門田村全域が戦場と化していました。
旧暦9月15日、17日の2回にわたる激戦がこの一ノ堰の地で繰り広げられ、多くの戦死者を出しました。
しかし、東軍(会津軍)の兵士の遺体は、そのまま放置されていました。会津兵の遺体は埋葬されることが禁じられ、現在の供養碑は明治2(1869)年になってから、戦死した会津兵の遺体を収容し、光明寺境内に埋葬されました。
一ノ堰で戦死した会津兵は67人とされていますが、ここ一ノ堰に埋葬されたのは48人で、残りの19人の埋葬先は未だに不明です。
本堂の前に戦死者の墓碑が建っています。一之瀬要人は会津藩家老で千三百石取。戊辰戦争では越後方面の総督となり、各地に転戦し、22日に死亡しました。会津藩家老では唯一の戦死者で享年37歳でした。
山本権八は、山本覚馬、山本(新島)八重の父で玄武隊に参加しており、9月17日一ノ堰で戦死しました。享年61歳でした。
有賀久左衛門は玄武隊に参加、9月17日一ノ堰で戦死しました。享年56歳でした。
田原重義は田原四郎の父で玄武隊伊与田隊に参加し、9月17日一ノ堰で戦死しました。享年44歳でした。
(説明看板などより)
光明寺 - 1
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光明寺 - 2
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光明寺 - 3
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Posted at 2013/01/18 22:53:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年12月28日 イイね!

越後・会津・信濃紀行(1日目その5・会津若松城のライトアップと夜の会津若松史跡めぐり)

野口英世青春広場は、平成17(2005)年に完成した新しい広場です。奥に建つ野口英世像は、昭和32(1958)年、中央公民館前に建立されたものをへ野口英世青春広場の完成により現在地へ移転しました。
碑文には、英語で下記のように刻まれています。
(英文訳文)
博士野口英世―ロックフェラー医学研究所員
1876年 (明治9年) 11月9日 日本猪苗代に生る、
1928年 (明治3年) 8月21日アフリカ黄金海岸に死す。
科学と人生への献身の故に彼の生涯は 喜んで黄熱病の征服の斗いの為に捧げられた。
この銅像は、彼の親愛なる市民によって彼の偉大なる業績を記念し、かつ将来の若き世代の人々に彼の示範と激励とを要請すべく建立されたものである。 1957年
野口英世青春広場・野口英世博士銅像 - 1
野口英世青春広場・野口英世博士銅像 - 1 posted by (C)pismo

野口英世青春広場・野口英世博士銅像 - 2
野口英世青春広場・野口英世博士銅像 - 2 posted by (C)pismo

興徳寺(こうとくじ)は、山号は瑞雲山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
弘安10(1287)年、蘆名氏第5代蘆名盛宗が鎌倉より大円禅師を招き開山したと伝えられています。
その後、蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が会津支配の仮館をおき、また豊臣秀吉が奥州仕置の御座所としました。
蒲生氏郷により城下町が整備され寺院が郭外に移された際も、その由緒と格式により唯一郭内に留まる事を許されました。
戊辰戦争により、堂宇(堂の建物)をことごとく焼失しました。
再建されたものの、昭和20(1945)年に神明通りが開通し、境内は縮小されてしまいました。
現在、寺内には、蒲生氏郷の五輪塔(墓)があり氏郷没後に子の蒲生秀行によって建立されたもので、病のため京都で亡くなった氏郷の遺髪がおさめられています。当時は御霊屋がありましたが、戊辰の兵火で焼失しました。
また、すぐ脇には氏郷の辞世の歌碑も残っています。会津史談会が昭和28(1953)年に氏郷公360年祭を記念して建てたものです。
「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風」
興徳寺 - 01
興徳寺 - 01 posted by (C)pismo

興徳寺 - 02
興徳寺 - 02 posted by (C)pismo

興徳寺 - 03
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興徳寺 - 04
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興徳寺 - 05
興徳寺 - 05 posted by (C)pismo


蒲生氏郷は若松の町割りを行い、城下町を武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分け、郭内と郭外の間は深い濠と土塁、16の郭門によって仕切られました。
特にこの甲賀口門は大手門として他の郭門より厳重な構えをとったとされています。
外濠は、明治4(1871)年に田畑にする条件で払い下げられ埋め立てられました。
甲賀町口の石垣はただ1つ残る郭門の一部です。
明治から昭和にかけて、城内にあった鐘撞堂が置かれていましたが、第二次世界大戦後城内に戻されました。
若松城跡は、昭和9(1934)年12月28日国指定史跡となりましたが、「甲賀町口門跡」は、天寧寺町土塁、三の丸堀跡と共に平成5(1993)年10月29日、追加指定を受けたものです。
会津若松城甲賀口門跡 - 1
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会津若松城甲賀口門跡 - 2
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会津若松城甲賀口門跡 - 3
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会津戊辰戦争終結の地です。
明治元(1868)年9月22日午前10時、1ヶ月の籠城戦に耐えた鶴ヶ城に、遂に降伏の白旗が揚げられ、会津戊辰戦争は終結しました。この日の正午、錦旗を擁した西軍の軍監・中村半次郎などを迎え、会津降伏式が行われました。式はここ甲賀町通りの路上で行われたのです。
式場には、薄緑という畳表に緑布を付けた物を敷き、その上に十五尺四方(約4.5m)の緋毛氈が敷かれました。
その上で、松平容保、喜徳公父子によって降伏の調印が成されました。それは天皇家に忠誠を尽くした会津が、逆賊の汚名を着せられての敗戦でした。
終了後、会津藩士達はこの日の無念を忘れぬ為に、その場に敷かれた緋毛氈を小片に切り刻み、おのおの懐中深く持ち帰ったと言われています。
後にその毛氈は「泣血氈」と呼ばれ、会津人の心の奥深く刻み込まれる事となりました。
明日よりは いづくの誰か ながむらん
     なれし御城に 残す月影
 開城前夜 山本八重子 詠(後に同志社大学創設者・新島襄の妻となる)
(現地説明板などより)
会津戊辰戦争終結の地
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大山捨松誕生の地です。
日本初の女子留学生としてアメリカに渡り、日米交流の先駆者となった大山捨松は、会津藩家老・山川尚江の五女としてここに生まれました。
8歳の時に戊辰戦争が起こり、鶴ヶ城での籠城戦を体験、そして敗戦、という逆境にもくじけることなく、捨松は明治4年、日本で初めての女子留学生となります。
時に12歳、津田梅子らとともに渡米し ヴァッサー・カレッジなどで学びました。アメリカ滞在は11年にも及び、優秀な成績で卒業、捨松の卒業演説は新聞にも掲載されたほど有名です。
帰国後は、薩摩出身の陸軍卿大山厳と結婚します。時あたかも欧化主義の時代で、鹿鳴館では毎夜のように饗宴が開かれ、西洋の習慣や文化を身につけた捨松は「鹿鳴館の華」とうたわれ社交界で注目を集めます。しかし、実際の捨松は日本の伝統的な文化や風土を心から愛し、さらにアメリカ文化の最善なものを日本に取り入れようと熱心に取り組んだのです。また、女子英学校(のちの津田塾大学)を創設した津田梅子を助け、婦女教育に力を注ぐと共に 日赤の仕事にも熱心に取り組み、積極的に社会運動に参加したのです。
会津藩家老から陸軍少将になった山川浩、東京帝大総長を務めた山川健次郎は捨松の兄です。
(現地説明板などより)
大山捨松生誕地 - 1
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萱野権兵衛屋敷跡です。
萱野権兵衛は、名は長修、戊辰戦争の際の会津藩国家老で、一刀流溝口派の奥義を極めた剣豪でした。
萱野家は会津藩の侍大将を務める名家であり、父の長裕は家老に取り立てられました。
会津藩敗戦後は、その首謀者として戦争責任を一身に背負い、城の明け渡し、藩主父子の助命嘆願などに奔走し、明治2(1869)年戦争責任を負って切腹しました。
切腹前に最後の膳の箸を使い、会津藩士に一刀流の秘儀を伝えたといわれています。利を求めずに一心に義に生きた典型的な会津武士といわれています。
郡長正は萱野権兵衛の次男です。成績優秀で戊辰戦争後、九州小笠原藩に留学しました。ある日 長正は母親に食物がまずいと嘆き、会津の柿が食べたいとホームシックの心境を綴りました。その態度を厳しく諫めた母からの手紙を運悪く同級生に見られ嘲笑を浴びてしまったのです。後日、藩対抗の剣道試合に出場した長正は見事完勝、しかし試合後に屈辱を晴らすため切腹したのです。時に16歳、恥を知り誇りを忘れぬ会津武士の子でした。
現在、跡地は会津若松市の埋蔵文化財管理センターとなっています。
萱野権兵衛屋敷跡
萱野権兵衛屋敷跡 posted by (C)pismo

柴四朗・柴五郎生誕の地です。
柴四朗は、日新館に学び戊辰戦争に参戦しました。ハーバード、ペンシルバニア両大学で政治学と経済学を修めます。明治18(1885)年、東海散士のペンネームで「佳人之奇遇」を著しベストセラーとなります。一方、ジャーナリスト、政治家として活躍しました。代議士当選8回、大隈・板垣内閣では農商務次官、外務参事官に就任、大正4(1915)年には外務参政官をつとめ活躍しました。
柴五郎は柴四朗の弟で、日清・日露戦争でも活躍し福島県初の陸軍大将となりました。戊辰戦争では母、妹が自刃し、五郎はわずか8歳で下北の斗南藩に流され草や木の根まで食べるような苦しみを味わいます。軍人として最高位まで昇りつめた五郎がその不屈の生涯を自ら描いた「ある明治人の記録」は、明治に生きた日本人、会津の人々の心を知る記録として今も永遠のベストセラーとなっています。
現在、生誕の地はつばくろ公園となっています。
柴四朗・五郎生誕の地 - 1
柴四朗・五郎生誕の地 - 1 posted by (C)pismo

そして、会津若松城(鶴ヶ城)のライトアップです。赤瓦に葺き替えられていますが、雪と夜では少しわかりにくいですね。
鶴ヶ城 - 01
鶴ヶ城 - 01 posted by (C)pismo

鶴ヶ城 - 02
鶴ヶ城 - 02 posted by (C)pismo

鶴ヶ城 - 03
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鶴ヶ城 - 04
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鶴ヶ城 - 05
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鶴ヶ城 - 06
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鶴ヶ城 - 07
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鶴ヶ城 - 08
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鶴ヶ城 - 09
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鶴ヶ城 - 10
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鶴ヶ城 - 11
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鶴ヶ城 - 12
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鶴ヶ城 - 13
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直江兼続屋敷跡・山鹿素行生誕地です。
この場所は城にも近く、さらに往時の主要な道路である「本一之丁」と「大町通り」が交差する場所であるため、蒲生氏郷による町割以後この地には重臣のひときわ大きな屋敷が置かれました。
慶長3(1598)年に越後から会津120万石の城主として移ってきた上杉景勝は、上杉家の筆頭家臣である直江兼続の屋敷にと、ここの場所を与えました。
兼続は、さまざまな武将たちと親交があり、また景勝からも厚い信頼を受け、米沢領(約6万石)の支配を任されていました。 さらに慶長5(1600)年には、景勝が神指原に新城を築こうとした際、兼続が普請奉行としてその指揮にあたりました。しかし、同年秋の関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利すると、上杉家は敵側として米沢30万石へ減封され、兼続もこれに従いました。
また、後に江戸時代の代表的兵学者、山鹿素行が生まれた場所でもあります。
山鹿流兵学を教え、いわゆる赤穂四十七士の生みの親ともなったことは余りにも有名で、元和8(1622)年8月16日、このち町野左近の邸内に生まれました。
時の会津藩主は蒲生忠郷(氏郷の孫)であり、この辺一帯は武家屋敷がたくさん並んでいたところです。
素行は通称を甚五左ヱ門といい、父貞以が伊勢亀山から会津に来た年に生まれたといわれます。
6歳の時、父に従って江戸に出て、9歳で林羅山の門に入り儒学・国学・神道・兵学の奥義をきわめ、特に兵学においては山鹿流の一派をなすに至り、その名声は天下にとどろきました。
なお、現在の碑は「山鹿素行誕生地 大正15年春 元帥伯爵東郷平八郎書」と雄渾な文字が刻まれており、大正15(1926)年4月、東郷平八郎の書によって建立されたものです。
直江兼続屋敷跡・山鹿素行生誕地 - 1
直江兼続屋敷跡・山鹿素行生誕地 - 1 posted by (C)pismo

直江兼続屋敷跡・山鹿素行生誕地 - 2
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直江兼続屋敷跡・山鹿素行生誕地 - 3
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日新館天文台跡です。天文台は、会津の藩校日新館天文方の天文観測の場として設けられたものです。
日新館は、5代藩主松平容頌公のとき、寛政11(1799)年4月より5年を費して、享和3(1803)年に完成しました。
天文台は、つねに星の観測をするところでしたが、特に、毎年、冬至の日には、学校奉行・天文方の師範・暦家が集まり、晴雨・考暦を編したところで、重要な施設の一つでした。観台は、当時の規模の半分となりましたが、藩校日新館の施設の中では、唯一の保存されているものです。(現地説明板より)
日新館天文台跡 - 1
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山本覚馬・新島八重生誕の地です。
会津藩士・山本覚馬 (1828~1892) は、砲術師範で日新館教授です。
文久2(1862)年、藩主の京都守護職就任に伴い、京都に転住し、鳥羽・伏見の戦いで囚われますが、その識見を買われて、維新後に京都府顧問となり、京都の近代化に貢献しました。
明治8(1875)年、新島襄と同志社英学校 (現同志社大学)を創立しました。
覚馬の妹・八重(1845~1932)は、砲術が得意で、白虎隊員指導の一方で、戊辰戦争では自ら鶴ヶ城に籠城しました。
城明け前夜、城壁に「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」とかんざしで刻みました。
明治4(1871)年、兄を頼って京都に転じ、明治9(1876)年に新島襄と結婚しました。同志社女学校(現同志社女子大学の前身)の舎監を務めました。
兄同様に、京都でキリスト教に入信しました。共に洛東・若王子の同志社墓地に眠ります。
生誕地碑は、宮崎家のご支援を得て建立し、平成元(1989)年5月30日に除幕しました。(現地説明板より)
山本覚馬・新島八重生誕の地 - 1
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日新館跡です。
日新館は江戸時代、全国300諸藩の中でも随一との評判の藩校でした。
寛政11(1799)年、家老田中玄宰(はるなか)の尽力により日新館が着工しました。
享和3(1803)年、鶴ヶ城の西隣7千余坪の敷地に、1千人もの生徒が集う学問の殿堂が、5年の歳月を費やして完成しました。
「書経」の「日日新而又日新」と、「易経」の「日新之謂盛徳」から名付けられました。
日新館は日本三大藩校に数えられ、優秀な人物を輩出しました。のちに白虎隊士らも学びました。
慶応4(1868)年、戊辰戦争により校舎は焼失しました
日新館を設立した田中玄宰は、代々会津藩の家老を務めた田中家の出です。玄宰は寛政時代、財政逼迫にあえいでいた会津藩を見事な改革案で立て直したことで有名です。
会津藩は天明2(1872)年〜3(1873)年に大変な冷害を受けました。特に天明3(1873)年は餓死者も出るほどの大飢饉となり、藩も膨大な赤字を抱えました。
儒学を学び、34歳で家老となった田中玄宰はこの時、藩主松平容頌に藩政の抜本的改革を願い出ますが、許されず一度は職を辞します。しかし、天明5(1875)年に再び家老に任命され、天明7(1877)年にもう一度藩主に改革案を提出し、認められ有名な「寛政の改革」が実施されます。玄宰がすすめた殖産興業や軍制、学制改革は、多方面で大きな成果を上げます。特にその功に挙げられるのが藩校日新館の創設です。玄宰の改革が、文武と共に天下の雄藩と呼ばれる礎をつくったのです。
「我が骨は城と日新館の見えるところに埋めよ」という遺言に従い、小田山山頂に墓があります。
(説明看板などより)
日新館跡 - 1
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この日の史跡めぐりはここまでです。
Posted at 2013/01/11 21:19:01 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年12月28日 イイね!

越後・会津・信濃紀行(1日目その4・会津若松市七日町付近の史跡)

阿弥陀寺は山号は正覚山、浄土宗の寺院です。
慶長8(1603)年、鶴ヶ城主が蒲生秀行の時代に下野国出身の良然和尚が開山しました。
明治元(1868)年の戊辰戦争の後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌明治2(1869)年2月のことでした。
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には1300柱にものぼる遺骸が埋葬されました。
春・秋の彼岸には手厚い供養会が行なわれています。
現在の阿弥陀寺本堂は旧鶴ヶ城の御三階が移築されたもので、玄関は同大書院玄関を移したものです。
御三階は藩政時代、藩公の密議また月見などされた所です。
境内にかつて青銅1丈3尺の大仏があったが、太平洋戦争中供出し台座のみ残っています。
正面の拝礼殿には明治戊辰戦争役会津藩殉難者の霊及び家老萱野権兵衛の木造を安置しています。萱野権兵衛(1500石)は戊辰の役諸処に転戦しましたが、会津藩抗戦の責任を負い明治2(1869)年5月18日江戸保科邸にて割腹自刃しました。享年42歳でした。
後に西南役の戦死者・佐川官兵衛他68名を合祀しました。官兵衛は戊辰戦争の際鬼佐川と呼ばれた勇将で、明治10(1877)年の西南役山地元治将軍の麾下にあって戦死し、其子直諒は日露の役遼陽に戦死しました。
また、境内には斎藤一(藤田五郎)の墓があります。
斎藤一は、天保15(1844)年御家人の父・山口祐助、母マスとの間に生まれ、初名を山口一、のち斎藤一に改めました。
文久3(1863)年壬生浪士組のちの新選組に参加し、副長助勤、三番隊隊長として活躍、沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で剣術師範も務めた。池田屋事件にも参戦しました。その後、伊東甲子太郎らが、御陵衛士を拝命し、新選組から分離した時、伊東に同調して離脱、しかし局長の近藤勇の密命によるものといわれ、油小路で伊東らが暗殺された後、新撰組に復帰し山口二郎と改名しました。
鳥羽伏見の戦い等を経て、会津若松城下に入り負傷した土方歳三に代わって新選組隊長となり、会津戊辰戦争を戦いました。しかし西軍が城下に迫った時「会津侯(松平容保)あっての新撰組、会津を見捨てることは出来ない」と隊士十余名と会津に残り仙台へ向かった土方と別れました。
会津藩降伏後は一瀬伝八と名乗り越後高田に幽閉されました。明治3(1870)年斗南へ移る際藤田五郎と改名しました。
その後上京し警視庁に入り、容保の媒酌により会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚しました。警視庁においては西南戦争へ出陣するなど活躍し、後に東京教育博物館等へ奉職し、大正4(1915)年72歳で逝去しました。
後半生を会津人として生きた本人の希望により、ここ阿弥陀寺に眠っています。
(説明看板などより)
阿弥陀寺 - 1
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阿弥陀寺 - 2
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阿弥陀寺 - 3
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阿弥陀寺 - 4
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長命寺は、山号は無量寿山、真宗大谷派の寺院です。
慶長10(1605)年、京都本願寺第12世教如上人が蒲生秀行に請い、若松城下日野町(今の上町)に一寺を建立、本願寺輪番(本願寺出先機関)の地とし「本願寺掛所」としたのが始まりとされています。
そして、浅草本願寺と同じ寺格を賜り、会津一円は勿論、東北各地にも布教した。
寛文7(1667)年、院地狭隘のため今の地を賜って移り、これまでこの寺は御坊と尊称されてきたが、「幸甫」の代より長命寺と改め、輪番制を廃し世襲の寺となりました。
寛文年間(1661-1672)本願寺直轄寺院であったこの寺は、最高の寺格を示す白線の五條の築地塀を許されました。
この築地塀は、平成5(1993)年の大修理の際に分かりましたが、構造的には外観を土塀にして仕上げるいわゆる「練り壁」の工法がとられていました。この工法は江戸時代に広く行われていたものです。
この築地塀の名を高らしめたのは、戊辰の役における長命寺での攻防戦であり、当時の鉄砲弾がこの築地塀に無数に残っていて、その戦いのすさまじさを物語っています。
境内には、戊辰戦役会津藩士戦死者之墓があります。
慶応4(1868)年8月29日、ここ長命寺付近では大激戦が行われ、会津藩側に多くの死傷者がでました。
9月22日、会津藩の降伏開城により戦争は終わりましたが、城下の会津藩戦死者の遺骸は、新政府から埋葬が許可されず、翌年の雪解けまで放置されました。
これを見かねた、時の長命寺住職幸證師は、年の暮れに付近の遺骸を密かに埋葬しました。その総数は145体と言われています。墓碑は明治11(1878)年4月になり、旧会津藩士75名の有志によって建立されましたが、碑面には「戦死墓」の三文字以外表示することが許されませんでした。
〔説明看板などより)

長命寺 - 1
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長命寺 - 2
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長命寺 - 3
長命寺 - 3 posted by (C)pismo

長命寺 - 4
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長命寺 - 5
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大町の東明寺墓地内にある西軍墓地です。
この西軍墓地は明治元(1868)年の戊辰戦争に従軍し、この会津の地に散華した西軍十余藩、百七十四柱の精霊が眠る場所です。
す。会津藩だけでなく、会津に来攻した西軍にも多くの犠牲者がでました。この墓地は、西軍のうち会津若松付近で戦死した将兵の墓群で、戦争で亡くなった薩摩、長州、大垣、肥州、備州など当時西軍だった人々が静かに眠っています。
昭和32(1957)年、荒廃していた墓地を戦没者の郷里各県の方々が中心となって改修し、同年9月22日には戊辰戦役九十年祭が執行され、山口県知事小澤太郎氏が参列しました。
現在は西軍墳墓史保存会が清掃管理しているそうです。
(説明看板などより)
西軍墓地 - 1
西軍墓地 - 1 posted by (C)pismo

西軍墓地 - 2
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清水屋旅館跡です。この場所には吉田松陰、土方歳三など多くの歴史的人物が訪れた「清水屋」という旅館がありました。
幕末の志士達に大きな影響を与えた吉田松陰は嘉永5(1852)年、22歳の時に東北各藩を歴訪する大旅行をしており、中でも会津藩(藩校日新館)には特に強い関心を示し、二度に渡って訪れ見聞を広めています。松陰の旅の記録「東北遊日記」に記された七日町の宿がここ「清水屋」でした。
松陰が会津を去ってから16年後に戊辰戦争がおこります。会津藩と運命を共にした新選組副長・土方歳三は宇都宮城の攻防で足を負傷し、会津田島を経て会津藩士秋月登之助が手配した「清水屋」に運び込まれ治療を受けています。土方はその後、函館五稜郭まで転戦し西軍と徹底的に戦い続けたのです。
明治15(1882)年7月には同志社大学の創始者新島襄・八重夫妻が会津を訪れました。
山本覚馬(新島八重の兄)の先妻の娘夫婦(伊勢時雄、峰)も同行し、八重と峰にとっては約10年ぶりの故郷訪問でした。27日には会津に到着し、この清水屋旅館には約1ヶ月宿泊したといわれています。
また、同年には「清水屋事件」が起こります。喜多方出身の自由民権運動家・宇田誠一らが帝政議員に襲われ重傷を負います。宇田誠一はその後国事犯として捕らえられますが、明治25(1892)年には復権し県会議員に当選しています
木造三階建ての純日本旅館清水屋は、幕末から明治・大正にわたって会津の歴史を見つめ続け、昭和初年に惜しまれながら取り壊されました。現在は大東銀行会津支店となっています。
(説明看板などより)
清水屋旅館跡 - 1
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暗くなってきたので、一度宿へ向かいます。夜も史跡めぐりは継続です。
Posted at 2013/01/06 17:41:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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