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ピズモのブログ一覧

2016年08月27日 イイね!

伊予・土佐(2日目その4・宿毛・愛南)

宿毛市立宿毛歴史館は、宿毛の町の歴史や宿毛市ゆかりの人物を、模型や映像、パネル、遺品をはじめとした貴重な展示品によって、わかりやすく紹介したふるさとの歴史館です。
「歴史展示室」では、城下町として栄えた江戸時代の宿毛の町並みを模型で展示し、パネルや映像など様々な資料で宿毛の偉人などを紹介しています。
宿毛市立宿毛歴史館
宿毛市立宿毛歴史館 posted by (C)pismo

宿毛合立社を設立するなど民権運動に力を注いだ林包明邸跡です。
林包明(かねあき・ほうめい)は、嘉永5(1852)年宿毛に生まれました。
自由民権運動が盛んになる中、宿毛合立社を設立しました。愛国社再興会議への参加や、自由党の結成時の幹事就任など、民権運動に力を注ぎました。
(現地説明板などより)
宿毛市立坂本図書館・宿毛歴史館の敷地の北東側に石碑と説明板が立っています。
林包明邸跡
林包明邸跡 posted by (C)pismo

宿毛城は宿毛市を北東に流れる松田川の西側の小山にあり、元来は松田城と称しました。創築時期は不明です。
松田兵庫が城主だった時期もありましたが、天正3(1575)年、長宗我部元親の軍勢が土佐一条氏を攻め、その勢力下にあった当城を陥落させたときの城主は依岡伯耆守でした。
長宗我部政権下になると一族の長宗我部右衛門大夫が入城し、四国西南地域の拠点となりました。
慶長6(1601)年、山内一豊の土佐国入封に際し、軍事的要所にある当城には、一豊の甥の山内可氏が周辺のおよそ6千石の知行地を与えられて入城しました。
元和元(1615)年、一国一城の幕令により城は破壊されましたが、可氏はふもとの土居(屋敷)を改築し、宿毛統治を続けました。
可氏以降も子孫が代々ここで宿毛を治め、これを中心に城下町も形成しました。延宝8(1680)年頃の絵図には、土居の様子や町割り、土佐藩奉行野中兼山の治水事業による河戸堰、宿毛総曲輪(堤)などがみてとれます。
土佐藩内には同様の経緯で各地の土居に重臣が点在し、これらは「土居付家老」といわれて藩士の中でも上位の家格をほこりました。
明治維新にともない、11代当主山内氏理は姓を「伊賀」と改め、当地を離れて東京に移住しました。土居は遺構も含め現存せず、城郭は城壁を若干みることができます。城下町については、嘉永7(1854)年の地震後の再開発によって整理された町割りが、その面影を今に残しています。
宿毛城(松田城)
宿毛城(松田城) posted by (C)pismo

宿毛城(松田城) (1)
宿毛城(松田城) (1) posted by (C)pismo

宿毛領主山内氏が居住した伊賀邸跡です。
慶長6(1601)年、土佐藩祖山内一豊が土佐に入国するにともない、一豊の姉の子である可氏に宿毛六千石をあたえました。
可氏はまず松田城に入城しますが、一国一城令によってとり壊され、その後は松田城があった小山のふもとに邸宅をかまえて、そこで政治を行いました。その後代々子孫に受け継がれ、明治初年、姓を伊賀に改め東京に移住しました。
伊賀邸跡
伊賀邸跡 posted by (C)pismo

桂浜の坂本龍馬像で有名な本山白雲邸跡です。
本山白雲は、彫刻家高村光雲の門下生となり、更に長沼守敬について洋風彫塑を学びました。
政治家、実業家、軍人の銅像を数多く作製し、昭和3(1922)年、高知市桂浜に坂本龍馬像を完成させました。(現地説明板などより)
本山白雲邸跡
本山白雲邸跡 posted by (C)pismo

文久3(1863)年、学問所の講授館を物産方役所内に移して文館と改めました。
読書、習字、算術、作文の四課を設けました。
慶応元(1865)年には岩村通俊が文武頭取を務めています。
(現地説明板などより)
文館跡
文館跡 posted by (C)pismo

親子二代で政治家、実業家を輩出・竹内綱・明太郞・吉田茂邸跡です。竹内綱は、吉田茂の実父で板垣退助を援けて自由党を結成しました。
衆議院議員となる一方で、遊泉寺銅山の経営など実業家としても活動しました。
竹内明太郞は、竹内綱の長男で、父の事業を継承する中で、小松鉄工所(現在のコマツ)を開業しました。早稲田大学理工学部の新設に協力し、高知工業高校も創立しました。
吉田茂は、竹内綱の五男で吉田健三の養子となり、5度吉田内閣を組織し、サンフランシスコ講和条約の締結など戦後復興に尽力しました。
(現地説明板などより)
竹内綱・明太?・吉田茂邸跡
竹内綱・明太?・吉田茂邸跡 posted by (C)pismo

日新館は、慶応3(1867)年、講授館から文館へ移ってきた学問所をさらに日新館として新設しました。
明治7(1874)年、宿毛小学校になりました。司法大臣になった岩村道世もここで学びました。
(現地説明板などより)
日新館跡
日新館跡 posted by (C)pismo

「人恋ふはかなしきものと平城山に・・・」の「平城山」で有名な歌人・北見志保子生誕地〔北見志保子邸〕です。
北見志保子は、本名川島朝野、宿毛小学校の教員を経て文学を志して上京しました。
やがて「草の実」「月光」などの歌誌や歌集を世に出しました。
北見志保子生誕地〔北見志保子邸〕
北見志保子生誕地〔北見志保子邸〕 posted by (C)pismo

人民の平等を目指して活動した大江卓邸跡です。
大江卓は、維新の志士として活躍し、明治になると人民の平等を目指して「部落解放令」の成立に力を注ぎました。衆議院議員としても活動しますが、晩年出家、全国を行脚して部落解放のために身を捧げました。
(現地説明板などより)
大江卓邸跡
大江卓邸跡 posted by (C)pismo

東福院は、山号は南泉山、宿毛市にある臨済宗東福寺派の寺院です。
草創は不明ですが、山内可氏が再興し、宿毛山内氏(伊賀氏)の菩提寺となり南泉山東福寺と号しました。
明治4(1871)年廃寺となりますが、明治12(1879)年再興され、東福院となりました。
境内には宿毛山内氏(伊賀家)の墓地があります。
初代山内可氏は、山内一豊の姉の子にあたります。父は美濃北方城主安東郷氏で、11歳の時に北方城が攻められ、郷氏が戦死し、3年後に可氏は長浜城主になった一豊に迎えられ、山内の姓を与えられました。一豊の土佐入国後、土佐国の西の要所、宿毛6千石が与えられ、その子孫も代々山内の姓を名乗って宿毛を治めました。
また、その間宿毛城のあった丘陵の麓に土居(屋敷)を構え、それを中心に小規模城下町をつくりあげ、佐川の深尾氏や安芸の五藤氏とともに、土居つき家老として、明治維新を迎えるまで土佐藩の重責を担いました。
その他境内には野中兼山遺族の墓地があります。野中兼山は江戸時代初期に土佐藩の奉行職として、班内の治水事業など多くの治績をあげた有名な政治家ですが、一方でその強大な政治力が政敵を生み、藩主・忠義の隠居後、失脚、その後半年で病死しました。
しかし、兼山への反発心はなおも消えず、寛文4(1664)年3月2日遺子8名に対して罪が下り、宿毛へ幽閉されました。竹矢来で二重に囲まれた家の中で幽閉されること40年、その間によね・清七・欽六・希四郎が病死し末子貞四郎は自害しました。
男系が絶えたので、残った寛・婉・将の3人の娘ははじめて許され、婉は高知に帰り、寛と将は宿毛に残って余生を送りました。宿毛の西山墓地には、よねと婉を除く他の遺子たちの墓と共に正妻・市、その母・よめの墓があります。
(現地説明板などより)
東福院
東福院 posted by (C)pismo

東福院 (1)
東福院 (1) posted by (C)pismo

東福院 (2)
東福院 (2) posted by (C)pismo

東福院 (3)
東福院 (3) posted by (C)pismo

東福院 (4)
東福院 (4) posted by (C)pismo

東福院 (5)
東福院 (5) posted by (C)pismo

野中兼山の一族が幽閉された地である宿毛小学校にある野中兼山遺族幽閉地碑です。
野中兼山は江戸時代、土佐藩(今の高知県全域)の奉行で、藩内の政治のリーダーでした。兼山は新田を開発したり、港を築いたり、お米の値段を調整したり、次々と新しい仕事を実行しました。
宿毛でも、河戸堰や宿毛総曲輪(堤防)を築いたり、沖ノ島や篠山でおきた国境争いを解決しました。しかし、兼山のやり方はとても強力だったので、各地で反発を生み、結局、奉行を辞めて隠居します。そしてその直後、49歳で死去してしまいました。
ところが、それでも反発の声はやみません。兼山の政治が土佐藩の人々を苦しめたといって、兼山の子供たちに、その罪を負わせることになったのです。親の罪が子にも及ぶ時代でした。
兼山の子供八人は宿毛に送られ、今の宿毛小学校のプールの場所に幽閉されました。一番幼い貞四郎は、まだ二歳でした。
竹で囲まれた家での外には出られない生活の間に、子供たちは成長し、そして次々に亡くなりました。四女の婉は、兄、姉を失う悲しみを和歌を詠みます。
つらなりし 梅の立枝 枯れゆけば のこる梢の 涙なりけり
「つらなる梅の立枝が枯れていくと、のこる小枝は涙を流すばかりだ。(梅の立枝…先立つ兄、姉  梢…残された弟や妹)」
約40年という長い長い年月が過ぎ、男子の全員が亡くなると、寛、婉、将の三人の女子だけが、ようやく釈放されました。釈放された三人の内、婉は今の高知市朝倉に移って医者になったということです。この婉の生涯は、高知県出身の大原富枝の小説「婉という女」で紹介され、大きな反響を呼びました。
現在宿毛には、婉と長女米以外の、幽閉された子供たちと母親の墓が残されています。
幽閉地は現在の宿毛小学校のプール付近で、学校敷地内に碑が建立されています
(現地説明板などより)
野中兼山遺族幽閉地碑
野中兼山遺族幽閉地碑 posted by (C)pismo

岩村通俊、林有造、岩村高俊の父・岩村英俊邸跡です。岩村英俊は、岩村通俊、林有造、岩村高俊の父です。
貝塚にいましたが、嘉永の地震の後、ここに邸宅を構えました。
英俊自身も文武両道の人として知られ、礫水(れきすい)と号しました。
通俊、高俊の胸像の礎石が残っています。
(現地説明板などより)
岩村英俊邸跡
岩村英俊邸跡 posted by (C)pismo

岩村英俊邸跡 (1)
岩村英俊邸跡 (1) posted by (C)pismo

岩村英俊邸跡 (2)
岩村英俊邸跡 (2) posted by (C)pismo

宿毛出身の政治家父子、林有造・譲治邸です。
林有造は、岩村英俊の次男で、林茂次平の養子となりました。
国政に参画し、逓信大臣、農商務大臣に就任しましたが、晩年は宿毛に帰り、新田の開発など郷土の発展に尽力しました。
林譲治は、林有造の次男で宿毛町長、高知県会議員を経て衆議院議員に11回当選し、衆議院議長や厚生大臣、副総理などを務めました。
現在の家は明治22(1889)年譲治が生れた年に建てられたものです。
(現地説明板などより)
林有造・譲治邸 (1)
林有造・譲治邸 (1) posted by (C)pismo

林有造・譲治邸
林有造・譲治邸 posted by (C)pismo

藤林寺は、山号は見立山、曹洞宗の寺院です。
土佐一条氏の当主、一条房家の菩提寺です。房家は関白・一条教房の次男として誕生し、父・教房のとき所領の土佐国幡多郡に下向しました。房家の時に土佐一条氏は最盛期を迎え、長宗我部兼序が本山氏などに攻められた際、その子国親を保護し、成人した際に父の居城だった岡豊城を再び国親に与えたことで知られています。
天文8(1539)年に中村御所で亡くなり、藤林寺に葬られました。法名は藤林寺殿正二品東泉大居士です。
藤林寺・一条房家の墓
藤林寺・一条房家の墓 posted by (C)pismo

一条兼定が寵愛したお雪入水の地です。
土佐一条氏第四代一条兼定は平田の美人お雪を寵愛し、お雪御殿と呼ばれる家を建て、狩りと称しては平田に通いました。
しかし、元亀3(1572)年に筆頭家老土居宗珊が諫言したため、兼定は手打ちにしたため人望を失い、羽生・為松・安並の三家老の合議によって天正元(1573)年にその子内政が擁立され、兼定は隠居を強制されました。
そして翌年、追放されて岳父の大友宗麟を頼って豊後に追放されたため、お雪は入水自殺してしまいました。
かつては川淵だったそうですが、現在は耕地整理で藤林寺近くの水田の中にあります。
お雪入水の地
お雪入水の地 posted by (C)pismo

お雪入水の地 (1)
お雪入水の地 (1) posted by (C)pismo

延光寺は、山号は赤亀山、院号は寺山院、真言宗智山派の寺院です。
四国八十八箇所霊場の第三十九番札所です。
寺伝によれば聖武天皇の勅命により神亀元(724)年に行基が薬師如来を刻んで本尊とし、本坊ほか12坊を建立、当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したといいます。その後桓武天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)が来錫して再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったといわれています。
伝説によれば延喜11(911)年、赤い亀が境内にある池からいなくなりましたが、やがて銅の梵鐘を背負って竜宮城から戻ってきため、現在の山号、寺号に改めたといいます。
延光寺 (1)
延光寺 (1) posted by (C)pismo

延光寺 (2)
延光寺 (2) posted by (C)pismo

延光寺
延光寺 posted by (C)pismo

久良天嶬鼻砲台は、高野長英築造の台場で、昭和25(1950)年10月10日、愛媛県の指定史跡になっています。
幕末の蘭学者高野長英は「夢物語」を書き、幕府に捕らえられましたが、火事にまぎれて脱獄し、追われる身になりました。8代宇和島藩主伊達宗城は長栄を宇和島にかくまいました。その頃、国交のない我が国に対し、諸外国は軍艦を派遣し、開国を迫っていました。幕府は海岸防備を各藩に命じました。
宇和島藩は、海岸の要地深浦湾の入り口、天嶬に砲台を築くことになり、伊藤瑞渓と名を変えた長英に設計を命じました。
長英は設計書を作り、工事にかかりましたが、幕府の手が伸びてきたのを知り、嘉永2(1849)年宇和島を去り、翌年幕吏に追われて自殺しました。宇和島藩最初のこの砲台が完成したのは、嘉永3(1850)年5月頃といわれています。
砲台は、海面から30m余りの断崖の上に土塁を築き、2門の趯発砲(シャクリウチホウ・火縄使用)でしたが、後に慶応2(1866)年、鵞菅打ち砲(雷管使用)に改良されました。
宇和島伊達文化保存会所蔵の「久良サザレ鼻新築砲台之図」及び「趯発砲(火縄使用)の目的地点と試射結果図」によると久良砲台の砲は2門で、試射の結果、10発の中9発が標的近くに命中しており、優秀な砲台であったことが分かります。
天嶬の砲台場石塁は、高野長英築造台場の付帯施設の一部で、砲術師、番人の屋敷を防護する目的で築かれたものです。
全長100m、高さ2.5m、二段構築で前段は犬走りとなっています。
(現地説明板などより)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) posted by (C)pismo

久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (1)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (1) posted by (C)pismo

久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (2)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (2) posted by (C)pismo

久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (3)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (3) posted by (C)pismo

久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (4)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (4) posted by (C)pismo

久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (5)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (5) posted by (C)pismo

観自在寺は、山号は平城山、院号は薬師院、真言宗大覚寺派の寺院です。
四国八十八箇所の第四十番札所です。
大同2(807)年、平城天皇の勅願により、空海(弘法大師)によって開かれたといい、本尊の薬師如来、脇持の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩は一本の霊木から空海が刻んだと伝えられています。
江戸時代初期の寛永15(1638)年に京都の空性法親王が巡拝、薬師院の号を受けました。その後、宇和島藩主伊達宗利の勅願所になったという歴史をもつ。一時は七堂伽藍を持ち四十の末寺を有しましたが、火災で消失しました。
延宝6(1678)年に再建されましたが、昭和34(1959)年に失火で本堂を焼失し、現在の本堂はその後に建立されました。
観自在寺 (1)
観自在寺 (1) posted by (C)pismo

観自在寺
観自在寺 posted by (C)pismo
Posted at 2016/11/08 23:12:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年08月27日 イイね!

伊予・土佐(2日目その3・竜串)

竜串は土佐清水市にある奇勝です。
一帯は砂岩と泥岩の層が互いになっており、その層が波や風の侵食を受け形成されたものです。中でも一直線上に、丸みを帯びた節理が見られる大竹小竹は竜串を象徴する代表的なもので、他にはしぼり幕、欄間石、蛙の千匹連れ、千畳敷などの名所があります。
海には増礁サンゴや熱帯魚が生息し、昭和45(1970)年、足摺宇和海国立公園の海中公園(平成22〔2010〕年からは海域公園)に指定されています。

「竜串」という地名の由来には諸説あり、竜串海岸の背後にある「臥竜山」の竜臥(たつふし)が転訛したという説や、アイヌ語、景観由来説など様々な説があります。東側にある見残し海岸は「見残し」の由来は、かの弘法大師が四国での修行の折、余りの険しさに「見残した」ので「見残し海岸」という名がつけられたという説が広く知られています。
竜串 (2)
竜串 (2) posted by (C)pismo

竜串 (3)
竜串 (3) posted by (C)pismo

竜串 (4)
竜串 (4) posted by (C)pismo

竜串 (5)
竜串 (5) posted by (C)pismo

竜串 (6)
竜串 (6) posted by (C)pismo

竜串 (7)
竜串 (7) posted by (C)pismo

竜串 (8)
竜串 (8) posted by (C)pismo

竜串 (9)
竜串 (9) posted by (C)pismo

竜串 (10)
竜串 (10) posted by (C)pismo

竜串 (11)
竜串 (11) posted by (C)pismo

竜串 (12)
竜串 (12) posted by (C)pismo

竜串 (13)
竜串 (13) posted by (C)pismo

竜串 (14)
竜串 (14) posted by (C)pismo

足摺宇和海国立公園・竜串にある足摺海洋館は、「土佐の海と黒潮の魚たち」をメインテーマに土佐清水市および大月町の黒潮が迫る沿岸海域を泳ぐ魚類から、磯の潮だまりに棲む無脊椎動物まで大小多種多様な海の生物200種約3,000匹の飼育展示をしています。
海洋水槽(大水槽)は、シノノメサカタザメ、スギ、ロウニンアジ、ヤイトハタなどの大きな魚をはじめ、群遊するイサキ・ギンガメアジ・フエダイの仲間等約50種類の魚を展示しています。
足摺海洋館 (2)
足摺海洋館 (2) posted by (C)pismo

足摺海洋館 (3)
足摺海洋館 (3) posted by (C)pismo

足摺海洋館 (4)
足摺海洋館 (4) posted by (C)pismo

足摺海洋館 (5)
足摺海洋館 (5) posted by (C)pismo

足摺海洋館 (6)
足摺海洋館 (6) posted by (C)pismo

足摺海底館は竜串海岸の西側、国有数の透視度を誇る海域に建つ赤と白の建物の高さ24mの塔で、内部は海上展望室と海面下7mの海底に集う製帯魚や四季折々の魚群を見学できる海中展望室があります。
昭和47(1972)年1月1日にオープンしました。
海底館まではレスト竜串の駐車場から約500mの歩道橋を渡り、54mの歩道橋を渡って、館内は64段の階段を降りていくことになります。
グレ、ハリセンボン、チョウチョウウオなどを見ることができます。
足摺海底館
足摺海底館 posted by (C)pismo

足摺海底館 (1)
足摺海底館 (1) posted by (C)pismo

足摺海底館 (2)
足摺海底館 (2) posted by (C)pismo
Posted at 2016/10/31 23:22:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年08月27日 イイね!

伊予・土佐(2日目その2・中浜万次郎のふるさと)

中浜万次郎の生誕の里中浜に建てられた贈正五位中濱萬次郞翁記念碑です。中浜万次郎は、文政10(1827)年に、中ノ浜谷前の猟師悦助の二男として生まれました。
幼少の頃より土地の老役今津家の下働きに出て母を助け、14歳の時に宇佐浦(土佐市)の漁船に乗り組み、足摺岬沖の初漁中に遭難し、九死に一生を得て仲間と共に南海の孤島(現在の鳥島)に漂着しました。
143日もの無人島におけるサバイバル生活の後、米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、船長補一途フィールドとの出会いにより、以来10年間、ジョン・マンと呼ばれて、米国本土での初等・中等教育を受け、英語、数学、航海、造船等高度な学問を習得し、また、捕鯨船の一等航海士副船長として、七つの海を奔走し大活躍しました。
嘉永4(1851)年に、母国日本に帰りたい一念から、大冒険を敢行して、厳しい鎖国令下の琉球に上陸し、那覇、薩摩、長崎、土佐藩で、1年10ヶ月もの執拗な取り調べの後、やっとの思いで中ノ浜で待つ母、汐との束の間の再会がかないました。
定小者という土佐藩の下級武士から、風雲急を告げる江戸城下の直参旗本に抜擢された万次郎は、その時生まれ故郷の地名を名字として、中浜万次郎と名乗り、時あたかも大船建造禁止令の解除や、日米修好通商条約調印のための使節団の一員として、通弁主務は勿論、咸臨丸の事実上の艦長として、その大役を見事に遂行しました。
明治2(1869)年開成学校(現東京大学)の教授に任ぜられ、中博士の称号で最高学府の教壇に立つなど、維新前後の激動期に、日米交流の架け橋として、国際的、文化的に果たした功績は誠に偉大です。明治31(1898)年11月12日、東京京橋弓町において、長男東一郎(医博)に看取られながら、波瀾万丈の71年の生涯を終えました。
昭和3(1928)年11月特旨を以て正五位を贈られました。昭和4(1929)年5月、郷土の有志により翁の生地に一代の勲業を伝えるべく書は公爵徳川家達、碑文は寺石正路撰、畔柳完道書の石碑が建てられました。
「冒険とは、夢を形に変える行動力である」平成3(1991)年の万次郎漂流150周年を機に、郷土の偉大なる先人、中浜万次郎の限りない人間愛と、不撓不屈の精神(ジョン・マンスピリッツ)を顕彰し、その遺徳を長く後世に伝えたいものです。
(現地説明板などより)

中浜万次郎生誕地
中浜万次郎生誕地 posted by (C)pismo

中浜万次郎生誕地 (1)
中浜万次郎生誕地 (1) posted by (C)pismo

贈正五位中濱萬次郎翁記念碑
贈正五位中濱萬次郎翁記念碑 posted by (C)pismo

贈正五位中濱萬次郎翁記念碑(1)
贈正五位中濱萬次郎翁記念碑(1) posted by (C)pismo

贈正五位中濱萬次郎翁記念碑 (2)
贈正五位中濱萬次郎翁記念碑 (2) posted by (C)pismo




生誕の地である土佐清水市中浜に建てられた中浜万次郎帰郷150周年記念の碑です。
母国日本へ帰りたい、中浜の母に会いたいの一念が叶い、中浜万次郎が故郷中浜に帰着したのは、漂流から11年余の嘉永5(1852)年11月16日のことです。
母汐と束の間の再会。彼は土佐藩の士分から風雲急を告げる江戸幕府の直参旗本として登用され、近代日本の夜明けの為に大活躍をしたのです。
平成14(2002)年10月13日、帰郷150周年を機に、郷土の偉大なる先人、中浜万次郎の人間愛と不屈の精神(ジョンマン・スピリット)を顕彰しこの碑を建立しました。
(現地説明板などより)
中浜万次郎帰郷150周年記念の碑
中浜万次郎帰郷150周年記念の碑 posted by (C)pismo

中浜万次郎帰郷150周年記念の碑 (1)
中浜万次郎帰郷150周年記念の碑 (1) posted by (C)pismo

中浜万次郎の生家は「万次郎の生家」として残る写真を基に設計した茅葺きの木造平屋。
市内の有志が募金活動で集めた浄財を中心に、ジョン万次郎の地元中浜に建設しました。
平成22(2010)年10月31日に落成され、11月1日より無料で公開されています。
中浜万次郎の生家
中浜万次郎の生家 posted by (C)pismo

中浜万次郎の生家 (1)
中浜万次郎の生家 (1) posted by (C)pismo

萬次郞と仲間達の群像は、天保12年1月5日(1841年1月27日)早朝、宇佐浦(現在の土佐市宇佐町)を船出した5人の漁師の群像です。
船頭  筆之烝38歳(後にハワイで伝蔵と改名)
漁撈係 重助 25歳(5年後ハワイで病死)
櫓係  五右衛門16歳(以上3人は兄弟で筆之烝、萬次郞とともに日本に帰還)
櫓係  寅右衛門26歳
炊係  萬次郎14歳(中浜出身で、ただ一人アメリカ本土に渡る)
船は足摺岬の南東15kmの沖合で操業中に、突然強風が吹き荒れ「辰巳の方に押し流され、其疾きこと箭の如し」(漂巽記略)とあり、なんら成す術もなく漂流5日目にして、南海の孤島(鳥島)に漂着します。
九死に一生を得て島に上陸した5人は、143日の無人島での厳しい生活に耐え抜き、5月9日(1841年6月27日)米国捕鯨船ジョン・ハウランド号(船長ホイットフィールド)に発見され、無事に救助されます。この出会いから少年萬次郎(ジョン・マン)の波瀾万丈のドラマが始まるのです。
そして後に日米親善の橋渡しと文化の発展に大きく貢献した萬次郎と仲間達の漂流時の群像です。
濱田浩造氏の作で、平成8(1996)年3月28日に建立されました。
萬次郎と仲間達の群像
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萬次郎と仲間達の群像 (1)
萬次郎と仲間達の群像 (1) posted by (C)pismo

ジョン万次郎資料館は、ジョン万次郎の関係資料などを展示する資料館です。
かつては、ジョン万ハウスといい、平成元(1989)年足摺岬にオープンしましたが、平成18(2006)年4月に「海の駅あしずり」に移転しました。
展示コーナーではジョン万次郎の生涯の軌跡を見ることができます。万次郎直筆の英文字や万次郎とホイットフィールド船長の絵など様々な万次郎の資料等を展示しています。
ジョン万次郎資料館
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Posted at 2016/10/27 23:13:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年08月27日 イイね!

伊予・土佐(2日目その1・渡川古戦場と足摺岬)

四国統一を目指す長宗我部元親の圧力が迫る中で、土佐一条氏第4代、一条兼定は一条氏内部の対立から母の弟であり妻の父である、豊後の大友宗麟のもとに31歳の若さで追放されました。
しかし、幡多郡を長宗我部氏から奪回しようと兼定は、天正3(1575)年秋、伊予西南郡の将兵を主体とし、大友氏の軍船の援助のもと幡多西郡に上陸し、渡川(四万十川)右岸の栗本城に進出しました。一方、長宗我部元親は渡川左岸に陣を構え、一戦を交えましたが多勢に無勢、遂に敗れて伊予の戸島に退きました。これが世にいう渡川合戦です。
(現地説明板などより)
渡川古戦場(四万十川古戦場) (2)
渡川古戦場(四万十川古戦場) (2) posted by (C)pismo

渡川古戦場(四万十川古戦場) (3)
渡川古戦場(四万十川古戦場) (3) posted by (C)pismo

金剛福寺は、山号は蹉跎山、院号は補陀洛院、真言宗豊山派の寺院です。
四国八十八箇所霊場の第三十八番札所です。
弘仁13(822)年に、嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したといわれています。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれていています。
歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備しました。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣しています。
鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられています。南仏を「南仏房」と記す史料もあり、南仏(房)は慶全の別名であったとみられています。
室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けました。戦国期に一時荒廃したが江戸時代に入っても土佐藩2代藩主山内忠義が再興しました。
(現地説明板などより)
金剛福寺 (2)
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金剛福寺 (3)
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金剛福寺 (4)
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金剛福寺 (5)
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金剛福寺 (6)
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金剛福寺 (7)
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足摺岬にある中浜万次郎像〔ジョン万次郎の銅像〕です。
中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史のかげで大きな役割を果たし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人でした。
万次郎は、この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれました。14歳の時出漁中、嵐に遭い遙か南方の無人島、鳥島に吹き流されましたが、半年ののち運良く通りかかったアメリカの捕鯨船John Howland号に救助されました。船長William H.Whitfieldは、万次郎少年の人柄を深く愛して本国につれかえり、3年間正規の学校教育をさずけました。万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第1号となりました。彼は10年におよぶ国外生活中John Mungと呼ばれ英語、航海術、測量術、捕鯨術等を習得し、二度にわたって七つの海を周航しました。
しかし万次郎は既に24歳の青年となっており、祖国とそこに残してきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令下の日本に帰ってきました。
嘉永4(1851)年2月、かの黒船の来航に先立つこと2年でした。このような時機も幸いして、彼は罪の問われなかったばかりか、苗字帯刀を赦され幕府の直参にとりたてられました。
これより中浜万次郎は外国事情の講話やアメリカ航海術書とか公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日を送ることになりました。洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたりました。日本人による初の太平洋横断、咸臨丸の成功のかげには彼のすぐれた航海術が大きな力となっていました。帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰りましたが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれています。
明治2(1869)年には東京大学の前身である開成学校の教授に任ぜられた。44歳の時、すこしく健康をそこねて公的な活動からしりぞき、数奇な運命の生涯を71歳で閉じています。
昭和43(1968)年7月11日、足摺岬に銅像が建立されました。
(現地説明板などより)
中浜万次郎像 (1)
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中浜万次郎像 (2)
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中浜万次郎像 (3)
中浜万次郎像 (3) posted by (C)pismo

足摺岬は、東の室戸岬と向かい合う四国最南端の岬です。岬端はm0の海食断崖がそびえ、その西の白山神社の下にある白山洞門は花崗岩の海食洞門としては日本一といわれています。岬の先端には青い空に映える白亜の灯台がそびえています。灯台は大正3(1914)年4月1日に点灯を開始、昭和35(1960)年に画期的なデザインのロケット形灯台に改築され、灯器も強力な物に変更され現在に至っています。
そして、足摺七不思議として穴に銭を落とすと音がして落ちていき金剛福寺の本堂に続いていると云われている地獄の穴、岩肌に弘法大師が爪で「南無阿弥陀仏」の六字の名号を彫ったといわれる大師の爪書き石、弘法大師が一夜で華表(とりい)を造らせようとしたとき、天邪鬼が鳥の鳴きまねをしたため、夜が明けたと勘違いして造るのをやめたと伝わる大師一夜建立ならずの華表、弘法大師が亀を呼び、眼下の不動岩に渡り身体安全、海上安全の祈祷を行い、この場所から亀を呼ぶと、その亀が浮かび上がったといわれる亀寄場、弘法大師が金剛福寺を建立した時発見した石で乗り揺るがすと、その動揺の程度によって孝心をためすといわれているゆるぎ石、賀登上人と弟子日円上人が補陀落に渡海せんとしたとき、日円上人が先に渡海していったので非常に悲しみ、落ちる涙が不増不滅の水になったといわれている不増不滅の手水鉢、弘法大師が亀の背中に乗って燈台の前の海中にある不動岩に渡った亀呼場の方向に向かっている亀石、岩の上に小さなくぼみがあり、汐が満ちているときは水がたまり、引いているときは水がなくなるといわれる汐の満干手水鉢、この地に生えている笹はこれ以上大きくならない笹だといわれている根笹があります。
また、岬には代表的な亜熱帯植物であるビロー樹が自生するほか、2月には早くも赤い花が咲きほころぶ椿林のトンネル、四国霊場38番札所、金剛福寺など自然と歴史文化が今なお豊かに息づいています。
(現地説明板などより)
足摺岬 (2)
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足摺岬 (3)
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足摺岬 (4)
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足摺岬 (5)
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足摺岬 (6)
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足摺岬 (7)
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足摺岬 (8)
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足摺岬 (9)
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足摺岬 (10)
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足摺岬 (11)
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足摺岬 (12)
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足摺岬 (13)
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足摺岬 (14)
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足摺岬 (15)
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足摺岬 (16)
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足摺岬 (17)
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Posted at 2016/10/15 00:02:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年08月26日 イイね!

伊予・土佐(1日目その2・武田勝頼の伝説が残るひょうたん桜と鳴玉神社)

ひょうたん桜の名で親しまれている大藪の彼岸桜は、樹齢約500年、樹高21m、根元廻り8mのウバヒガンの古木です。つぼみの形がひょうたんに似ていることからいつしか「ひょうたん桜」と呼ばれるようになりました。また「ひょうたん桜」のあるこの地区は元々「大藪」という字名でしたが、この桜にちなんで昭和33(1958)年に「桜」と改称されました。
天正10(1585)年、土地の始祖大崎玄蕃がここに住居したとき、この樹下に大山鎮めとして大山祓神を祭祀したと言い伝えられています。また、武田勝頼が土佐に落ち延びて大崎玄蕃に名を変えたという伝説が残っています。
今も樹幹に小祠があります。
「大藪のひがん桜」の名称で昭和28(1953)年3月に県指定天然記念物に認定されています。
ひょうたん桜(大藪の彼岸桜)
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ひょうたん桜(大藪の彼岸桜) (1)
ひょうたん桜(大藪の彼岸桜) (1) posted by (C)pismo

ひょうたん桜(大藪の彼岸桜) (2)
ひょうたん桜(大藪の彼岸桜) (2) posted by (C)pismo

甲斐武田家、第二十代当主である武田勝頼(変名大崎玄蕃)と三枝夫人(変名美津岐夫人)夫婦の埋葬された墓の前に建立される鳴玉神社です。
勝頼は慶長14(1609)年8月25日に64歳で亡くなります。三枝夫人は元和2(1616)年10月19日に亡くなって共に祀られています。三枝夫人は歴史上出てこない夫人で、実子の正晴と共に落ち延びた事が系図に書かれていて歴史の大きな謎です。
大崎川井土居屋敷の柿木元に葬られた事が系図に記されております。400年以上の時を経た現在、この柿の木は赤い実を稔らせます。
勝頼の戒名 成福院殿榮秋道勝大居士   
夫人の戒名 恵照院殿清月宗光大姉
これらは系図に記されており、また長宗我部地検帳からも土居屋敷の場所が確認でき、土佐へ来た武田勝頼の伝承を物語る上でも重要な史跡です。
毎年、大崎八幡宮の秋祭り(11月15日)と玄蕃祭り(旧暦8月28日)には御神幸が行われ、ご神体が御輿に運ばれてきて祭祀が行われます。
(現地説明板などより)
鳴玉神社〔武田勝頼・三枝夫人の墓所〕
鳴玉神社〔武田勝頼・三枝夫人の墓所〕 posted by (C)pismo

鳴玉神社〔武田勝頼・三枝夫人の墓所〕 (1)
鳴玉神社〔武田勝頼・三枝夫人の墓所〕 (1) posted by (C)pismo

鳴玉神社〔武田勝頼・三枝夫人の墓所〕 (2)
鳴玉神社〔武田勝頼・三枝夫人の墓所〕 (2) posted by (C)pismo

鳴玉神社〔武田勝頼・三枝夫人の墓所〕 (3)
鳴玉神社〔武田勝頼・三枝夫人の墓所〕 (3) posted by (C)pismo
Posted at 2016/10/11 21:04:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

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