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2014年04月27日 イイね!

舞鶴・丹波山家〔綾部市〕(その3・山家陣屋と山家城)

山家陣屋(山家城)は、谷出羽守衛友が天正10(1582)年、秀吉より一万六千石をもって、美濃国から封ぜられた、谷藩政中心の地です。
藩主谷出羽守衛友の父は、大膳亮衛好といい織田信長に仕え、天正4(1576)年の大阪本願寺攻めに軍功をあげ家紋「揚羽蝶」を賜りましたが、天正7(1577)年播州三木城別所長治を攻め討死し、三木の如意山金剛寺に祀られました。(大膳郭に墓地)
山家初代藩主出羽守衛友は、父衛好と共に三木城攻めに加わり、父討死のとき、その屍を奪い返し仇を討ち取りました。このときの勇戦の感状を、秀吉から家紋「五三の桐」を受け6200石を加増され、山家に封ぜられました。
城址内の灯籠には、こうした史実を止める「揚羽蝶」と「五三の桐」の紋が残されています。
2代衛政の時、六千石を弟と甥などに分地し一万石となって明治まで続きました。
現在は山家城址公園となっていて、谷氏の祖先を奉った谷霊神社や模擬陣屋櫓門が建てられています。
また、公園の西側や北側には土塁や石垣、空堀などが残っています。
隣接地の山側には式内社の伊也神社があり、神社のある山の山頂には中世城郭の山家城があります。
山家陣屋(山家城) - 01
山家陣屋(山家城) - 01 posted by (C)pismo

山家陣屋(山家城) - 02
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山家陣屋(山家城) - 03
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山家陣屋(山家城) - 04
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山家陣屋(山家城) - 05
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山家陣屋(山家城) - 06
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山家陣屋(山家城) - 07
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山家陣屋(山家城) - 08
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山家陣屋(山家城) - 09
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山家陣屋(山家城) - 10
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山家陣屋(山家城) - 11
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山家陣屋(山家城) - 12
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伊也神社は山家城(甲ヶ峯城・左衛門屋敷)の登り口にある神社です。
崇神天皇の御代、丹波道主命がこの地に来られ、甲ヶ峯の麓に宮を築き祀られたのが始まりです。
何鹿郡延喜式12座の一つに数えられています。
天正年間火災により焼失し、その跡を御社(ごしゃ)と呼んでいましたが、文化7(1810)年10月、従二位清原宣光公の願成就により現在地に御本殿を移転新築されました。
明治3(1870)年、山家陣屋の火災が類焼し、翌年に再建されました。昭和55(1980)年に修復されました。
(現地説明板より)
伊也神社 - 1
伊也神社 - 1 posted by (C)pismo

伊也神社 - 2
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伊也神社 - 3
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山家城(甲ヶ峯城・左衛門屋敷)は、由良川本流と支流林川の合流点の東側に聳える甲ヶ峯(標高238m)の山頂に築かれた要害性の高い山城です。
戦国時代、城主和久氏(左衛門佐・左衛門大夫)は、ここを拠点として山家郷一帯を支配していました。
織田信長による丹波統一後は明智光秀の配下となりましたが、城破却の命に従わず、天正8(1580)年に滅亡しました。
主郭(本丸・二の丸)は二段に区画され、東西約50m、南北約20m、面積は約1,000平方メートルです。
西麓からの尾根路を八の字型の空堀で遮断し、主郭への進入路の虎口付近も堀と土塁で固めています。東尾根からの侵入は深い空堀と土塁で防御し、南壁の帯曲輪も防御線としては有効です。
北方の尾根には支城(照福寺跡)があります。照福寺は和久氏の菩提所で現在は鷹栖町にあります。かつては、この甲ヶ峯に故地があったと伝えられています。寺院の跡ですが、南北に虎口や曲輪を配し、東に土塁を設けるなど、小規模ながら砦としての機能を備えています。和久氏はここを寺庵と称して城破却の命に従わず、討伐を受ける原因となりました。(福知山市御霊神社文書)
(現地説明板より)
山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 01
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 02
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 03
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 04
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 05
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 06
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 07
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 08
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 09
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 10
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 11
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 12
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 13
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 14
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山家城〔甲ヶ峯城・左衛門屋敷〕 - 15
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Posted at 2014/05/11 23:43:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年04月27日 イイね!

舞鶴・丹波山家〔綾部市〕(その2・舞鶴赤レンガ倉庫群とその周辺)

舞鶴赤レンガ倉庫群は、舞鶴市役所周辺にある旧舞鶴海軍軍需部本部地区の赤レンガ倉庫群です。
12棟の赤煉瓦倉庫が残り、北吸赤れんが倉庫群とも呼ばれます。文化財指定名称は舞鶴旧鎮守府倉庫施設で、国の重要文化財に指定され、近代化産業遺産に認定されています。
かつては、舞鶴の地に舞鶴鎮守府が置かれ、旧日本海軍により倉庫として赤煉瓦造りの建築物が建てられたのが今も残されているものです。
旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫(赤レンガ1号棟)は赤レンガ博物館に、旧舞鶴海軍兵器廠予備艦兵器庫 (赤レンガ2号棟)は催し事を行うホールや、近代から現代までの舞鶴市の歩みを紹介するコーナーがある舞鶴市政記念館に、旧舞鶴海軍兵器廠弾丸庫並小銃庫(赤れんが3号棟)は浦入遺跡から出土した日本最古、最大級とされる丸木舟や旧国鉄中舞鶴線を再現したジオラマや倉庫内に引き込まれていたレールとディーゼル機関車を展示しているまいづる智恵蔵に、旧舞鶴海軍兵器廠雑器庫並預兵器庫(赤レンガ4号棟)は 赤レンガ工房に、旧舞鶴海軍軍需部第三水雷庫(赤レンガ5号棟)は赤レンガイベントホールとして活用されています。
「バルトの楽園」「男たちの大和/YAMATO」「坂の上の雲」などのロケ地にも使用されました。
舞鶴赤レンガ倉庫群 - 01
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舞鶴赤レンガ倉庫群 - 02
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舞鶴赤レンガ倉庫群 - 03
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舞鶴赤レンガ倉庫群 - 04
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舞鶴赤レンガ倉庫群 - 05
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舞鶴赤レンガ倉庫群 - 06
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舞鶴赤レンガ倉庫群 - 07
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舞鶴赤レンガ倉庫群 - 08
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舞鶴赤レンガ倉庫群 - 09
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舞鶴赤レンガ倉庫群 - 10
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舞鶴赤レンガ倉庫群 - 11
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舞鶴赤レンガ倉庫群 - 12
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旧海軍関係の資料などを展示している海軍記念館です。
舞鶴は、明治34(1901)年10月1日東郷平八郎中将を初代司令長官として鎮守府が設置され、以来半世紀にわたり日本海に臨む唯一の軍港として変遷を重ねてきました。
昭和5(1930)年、海軍機関学校の校舎(現在の舞鶴地方総監部)が竣工し、昭和8(1933)年には海軍機関学校大講堂(現在の海軍記念館)が竣工しました。
海軍記念館は昭和39(1964)年5月27日に戦前海軍機関学校大講堂の建物だった海上自衛隊舞鶴地方総監部大講堂の一部を利用して設置されました。旧海軍の誇り高い史実と伝統を後世に伝えるとともに、自衛隊員の教育に資することを目的として設置されたもので、初代司令長官東郷平八郎に関連する資料など貴重な記念品、資料等200余点が展示されています。
(パンフレットなどより)
海軍記念館 - 01
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海軍記念館 - 02
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海軍記念館 - 03
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国の重要文化財に指定されている舞鶴旧鎮守府水道施設・旧北吸浄水場配水池です。
海軍は明治34(1901)年の舞鶴鎮守府開庁にむけて、軍港内の諸施設用と艦艇用に大量の飲料水を確保するため、与保呂地区の桂貯水池と北吸浄水場を完成させ、約6km離れた貯水池から、約100mの高低差を利用してここまで送水しました。
配水池の深さはそれぞれ約5.6mあり、水が淀むのを防ぐため、池の東西壁から煉瓦造の導水壁が交互に5列設けられています。第一配水池の壁は石張コンクリート造で、鋳造鉄管には海軍を示す波型マークと明治32(1889)年の鋳出銘があります。
また、煉瓦造の上屋は大正15(1926)年に建てられたもので、切妻造で妻入りとし、屋根は鉄骨トラス組、波トタン葺です。
中央の入口は、上部に煉瓦アーチを施したロマネスク風の洒落たデザインで、壁は煉瓦造で四周に縦長窓を配しています。
平成15(2003)年12月、文化庁から「舞鶴旧鎮守府水道施設は、軍部の建設による最古期の本格的水道施設であるばかりでなく時代的特色がよく表れた多様な堰堤遺構群がまとめて残っていて水道技術史上価値が高く、配水池、砂防施設等の付属施設は近代水道システム構成を知る上で重要である」として、与保呂地区の桂貯水池や岸谷貯水池などとともに、明治から大正期の旧海軍上水道諸施設が一構で国の重要文化財に指定されました。
(現地説明板などより)
旧北吸浄水場配水池 - 1
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旧北吸浄水場配水池 - 2
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旧北吸浄水場配水池 - 3
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旧北吸浄水場配水池 - 4
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北吸トンネルは、明治37(1904)年に軍港引込線として設けられた、れんがづくりのトンネルです。
大正8(1919)年に国鉄線として開業し舞鶴線の支線で新舞鶴駅~中舞鶴駅間を結ぶ通称中舞鶴線となり、新舞鶴駅と中舞鶴駅の間に東門駅が設けられました。
北吸トンネルは新舞鶴駅と東門駅の間に位置し、後に、新舞鶴駅を東舞鶴駅に、東門駅を北吸駅に改称されました。
そして、中舞鶴線は昭和47(1972)年11月1日にに廃線となりました。
現在は自転車・歩行者道路として活用されています。北吸トンネルは赤レンガの美しいアーチ型のトンネルとして現在も親しまれています。
北吸トンネル - 1
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北吸トンネル - 2
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北吸トンネル - 3
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北吸トンネル - 4
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Posted at 2014/05/11 23:28:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年04月27日 イイね!

舞鶴・丹波山家〔綾部市〕(その1・田辺城とその周辺)

田辺城は、細川藤孝が築いた城です。
室町時代、丹後守護の一色氏は八田の守護館と詰城として建部山城を居城としていました。
天正6(1578)年、織田信長の命によって細川藤孝(幽斉)は建部山城の一色義道を滅ぼし、丹後を制圧しました。藤孝は宮津城を居城としつつも、交通の要所をおさえるべく田辺城を築かせ、嫡男の細川忠興を入城させました。
関ヶ原の戦いの時は、東軍に味方した細川幽斎は籠城し、小野木重勝や豊臣家の重臣前田玄以の子前田茂勝が率いる西軍が1万5千人もの大軍で包囲しましたが頑強に抵抗しました。
後陽成天皇は、歌道の奥義を学んだ古今伝授者であった幽斎の討死にを恐れ、勅命講和を命じました。田辺城は開城しましたが、西軍の1万5千人の兵力が丹後に留められることになり、東軍に有利に働きました。
関ヶ原の戦いの後は、京極高知が丹後一国12万3千石を与えられ仮に田辺城に入城しましたが、宮津城を再築し宮津城へ本拠地を移しました。
一国一城で破城されましたが、高知の遺言によって京極家は嫡男・高広が宮津藩7万5千石、次男・高三が田辺藩(舞鶴藩)3万5千石、養子・高信が峰山藩1万3千石を相続し、高三により石垣の修復や櫓の再建が図られ、荒廃していた田辺城は再興されました。京極氏は高直、高盛とつづきましたが、高盛の代の寛文8(1668)年、但馬豊岡に移封され、牧野親成が城主となり、幕末まで牧野氏の領地でした。

明治2(1869)年、版籍奉還が行われ、紀州田辺藩との混同を避けるため、太政官より名称変更を命じられ、田辺城の雅号、舞鶴城に因み舞鶴藩に改称されました。
明治6(1873)年、廃城となりました。
昭和15(1940)年、二層櫓の彰古館が復興され、平成4(1997)年、本来の外堀の上に田辺城資料館が建てられました。
田辺城 - 01
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田辺城 - 02
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田辺城 - 03
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田辺城 - 09
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田辺城 - 10
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田辺城 - 11
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明倫館は、天明年間(1781~1788)に藩校明倫齋として創立したのが始まりです。
明倫とは孟子滕文公篇の一説「庠序学校を説為して以って之を教う(伝々)皆人倫を明らかにする所以なり」(人の道を明らかにして教え導く学校の意味)より名付けられました。
文久年間(1861~1863)年に「明倫館」と改められました。
明治5(1872)年の学生の頒布により明倫校となりました。
正門は「明倫館」当時のものを移築したもので、昔ながらの面影を今に伝えています。
明倫館正門 - 1
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明倫館正門 - 2
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Posted at 2014/05/11 22:41:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年04月19日 イイね!

宍粟市山崎町・姫路市安富町・佐用町(その4・飛龍の滝・上月城・福原城〔佐用城〕)

飛龍の滝は、上月町櫛田の滝谷地内を南から北へ流れる滝谷川の上流にあります。
落差20m、佐用町随一の規模を誇ります。
「仰ぎ見る 木の間の空に 虹たちて 滝のしぶきに 濡るるもろ袖」とも詠われている飛龍の滝は、四季折々の風韻があり、冬の極寒時の凍り付いた姿は神秘的です。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」のオープニングではロケ地となり、プロジェクションマッピングを使用して撮影がされました。
飛龍の滝 - 01
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飛龍の滝 - 02
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飛龍の滝 - 03
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飛龍の滝 - 04
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飛龍の滝 - 05
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飛龍の滝 - 06
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飛龍の滝 - 07
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飛龍の滝 - 08
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飛龍の滝 - 09
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飛龍の滝 - 10
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飛龍の滝 - 11
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飛龍の滝 - 12
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飛龍の滝 - 13
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上月城は、鎌倉末期に上月次郎景盛が、太平山(樫山)に初めて築いたのが始まりとされています。
上月氏は景盛、盛忠、善景、景満と続きますが、上月氏はその間に荒神山、現在の上月城址に移りました。
弘治2(1555)年赤松政則の孫赤松政之が置塩城より上月城に入りました。
上月城は、鎌倉時代末期に上月次郎景盛が、太平山(樫山)に初めて築いたのが始まりとされています。
上月氏は景盛、盛忠、善景、景満と続きますが、上月氏はその間に谷を隔てた南側の荒神山に移したと推定されます。これが現在の上月城址で、中世山城の形態を良く残しています。
赤松氏は、播磨・備前・美作三ヶ国の守護など大きな勢力を持っていましたが、嘉吉の乱で惣領家が没略することになり、播磨も山名氏の支配する所になりました。その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を回復することになりますが、山名、赤松、尼子などが攻防を繰り広げることになります。
弘治2(1555)年赤松政則の孫赤松政之が置塩城より上月城に入りました。
天正5(1577)年、織田信長は毛利氏攻めのため、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利に組した福原則尚(則就)が守る佐用の福原城を攻略し、高倉山を本陣を置き1万5千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、12月3日に遂に落城し、上月城主赤松政範は自刃して果てました。秀吉は城中将士の首を悉くはねた上、見せしめのため城中の女子子供200人を串刺と磔にして備前美作播磨の国境付近にさらしました。(第1次上月合戦)。
上月城を落した秀吉は、出雲奪還をはかる尼子勝久、山中鹿介に上月城の守備に残しました。上月城に入った尼子氏は一時、宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は之を上月十郎景貞に守らしましたが再び秀吉軍により落城したとされます。景貞は、敗退中櫛田の山中で自刃したと伝えられます。
再び尼子勝久、山中鹿介は上月城に入りましたが、毛利軍は山陰、山陽の両道より3万の軍勢を以て、天正6(1578)年4月18日、上月城を包囲しました。秀吉は急ぎ救援のため、高倉山に陣を進めましたが、信長の命で三木城の別所氏攻略のため、6月26日高倉山より兵を引きました。
このため上月城は孤立し遂に7月5日勝久は毛利氏に降伏し開城自刃しました。山中鹿介は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、備中高梁・阿井の渡しで殺されてしまいました。
城大手門付近には尼子勝久や山中鹿介の慰霊塔、本丸には文政8(1825)年赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義章が250回忌を営んだ際に建立した赤松政範の慰霊碑が建っています。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」第14話「引き裂かれる姉妹」の官兵衛紀行で紹介されました。
上月城 - 01
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上月城 - 02
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上月城 - 03
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上月城 - 04
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上月城 - 05
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上月城 - 06
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上月城 - 07
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上月城 - 08
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上月城 - 09
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福原城(佐用城)は、元弘3(1331)年4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越尾張守高家をただ一箭に打ち取った佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうち福原氏がその城を継いだので、福原城とも呼ばれています。
戦国時代末期には、西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していましたが、天正5(1577)年11月27日織田信長配下の羽柴秀吉は黒田(小寺)官兵衛と竹中半兵衛等に福原城の攻撃を命じました。
黒田、竹中隊は攻城に苦戦しましたが、蜂須賀勢の加勢により優勢となりました。蜂須賀勢は搦手から多くの鉄砲を撃ち、城兵が分散した所、大手側から黒田隊が城主を誘い出し、その隙に竹中隊が城を攻略したと「播州佐用軍記」では伝えています。
黒田家の記録「黒田家譜」では、官兵衛が三方を囲み、一方を開けておく孫子の兵法「囲師必闕」によって落城させたと記されています。
現在、城跡には福原霊社(俗に頭〔こうべ〕様)が建てられています。落城時の城主だった福原藤馬允則尚の首級を祀るための一社で土地の人々により建てられました。霊社は、土塁上にあり、社の向かって右側の平坦地が本丸跡で、現在は農地となっています。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」第14話「引き裂かれる姉妹」の官兵衛紀行で紹介されました。
福原城(佐用城) - 01
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福原城(佐用城) - 02
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福原城(佐用城) - 03
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福原城(佐用城) - 04
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福原城(佐用城) - 05
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福原城(佐用城) - 06
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福原城(佐用城) - 07
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福原城(佐用城) - 09
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2014年04月19日 イイね!

宍粟市山崎町・姫路市安富町・佐用町(その3・篠ノ丸城・明證寺・塩田城)

再び、宍粟市山崎町です。
篠ノ丸城(ささのまるじょう)は南北朝時代初期に釜内小次郎範春により築城されたとされています。
また、「赤松家播備作城記」では、南北朝時代に赤松貞範の長男顕則が初めて篠ノ丸城を築いたとしています。
赤松一族の西播磨守護代宇野氏は、宍粟郡広瀬(山崎町中心部)に居館を置き、その背後の山上に築かれた城が篠ノ丸城です。
その後嘉吉の乱により落城しましたが、赤松政則が赤松家を復興させた時に篠ノ丸城も宇野氏を城主に迎えました。
しかし、天文7(1571)年に出雲の尼子氏の侵略を受けました。そして、その後宇野政頼の長男満景が城主となりましたが、天正2(1574)年、父子の不和から政頼は満景を廃嫡し殺害したと伝えられています。その後、家臣の内海左兵衛が城代となりましたが、天正8(1580)年の羽柴秀吉の攻撃により長水城と共に落城しました。
黒田家の正史「黒田家譜」は、宇野氏滅亡後に黒田官兵衛が「山崎の城」に居城したと記しており、これを篠ノ丸城にあてる説があります。確実な史料から官兵衛が山崎を領有するのは天正12(1584)年7月のことで、天正15(1587)年7月に豊前に移封となるまでこの地を治めました。
なお、江戸前期に成立した「宍粟郡守令交代記」には「役人・奉行・当地に居住といへり」とあり、平素は多忙な官兵衛にかわり代官が在城していたと考えられます。
官兵衛の後は天正15(1587)年に木下勝俊が龍野から入封してきました。その時に篠ノ丸城は廃城となり、平城である山崎城が築かれました。
城は、北西から延びる山塊の東端(篠山、標高324m)に長方形の主郭(東西40m、南北50m)を置いています。主郭は、南西側に土塁と堀を備え、現状では南側の土塁中央が開口し「出入り口」となっています。
主郭西側の尾根上には南北両側を通路に取り囲まれた方形郭が連なり、尾根西端を三重の堀切で遮断しています。主郭から北側へも尾根上に二列の方形郭を段々に連ね、その東西両側に通路を設けています。
篠ノ丸城の最大の特徴は、北端の出入り口から西端三重堀切の間の傾斜の緩やかな北側斜面が、畝状竪堀群で覆い尽くされていることです。竪堀群の上には横堀、土塁、通路が対応して城の北西面の守りを固めており他に類例のない仕様となっています。このような竪堀群は本城の長水城には見られない一方で、篠ノ丸城では長水城のような石垣の使用は確認されていません。
(現地説明板より)
車で最上山公園に登り、そこから歩いて15分程度の道のりを歩きます。頂上には堀の跡、石碑、慰霊塔があります。
篠ノ丸城 - 01
篠ノ丸城 - 01 posted by (C)pismo

篠ノ丸城 - 02
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篠ノ丸城 - 03
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篠ノ丸城 - 04
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篠ノ丸城 - 05
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篠ノ丸城 - 06
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篠ノ丸城 - 07
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篠ノ丸城 - 08
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篠ノ丸城 - 09
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篠ノ丸城 - 10
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篠ノ丸城 - 11
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篠ノ丸城 - 12
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篠ノ丸城 - 13
篠ノ丸城 - 13 posted by (C)pismo

篠ノ丸城 - 14
篠ノ丸城 - 14 posted by (C)pismo

篠ノ丸城 - 15
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篠ノ丸城 - 16
篠ノ丸城 - 16 posted by (C)pismo

篠ノ丸城 - 17
篠ノ丸城 - 17 posted by (C)pismo

篠ノ丸城 - 19
篠ノ丸城 - 19 posted by (C)pismo

篠ノ丸城 - 20
篠ノ丸城 - 20 posted by (C)pismo

明證寺(みょうしょうじ)は、山号は菩提山、浄土真宗本願寺派の寺院です。
黒田官兵衛の最初の主君、小寺政職の父、小寺則職が、美作岩屋城の戦いで倒れた仲間を弔うため、建立したと伝えられています。
近くには小寺政職が居城していたことがあると伝えられている塩田城があります。

明證寺 - 1
明證寺 - 1 posted by (C)pismo

明證寺 - 2
明證寺 - 2 posted by (C)pismo

塩田城は、塩田地区を流れる菅野川右岸の標高236mの尾根上に築かれた山城で、戦国時代中頃に地元の土豪菅野氏によって築城されたと伝えられています。
城郭としての規模は小さいものの、尾根の突端に東西約20m、南北約36mの主郭を置き、北側に高さ7mの土塁・石積を設け、幅約1.2m、深さ約1.5mの堀切で二重に遮断して、尾根から来る敵の侵入を防いでいます。また、主郭南側のやや下がった場所に腰郭を設けていて、北西側にも帯郭を配して防備を固めています。
塩田城の対岸には、かつて荘園の中心地であったことを示す「政所」の地名が残ります。また、ここは青木方面と葛根方面からの道が交差し、東へ峠を越えると宇野氏の本拠である長水城下へと至る地点であるため、実際には街道を監視する番所的な城だったと考えられます。
江戸中期に成立した「播磨鑑」では、黒田官兵衛の主人・小寺政職が、天文12(1543)年から天文14(1545)年の間、「塩田構居」(平城)に居城していたと伝えられています。小寺氏の在所は当時の史料からは確認できませんが、近辺の明證寺(浄土真宗)は小寺氏所縁の寺院と云われており、この地域では小寺氏に関わる伝承が古くから語り継がれてきたようです。
塩田城 - 01
塩田城 - 01 posted by (C)pismo

塩田城 - 02
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塩田城 - 03
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塩田城 - 04
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塩田城 - 05
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塩田城 - 06
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Posted at 2014/04/22 21:12:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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