飛龍の滝は、上月町櫛田の滝谷地内を南から北へ流れる滝谷川の上流にあります。
落差20m、佐用町随一の規模を誇ります。
「仰ぎ見る 木の間の空に 虹たちて 滝のしぶきに 濡るるもろ袖」とも詠われている飛龍の滝は、四季折々の風韻があり、冬の極寒時の凍り付いた姿は神秘的です。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」のオープニングではロケ地となり、プロジェクションマッピングを使用して撮影がされました。
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上月城は、鎌倉末期に上月次郎景盛が、太平山(樫山)に初めて築いたのが始まりとされています。
上月氏は景盛、盛忠、善景、景満と続きますが、上月氏はその間に荒神山、現在の上月城址に移りました。
弘治2(1555)年赤松政則の孫赤松政之が置塩城より上月城に入りました。
上月城は、鎌倉時代末期に上月次郎景盛が、太平山(樫山)に初めて築いたのが始まりとされています。
上月氏は景盛、盛忠、善景、景満と続きますが、上月氏はその間に谷を隔てた南側の荒神山に移したと推定されます。これが現在の上月城址で、中世山城の形態を良く残しています。
赤松氏は、播磨・備前・美作三ヶ国の守護など大きな勢力を持っていましたが、嘉吉の乱で惣領家が没略することになり、播磨も山名氏の支配する所になりました。その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を回復することになりますが、山名、赤松、尼子などが攻防を繰り広げることになります。
弘治2(1555)年赤松政則の孫赤松政之が置塩城より上月城に入りました。
天正5(1577)年、織田信長は毛利氏攻めのため、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利に組した福原則尚(則就)が守る佐用の福原城を攻略し、高倉山を本陣を置き1万5千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、12月3日に遂に落城し、上月城主赤松政範は自刃して果てました。秀吉は城中将士の首を悉くはねた上、見せしめのため城中の女子子供200人を串刺と磔にして備前美作播磨の国境付近にさらしました。(第1次上月合戦)。
上月城を落した秀吉は、出雲奪還をはかる尼子勝久、山中鹿介に上月城の守備に残しました。上月城に入った尼子氏は一時、宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は之を上月十郎景貞に守らしましたが再び秀吉軍により落城したとされます。景貞は、敗退中櫛田の山中で自刃したと伝えられます。
再び尼子勝久、山中鹿介は上月城に入りましたが、毛利軍は山陰、山陽の両道より3万の軍勢を以て、天正6(1578)年4月18日、上月城を包囲しました。秀吉は急ぎ救援のため、高倉山に陣を進めましたが、信長の命で三木城の別所氏攻略のため、6月26日高倉山より兵を引きました。
このため上月城は孤立し遂に7月5日勝久は毛利氏に降伏し開城自刃しました。山中鹿介は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、備中高梁・阿井の渡しで殺されてしまいました。
城大手門付近には尼子勝久や山中鹿介の慰霊塔、本丸には文政8(1825)年赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義章が250回忌を営んだ際に建立した赤松政範の慰霊碑が建っています。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」第14話「引き裂かれる姉妹」の官兵衛紀行で紹介されました。
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福原城(佐用城)は、元弘3(1331)年4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越尾張守高家をただ一箭に打ち取った佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうち福原氏がその城を継いだので、福原城とも呼ばれています。
戦国時代末期には、西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していましたが、天正5(1577)年11月27日織田信長配下の羽柴秀吉は黒田(小寺)官兵衛と竹中半兵衛等に福原城の攻撃を命じました。
黒田、竹中隊は攻城に苦戦しましたが、蜂須賀勢の加勢により優勢となりました。蜂須賀勢は搦手から多くの鉄砲を撃ち、城兵が分散した所、大手側から黒田隊が城主を誘い出し、その隙に竹中隊が城を攻略したと「播州佐用軍記」では伝えています。
黒田家の記録「黒田家譜」では、官兵衛が三方を囲み、一方を開けておく孫子の兵法「囲師必闕」によって落城させたと記されています。
現在、城跡には福原霊社(俗に頭〔こうべ〕様)が建てられています。落城時の城主だった福原藤馬允則尚の首級を祀るための一社で土地の人々により建てられました。霊社は、土塁上にあり、社の向かって右側の平坦地が本丸跡で、現在は農地となっています。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」第14話「引き裂かれる姉妹」の官兵衛紀行で紹介されました。
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Posted at 2014/04/26 22:34:58 | |
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