次は石見銀山です。
以前も訪れたことがありますが、お目当ては山吹城。雪深いだけにたどり着けるかどうか心配でした。
石見銀山世界遺産センターは、大田市立の施設で、石見銀山の歴史と技術を紹介する展示を行う石見銀山の調査・研究センターとして、最新の調査成果を公開しています。
平成19(2007)年10月4日、ガイダンス棟が先行してオープンし、平成20(2008)年10月20日「石見銀山世界遺産センター」として全面オープンしました。
常設展示では、銀の精錬技術である灰吹法をの解説や、全て銀でできた御取納丁銀の5倍のサイズのレプリカが飾ってあります。
建物の外観にもこだわりがあり、地元産の石州瓦で屋根を葺き、木造風の意匠としています。正面のガイダンス棟は大森代官所跡の表門・門長屋をデザインモチーフに造られています。
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西本寺は元西本坊と称し、江戸時代初期の寛永年間に銀山の熊谷宗右衛門尉直政の請により六世空乗の代に出雲国神門郡白枝村から現在地に移転したと伝わる浄土真宗本願寺派の寺院です。
この山門は、一対二本の丸い親柱と前後四本の角控柱からなる四脚門で、17世紀初頭の特徴をそなえた優品です。
山門は銀山川対岸にあった曹洞宗龍昌寺にありましたが、昭和36(1961)年に現在地へ移築されました。龍昌寺は慶長9(1604)年に伽藍を造営したとの記録があり、この門もこの時に新築されたものと推定されます。
(現地説明板より)
現地説明板の説明にはありませんでしたが、この山門は、山吹城の追手門ともされていて、龍昌寺の門として使用された後、西本寺に再移築されたともされています。
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西本寺 - 2 posted by
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豊栄神社は、戦国の武将毛利元就を祀った神社で、毛利家ゆかりの社です。
元就が生前、自分の木像を造り山吹城に安置させましたが、元就の孫の毛利輝元が、洞春山長安寺を建立し、木像を写しました。
関ヶ原の戦いの後、石見銀山を徳川氏が支配する中で長安寺が荒廃したため、元禄4(1691)年、毛利家は木像を萩の本藩に引き上げました。
しかし、大森の住民からは木像在置の希望があり、毛利家は代わりに新しい木造を造らせ安置しました。
慶応2(1866)年、大森に入った長州軍は、藩租の木像があるのを知り、浄財を募って本殿を始めとした境内地を整備しました。中隊指令祖式信頼ら百七十二名の隊士名が境内の献納物に刻まれています。
明治3(1870)年、明治天皇の宣下により、長安寺は豊栄神社とされました。
(現地説明板より)
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山吹城は、鎌倉時代末期の延慶年間(1308~1311)に石見銀山が発見された際、その守備のために大内弘幸によって築かれたと伝えられています。
戦国時代の中期、大内義興の代になると出雲国の尼子経久の間で両勢力の争奪の地となりました。
とりわけ石見国は、両勢力の接点である上、その頃に銀の新採鉱法が伝えられたため、再び銀山の価値が見直され、銀山の確保を主目的とする争奪戦がたびたび繰り返された。
銀山の西には矢滝城があり、矢吹城と連携して銀山防衛に当たりました。しかし、再三にわたって尼子氏と大内氏(滅亡後は毛利氏)との間で銀山の領有をめぐって争奪戦が繰り広げられました。
永禄3(1560)年には、毛利元就自ら大軍を率い、尼子方の本城常光の籠もる山吹城を攻めたが落とせなかったため、謀略で本城常光を誘降させ、毛利氏の守将が置かれました。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦での敗北後に毛利氏は防長二国へ減封となり、銀山周辺一帯は徳川幕府直轄領となり、大森代官所がおかれ、山吹城は廃城となりました。
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代々銀山の町年寄をつとめた、
高橋家の建物です。
文献によれば天保10(1839)年頃、当家の高橋富三郎が町年寄山組頭を勤めたことが分かっています。
山組頭は、代官所と鉱山経営者である銀山師たちとの取次ぎなどを勤める役職で、銀山師の中から選ばれました。
また、町年寄は周囲に拡がっていた銀山経営に携わる人たちが住む町の運営に係る役職でした。建物は通りに面して主屋があり、北側に茶室、南側に離れ座敷を設けています。
昭和50(1975)年に「石見銀山御料銀山町寄山組頭遺宅」として島根県指定史跡に指定されています。
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福神山間歩(坑道)は、採掘にあたった山師個人が経営した「自分山」のものですが、一時期、代官川崎市之進(1767~78)のころには、代官所直営の「御直山」の坑道になったこともありました。「御直山」は天保15(1844)年には23か所まで増えますが、「自分山」は、享保14(1730)年に55か所もあったものが、天保15(1844)年には9か所となってしまいます。
石見銀山には、主な鉱脈が32本あったと伝えられており、そこから岩盤の亀裂に沿って30cm前後の幅で鉱石を含んだ支脈が延びていました。
この間歩は坑口が3か所あって、上段の坑は空気抜き坑、下段の2坑は中でつながり、説明板のある道路の下2mほどのところを通って銀山川の下をくぐり、後ろにそびえる銀山の最高地点「仙ノ山」の方向に掘り進んだと伝えられ、「仙ノ山」の逆方向に向かって坑口が開いている珍しい間歩です。 (現地説明板より)
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江戸時代、採掘操業の場所を「山」、坑道を「間歩」と呼んでいました。
石見銀山の間歩(坑道)は、元禄4(1691)年には92箇所でしたが、文政6(1823)年の古文書によると新旧併せて279箇所とされ、最近の現地調査では、空気抜きなどを合わせると、500箇所を超える坑道を確認しています。
この
新切間歩は、幕府代官所直営の「御直山」と呼んだ間歩の一つで、正徳5(1715)年、代官鈴木八右衛門のときに開発し、最初は疎水坑(水抜き坑)として掘ったもののようです。江戸時代後期には、坑口から520mまで掘り進んでいましたが、、その後休山となりました。銀山の間歩の中では、最も大森町に近く、標高も低い場所にあったものです。
現在、中に入ることは出来ませんが、常時出水していることからも水抜き坑であったことがわかります。(現地説明板より)
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清水寺(せいすいじ)は山号は銀峰山、高野山真言宗の寺院です。
推古天皇の時代に創建したといわれています。
当初は天池寺と称し仙ノ山の山頂付近にありましたが、延暦17(798)年に清水谷に移り清水寺に改称しています。江戸時代末期に仙ノ山中腹に、明治11(1878)年に現在地に移りました。
石見銀山は大永6(1526)年、神屋寿禎(博多の豪商)が清水寺に参拝後に白く輝く銀鉱石を拾ったのが始まりとされています。
また、安原伝兵衛(初代石見銀山奉行大久保長安配下の山師)は本尊の十一面観音に七日七夜祈願して釜屋間歩を発見したと伝えられています。
昭和6(1931)年3月、佐毘売山神社の神宮寺と合併しその山門が移築されています。山門に掲げられている扁額「銀華厳」は万延元(1860)年12月、57代目代官加藤餘十郎の筆によるもので「銀華厳」「万延元年十二月加藤清風書」と刻んであり、山門及び山門の左脇にある石造不動明王、右脇の石造毘沙門天立像と共に昭和47(1972)年、大田市指定有形文化財に指定されています。
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大安寺跡にある大久保石見守長安逆修墓です。大安寺は、浄土宗鎮西派の寺院でした。
大久保石見守長安の菩提寺として慶長10(1605)年に建立されたと伝えられています。境内地の墓石は115基あり、寺の創建年と一致するものもあります。
その後、建物は明治8(1875)年に再建され、昭和18(1943)年の水害で大破し、極楽寺に合併しました。石段を上がるとすぐに「大久保石見守墓所」と書かれた標石があり、石段の奥には「正覚山大安寺」の標石があります。
大久保石見守は名を初め「藤十郎」といい、のち「長安」に改めました。甲州(山梨県)にいた関係で鉱山に明るい長安は慶長5(1600)年秋、徳川家康の命令で石見銀山に派遣されました。
翌慶長6(1601)年、長安は石見国97,800石の初代奉行に就任し、それまでの銀山発掘を竪堀りから坑道掘り(横掘り)に改めました。
数多くの坑道掘りの中で、釜屋間歩を掘りあてて3,600貫(13.5t)の運上銀(上納銀)を産出して石見銀山の最盛期をつくりました。
慶長7(1602)年7月、長安は石見守に任じられ、従五位下に叙せられて、俸禄は2万石となりました。その後佐渡、伊豆、院内などの金銀山の奉行も兼務しました。
長安は生前、この地に正覚山大安寺を建立して、自らの墓(逆修墓)を境内地につくりました。
長安は慶長18(1613)年4月25日に、駿府(静岡市)で病没しました。行年は69歳でした。
境内の大久保石見守墓は、寛政6(1794)年に長安の功績を讃える隣の石碑と共に再建されたものです。それ以前の墓は近くで破片になっている大型の宝篋印塔と推定され、復元すると高さおよそ2mとなります。石碑は同6(1794)年春に建てられたもので、選文は当時39番目の代官、菅谷弥五郎長昌で、筆は大森町中にある観世音寺(真言宗)の住職、漢学者の佐和華石であると陰刻してあります。
(現地説明板より)
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江戸時代初期の銀精錬所(吹屋)跡・
下河原吹屋跡です。石見銀山は、16世紀前半の戦国時代に開発が始まり、江戸時代の初めに(17世紀前半)にかけて最も多くの銀を産出されました。
下河原吹屋跡は、平成3(1991)年の調査で発見され、遺物や遺構から江戸時代初期の銀精錬所(吹屋)跡と考えられています。
当時、吹屋では運ばれた鉱石を運鉱して、素石を除き、これを吹床で鉱石分を溶かし、銀を採りました。
石見銀山が最も栄えた時期の様子を知る手がかりが得られる遺跡です。
(現地説明板より)
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