• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ピズモのブログ一覧

2015年07月25日 イイね!

MIHO MUSEUMと甲賀の城

MIHOミュージアムは、信楽の山の方にある規模の大きい美術館です。
「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」を見に行きました。若冲の緻密な描写と蕪村の山水画、初めて見る作品もあり、楽しめました。
MIHO MUSEUM - 01
MIHO MUSEUM - 01 posted by (C)pismo

MIHO MUSEUM - 02
MIHO MUSEUM - 02 posted by (C)pismo

MIHO MUSEUM - 03
MIHO MUSEUM - 03 posted by (C)pismo

MIHO MUSEUM - 04
MIHO MUSEUM - 04 posted by (C)pismo

MIHO MUSEUM - 05
MIHO MUSEUM - 05 posted by (C)pismo

MIHO MUSEUM - 06
MIHO MUSEUM - 06 posted by (C)pismo

MIHO MUSEUM - 07
MIHO MUSEUM - 07 posted by (C)pismo

MIHO MUSEUM - 08
MIHO MUSEUM - 08 posted by (C)pismo

油日館は、油日神社の西側にあります。
築城年代や築城者は不明ですが、油日城共々上野氏が城主であったと考えられています。
現在は、跡地に石碑が建っています。
油日館
油日館 posted by (C)pismo

油日神社は、油日大神を主祭神とし、東相殿に罔象女神、西相殿に猿田彦神を祀る神社です。
創祀年代は不詳ですが、用明天皇または天武天皇の時代の創建と伝えられています。油日岳の山頂に油の火のような光とともに油日神が降臨したことから「油日」の名がついたと伝えられています。
「日本三代実録」の元慶元(878)年に「「油日神」の記述が見られるので、この頃には既に神社としての形態を持っていたことがわかっています。
本殿には「正一位油日大明神」と記した明応2(1493年)年の棟札があります。中世には「甲賀の総社」とされていました。
明治39(1906)年7月に県社に列格し、明治44(1911)年、村内の10社を境内社として合祀しました。
油の神として全国油業者の信仰を集めています。本殿の他、桃山時代の建築の拝殿、楼門、廻廊は国指定の重要文化財です。
油日神社 - 01
油日神社 - 01 posted by (C)pismo

油日神社 - 02
油日神社 - 02 posted by (C)pismo

油日神社 - 03
油日神社 - 03 posted by (C)pismo

油日神社 - 04
油日神社 - 04 posted by (C)pismo

油日神社 - 05
油日神社 - 05 posted by (C)pismo

油日神社 - 06
油日神社 - 06 posted by (C)pismo

油日神社 - 07
油日神社 - 07 posted by (C)pismo

油日神社 - 08
油日神社 - 08 posted by (C)pismo

油日神社 - 09
油日神社 - 09 posted by (C)pismo

油日神社 - 10
油日神社 - 10 posted by (C)pismo

油日神社 - 11
油日神社 - 11 posted by (C)pismo


甲賀市甲賀町に所在する城館群は、中世にこの地を支配した豪族、和田氏に関連する遺跡群と指定され、和田川に沿って開けた和田谷を見下ろす丘陵上には、9つの城館跡が存在し、甲賀市内でも特に城が密集している地域です。
和田城は和田谷の城館群の中でも最も谷奥に位置し、和田川左岸に築かれた複数の城と和田川の谷筋を見渡せる丘陵上に築城された中世城館です。
丘陵の上部に1辺50mの方形の主郭を設け、西に向けて虎口が開口し、主郭を取り囲む土塁の幅や高さが全て異なるなどの特徴を有しています。
南の土塁は幅20m、高さ7mを測り、上部を平坦にした構造から、南方を見張る構造物があったことも推定でき、さらにその南には幅10m、深さ7mに及ぶ巨大な堀切が設けられ、尾根を切断し、南からの備えを強くしています。
主郭の西側前方、北方の丘陵の先端部には曲輪を設け、方形の主郭を中心としながらも周囲に曲輪を配した複雑な構造を見せています。
和田城は複数の城が連携して機能していたと考えられる和田谷の城郭の一つで、立地や構造から和田谷の城館群の中でも中心的な城であったと考えられます。
和田氏は中世、現在の甲賀町和田を支配した一族で、先祖は応和年間(961〜964)に和田を領有した源満政であるといわれ、足利義満の頃に和田へ移住したと伝えられています。近江国守護佐々木氏の重臣であり、五反田や毛牧を領有する土豪でした。
和田氏の中で戦国期の武将として知られた武将に和田惟政(1530〜1571)がいます。惟政は興福寺から亡命してきた一乗院覚慶(後の足利義昭)をかくまったことで知られ、後に将軍になった足利義昭に仕えました。しかし、同時に織田信長にも仕え、三好三人衆を撃退した功績により摂津国守護として任命され、茨木・高槻の城主を兼任、京都所司代になるなど信任厚き武将でした。
しかし、元亀2(1571)年に摂津国白井河原(現在の大阪府茨木市)で同じく摂津守護であった池田氏と戦い敗死しました。現在、墓は近江八幡市安土町の浄厳院にあり、甲賀町上野の極楽寺にも彼の五輪塔があります。
(現地説明板より)
和田城 - 01
和田城 - 01 posted by (C)pismo

和田城 - 02
和田城 - 02 posted by (C)pismo

和田城 - 03
和田城 - 03 posted by (C)pismo

和田城 - 04
和田城 - 04 posted by (C)pismo

和田城 - 05
和田城 - 05 posted by (C)pismo

和田城 - 06
和田城 - 06 posted by (C)pismo

和田城 - 07
和田城 - 07 posted by (C)pismo

和田城 - 08
和田城 - 08 posted by (C)pismo

和田谷の各所には谷全体を守るように複数の城館が築かれています。
北側は伊賀国柘植へ通じる街道をにらむように、公方屋敷支城、殿山城が配され、最も南に最大規模の和田城が築かれています。
和田支城Ⅰは、和田川左岸の最奥部に位置していて、谷側へ突出する丘陵の先端部に立地していて、対岸部には和田城があります。城歴や城主は不明です。
東西約25m、南北約35mの曲輪Ⅰ(主郭)と、その東側の一段下がったところに東西約50m、南北約35mの曲輪Ⅱ(副郭)を持ち、曲輪Ⅰの南面を除く三方向には土塁がめぐらされており、周囲は急峻な切岸を用い、防御性を高めています。
曲輪Ⅱの東北隅部には幅広の土塁が残されており、東方を監視する櫓台の痕跡の可能性があります。曲輪Ⅰの北側には帯曲輪が配され、さらにその外側には突出した腰曲輪が構えられています。
和田谷の諸城郭中では和田城とほぼ同規模かそれ以上の造作を行っていて、主要な城郭のひとつと考えられます。
(現地説明板より)
和田支城I - 01
和田支城I - 01 posted by (C)pismo

和田支城I - 02
和田支城I - 02 posted by (C)pismo

和田支城I - 03
和田支城I - 03 posted by (C)pismo

和田支城I - 04
和田支城I - 04 posted by (C)pismo

和田支城I - 05
和田支城I - 05 posted by (C)pismo

和田支城Ⅱは、1辺約30mの単郭方形で、北面と西面に土塁が残ります。土塁の高さは約5mあります。北側土塁の上面に一段高まりがあり、対岸から見下ろされることを嫌っての造作と思われます。西側土塁は南西隅から徐々に高さを減じ、南面では土塁は現存しません。虎口は東面中央に設けられていた可能性が高く、土塁の外周には空堀がめぐらされています。
西へと続く丘陵の尾根筋がカットされ、堀切が設けられており、ここまでが城域と判断できます。
和田支城Ⅱは、和田谷の城館群のなかでも和田城、和田支城Ⅰに次ぎ、比較的丁寧に築城されていて、中核的な城のひとつと考えられます。
(現地説明板より)
和田支城II - 01
和田支城II - 01 posted by (C)pismo

和田支城II - 02
和田支城II - 02 posted by (C)pismo

和田支城Ⅲは、東西約45m、南北約50mの曲輪を持ち、周囲を土塁で囲まれています。現状約2ヶ所で開口しますが、南辺の開口部下には腰曲輪状の小削平地があり、虎口受けに相当すると考えられることから南辺が虎口であった可能性が高いと思われます。
土塁外側の尾根続きには人為的な堀切は認められず、自然地形のままですが、本来堀切を設けるべき位置が丘陵鞍部となっていて、これが堀切の役目を果たしていたと推測されます。
和田支城Ⅲは、規模こそあまり大きくなく、縄張も比較的単純ですが、土塁頂部からは和田谷の東方を見渡すことができ、物見台的な役割を持っていたと考えられます。谷の入口部の公方屋敷跡方面と谷奥の諸城を結ぶ役目を期待されていた可能性が考えられます。
(現地説明板より)
和田支城III - 01
和田支城III - 01 posted by (C)pismo

和田支城III - 02
和田支城III - 02 posted by (C)pismo

和田支城III - 03
和田支城III - 03 posted by (C)pismo

和田支城III - 04
和田支城III - 04 posted by (C)pismo

和田の町
和田の町 posted by (C)pismo

殿山城は、和田谷の北側入口の東側丘陵上に築かれている城です。
平安時代、和田満政が築城したと伝えられますが、詳細は不明です。
公方屋敷のすぐ東北に位置し、背後の堀切が立派です。
殿山城 - 01
殿山城 - 01 posted by (C)pismo

殿山城 - 02
殿山城 - 02 posted by (C)pismo

殿山城 - 03
殿山城 - 03 posted by (C)pismo

殿山城 - 04
殿山城 - 04 posted by (C)pismo

公方屋敷は室町幕府の第15代将軍足利義昭が一時居した屋敷で、当時の将軍は公方と呼ばれることから地元でも公方屋敷と伝えています。
室町時代末期は政権が不安定で、第13代将軍足利義輝が三好、松永氏等によって二条御所で殺害されますが、奈良興福寺一乗院の門主足利覚慶(義輝の弟)は身の危険を感じて、当地の城主和田伊賀守惟政の助けを借りて奈良を脱出し、この屋敷に亡命しました。
その後、和田氏の所領である野洲矢島(矢島御所)に移り、六角氏、浅井氏などに援助を申し入れますが断られ、織田信長によって室町幕府最後の将軍として奉じられて上洛しました。
この遺跡中央に庭園跡、周囲に屋敷跡が残っています。
(現地説明板より)
公方屋敷 - 01
公方屋敷 - 01 posted by (C)pismo

公方屋敷 - 02
公方屋敷 - 02 posted by (C)pismo

公方屋敷 - 03
公方屋敷 - 03 posted by (C)pismo

公方屋敷 - 04
公方屋敷 - 04 posted by (C)pismo

公方屋敷支城は、公方屋敷の西側、和田谷城館群の北側入口に位置し、和田川左岸にあります。
城名からすれば足利義昭の公方屋敷を守るために築かれたものと考えられます。
公方屋敷支城 - 01
公方屋敷支城 - 01 posted by (C)pismo

公方屋敷支城 - 02
公方屋敷支城 - 02 posted by (C)pismo

公方屋敷支城 - 03
公方屋敷支城 - 03 posted by (C)pismo

公方屋敷支城 - 04
公方屋敷支城 - 04 posted by (C)pismo
Posted at 2015/09/02 00:14:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2015年07月19日 イイね!

北海道・下北半島・宮古・盛岡紀行(4日目その2・盛岡)

この旅行もいよいよ最後です。
盛岡八幡宮は、誉田別命(応神天皇、八幡神)を主祭神とし、春日大神、白山大神を祀る神社です。
康平5(1062)年、源頼義が安倍氏討伐の際に、戦勝を祈願して石清水八幡を勧請したのに始まると伝えられています。「鳩森八幡宮」と称し、地元の豪族の日戸氏が代々崇敬しました。
文禄2(1593)年、南部氏が盛岡城を築城した際に城内鎮守の神社として再建されました。
延宝8(1680)年、南部重信は青森より南部氏の氏神であった櫛引八幡宮を勧請し、鳩森八幡宮の御旅所のあった現在地に祀って「新八幡」「南部新八幡」と称しました。
明治17(1884)年の盛岡大火などの災害や永年の風雪被害を受けて社殿は再建がくり返され、鳩森八幡宮を新八幡宮に遷座し、さらに明治22(1889)年、市内の白山神社を合祀しました。現在の社殿は平成9(1997)年12月に建てられたものです。
平成14(2002)年に正面一の鳥居が建て替えられました。旧鳥居は宝暦13(1763)年に南部利雄(南部藩8代藩主)によって築造されたもので、境内の別の場所に移築されています。
神事のチャグチャグ馬コ、例祭の山車行事、流鏑馬神事でも知られています。
盛岡八幡宮 - 01
盛岡八幡宮 - 01 posted by (C)pismo

盛岡八幡宮 - 02
盛岡八幡宮 - 02 posted by (C)pismo

盛岡八幡宮の境内には米内光政の銅像があります。
昭和34(1959)年、米内光政銅像建築会によって設立されました
米内光政は、明治13(1880)年3月、父受政、母とみの長男として、盛岡市下小路(愛宕町)に生まれました。
盛岡中学校を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍しました。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞しました。
昭和12(1937)年2月、林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対しました。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わりませんでした。
天皇の信頼も厚く、昭和15(1940)年には岩手県出身者としては3人目の内閣総理大臣に就任、しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任しました。太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力しました。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けました。
昭和23(1948)年4月20日に逝去、享年69歳でした。
(現地説明板などより)

銅像の台座には下記のように刻まれています。

米内光政氏は盛岡の人
若くして海軍に入り進んで大将大臣に至り又内閣総理大臣となる
昭和二十年八月太平洋戦争の終局に際し米内海軍大臣が一貫不動平和の 聖断を奉じて克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは永く日本国民の忘れてはならぬところである 
逝去十三年至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ぶ
昭和三十五年十月
後進 小泉信三
盛岡八幡宮・米内光政の銅像 - 03
盛岡八幡宮・米内光政の銅像 - 03 posted by (C)pismo

盛岡八幡宮・米内光政の銅像 - 04
盛岡八幡宮・米内光政の銅像 - 04 posted by (C)pismo

盛岡八幡宮の近くには米内光政居住地跡があります。
米内光政は盛岡の下小路(愛宕町)で生まれ、その後この地に移り住み幼少時代を八幡町で育ちました。
盛岡中学校(盛岡一高)を経て海軍兵学校に入り、以来連合艦隊司令長官、海軍大将、内閣総理大臣、そして海軍大臣として終戦を迎えました。
人格重厚沈勇、国家百年の計を思い対局を誤らず天皇の信任篤く、終戦内閣の中心閣僚として善処勇断よく祖国の潰滅を未然に護った偉業は、日本国民の永く銘記するところです。
八幡宮境内に等身大の銅像が建っています。
(現地説明板などより)
米内光政居住地跡 - 01
米内光政居住地跡 - 01 posted by (C)pismo

円光寺は、山号は紫雲山、浄土宗の寺院です。
寛文年間、生蓮社良往により開山されました。本堂は、元禄年間中に再建されたといわれていて、盛岡市の保存建造物に指定されています。本堂前に創建時に植えたと推定される、樹齢300年のカツラの大木があります。
境内には盛岡出身の総理大臣、米内光政の墓所があります。
米内光政は、明治13(1880)年3月、父受政、母とみの長男として、盛岡市下小路(愛宕町)に生まれました。
盛岡中学校を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍しました。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞しました。
昭和12(1937)年2月、林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対しました。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わりませんでした。
天皇の信頼も厚く、昭和15(1940)年には岩手県出身者としては3人目の内閣総理大臣に就任、しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任しました。太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力しました。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けました。
昭和23(1948)年4月20日に逝去、享年69歳でした。
円光寺 - 01
円光寺 - 01 posted by (C)pismo

円光寺 - 02
円光寺 - 02 posted by (C)pismo

円光寺・米内光政の墓所 - 03
円光寺・米内光政の墓所 - 03 posted by (C)pismo


大慈寺は、山号は福聚山、黄檗宗の寺院です。
寛文13(1673年)年に徳真道空を開基として創建されました。
境内には原敬の墓所があります。
原敬は、安政3(1856)年2月9日に生まれました。
明治4(1871)年15歳で戊辰戦争敗戦の屈辱を胸に秘め上京し、新聞記者を経て、明治政府の役人となり外務省などに勤めました。その後大正3(1914)年6月、第3代立憲政友会総裁、大正7(1918)年9月には、平民でわが国初の内閣総理大臣(第19代)となりました。
清廉潔白と言われた原敬は、生涯衆議院議員を貫き通し、自由と平和を愛し、藩閥、軍閥、官僚などの特権階級と対決しながら、明治憲法下で政党政治を実現しました。
大正10(1921)年11月4日、東京駅丸の内南口で暗殺され、遺体は盛岡に運ばれ11月11日悲しみの雨が降りしきる中、ここ大慈寺に埋葬されました。
原敬は、大正10(1921)年2月20日付けの遺書の中に
「一、死去の際位階勲等の陞叙は余の絶対に好まざる所なれば死去せば即刻発表すべし
 一、東京にては何等の式を営むに及ばず、遺骸は盛岡に送りて大慈寺に埋葬すべし
 一、墓石の表面には余の姓名の外戒名は勿論位階勲等も記すに及ばず」
と記しています。遺書のとおり、「原敬墓」とのみ刻まれた墓石は、最期まで平民として生きた原敬の強い信念が表れています。隣りには、内外の厳しい政情の中を歩む原敬を最後まで支えた妻淺が「主人と同じ深さで埋葬されたい」という願いをかなえて眠っています。
原敬が15歳まで生活した市内本宮の「原敬生家(市指定有形文化財)」に隣接して建てられた原敬記念館では、原敬の遺品とともにその業績を辿ることができます。
(現地説明板などより)
大慈寺 - 01
大慈寺 - 01 posted by (C)pismo

大慈寺 - 02
大慈寺 - 02 posted by (C)pismo

大慈寺 - 03
大慈寺 - 03 posted by (C)pismo

大慈寺・原敬墓所 - 04
大慈寺・原敬墓所 - 04 posted by (C)pismo

大慈寺・原敬墓所 - 05
大慈寺・原敬墓所 - 05 posted by (C)pismo

盛岡市先人記念館は、郷土の豊かな精神文化の礎を築いた優れた先人を顕彰し、遺徳を偲び、偉大な人間形成の過程を学ぶ施設として昭和62(1987)年10月2日、開館しました。
明治期以降に活躍した盛岡ゆかりの先人130人を紹介しています。
新渡戸稲造記念室、米内光政記念室、金田一京助記念室があります。
盛岡市先人記念館 - 01
盛岡市先人記念館 - 01 posted by (C)pismo

盛岡市先人記念館 - 02
盛岡市先人記念館 - 02 posted by (C)pismo

原敬記念館にも行きたかったのですが、時間切れでした。残念。
Posted at 2015/08/30 22:29:43 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2015年07月19日 イイね!

北海道・下北半島・宮古・盛岡紀行(4日目その1・浄土ヶ浜と宮古湾海戦関係史跡)

最終日です。
この日は、一気に三陸海岸沿いを南下し、浄土ヶ浜へ向かいます。

臼木山は、浄土ヶ浜の東に位置する宮古湾を見下ろす標高86mの丘です。3月にはマンサク、4月にはコブシ、カタクリ、桜、5月にはツツジやシャクナゲも楽しめます。
山頂には宮古港海戦解説碑があります。海戦から130年後の平成11(1999)年に建立されました。
慶応3(1867)年、第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上した後も、旧幕府軍は各地で新政府軍に抵抗を続け、明治元(1868)年には、榎本武揚をリーダーとして箱館五稜郭に臨時政府を樹立しました。
これに対し、明治2(1869)年3月、新政府軍は箱館の旧幕府軍討伐のために8隻の船団で品川沖を出航し、16日から相次いで宮古に入港しました。
この情報が箱館に伝わると、旧幕府軍は宮古港に停泊する船団に奇襲攻撃をかけて、新政府軍の最新鋭艦「甲鉄」を奪取し、戦況を一変させる作戦を決定しました。そして、「回天」「蟠龍」「高雄」の三隻の軍艦で宮古に向かいましたが、途中で「蟠龍」は行方不明、「高雄」も機関が故障したため、3月25日未明の作戦決行時には、残った軍艦は「回天」一隻となっていました。それでも、旧幕府軍はわずかな可能性を信じて「甲鉄」への奇襲攻撃を強行しましたが、ガットリング銃など近代兵器による猛反撃にあっては作戦は成功するはずもなく、「回天」は退却を余儀なくされるという結果に終わりました。
わずか30分あまりの戦いでしたが、これが近代日本海戦史に残る宮古港海戦です。
新選組副長の土方歳三は、旧幕府軍による箱館臨時政府の陸軍奉行並兼箱館市中取締として宮古湾海戦に参戦しました。
宮古港海戦から1ヶ月半後の明治2(1869)年5月11日、箱館で新政府軍の銃弾を浴びて35年の生涯を閉じました。
日露戦争で、日本の連合艦隊司令長官として功績のあった東郷平八郎は、新政府軍の三等士官として宮古港海戦に参戦しました。
市内の大杉神社境内にある「宮古港戦蹟碑」の額は、東郷平八郎の書によるものです。
(現地説明板などより)
臼木山・宮古港海戦解説碑 - 01
臼木山・宮古港海戦解説碑 - 01 posted by (C)pismo

臼木山・宮古港海戦解説碑 - 02
臼木山・宮古港海戦解説碑 - 02 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜の御台場展望台入口には、宮古湾海戦記念碑が建てられています。
明治100年を記念して、昭和43(1968)年3月7日、宮古ロータリークラブにより建てられました。書は後に首相になった鈴木善幸氏によるものです。
明治2(1869)年3月、函館にたてこもる旧幕府軍追討のために派遣された政府軍の軍艦「甲鉄」以下8隻が宮古港に碇泊していました。
旧幕艦「回天」は25日早朝、旗艦「甲鉄」を奪うべく侵入し、砲火をあびせ壮烈な戦いを挑みました。
これに対し政府軍は艦載機銃をもって応戦し、接舷、肉迫、激闘が約30分行われ両軍の死傷者合わせて50余名におよびました。
この海戦は1艦をもって8艦にあたった勇敢さとともに、わが国初の洋式海戦として、日本海戦史上その名をとどめました。
(現地説明板などより)
浄土ヶ浜・宮古港海戦記念碑 - 03
浄土ヶ浜・宮古港海戦記念碑 - 03 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜・御台場展望台 - 04
浄土ヶ浜・御台場展望台 - 04 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜は、全長220kmに及ぶ三陸復興国立公園の中心をなし、宮古の代表的な景勝地として知られています。
鋭くとがった白い流紋岩が林立し、松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストが魅力的です。
浄土ヶ浜の地名は、天和年間(1681〜1684)に宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖が、「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたと言われています。
昭和29(1954)年4月5日に岩手県指定名勝、昭和30(1955)年5月2日に陸中海岸国立公園、平成13(2001)年10月30日にかおり風景100選、平成18(2006)年5月24日に快水浴場百選(海の部特選)、平成24(2012)年1月24日に国指定名勝に、平成25(2013)年5月24日に三陸復興国立公園に指定されています。
浄土ヶ浜 - 05
浄土ヶ浜 - 05 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜 - 06
浄土ヶ浜 - 06 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜 - 07
浄土ヶ浜 - 07 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜 - 08
浄土ヶ浜 - 08 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜 - 09
浄土ヶ浜 - 09 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜 - 10
浄土ヶ浜 - 10 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜 - 11
浄土ヶ浜 - 11 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜 - 12
浄土ヶ浜 - 12 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜 - 13
浄土ヶ浜 - 13 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜 - 14
浄土ヶ浜 - 14 posted by (C)pismo

浄土ヶ浜 - 15
浄土ヶ浜 - 15 posted by (C)pismo

宮古港戦蹟碑は、大杉神社境内にあります。
大正6年(1917)に地元の名士である菊池長右衛門が、別邸対鏡閣に建立し、その後、大杉神社に移されました。
額字は、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破した日露戦争の英雄東郷平八郎の筆で書は小笠原長生によるものです。東郷は、戊辰戦争当時、新政府軍の軍艦春日に乗船して海戦に参加していました。
大杉神社 ・宮古港戦蹟碑 - 01
大杉神社 ・宮古港戦蹟碑 - 01 posted by (C)pismo

大杉神社 ・宮古港戦蹟碑 - 02
大杉神社 ・宮古港戦蹟碑 - 02 posted by (C)pismo

大杉神社 ・宮古港戦蹟碑 - 03
大杉神社 ・宮古港戦蹟碑 - 03 posted by (C)pismo

大杉神社 ・宮古港戦蹟碑 - 04
大杉神社 ・宮古港戦蹟碑 - 04 posted by (C)pismo

藤原観音堂の幕軍勇士墓碑は海戦後、藤原の海岸に旧幕府脱走軍の士官らしき服装をした遺体が漂着し、地元有志らによって葬られ、七回忌に建てられた墓碑です。
戊辰戦争の明治2(1869)年3月25日(新暦5月6日)鍬ヶ崎港にいた官軍軍艦甲鉄以下7隻に幕府軍軍艦回天1隻が奇襲攻撃をかけました。両軍の斬り合い、砲撃など約30分間で、回天は艦長以下死傷者50人余り、力尽きて敗走し、官艦死傷者も100有余名という激しさで、これが宮古湾海戦です。戦終わった藤原須賀に旧幕府軍の兵士らしい首無しの遺体が流れ着きました。
藤原の人大井要右衛門は「仏に幕軍も官軍もない」と手厚く埋葬しました。後に七回忌に同じ藤原の人岩船豊吉がこの墓を造立供養しました。
無名戦士の名は回天士官・大塚浪次郎とか、新選組隊士野村利三郎(土方歳三の添役)ともいわれます。
昭和54(1979)年に宮古市指定文化財になっています。
(現地説明板などより)
幕軍勇士墓碑(幕軍無名戦士の墓) - 01
幕軍勇士墓碑(幕軍無名戦士の墓) - 01 posted by (C)pismo

幕軍勇士墓碑(幕軍無名戦士の墓) - 02
幕軍勇士墓碑(幕軍無名戦士の墓) - 02 posted by (C)pismo
Posted at 2015/08/30 19:50:06 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2015年07月18日 イイね!

北海道・下北半島・宮古・盛岡紀行(3日目その3・恐山)

恐山は、下北半島にある霊場です。
寺院の恐山菩提寺は、曹洞宗の寺院です。本坊は斗南藩の藩庁が置かれたむつ市の円通寺です。
貞観4(862)年、天台宗の僧円仁が創建したと伝えられています。その後衰退していましたが、大永2(1522)年曹洞宗の僧聚覚が南部氏の援助を受け円通寺を建立して恐山菩提寺を中興し、曹洞宗に改められました。
地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として知られ、イタコの口寄せが行われます。
宇曽利湖を中心に、釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵山、鶏頭山の八峰がめぐり、花開く八葉の蓮華にたとえられます。火山ガスの噴出する岩肌の一帯は地獄に、湖をとりまく白砂の浜は極楽に例えられ、「人が死ねばお山に行く」という素朴な信仰と祈りを伝えてきました。
硫黄臭と荒涼とした風景、そして極楽浜からの宇曽利湖の眺めなど独特の雰囲気があります。
恐山菩提寺 - 01
恐山菩提寺 - 01 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 02
恐山菩提寺 - 02 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 03
恐山菩提寺 - 03 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 04
恐山菩提寺 - 04 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 05
恐山菩提寺 - 05 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 06
恐山菩提寺 - 06 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 07
恐山菩提寺 - 07 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 08
恐山菩提寺 - 08 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 09
恐山菩提寺 - 09 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 10
恐山菩提寺 - 10 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 11
恐山菩提寺 - 11 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 12
恐山菩提寺 - 12 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 13
恐山菩提寺 - 13 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 14
恐山菩提寺 - 14 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 15
恐山菩提寺 - 15 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 16
恐山菩提寺 - 16 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 17
恐山菩提寺 - 17 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 18
恐山菩提寺 - 18 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 19
恐山菩提寺 - 19 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 20
恐山菩提寺 - 20 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 21
恐山菩提寺 - 21 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 22
恐山菩提寺 - 22 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 23
恐山菩提寺 - 23 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 24
恐山菩提寺 - 24 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 25
恐山菩提寺 - 25 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 26
恐山菩提寺 - 26 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 27
恐山菩提寺 - 27 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 28
恐山菩提寺 - 28 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 29
恐山菩提寺 - 29 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 30
恐山菩提寺 - 30 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 31
恐山菩提寺 - 31 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 32
恐山菩提寺 - 32 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 33
恐山菩提寺 - 33 posted by (C)pismo

恐山菩提寺 - 34
恐山菩提寺 - 34 posted by (C)pismo









Posted at 2015/08/26 00:24:54 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2015年07月18日 イイね!

北海道・下北半島・宮古・盛岡紀行(3日目その2・三沢市とむつ市の斗南藩関係史跡めぐり)

今回の旅行の目的の一つである斗南藩(会津藩)の関係史跡めぐりです。三沢市から訪れました。

三沢周辺は、古来より馬の生産で有名な「きざきの牧」の地であります。
明治元(1868)年の戊辰戦争によって敗れた会津藩23万石がわずか3万石の領地を現在の下北、三戸地方に認められ、斗南藩として移封されました。
廣澤安任は、藩校日新館の出身であり、さらに江戸の昌平黌に学ぶなど優秀な人材で松平容保が京都守護職に任命されると上京し公用人として他藩の藩士や朝廷の公家と交流しました。維新後は斗南藩少参事の職にあり、勝海舟や福沢諭吉らと親交がありました。
安任は、「野にあって国家に尽くす」と誓い、明治5(1872)年にかつて盛岡南部藩の馬の放牧場であった旧木崎野牧の一部二千三百町歩余りを国から譲り受けるとともに、三沢市谷地頭の地に、英国人ルセーとマキノン、八戸藩大参事太田広城と共に日本で最初の近代洋式牧場「開牧社」をこの地に開設しました。
また、大久保利通や松方正義、原敬らの人物も安任と会見のためこの地を訪れています。大久保利通からは、入閣を進められましたが、「野にあって国家に尽くす」と在野の身を貫き、申し出を断りました。
このように、産業史上重要なこの地を記念し、斗南藩記念観光村を開村しました。

三沢市先人記念館では、先人の築き上げた文化・歴史を今に伝える「先人記念館」では廣澤安任に関する資料展示のほか、開墾の歴史を映像で見ることもできます。
道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・三沢市先人記念館 - 01
道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・三沢市先人記念館 - 01 posted by (C)pismo

道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・三沢市先人記念館 - 02
道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・三沢市先人記念館 - 02 posted by (C)pismo

道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・三沢市先人記念館 - 03
道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・三沢市先人記念館 - 03 posted by (C)pismo

道の駅みさわ 斗南藩記念観光村 - 04
道の駅みさわ 斗南藩記念観光村 - 04 posted by (C)pismo

道の駅みさわ 斗南藩記念観光村 - 05
道の駅みさわ 斗南藩記念観光村 - 05 posted by (C)pismo

六十九種草堂は、道の駅みさわ斗南藩記念観光村内の施設で廣澤安任の住居兼書斎を復元した建物です。
安任はここ谷地頭に洋式牧場を開き、牧畜技術者としてイギリス人マキノン、通訳としてルセーを雇ってブラウやハローの畜力農具による耕作や日本で普及していなかった去勢を行いました。最も大事な牧草は牧場地内に成育する野草でした。
安任は、これを研究考察した結果、明治14(1881)年3月に東京上野で開かれた第二回内国勧業博覧会に野草六十九種を出品しました。
安任は号を「牧老人」と称し、牧場経営に心身を打ち込んでいました。
「六十九種草堂」という名前は、内国勧業博覧会に牛馬が食べる野草69種類の研究成果を出品したことを記念して命名されました。
当時親交のあった勝海舟により「六十九種草堂」と揮毫した書が贈られました。客間には勝海舟の書の他に、松方正義の「牧草之堂」の書を掲げていました。
明治9(1876)年の明治天皇東北御巡幸の際に、随行した大久保利通が安任を訪ね入閣を勧めた様子が人形で再現されています。
道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・六十九種草堂 - 06
道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・六十九種草堂 - 06 posted by (C)pismo

道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・六十九種草堂 - 07
道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・六十九種草堂 - 07 posted by (C)pismo

道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・六十九種草堂 - 08
道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・六十九種草堂 - 08 posted by (C)pismo

ここからはむつ市です。
旧斗南藩士の墓が残る斗南藩墳墓の地です。明治元(1868)年9月、朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は翌明治2(1869)年9月、太政官より家名再興の沙汰をいただき同年11月松平容大(数え年2歳)をもって陸奥国三戸、上北、下北の三郡と岩手県の一部に、禄高三万石の立藩が許されました。
しかし、豊かな会津盆地で生まれ育った人々には、斗南の地の自然はあまりにも過酷で、斗南藩権大参事山川浩は、
みちのくの 斗南いかにと人問はば 神代のままの国と答へよ
と言わしめたほどでした。
開拓に夢を託した藩士たちでしたが、志半ばにして命を失ったものやこの地を去る者は続出しました。
現在、わずかに残っている旧会津藩士の墓碑を、斗南ヶ丘唯一の生き残りの島影家や会津ゆかりの人々が、あたたかく見守っています。
(現地説明板などより)
旧斗南藩墳墓の地 - 01
旧斗南藩墳墓の地 - 01 posted by (C)pismo

旧斗南藩墳墓の地 - 02
旧斗南藩墳墓の地 - 02 posted by (C)pismo

旧斗南藩墳墓の地 - 03
旧斗南藩墳墓の地 - 03 posted by (C)pismo

旧斗南藩墳墓の地 - 04
旧斗南藩墳墓の地 - 04 posted by (C)pismo

斗南藩が領内の開拓拠点として市街地を建設した斗南藩史跡地〔斗南ヶ丘市街地跡〕です。
東北の獅子と呼ばれた会津藩が戊辰戦争で明治新政府の追討を受け、明治元(1868)年9月に降伏の白旗を掲げました。
明治2(1869)年11月再興が許され、当時生後5ヶ月の松平容大公が跡を継ぎ、3万石を与えられ、明治3(1870)年に藩名を斗南藩としました。
容大公は幼君のため、山川浩が権大参事となり、新藩の執行職として全責任を担いました。
斗南藩が領内の開拓拠点として市街地を建設したのはここ斗南岡地区で、藩名をとって「斗南ヶ丘」と名付けられました。
市街地には一戸建約30棟、二戸建約80棟を建築し、東西にはそれぞれ大門を建築して門内の乗打ちを禁止し、他にも18ヶ所の堀井戸を製作しました。
また、一番町より六番町までの大通りによって屋敷割され、一屋敷を百坪単位として土塀をめぐらせて区画しました。
その後も開墾、耕作を進めていきましたが、過酷な風雪により倒壊したり野火にあうなどした家屋が続出しました。
明治4(1871)年7月、廃藩置県が行われました。9月には斗南県を含む5県が弘前県に合併され、さらに翌年には政府の援助も打ち切られるなど、時代の移り変わりに翻弄され、多くの藩士が斗南を去る結果となりました。
史跡地には「秩父宮両殿下御成記念碑」が立っています。
この碑は昭和11(1936)年10月に皇弟秩父宮親王殿下・同妃勢津子殿下(旧斗南藩主松平容大の令姪)が下北郡下を巡遊され、斗南ヶ丘に立ち寄られたことを記念して昭和18(1943)年7月に会津相携会(現在の斗南会津会)が中心となり建立されました。
昭和3(1928)年9月の秩父宮殿下と松平節子姫(御婚礼後勢津子と改名)とのご婚儀は、戊辰戦争以降、朝敵という汚名に押しつぶされながら生き続けてきた会津人にとって、再び天皇家と強い絆を結ぶことができるようになった大きな出来事でした。
やはり会津は逆賊ではなかったということが天下万民に知らしめられ、さらに最果てのこの地にまで両殿下に足を運んでいただいたという感激が、斗南藩が農業授産を夢見て建設した斗南の地に立つこの石碑に込められています。
(現地説明板などより)
斗南藩史跡地〔斗南ヶ丘市街地跡〕 - 01
斗南藩史跡地〔斗南ヶ丘市街地跡〕 - 01 posted by (C)pismo

斗南藩史跡地〔斗南ヶ丘市街地跡〕 - 02
斗南藩史跡地〔斗南ヶ丘市街地跡〕 - 02 posted by (C)pismo

斗南藩史跡地〔斗南ヶ丘市街地跡〕 - 03
斗南藩史跡地〔斗南ヶ丘市街地跡〕 - 03 posted by (C)pismo

円通寺は山号は吉祥山、大永2(1522)年に根城南部氏の援助で曹洞宗の僧聚覚によって創建された曹洞宗の寺院で恐山菩提寺の本坊でもありますs。
万治2(1659)年下総東昌寺六世が中興しました。
明治維新は会津藩にとって、まさに動乱の時代でした。朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は、翌明治2(1869)年9月、移封処分を受け最北の地へ挙藩流罪となりました。
ここ円通寺は、明治4(1871)年2月18日数え年3歳の松平容大公を藩主に迎え、斗南藩の仮館として藩庁が置かれた場所で、容保公、容大公が起居をともにされました。
現在も容大愛玩の布袋像などが保存されています。また、同時に田名部迎町大黒屋文左衛門方に玩中の藩学校日新館もここに移されました。境内にはこの地に残った会津人の手により、明治33(1900)年8月容大公揮毫による会津藩士の招魂碑が建てられました。碑文は会津藩士族南摩綱紀博士の撰によります。
「碑陰記」
明治三十三年八月
旧会津藩士従五位勲五等南摩綱紀撰并書
石工 伊東平太郎

明治戊辰之乱会津藩士奮戦各地死者数千人其忠勇
節烈凛乎凌風霜矣及乱平生者皆浴一視同仁之澤而
死者幽魂独彷徨寒煙野草之間不得其所吁嗟
哀哉今茲庚子為其三十三年忌辰於是旧藩士居南部
下北郡者胥謀建碑
圓通寺招魂祭之寺則旧藩主容大公封斗南時所館也

(読み下し文)
明治戊辰の乱、会津藩士、各地に奮戦す。
死者数千人、その忠勇節烈は凛乎(毅然)として
風霜を凌ぐ。乱平ぐに及び、生者は皆、一視同仁(差別を
つけず全ての人を同じように愛する事)の澤(恩恵)に
浴す。而して死者の幽魂は、独り寒煙(物寂しい)たる野
草の間を彷徨(さまよう)し、その所を得ず。ああ哀し
いかな、今茲(ことし)庚子(カノエネ)(明治三十三
年の干支)は、その三十三年忌辰(命日)なり。是に於い
て、旧藩士の南部下北郡に居する者、碑を圓通寺に建て、
招魂の祭をあい謀る。この寺はすなわち旧藩主容大公の斗
南に封せらる時の館なる所也。
(現地説明板などより)
円通寺 - 01
円通寺 - 01 posted by (C)pismo

円通寺 - 02
円通寺 - 02 posted by (C)pismo

円通寺 - 03
円通寺 - 03 posted by (C)pismo

円通寺 - 04
円通寺 - 04 posted by (C)pismo

田名部神社は、下北半島の総鎮守で創立年代は元和2(1616)年の類焼のため不明ですが、康永4・興国2(1341)年の鰐口が残されています。
寛永12(1635)年の盛岡城事務日記によれば、宇都宮二荒山神社より宇曾利山に御飛来、大平村荒川一本松に鎮座のところ、22代先別当小笠原丹後霊夢により田名部村に動座し、神領100石を有し海辺総鎮守・田名部大明神として柳町の高台に鎮座していましたが、元和2(1616)年の火災により明神町に動座しています。
田名部まつりは、毎年8月18日から20日にかけて行われる田名部神社の例大祭で青森県の無形民俗文化財に指定されています。
田名部神社 - 01
田名部神社 - 01 posted by (C)pismo

徳玄寺は山号は齢香山、真宗大谷派の寺院です。
表高23万石を誇り、奥羽第二の雄藩であった会津藩は全国諸藩の中で最も勤皇の志が厚かったにもかかわらず、明治維新の際に朝敵の汚名を着せられ移封処分を受けてここ斗南の地へ挙藩流罪となりました。
ここ徳玄寺は藩主松平容大公の食事や遊びの際に使用された場所です。
当時の容大公は数え年3歳ではありましたが移住藩士達を激励する為に、各地を回村するなど、新天地開発に励む人々の大きな心の支えとなったのでした。
またここは重臣の会議場でもあり、様々な施策についての論議が重ねられた所でもありました。東北の長崎を目指した大湊の開港や種々の産業開発など、卓越した構想と意欲は廃藩置県後も斗南の地にとどまった人々に希望を与え、新生青森のあらゆる方面において会津魂は大きな功績を残したのでした。
(現地説明板などより)
徳玄寺 - 01
徳玄寺 - 01 posted by (C)pismo

徳玄寺 - 02
徳玄寺 - 02 posted by (C)pismo

呑香稲荷神社(とんこういなりじんじゃ)は、下級武士の5男で後に陸軍大将を務めた柴五郎が、兄と共に仮住まいしたところです。
明治維新は、斗南藩(旧会津藩)にとって痛恨維新でした。
明治3(1870)年斗南藩では、士族授産を目的として、当地落の沢を相し松ヶ丘に荒川の渓流を引き、三十余戸の住宅を築造しました。
柴五郎(後の陸軍大将)が少年期に家族と共に同年9月に到着、厳寒のここ落の沢で越冬しました。
寒気肌をさし、夜を徹して狐の遠吠えを聞き五郎の厳父佐多蔵は「ここは戦場なるぞ 会津の国辱雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」と言ったといわれます。                                                 (「会津人柴五郎の遺書」より)
明治4(1871)年廃藩置県により、忽然と士族授産は消え失せ士族は四散せざるを得ませんでした。
斗南士族の胸中には「まこと流罪に他ならず、挙藩流罪という史上かってなき極刑にあらざるか」という憎悪と怨念が残るのみでした。
(現地説明板などより)
呑香稲荷神社・柴五郎一家居住跡 - 01
呑香稲荷神社・柴五郎一家居住跡 - 01 posted by (C)pismo

呑香稲荷神社・柴五郎一家居住跡 - 02
呑香稲荷神社・柴五郎一家居住跡 - 02 posted by (C)pismo

呑香稲荷神社・柴五郎一家居住跡 - 03
呑香稲荷神社・柴五郎一家居住跡 - 03 posted by (C)pismo

斗南藩として再興を許された旧会津藩士の一団が上陸した斗南藩士上陸の地です。明治2(1869)年斗南藩として再興を許された旧会津藩士の一団が、新潟から海路をたどり見も知らぬ新天地の未来の生活に夢を抱きここに第一歩をしるしました。
この史跡はむつ市市制施行30周年記念事業として会津人の心を偲んで設置されたものであります。
記念碑は、鶴ヶ城の石垣にも使用されている慶山石を会津若松市よりご寄贈いただき、飯盛山に思いをはせて組み立てられております。また記念碑正面からは会津若松市を望む方向に設置されております。
台座は、明治25(1892)年に田名部尋常高等小学校(現代官山公園)建設の際使用した基礎石を利用して組み立てられております。
記念碑をとりまく花木はむつ市の花である「はまなす」と会津若松市の木である「アカマツ」を組み合せ植栽しております。
(現地説明板などより)
斗南藩士上陸の地 - 01
斗南藩士上陸の地 - 01 posted by (C)pismo

斗南藩士上陸の地 - 02
斗南藩士上陸の地 - 02 posted by (C)pismo

斗南藩士上陸の地 - 03
斗南藩士上陸の地 - 03 posted by (C)pismo

斗南藩士上陸の地 - 04
斗南藩士上陸の地 - 04 posted by (C)pismo

斗南藩士上陸の地 - 05
斗南藩士上陸の地 - 05 posted by (C)pismo
Posted at 2015/08/25 23:56:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記

プロフィール

「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2015/7 >>

   123 4
5678910 11
12131415 16 17 18
192021222324 25
262728293031 

リンク・クリップ

沖縄県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2024/06/26 22:49:38
 
鹿児島県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/26 23:05:24
 
宮崎県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/22 08:03:34
 

愛車一覧

スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation