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ピズモのブログ一覧

2013年12月30日 イイね!

周防・長門・石見・出雲紀行(5日目その3・出雲大社)

年末のドライブの最後に出雲大社を訪れました。
平成25(2013)年5月に「平成の御遷宮」が行われました。新しい社殿です。

前回訪問時→神話の里出雲紀行(その2・出雲文化伝承館〜島根ワイナリー〜島根県立古代出雲歴史博物館〜出雲大社)
出雲大社 - 01
出雲大社 - 01 posted by (C)pismo

出雲大社 - 02
出雲大社 - 02 posted by (C)pismo

出雲大社 - 03
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出雲大社 - 04
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出雲大社 - 05
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出雲大社 - 06
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出雲大社 - 07
出雲大社 - 07 posted by (C)pismo
Posted at 2014/02/13 23:00:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年12月30日 イイね!

周防・長門・石見・出雲紀行(5日目その2・石見銀山)

次は石見銀山です。
以前も訪れたことがありますが、お目当ては山吹城。雪深いだけにたどり着けるかどうか心配でした。
石見銀山世界遺産センターは、大田市立の施設で、石見銀山の歴史と技術を紹介する展示を行う石見銀山の調査・研究センターとして、最新の調査成果を公開しています。
平成19(2007)年10月4日、ガイダンス棟が先行してオープンし、平成20(2008)年10月20日「石見銀山世界遺産センター」として全面オープンしました。
常設展示では、銀の精錬技術である灰吹法をの解説や、全て銀でできた御取納丁銀の5倍のサイズのレプリカが飾ってあります。
建物の外観にもこだわりがあり、地元産の石州瓦で屋根を葺き、木造風の意匠としています。正面のガイダンス棟は大森代官所跡の表門・門長屋をデザインモチーフに造られています。
石見銀山世界遺産センター石見銀山世界遺産センター posted by (C)pismo

西本寺は元西本坊と称し、江戸時代初期の寛永年間に銀山の熊谷宗右衛門尉直政の請により六世空乗の代に出雲国神門郡白枝村から現在地に移転したと伝わる浄土真宗本願寺派の寺院です。
この山門は、一対二本の丸い親柱と前後四本の角控柱からなる四脚門で、17世紀初頭の特徴をそなえた優品です。
山門は銀山川対岸にあった曹洞宗龍昌寺にありましたが、昭和36(1961)年に現在地へ移築されました。龍昌寺は慶長9(1604)年に伽藍を造営したとの記録があり、この門もこの時に新築されたものと推定されます。
(現地説明板より)
現地説明板の説明にはありませんでしたが、この山門は、山吹城の追手門ともされていて、龍昌寺の門として使用された後、西本寺に再移築されたともされています。
西本寺 - 1
西本寺 - 1 posted by (C)pismo

西本寺 - 2
西本寺 - 2 posted by (C)pismo

豊栄神社は、戦国の武将毛利元就を祀った神社で、毛利家ゆかりの社です。
元就が生前、自分の木像を造り山吹城に安置させましたが、元就の孫の毛利輝元が、洞春山長安寺を建立し、木像を写しました。
関ヶ原の戦いの後、石見銀山を徳川氏が支配する中で長安寺が荒廃したため、元禄4(1691)年、毛利家は木像を萩の本藩に引き上げました。
しかし、大森の住民からは木像在置の希望があり、毛利家は代わりに新しい木造を造らせ安置しました。
慶応2(1866)年、大森に入った長州軍は、藩租の木像があるのを知り、浄財を募って本殿を始めとした境内地を整備しました。中隊指令祖式信頼ら百七十二名の隊士名が境内の献納物に刻まれています。
明治3(1870)年、明治天皇の宣下により、長安寺は豊栄神社とされました。
(現地説明板より)
豊栄神社 - 1
豊栄神社 - 1 posted by (C)pismo

山吹城は、鎌倉時代末期の延慶年間(1308~1311)に石見銀山が発見された際、その守備のために大内弘幸によって築かれたと伝えられています。
戦国時代の中期、大内義興の代になると出雲国の尼子経久の間で両勢力の争奪の地となりました。
とりわけ石見国は、両勢力の接点である上、その頃に銀の新採鉱法が伝えられたため、再び銀山の価値が見直され、銀山の確保を主目的とする争奪戦がたびたび繰り返された。
銀山の西には矢滝城があり、矢吹城と連携して銀山防衛に当たりました。しかし、再三にわたって尼子氏と大内氏(滅亡後は毛利氏)との間で銀山の領有をめぐって争奪戦が繰り広げられました。
永禄3(1560)年には、毛利元就自ら大軍を率い、尼子方の本城常光の籠もる山吹城を攻めたが落とせなかったため、謀略で本城常光を誘降させ、毛利氏の守将が置かれました。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦での敗北後に毛利氏は防長二国へ減封となり、銀山周辺一帯は徳川幕府直轄領となり、大森代官所がおかれ、山吹城は廃城となりました。
山吹城 - 01
山吹城 - 01 posted by (C)pismo

山吹城 - 02
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山吹城 - 03
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山吹城 - 04
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山吹城 - 05
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山吹城 - 06
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山吹城 - 07
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山吹城 - 08
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山吹城 - 09
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山吹城 - 10
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山吹城 - 11
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山吹城 - 12
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山吹城 - 13
山吹城 - 13 posted by (C)pismo

代々銀山の町年寄をつとめた、高橋家の建物です。
文献によれば天保10(1839)年頃、当家の高橋富三郎が町年寄山組頭を勤めたことが分かっています。
山組頭は、代官所と鉱山経営者である銀山師たちとの取次ぎなどを勤める役職で、銀山師の中から選ばれました。
また、町年寄は周囲に拡がっていた銀山経営に携わる人たちが住む町の運営に係る役職でした。建物は通りに面して主屋があり、北側に茶室、南側に離れ座敷を設けています。
昭和50(1975)年に「石見銀山御料銀山町寄山組頭遺宅」として島根県指定史跡に指定されています。
高橋家
高橋家 posted by (C)pismo

福神山間歩(坑道)は、採掘にあたった山師個人が経営した「自分山」のものですが、一時期、代官川崎市之進(1767~78)のころには、代官所直営の「御直山」の坑道になったこともありました。「御直山」は天保15(1844)年には23か所まで増えますが、「自分山」は、享保14(1730)年に55か所もあったものが、天保15(1844)年には9か所となってしまいます。
石見銀山には、主な鉱脈が32本あったと伝えられており、そこから岩盤の亀裂に沿って30cm前後の幅で鉱石を含んだ支脈が延びていました。
この間歩は坑口が3か所あって、上段の坑は空気抜き坑、下段の2坑は中でつながり、説明板のある道路の下2mほどのところを通って銀山川の下をくぐり、後ろにそびえる銀山の最高地点「仙ノ山」の方向に掘り進んだと伝えられ、「仙ノ山」の逆方向に向かって坑口が開いている珍しい間歩です。 (現地説明板より) 

福神山間歩 - 1
福神山間歩 - 1 posted by (C)pismo

福神山間歩 - 2
福神山間歩 - 2 posted by (C)pismo

江戸時代、採掘操業の場所を「山」、坑道を「間歩」と呼んでいました。
石見銀山の間歩(坑道)は、元禄4(1691)年には92箇所でしたが、文政6(1823)年の古文書によると新旧併せて279箇所とされ、最近の現地調査では、空気抜きなどを合わせると、500箇所を超える坑道を確認しています。
この新切間歩は、幕府代官所直営の「御直山」と呼んだ間歩の一つで、正徳5(1715)年、代官鈴木八右衛門のときに開発し、最初は疎水坑(水抜き坑)として掘ったもののようです。江戸時代後期には、坑口から520mまで掘り進んでいましたが、、その後休山となりました。銀山の間歩の中では、最も大森町に近く、標高も低い場所にあったものです。
現在、中に入ることは出来ませんが、常時出水していることからも水抜き坑であったことがわかります。(現地説明板より)
新切間歩 - 1
新切間歩 - 1 posted by (C)pismo

新切間歩 - 2
新切間歩 - 2 posted by (C)pismo

清水寺(せいすいじ)は山号は銀峰山、高野山真言宗の寺院です。
推古天皇の時代に創建したといわれています。
当初は天池寺と称し仙ノ山の山頂付近にありましたが、延暦17(798)年に清水谷に移り清水寺に改称しています。江戸時代末期に仙ノ山中腹に、明治11(1878)年に現在地に移りました。
石見銀山は大永6(1526)年、神屋寿禎(博多の豪商)が清水寺に参拝後に白く輝く銀鉱石を拾ったのが始まりとされています。
また、安原伝兵衛(初代石見銀山奉行大久保長安配下の山師)は本尊の十一面観音に七日七夜祈願して釜屋間歩を発見したと伝えられています。
昭和6(1931)年3月、佐毘売山神社の神宮寺と合併しその山門が移築されています。山門に掲げられている扁額「銀華厳」は万延元(1860)年12月、57代目代官加藤餘十郎の筆によるもので「銀華厳」「万延元年十二月加藤清風書」と刻んであり、山門及び山門の左脇にある石造不動明王、右脇の石造毘沙門天立像と共に昭和47(1972)年、大田市指定有形文化財に指定されています。
清水寺 - 1
清水寺 - 1 posted by (C)pismo

清水寺 - 2
清水寺 - 2 posted by (C)pismo

清水寺 - 3
清水寺 - 3 posted by (C)pismo

大安寺跡にある大久保石見守長安逆修墓です。大安寺は、浄土宗鎮西派の寺院でした。
大久保石見守長安の菩提寺として慶長10(1605)年に建立されたと伝えられています。境内地の墓石は115基あり、寺の創建年と一致するものもあります。
その後、建物は明治8(1875)年に再建され、昭和18(1943)年の水害で大破し、極楽寺に合併しました。石段を上がるとすぐに「大久保石見守墓所」と書かれた標石があり、石段の奥には「正覚山大安寺」の標石があります。
大久保石見守は名を初め「藤十郎」といい、のち「長安」に改めました。甲州(山梨県)にいた関係で鉱山に明るい長安は慶長5(1600)年秋、徳川家康の命令で石見銀山に派遣されました。
翌慶長6(1601)年、長安は石見国97,800石の初代奉行に就任し、それまでの銀山発掘を竪堀りから坑道掘り(横掘り)に改めました。
数多くの坑道掘りの中で、釜屋間歩を掘りあてて3,600貫(13.5t)の運上銀(上納銀)を産出して石見銀山の最盛期をつくりました。
慶長7(1602)年7月、長安は石見守に任じられ、従五位下に叙せられて、俸禄は2万石となりました。その後佐渡、伊豆、院内などの金銀山の奉行も兼務しました。
長安は生前、この地に正覚山大安寺を建立して、自らの墓(逆修墓)を境内地につくりました。
長安は慶長18(1613)年4月25日に、駿府(静岡市)で病没しました。行年は69歳でした。
境内の大久保石見守墓は、寛政6(1794)年に長安の功績を讃える隣の石碑と共に再建されたものです。それ以前の墓は近くで破片になっている大型の宝篋印塔と推定され、復元すると高さおよそ2mとなります。石碑は同6(1794)年春に建てられたもので、選文は当時39番目の代官、菅谷弥五郎長昌で、筆は大森町中にある観世音寺(真言宗)の住職、漢学者の佐和華石であると陰刻してあります。
(現地説明板より)
大安寺跡・大久保石見守墓 - 1
大安寺跡・大久保石見守墓 - 1 posted by (C)pismo

大安寺跡・大久保石見守墓 - 2
大安寺跡・大久保石見守墓 - 2 posted by (C)pismo

大安寺跡・大久保石見守墓 - 3
大安寺跡・大久保石見守墓 - 3 posted by (C)pismo

大安寺跡・大久保石見守墓 - 4
大安寺跡・大久保石見守墓 - 4 posted by (C)pismo

江戸時代初期の銀精錬所(吹屋)跡・下河原吹屋跡です。石見銀山は、16世紀前半の戦国時代に開発が始まり、江戸時代の初めに(17世紀前半)にかけて最も多くの銀を産出されました。
下河原吹屋跡は、平成3(1991)年の調査で発見され、遺物や遺構から江戸時代初期の銀精錬所(吹屋)跡と考えられています。
当時、吹屋では運ばれた鉱石を運鉱して、素石を除き、これを吹床で鉱石分を溶かし、銀を採りました。
石見銀山が最も栄えた時期の様子を知る手がかりが得られる遺跡です。
(現地説明板より)
下河原吹屋跡 - 1
下河原吹屋跡 - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2014/02/13 22:41:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年12月30日 イイね!

周防・長門・石見・出雲紀行(5日目その1・大田市温泉津町の城と史跡)

いよいよ最終日です。
4泊目の宿泊地浜田から石見路を東に向かいます。

最初に温泉津町の史跡から巡ります。
浄光寺は、正式な寺号は瑠璃光山瑞感院浄光寺という浄土宗の寺院です。
永禄2(1599)年7月10日に死去した奥方を、浄光寺墓地に埋葬したのをご縁に、吉川家の菩提寺として創建され、当初は、経安の守護佛、薬師瑠璃光如来を本尊として安置しました。浄光寺の山号を瑠璃光山とする所似です。
その後、延宝5(1677)年、浄光寺5世円道上人の代に薬師堂を建立し、薬師如来を遷座し、ご開帳佛としました。
現在の本尊は、阿弥陀如来です。境内墓地に吉川経安及び奥方の墓碑があります。
(現地説明板などより)
浄光寺 - 1
浄光寺 - 1 posted by (C)pismo

浄光寺 - 2
浄光寺 - 2 posted by (C)pismo

楞厳寺(りょうごんじ)は、山号は金剛山、真言宗御室派の寺院で本尊は聖観世音菩薩です。
元は法相宗ともいわれ、弘仁4(813)年弘法大師が諸国巡錫のおり真言宗に改宗したといわれています。
延応元(1239)年知見上人によって再興された古刹で、室町時代後期、福光美濃守兼国がこの地を所領とし、福光氏の武運長久を祈る祈願寺として信仰を得ました。
永禄2(1559)年、福光氏の所領を吉川経安がもらい不言城(福光城、物不言城)を居城とし、鳥取城攻めで有名な名将10代目城主・経家に纏わる墳墓について、石見吉川家系図に「営寿墳矣、石州福光県内楞厳寺方」として記されています。慶長6(1601)年に経実が岩国へ移住し廃城となり、当山も栄枯盛衰をみました。
江戸時代初期、大森羅漢寺の住職の月海浄印が、五百羅漢を福光石工坪内平七一門に建立を依頼し、五百羅漢について指導したのが、当山の住職であったと伝えられています。平七一門は25年の歳月をかけて羅漢像を完成し、その後檀家となりました。
明治6(1873)年には、学制が発布され第174番小学区として当山で開校しました。
観音霊場として今昔ともに深く帰依されています。境内には吉川経家公の供養塔の他、福光太郎兼久の碑が建っています。
(現地説明板などより)
楞厳寺 - 1
楞厳寺 - 1 posted by (C)pismo

楞厳寺 - 2
楞厳寺 - 2 posted by (C)pismo

楞厳寺 - 3
楞厳寺 - 3 posted by (C)pismo

楞厳寺 - 4
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福光城(不言城・物不言城)は、当初福屋氏、福光氏の居城でしたが、永禄2(1559)年石見地方に侵攻した毛利元就は、川本温湯城の小笠原長雄攻めに功績のあった吉川経安(石見吉川9代目)に、福光氏の所領を与えました。
これを機に、吉川経安は嘉暦3(1328)年より200年にわたって拠点としていた津渕保の殿村城(高越城)(大田市温泉津町井田)から、不言城に居を移し、改修して居城としました。
福光城(不言城・物不言城)は、本丸・二の丸・三の丸跡が今も残っている本格的な山城であり、地理的にも石見銀山、温泉津港の押さえとして重要な役割を果たしていました。
古今の名将の一人として名をはせた福光城(不言城)城主・吉川経家は、9代目経安の子です。天正9(1581)年、経家は、羽柴秀吉の因幡攻めに対抗できる毛利方の部将として、鳥取城に入城し、秀吉の有名な兵糧攻めに耐えて7カ月の籠城ののち、城兵や城に避難した城下の民衆の助命を条件に自刃しました。
経家は、その遺書の中で「日本二つの御弓矢(織田氏と毛利氏)の衝突の中で切腹するのは末代までの名誉だ」と記しました。義に殉じた吉川経家の菩提を弔う法要が、現在も10年に1度、鳥取市民により盛大に行われています。
慶長6(1601)年、経家の子・吉川経実は、吉川本家の家老として迎えられて岩国に移住し、福光城(不言城)はその歴史を閉じました。
(現地説明板などより)
城跡には楞厳寺から登ることができます。一般的には福光城や物不言城(ものいわずじょう)の名で知られていますが、地元ではもっぱら不言城(ふげんじょう)と呼ばれています。
福光城(不言城) - 01
福光城(不言城) - 01 posted by (C)pismo

福光城(不言城) - 02
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福光城(不言城) - 03
福光城(不言城) - 03 posted by (C)pismo

福光城(不言城) - 04
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福光城(不言城) - 05
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福光城(不言城) - 06
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福光城(不言城) - 07
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福光城(不言城) - 08
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福光城(不言城) - 09
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福光城(不言城) - 10
福光城(不言城) - 10 posted by (C)pismo

櫛山城は、沖泊港の北側の丘陵突端に浮かぶ櫛島に築かれた標高37mの海城です。
島の周囲は切り立った断崖で、郭群は外海に面した西側と温泉津湾の湾口に面する南側に築かれています。
櫛山城は、出雲の尼子方の温泉氏が在城し、その後の毛利氏の支配下で改修され、沖泊湾の南側丘陵に位置する鵜丸城及び温泉津湾の西側丘陵先端部に位置する笹島城とともに、毛利水軍の要港とされた温泉津湾の海上交通を掌握していたといわれますが、詳しいことは分かっていません。(現地説明板より)
櫛島は島ですが、櫛島キャンプ場から歩いて渡ることができます。波しぶきには注意が必要ですが。
櫛山城 - 01
櫛山城 - 01 posted by (C)pismo

櫛山城 - 02
櫛山城 - 02 posted by (C)pismo

櫛山城 - 03
櫛山城 - 03 posted by (C)pismo

櫛山城 - 04
櫛山城 - 04 posted by (C)pismo

櫛山城 - 05
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鵜丸城(うのまるじょう)は中世の港湾として繁栄した沖泊の南側の丘陵突端に位置する標高59m(比高55m)の海城です
毛利氏によって元亀2(1571)年に毛利水軍の拠点として約1か月で築城されたことが「児玉伝右衛門家文書」(萩藩閥閲禄)に記されており文献資料によって築城の背景が分かる数少ない事例です。
鵜丸城跡は、大手の桝形虎口を挟んで西側と東側の尾根上に郭群を配し、東側の郭群には銃陣を敷くための雛壇状の3段の帯郭が築かれていることが特徴です。
鵜丸城 - 1
鵜丸城 - 1 posted by (C)pismo

鵜丸城 - 2
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鵜丸城 - 3
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鵜丸城 - 4
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毛利元就の撤退戦で身代わりとなった渡辺通ら七人の武士の戦死の地と伝えられる七騎坂です。永禄2(1559)年、出雲の尼子晴久に奪われた石見銀山を取り戻すため、毛利元就は1万4千騎を率いて銀山と向かい合わせにそびえ立つ山吹城を攻めました。
山吹城を守っていた本城越中守経光の激しい抵抗に遭い、毛利軍は撤退を余儀なくされました。
本城軍の追撃中、降露坂(祖式城に通ずる矢滝道と温泉津町湯里に通ずる大江道との分岐点)で、元就の側近にいた渡辺太郎左衛門通は、湯里の西田に出て山をさらにひとつ越して、温泉津町小浜の七騎坂で、「自分が元就だ」と叫んで同士と共に壮烈な死を遂げました。
7人の武士が討死した場所は、現在は七騎坂といい、その下をJR山陽本線が走り、七騎坂トンネルといいます。(現地説明板より)
ただし、この戦いは天文12(1543)年の大内氏の第一次月山富田城の戦いからの撤退戦ともいい、場所も降露坂(降路坂)近くの大江坂七曲がりという説もあります。
七騎坂 - 1
七騎坂 - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2014/02/11 00:50:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2013年12月29日 イイね!

周防・長門・石見・出雲紀行(4日目その4・津和野城下町)

再び津和野の城下町に戻ります。
殿町通り、本町通り周辺の散歩です。

(平成19年の訪問記)→石見~長州~豊前ドライブ(1日目その3・津和野の城下町)

津和野町郷土館は、大正10(1921)年、当時としては県内唯一の郷土歴史博物館として設立されました。
創設当時は、藩校養老館の御書物蔵を利用していましたが、昭和15(1940)年に現在の建物が建設され、独立した郷土館として整備されました。その後、戦時下の一時休館や、終戦直後には役場庁舎に利用されるなどの変遷をたどりますが、昭和29年に再び今日の姿で開館され、現在に至っています。
津和野周辺の歴史資料、津和野藩の資料、美術工芸品などを展示しています。吉見、坂崎、 亀井の三氏にわたる津和野藩政の歴史を今に伝える豊富な史料に加え、人材育成の源泉となった「養老館」に関する資料、西周をはじめとする多くの先哲の遺品、乙女峠のキリシタン殉教関係資料などなど、島根県指定文化財を含む数千点を収蔵、展示しています。 (リーフレットなどより)
津和野町郷土館 - 1
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津和野町郷土館 - 2
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津和野町郷土館 - 3
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津和野町郷土館 - 4
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弥栄神社の創建は不詳ですが、当時の三本松城(津和野城)の城主吉見氏が太鼓谷山山頂付近に勧請し滝本祇園社と称していました。
正長元(1428)年、吉見弘信が現在地に遷座し城の鬼門鎮守とし、以来歴代城主から崇敬庇護を受けました。
享禄元(1528)年、吉見正頼が八坂神社(京都府京都市東山区)の分霊を改めて勧請し、江戸時代以降も鷲原八幡宮、津和野神社(武霊社)と共に津和野藩三大社に位置づけられ歴代津和野藩主亀井家から崇敬されました。
慶応3(1867)年に現在の社号である弥栄神社に改め明治時代以降は郷社に列しました。
例祭で奉納される「鷺舞」は京都の八坂神社に奉納された舞を室町時代に大内氏が山口に伝え、天文11(1542)年に津和野城主吉見正頼が山口の祇園会から移し入れ津和野の弥栄神社に伝えたとされ「津和野弥栄神社の鷺舞」として国指定重要無形民俗文化財に指定されています。(現地説明板などより)
弥栄神社 - 1
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弥栄神社 - 2
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家老多胡家表門
家老多胡家表門 - 1
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津和野藩校養老館〔現:津和野町立民俗資料館〕
津和野藩校養老館〔津和野町立民俗資料館〕 - 1
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津和野藩校養老館〔津和野町立民俗資料館〕 - 2
津和野藩校養老館〔津和野町立民俗資料館〕 - 2 posted by (C)pismo

津和野藩校養老館〔津和野町立民俗資料館〕 - 3
津和野藩校養老館〔津和野町立民俗資料館〕 - 3 posted by (C)pismo

津和野藩校養老館〔津和野町立民俗資料館〕 - 4
津和野藩校養老館〔津和野町立民俗資料館〕 - 4 posted by (C)pismo

津和野藩校養老館〔津和野町立民俗資料館〕 - 5
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大岡家老門
大岡家老門 - 1
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大岡家老門 - 2
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津和野カトリック教会
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分銅屋 七右衛門本店
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古橋酒造
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華泉酒造 - 1
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2013年12月29日 イイね!

周防・長門・石見・出雲紀行(4日目その3・堀庭園)

次に、津和野町の郊外にある堀庭園を訪れました。
堀庭園の周辺は「天領の里,春秋峡」と云って,津和野八景の一つになっています。
昔は石見國畑迫村と云い,堀家を中心として栄えた村です。
堀家の屋敷は、この山峡の豊かな自然の中に嵌め込まれた壮大な人工の造形であり一種独特の景観を形成しています。
天領の里と呼ばれる由来は,此処の裏山(緑山と称す)から銀銅が出たので徳川幕府は此処を直轄領(天領)に指定し,幕府直属の大森銀山代官の支配下に置いたことによります。堀家は代々銅山年寄役を世襲し天領差配家として三百年の歴史を閲してきた名家です。
旧堀氏庭園は、白石川を挟んで主屋や客殿「楽山荘」がある北側敷地と、和楽園のある南側敷地にわかれ、大小三つの庭園が建物と一体となって一年を通じて美しい景観をつくりだしています。
庭園は裏山を借景として築かれた池泉廻遊庭園で明治33(1900)年造営の数寄屋風書院造の客殿「楽山荘」とよく融け合っています。池には二段の瀧を落とし、池畔には雪見灯籠と、その奥には十三の塔が配置され、中央には樹齢300年の楓の老樹がそびえています。周辺一帯には楓の木が多く、新緑(6月)と、紅葉時(11月)の美景には定評があります。さらに、主屋から300m下流には堀氏が建てた旧畑迫病院があります。病院の前庭には、チューリップやオジギソウなどが植えられ、入院患者のために庭が整備されていたといわれます。これら屋敷地や大小4つの庭園、周辺の山々を含むおよそ6ヘクタールが平成17(2005)年に国の名勝に指定されています。
平成10(1998)年ごろから主屋の損傷が進み、平成18(2006)年度から修復工事が行われ、平成23年4月23日から一般公開が再開されました。
堀庭園(旧堀氏庭園) - 01
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 02
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 03
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 04
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 05
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 06
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 07
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 08
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 09
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 10
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 11
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 12
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 13
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 14
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 15
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 16
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 17
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 18
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 19
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 20
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 21
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 22
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堀庭園(旧堀氏庭園) - 23
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