平井村中村間ノ山付城は、三木合戦の際、秀吉本陣の北側の守備を担っていました。
城主は「播磨鑑」「別所軍記」によると秀吉の軍師である竹中半兵衛とされています。
土塁に囲まれた主郭は、東西15m、南北11mの長方形を呈しており、南側には虎口(出入口)を設けています。
主郭の北東面は、土砂崩れによって切り立った崖になっています。北西斜面には帯曲輪状(主要な曲輪の周囲に配置される細長い曲輪)の平坦地が見られます。
(現地説明板などより)
平井村中村間ノ山付城は、かつては、三木合戦の際秀吉の本陣と言われていました。
しかし実際には本陣としては狭すぎる、又諸国古城之図と随分違うということで、現在は一本南の尾根筋上の平井山ノ上付城が秀吉本陣とされるようになりました。
そして、以前は秀吉本陣と現地の説明にもありましたが、ここは伝竹中半兵衛陣所跡と表記されるようになりました。
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栄運寺は、山号は屏風山、浄土宗の寺院です。
元禄5(1692)年開山の比較的新しい寺ですが、この裏山にもうひとつの竹中半兵衛の墓があることで知られています。
秀吉本陣があった平井山から地続きの山麓に栄運寺があり、竹中半兵衛の位牌が祀られているそうです。
お墓は、栄運寺の墓地の右手より登っていきます。盛塚の上に竹中の2文字が刻まれた墓石と、隣には「浄源院殿霊誉居士」と刻まれた宝篋印塔が建立されています。
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慈眼寺山城は、通称「一本松」と呼ばれる慈眼寺裏山の山頂にあります。
美囊川の北岸尾根の最高所に位置し、見晴らしの良い場所にあります。
三木城を攻めるために築かれた陣城跡で、羽柴秀吉の武将有馬法印則頼が陣を置いたといわれています。
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谷大膳の墓は、平田村山ノ上付城の麓にあります。
谷大膳亮衛好は幼名小太郎、享禄2(1529)年宇多源氏佐々木氏の末裔福田六兵衛尉正之の次男として美濃国莚田群伊地良村に生まれました。
近江国甲賀郡長野の豪族で伯父の谷衛之の養子になりました。
衛之が浅井亮政に属し佐和山の合戦で亡くなった後、跡を継ぎ、後伊地良村に住し斎藤道三、織田信長に仕えました。
天正4(1576)年の石山の戦いで大手柄を立て、天正6(1578)年9月三木合戦では秀吉方の武将として平田大村の砦を守っていました。
天正7(1579)年9月9日夜半に兵糧を三木城へ運び込もうとした別所・毛利の軍勢の夜襲を受け、薙刀をふるって奮闘しましたが、身に五十余創をうけ力及ばず戦死を遂げました。
秀吉はその死を悼み、丁重に葬り杉を以て塚木としました。法号、亮衛院殿月賛玄光大居士で、共に戦死した兄福田正舜(玄々院殿)、弟土田小傅次、甥福田彦八良(勇功院殿)同孫三郎(猷駿院殿)を併せ葬りました。一族の位牌は大村の金剛寺にあります。
大膳の嫡男衛友は仇敵室小兵衛の首級をあげました。
秀吉は、父子の功を嘉彰し丹波山家に6千石を与え、江戸時代には1万6千石の大名となり明治に至りました。明治以後華族令により子爵に列せらました。
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淡河弾正の墓がある八幡森史蹟公園です。淡河弾正忠定範は淡河城主で、三木城主別所長治とは姻戚関係でした。
天文8(1539)年に美作江見城主・江見又治朗祐春の次男として生まれました。
淡河氏に養子に入り、別所長治の祖父別所就治の娘と結婚したため、別所長治の義理の伯父にあたります。
天正6(1578)年2月別所長治が織田信長に抗し三木城に籠った際には別所氏に味方したため、天正7(1579)年5月から羽柴秀吉の弟の秀長を大将とする織田軍により淡河城が攻められました。
6月27日には、定範が牝馬を敵陣に放って包囲軍を破りました。
その後、三百余騎を率いて三木城に入城し、9月10日には毛利軍が糧食を三木城に入れようとしたため、羽柴秀吉はこれを阻もうとして平田大村で戦いが起きました。
定範は奮戦し、主従5騎が三木城に帰城しようとしましたが、八幡の森で割腹して戦死しました。41歳でした。
三木市は淡河弾正忠定範の404回目の命日にあたる昭和57(1982)年9月10日、三木合戦で信長方、別所方双方に多数の死傷者を出した平田大村加佐合戦で秀吉方の追手の手により非業の最期を遂げた淡河城城主の淡河弾正忠定範とその郎党などの死を慰霊するため、三木市民、淡河家の子孫、別所長治の部下子孫などの方々の募金と土地所有者森田氏の協力を得て八幡森史蹟公園の整備と淡河弾正忠定範戦死之碑、800人余の平田大村加佐合戦戦死者の慰霊碑と説明文が書かれた記念碑を建立しました。
(現地説明板などより)
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法界寺は、山号は虚空山、浄土宗西山禅林派の寺院で本尊は阿弥陀如来です。
開基は天平4(732)年、行基菩薩が聖武天皇の勅願を奉じて諸国を行脚し此の地に錫を止められた折、一翁が「此の地は和光同塵の地なり、よろしく伽藍を建立して衆生を化益せば、我常に守護して退転せさらん」と弥陀の尊像を与わりました。
行基菩薩は随喜の涙を流してして信心肝に銘じ、翁の告げに応じて伽藍を建立し、宝祝寿鎮護国家の道場となし、虚空山と号し、法界寺と名付けました。
その後、延徳年間に至り別所氏中興の祖則治は諸堂を造営し、別所家累代の菩提寺と定めました。
さらに天正8(1580)年正月17日、羽柴秀吉の三木城攻めにより城主別所長治公自害された際、遺体を当寺に埋葬しました。
慶長元(1596)年、杉原伯耆守により諸堂が再建され、天輪石塔及び霊廟を建立しました。次いで長治公百回忌に当たる延宝6(1678)年、禅空素伯和尚は三木郡十二町里の民衆に募縁し、「東播八郡総兵別所府君墓表」の碑を建立しました。
文政4(1821)年義空民礼和尚、低湿地にあった本堂、古裡等を境内の高地に移築しました。これが現在の伽藍で五輪石塔及び霊廟、墓表の碑は建立当時のまま現在地にあります。
長治の命日の4月17日には関係の老若男女が相集まり、公の冥福を祈る法要が続けられています。
また三幅の三木城合戦絵図により、当時の壮烈な戦況と、公の遺徳を偲ぶ「絵説き」の行事が絶えることなく続けられています。
(現地説明板などより)
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這田村法界寺山ノ上付城は、三木と姫路を結ぶ湯の山街道の南側に建つ法界寺の山上に位置します。
北東に三木城跡とその先に秀吉の本陣平井山ノ上付城跡を見通すことができます。
城主は羽柴秀吉の重臣、宮部継潤と伝わっています。
城は主郭と副郭を中心部とし、その北側斜面に広がる段状の平坦地群や主郭南側の土塁に区切られた空間に軍勢が駐屯したと考えられています。
なお、別所氏を支援する毛利軍が明石方面から三木城へ兵糧を運び込むのを防ぐために織田方が築いた土塁が、当城を起点として築かれており、この城の南東側には6条からなる土塁(朝日ヶ丘土塁)が残っています。
平成25(2013)年3月、「三木城跡及び付城・土塁」として国の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
這田村法界寺山ノ上付城 - 01 posted by
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這田村法界寺山ノ上付城 - 03 posted by
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這田村法界寺山ノ上付城 - 08 posted by
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朝日ヶ丘土塁は、這田村法界寺山ノ上付城の南東に位置する三木城攻めの際に築かれた土塁である包囲網多重土塁の一つです。
包囲網多重土塁は、三木城の南側に築かれた2~4重の土塁で、法界寺裏山の付城から二位谷奥の付城までの各付城を結び、包囲網を構成しています。
この包囲網は別所氏と同盟関係にある中国地方の大名毛利氏が、兵糧を明石の魚住の浜に陸揚げし、三木城へ搬入していたことから、これを阻止するために築かれたもので、総延長は約4kmに及んだと推測されます。土塁の高さは約0.3~1.5mを測る比較的低いものですが、兵糧を積んだ荷車が幾重にも築かれた土塁を越えるのは困難だったと考えられます。
国有林内には、この多重土塁のほかにも数ヶ所で残っています。
三木市で遺跡として把握しているのが32遺跡、内25遺跡が現存しています。
(現地説明板などより)
平成25(2013)年3月、「三木城跡及び付城・土塁」として国の史跡に指定されています。
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高木大塚城は三木城を兵糧攻めにするため築かれた30余りの付城の一つです。
朝日ヶ丘団地隅の一角、ホースランドパーク敷地端に立地しています。城を守っていた武将は不明だそうですが、「播州三木城地図」に描かれており、天正7(1579)年4月に織田信忠の軍が築いた6箇所の付城の一つである可能性があります。
周辺に古墳(塚)が点在することから、古墳群中最も大きい古墳を利用して築かれたものと考えられています。このことからこの付城を「大塚」の名称を用いて「大塚城」と呼ばれています。
朝日が丘団地内に所在し、土塁などがよく残っています。
平成25(2013)年3月、「三木城跡及び付城・土塁」として国の史跡に指定されています。
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藤原惺窩誕生地の
細川館です。
冷泉家は藤原道長の六男長家を祖とします。
定家の子・為家の子の時に二条・京極・冷泉の三家となり、長男・二条為氏、次男・京極為教、そして三男・冷泉為相は細川荘を領有しました。為氏と為相の細川荘の相続争いは為相の母阿仏尼の著書である十六夜日記に書かれています。訴訟の結果、細川荘は、冷泉家の領有となりました。
室町時代の中頃、冷泉家は故あって二つに分かれました。水上にあった方を上冷泉家、水下にあった方を下冷泉家と区別して呼ぶようになり、細川荘は、下冷泉家に引き継がれました。
細川館は下冷泉家が代々細川荘を支配してきた館城です。応仁の乱の後、政為、為孝、為豊、為純と戦火を逃れてこの地に住みました。
戦国~江戸時代の儒学者藤原惺窩は為純の第3子としてこの地で生まれました。天正6(1578)年18歳の時、父為純、兄為勝が三木城主別所長治に滅ぼされました。
惺窩は龍野の景雲寺において禅僧として修行していたため難を逃れました。惺窩は、母や弟妹を伴い、京都に逃れ相国寺に入りました。
その後勉学に励み近世儒学(朱子学)の開祖と仰がれるようになりました。特に朝鮮出兵の捕虜として抑留された儒学者姜沆との出会いで感化を受け、徳川家康には知遇を受け江戸にも招かれ儒学を度々伝授しましたが、学問の自由を守って仕官はすることなく、洛北市原に山荘を構え学研に励みました。
元和5(1619)年9月12日、59歳の生涯を終えました。門弟の林羅山、松永尺五、那波活所、堀杏庵は四天王といわれています。
下冷泉家は、一旦廃絶しましたが惺窩の子、為景が再興を許され公卿として代々朝廷に仕えました。
(現地説明板より)
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