今回の旅行の目的の一つである斗南藩(会津藩)の関係史跡めぐりです。三沢市から訪れました。
三沢周辺は、古来より馬の生産で有名な「きざきの牧」の地であります。
明治元(1868)年の戊辰戦争によって敗れた会津藩23万石がわずか3万石の領地を現在の下北、三戸地方に認められ、斗南藩として移封されました。
廣澤安任は、藩校日新館の出身であり、さらに江戸の昌平黌に学ぶなど優秀な人材で松平容保が京都守護職に任命されると上京し公用人として他藩の藩士や朝廷の公家と交流しました。維新後は斗南藩少参事の職にあり、勝海舟や福沢諭吉らと親交がありました。
安任は、「野にあって国家に尽くす」と誓い、明治5(1872)年にかつて盛岡南部藩の馬の放牧場であった旧木崎野牧の一部二千三百町歩余りを国から譲り受けるとともに、三沢市谷地頭の地に、英国人ルセーとマキノン、八戸藩大参事太田広城と共に日本で最初の近代洋式牧場「開牧社」をこの地に開設しました。
また、大久保利通や松方正義、原敬らの人物も安任と会見のためこの地を訪れています。大久保利通からは、入閣を進められましたが、「野にあって国家に尽くす」と在野の身を貫き、申し出を断りました。
このように、産業史上重要なこの地を記念し、斗南藩記念観光村を開村しました。
三沢市先人記念館では、先人の築き上げた文化・歴史を今に伝える「先人記念館」では廣澤安任に関する資料展示のほか、開墾の歴史を映像で見ることもできます。
道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・三沢市先人記念館 - 01 posted by
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六十九種草堂は、道の駅みさわ斗南藩記念観光村内の施設で廣澤安任の住居兼書斎を復元した建物です。
安任はここ谷地頭に洋式牧場を開き、牧畜技術者としてイギリス人マキノン、通訳としてルセーを雇ってブラウやハローの畜力農具による耕作や日本で普及していなかった去勢を行いました。最も大事な牧草は牧場地内に成育する野草でした。
安任は、これを研究考察した結果、明治14(1881)年3月に東京上野で開かれた第二回内国勧業博覧会に野草六十九種を出品しました。
安任は号を「牧老人」と称し、牧場経営に心身を打ち込んでいました。
「六十九種草堂」という名前は、内国勧業博覧会に牛馬が食べる野草69種類の研究成果を出品したことを記念して命名されました。
当時親交のあった勝海舟により「六十九種草堂」と揮毫した書が贈られました。客間には勝海舟の書の他に、松方正義の「牧草之堂」の書を掲げていました。
明治9(1876)年の明治天皇東北御巡幸の際に、随行した大久保利通が安任を訪ね入閣を勧めた様子が人形で再現されています。
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道の駅みさわ 斗南藩記念観光村・六十九種草堂 - 08 posted by
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ここからはむつ市です。
旧斗南藩士の墓が残る
斗南藩墳墓の地です。明治元(1868)年9月、朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は翌明治2(1869)年9月、太政官より家名再興の沙汰をいただき同年11月松平容大(数え年2歳)をもって陸奥国三戸、上北、下北の三郡と岩手県の一部に、禄高三万石の立藩が許されました。
しかし、豊かな会津盆地で生まれ育った人々には、斗南の地の自然はあまりにも過酷で、斗南藩権大参事山川浩は、
みちのくの 斗南いかにと人問はば 神代のままの国と答へよ
と言わしめたほどでした。
開拓に夢を託した藩士たちでしたが、志半ばにして命を失ったものやこの地を去る者は続出しました。
現在、わずかに残っている旧会津藩士の墓碑を、斗南ヶ丘唯一の生き残りの島影家や会津ゆかりの人々が、あたたかく見守っています。
(現地説明板などより)
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斗南藩が領内の開拓拠点として市街地を建設した
斗南藩史跡地〔斗南ヶ丘市街地跡〕です。
東北の獅子と呼ばれた会津藩が戊辰戦争で明治新政府の追討を受け、明治元(1868)年9月に降伏の白旗を掲げました。
明治2(1869)年11月再興が許され、当時生後5ヶ月の松平容大公が跡を継ぎ、3万石を与えられ、明治3(1870)年に藩名を斗南藩としました。
容大公は幼君のため、山川浩が権大参事となり、新藩の執行職として全責任を担いました。
斗南藩が領内の開拓拠点として市街地を建設したのはここ斗南岡地区で、藩名をとって「斗南ヶ丘」と名付けられました。
市街地には一戸建約30棟、二戸建約80棟を建築し、東西にはそれぞれ大門を建築して門内の乗打ちを禁止し、他にも18ヶ所の堀井戸を製作しました。
また、一番町より六番町までの大通りによって屋敷割され、一屋敷を百坪単位として土塀をめぐらせて区画しました。
その後も開墾、耕作を進めていきましたが、過酷な風雪により倒壊したり野火にあうなどした家屋が続出しました。
明治4(1871)年7月、廃藩置県が行われました。9月には斗南県を含む5県が弘前県に合併され、さらに翌年には政府の援助も打ち切られるなど、時代の移り変わりに翻弄され、多くの藩士が斗南を去る結果となりました。
史跡地には「秩父宮両殿下御成記念碑」が立っています。
この碑は昭和11(1936)年10月に皇弟秩父宮親王殿下・同妃勢津子殿下(旧斗南藩主松平容大の令姪)が下北郡下を巡遊され、斗南ヶ丘に立ち寄られたことを記念して昭和18(1943)年7月に会津相携会(現在の斗南会津会)が中心となり建立されました。
昭和3(1928)年9月の秩父宮殿下と松平節子姫(御婚礼後勢津子と改名)とのご婚儀は、戊辰戦争以降、朝敵という汚名に押しつぶされながら生き続けてきた会津人にとって、再び天皇家と強い絆を結ぶことができるようになった大きな出来事でした。
やはり会津は逆賊ではなかったということが天下万民に知らしめられ、さらに最果てのこの地にまで両殿下に足を運んでいただいたという感激が、斗南藩が農業授産を夢見て建設した斗南の地に立つこの石碑に込められています。
(現地説明板などより)
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斗南藩史跡地〔斗南ヶ丘市街地跡〕 - 02 posted by
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斗南藩史跡地〔斗南ヶ丘市街地跡〕 - 03 posted by
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円通寺は山号は吉祥山、大永2(1522)年に根城南部氏の援助で曹洞宗の僧聚覚によって創建された曹洞宗の寺院で恐山菩提寺の本坊でもありますs。
万治2(1659)年下総東昌寺六世が中興しました。
明治維新は会津藩にとって、まさに動乱の時代でした。朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は、翌明治2(1869)年9月、移封処分を受け最北の地へ挙藩流罪となりました。
ここ円通寺は、明治4(1871)年2月18日数え年3歳の松平容大公を藩主に迎え、斗南藩の仮館として藩庁が置かれた場所で、容保公、容大公が起居をともにされました。
現在も容大愛玩の布袋像などが保存されています。また、同時に田名部迎町大黒屋文左衛門方に玩中の藩学校日新館もここに移されました。境内にはこの地に残った会津人の手により、明治33(1900)年8月容大公揮毫による会津藩士の招魂碑が建てられました。碑文は会津藩士族南摩綱紀博士の撰によります。
「碑陰記」
明治三十三年八月
旧会津藩士従五位勲五等南摩綱紀撰并書
石工 伊東平太郎
明治戊辰之乱会津藩士奮戦各地死者数千人其忠勇
節烈凛乎凌風霜矣及乱平生者皆浴一視同仁之澤而
死者幽魂独彷徨寒煙野草之間不得其所吁嗟
哀哉今茲庚子為其三十三年忌辰於是旧藩士居南部
下北郡者胥謀建碑
圓通寺招魂祭之寺則旧藩主容大公封斗南時所館也
(読み下し文)
明治戊辰の乱、会津藩士、各地に奮戦す。
死者数千人、その忠勇節烈は凛乎(毅然)として
風霜を凌ぐ。乱平ぐに及び、生者は皆、一視同仁(差別を
つけず全ての人を同じように愛する事)の澤(恩恵)に
浴す。而して死者の幽魂は、独り寒煙(物寂しい)たる野
草の間を彷徨(さまよう)し、その所を得ず。ああ哀し
いかな、今茲(ことし)庚子(カノエネ)(明治三十三
年の干支)は、その三十三年忌辰(命日)なり。是に於い
て、旧藩士の南部下北郡に居する者、碑を圓通寺に建て、
招魂の祭をあい謀る。この寺はすなわち旧藩主容大公の斗
南に封せらる時の館なる所也。
(現地説明板などより)
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田名部神社は、下北半島の総鎮守で創立年代は元和2(1616)年の類焼のため不明ですが、康永4・興国2(1341)年の鰐口が残されています。
寛永12(1635)年の盛岡城事務日記によれば、宇都宮二荒山神社より宇曾利山に御飛来、大平村荒川一本松に鎮座のところ、22代先別当小笠原丹後霊夢により田名部村に動座し、神領100石を有し海辺総鎮守・田名部大明神として柳町の高台に鎮座していましたが、元和2(1616)年の火災により明神町に動座しています。
田名部まつりは、毎年8月18日から20日にかけて行われる田名部神社の例大祭で青森県の無形民俗文化財に指定されています。
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徳玄寺は山号は齢香山、真宗大谷派の寺院です。
表高23万石を誇り、奥羽第二の雄藩であった会津藩は全国諸藩の中で最も勤皇の志が厚かったにもかかわらず、明治維新の際に朝敵の汚名を着せられ移封処分を受けてここ斗南の地へ挙藩流罪となりました。
ここ徳玄寺は藩主松平容大公の食事や遊びの際に使用された場所です。
当時の容大公は数え年3歳ではありましたが移住藩士達を激励する為に、各地を回村するなど、新天地開発に励む人々の大きな心の支えとなったのでした。
またここは重臣の会議場でもあり、様々な施策についての論議が重ねられた所でもありました。東北の長崎を目指した大湊の開港や種々の産業開発など、卓越した構想と意欲は廃藩置県後も斗南の地にとどまった人々に希望を与え、新生青森のあらゆる方面において会津魂は大きな功績を残したのでした。
(現地説明板などより)
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呑香稲荷神社(とんこういなりじんじゃ)は、下級武士の5男で後に陸軍大将を務めた柴五郎が、兄と共に仮住まいしたところです。
明治維新は、斗南藩(旧会津藩)にとって痛恨維新でした。
明治3(1870)年斗南藩では、士族授産を目的として、当地落の沢を相し松ヶ丘に荒川の渓流を引き、三十余戸の住宅を築造しました。
柴五郎(後の陸軍大将)が少年期に家族と共に同年9月に到着、厳寒のここ落の沢で越冬しました。
寒気肌をさし、夜を徹して狐の遠吠えを聞き五郎の厳父佐多蔵は「ここは戦場なるぞ 会津の国辱雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」と言ったといわれます。 (「会津人柴五郎の遺書」より)
明治4(1871)年廃藩置県により、忽然と士族授産は消え失せ士族は四散せざるを得ませんでした。
斗南士族の胸中には「まこと流罪に他ならず、挙藩流罪という史上かってなき極刑にあらざるか」という憎悪と怨念が残るのみでした。
(現地説明板などより)
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斗南藩として再興を許された旧会津藩士の一団が上陸した
斗南藩士上陸の地です。明治2(1869)年斗南藩として再興を許された旧会津藩士の一団が、新潟から海路をたどり見も知らぬ新天地の未来の生活に夢を抱きここに第一歩をしるしました。
この史跡はむつ市市制施行30周年記念事業として会津人の心を偲んで設置されたものであります。
記念碑は、鶴ヶ城の石垣にも使用されている慶山石を会津若松市よりご寄贈いただき、飯盛山に思いをはせて組み立てられております。また記念碑正面からは会津若松市を望む方向に設置されております。
台座は、明治25(1892)年に田名部尋常高等小学校(現代官山公園)建設の際使用した基礎石を利用して組み立てられております。
記念碑をとりまく花木はむつ市の花である「はまなす」と会津若松市の木である「アカマツ」を組み合せ植栽しております。
(現地説明板などより)
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