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ピズモのブログ一覧

2016年12月31日 イイね!

信州〜北陸ドライブ(3日目星峠の棚田・城端・一乗寺城)

この日は、新潟県は十日町市へ。
十日町市の松代・松之山地域は棚田の多い場所で、「にほんの里100選」に選ばれています。
星峠をはじめ、儀明、蒲生の棚田がよく知られていますが、最も有名なのが星峠の棚田です。
大小様々な棚田約200枚が斜面に広がっています。
平成21(2009)年のNHK大河ドラマ「天地人」のオープニング映像に使用されました。
(現地説明板などより)
星峠の棚田 (2)
星峠の棚田 (2) posted by (C)pismo

星峠の棚田 (3)
星峠の棚田 (3) posted by (C)pismo

星峠の棚田 (4)
星峠の棚田 (4) posted by (C)pismo

星峠の棚田 (5)
星峠の棚田 (5) posted by (C)pismo

星峠の棚田 (6)
星峠の棚田 (6) posted by (C)pismo

星峠の棚田 (7)
星峠の棚田 (7) posted by (C)pismo

星峠の棚田 (8)
星峠の棚田 (8) posted by (C)pismo

ここからは、富山県です。
旧野村家の土蔵群は、外壁は背面を高い石垣にして、軒下二尺程までの高い下見板張りとし、1・2階揃えて白漆喰の鳥居枠に片開き土戸を備えた窓を開き、外部には出窓状の霧除が付けられ保護されています。
この土蔵は、野村家2代目当主野村理兵衛が、呉服商で財をなして野村家の基礎を築き、3代目野村理兵衛が業況を盛んにすると共に金融界の動きを洞察し、明治36(1903)年、大工町に県西部有数の高級建築といわれる豪壮な邸宅と土蔵を新築したものです。
邸宅は、大正6(1917)年には第九師団検閲使の閑院宮戴仁親王殿下の宿舎を仰せつかるほどでした。この土蔵は「とやまの土蔵」百選にも選ばれています。
城端では、絹織物に対する荷為替の地方銀行がなかったため、明治26(1893)年に荒木文平と野村理兵衛等の共同出資による砺波銀行が創設され、その後、野村理兵衛は明治30(1897)年、野村貯蓄銀行(後に野村銀行と改名)を設立しました。
昭和7(1932)年、砺波・野村両行は砺波銀行として合併しました。更に砺波銀行は高岡銀行に併合され、満州事変により全面的金融統制に入り銀行合同政策が促進され、富山県下(第十二・高岡・中越・富山)の4銀行が合併し、現在の北陸銀行になっています。南砺市城端地域の豪商の土蔵群を利用した資料館として活用されています。
(現地説明板などより)
旧野村家の土蔵群 (1)
旧野村家の土蔵群 (1) posted by (C)pismo

城端別院善徳寺は、山号は廓龍山、真宗大谷派の寺院です。
開基は本願寺第八代連如上人で、文明3(1471)年、加賀国河北郡井家の庄砂子坂に創建されました。その後、越中石黒の庄山本村、福光村へと移り、永禄2(1559)年、城ヶ鼻城主荒木大膳の招請により城ヶ鼻(城端)へ移り、城郭に寺域を定めました。
江戸時代には加賀藩の庇護により、越中国の真宗寺院の触頭役として隆盛を来し、今日に至っています。山門・本堂・太鼓楼・鐘楼の4つが富山県の文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
城端別院善徳寺
城端別院善徳寺 posted by (C)pismo

一乗寺城が史料に最初に現れるのは南北朝期の応安2(1369)年、南朝側桃井直常勢を幕府方の能登守護吉見氏頼方が追い落としたとあります(得田文書)。
天正12(1584)年に佐々成政の加賀侵攻の際、成政の家臣杉山小助らがここを守ったといいます。
一乗寺城は、加越国境に近く、中世以来軍事・交通の要地であったものと思われます。現在、山頂を中心にいくつもの郭を配した跡が残されています。
一乗寺城 (2)
一乗寺城 (2) posted by (C)pismo

一乗寺城 (3)
一乗寺城 (3) posted by (C)pismo

一乗寺城 (4)
一乗寺城 (4) posted by (C)pismo

一乗寺城 (5)
一乗寺城 (5) posted by (C)pismo

一乗寺城 (6)
一乗寺城 (6) posted by (C)pismo
Posted at 2017/01/30 23:12:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年12月30日 イイね!

信州〜北陸ドライブ(2日目その2・飯山、戸隠神社)

飯山城は泉氏の居城でしたが、後に上杉謙信の属城となり、永禄7(1564)年頃武田信玄の侵攻に備えて築かれました。
天正11(1583)年上杉景勝が岩井信能に命じ、修築を行いました。
慶長3(1598)年上杉氏の会津移封後は、関、皆川、堀、佐久間、松平、永井、青山氏が城主となりましたが、享保2(1717)年からは、本多助芳(康重の子孫)が移封され明治維新まで本多氏が城主でした。
城跡は本丸は葵神社、二の丸は城址公園となっています。また、城門が復元されています。飯山市柳原南条の丸山家に残されていた長屋門で、飯山城関係の門の可能性があるとのことで、平成5(1993)年の丸山家の旧住居の解体に伴い、移築復元したものです。平成4(1992)年の南中門などの遺構が発掘され、規模構造を南中門にあわせて復元したとのことです。
飯山城 (1)
飯山城 (1) posted by (C)pismo

飯山城 (2)
飯山城 (2) posted by (C)pismo

飯山城 (3)
飯山城 (3) posted by (C)pismo

飯山城
飯山城 posted by (C)pismo

飯山城 (4)
飯山城 (4) posted by (C)pismo

英岩寺は曹洞宗の寺院で長峰山英岩寺といいます。永仁年間天台宗の修験道場として創立されたと伝えられています。
当時は江岸寺といいました。戦国時代に衰微しましたが、文禄4(1595)年高源七世通庵寿貫和尚によって栄巌寺として中興され、安永年中に英岩寺と改名して現在に至っています。
現在の本堂は安永3(1774)年に建立されたものです。
境内には鬼小島弥太郎の墓があります。戦国時代の上杉謙信の家臣で小島弥太郎といいますが、その武勇のため「鬼小島」と称せられました。
永禄4(1561)年9月10日の第四次の川中島大激戦は、前半は上杉軍が有利に戦を進め、後半は武田軍が優勢の内に、謙信は主従数騎逃れて安田の渡しにさしかかりました。伝承によれば、この時謙信に従うもの小島弥太郎ただ一騎であったといいます。
千曲川を渡った謙信主従は追っ手を遮るために渡綱を切って落とし、市ノ口から小佐原にさしかかりましたが、弥太郎は前日来深手に耐えかね、主君の無事を祈りながら割腹して果てました。
鬼小島弥太郎最後の地というので、後人この所を鬼が峯と呼ぶようになったと伝えられています。
この鬼小島弥太郎の墓は鬼が峯と数百メートル隔てる英岩寺墓地に文禄4(1595)年、弥太郎ゆかりの者によって建てられたものと推定されています。弥太郎は伝説が多い人物で、鬼小島弥太郎戦死の地というのが長岡市(旧栃尾市)の大野の天神山にもあるそうです。
英岩寺 (1)
英岩寺 (1) posted by (C)pismo

英岩寺
英岩寺 posted by (C)pismo

戸隠神社は、奥社、火之御子社、中社・九頭龍社、奥社の五社からなっています。
平安時代から修験道が行われ、日本有数の霊地として知られていました。
縁起によると学問行者が修験を始めた年代を嘉祥2(849)年頃としていて、これが戸隠寺(奥院)の起源となったといわれます。その後200余年を経て康平元(1058)年に宝光院が、さらに寛治元(1087)年に中院が開かれたといわれます。
明治の初めの、神仏分離により、寺を廃し、奥院、中院、宝光院をそれぞれ奥社、中社、宝光社と名称を改めました。
中世には、戸隠山は、武田、上杉の争乱に巻き込まれ、甲越両軍の戦略によって絶えず危難に脅かされたので、三院の衆徒らは、一時、大日方氏の領内水内郡小川の筏が峰(現小川村)に移り、約30年の歳月をここで送った後に戸隠山に帰りました。
修験の山の旧態がなおよく保存されている奥社、中社、宝光社及び筏が峰三院跡(奥院跡、中院跡、宝光院跡)が史跡指定となっています。
なお、奥社、中社付近の考古学調査は、昭和38(1963)年から昭和40(1965)年にかけての戸隠総合学術調査の一環として行われ、講堂跡をはじめ数々の遺構などが明らかにされています。
宝光社は、祭神は中社祭神の御子神で、開拓学問技芸裁縫の神・安産の神・女性や子供の守り神です。
戸隠神社・宝光社
戸隠神社・宝光社 posted by (C)pismo

戸隠神社・宝光社 (1)
戸隠神社・宝光社 (1) posted by (C)pismo

戸隠神社・宝光社 (2)
戸隠神社・宝光社 (2) posted by (C)pismo

火之御子社は、承徳2(1098)年頃の創建で、岩戸の前で舞われた天鈿女命が主祭神で高皇産霊命(たかみむすびのみこと)、栲幡千千姫命(たくはたちちひめのみこと)、天忍穂耳命三柱の神様をお祀りしています。
戸隠山の神様が神仏習合されていた時も神社としての姿を保っています。戸隠神社太々御神楽は、この神社に仕えていた社人によって古来より伝えられ現在に至っています。舞楽芸能の神、縁結の神、火防の神として尊崇されております。
境内には樹齢500年を超える「結びの杉(二本杉)」と有名な西行桜があります。(現地説明板などより)
戸隠神社・火之御子社 (1)
戸隠神社・火之御子社 (1) posted by (C)pismo

戸隠神社・火之御子社 (2)
戸隠神社・火之御子社 (2) posted by (C)pismo

戸隠神社・火之御子社
戸隠神社・火之御子社 posted by (C)pismo

中社のご祭神は天八意思兼命で、寛治元(1087)年に奥社より分祀ししました。
天照大神が御弟神須佐之男命の度重なる非行に天岩戸にお隠れになった時、岩戸神楽(現在の太々神楽)を創案し、万民をして生業に安んぜしめたという知恵の深い神で学業成熟、家内安全、営業隆昌開運守護の外諸々の災難をはらう神として知られています。(現地説明板などより)
戸隠神社・中社 (1)
戸隠神社・中社 (1) posted by (C)pismo

戸隠神社・中社 (2)
戸隠神社・中社 (2) posted by (C)pismo

戸隠神社・中社
戸隠神社・中社 posted by (C)pismo

戸隠神社・中社 (3)
戸隠神社・中社 (3) posted by (C)pismo

戸隠神社・中社 (4)
戸隠神社・中社 (4) posted by (C)pismo

奥社は、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって、天の岩戸をお開きになった天手力雄命を戸隠山の麓に奉斎した事に始まります。2kの参道を歩いて行くことになりますが、途中に随神門、美しい杉並木が印象的です。
(現地説明板などより)
戸隠神社・奥社 (1)
戸隠神社・奥社 (1) posted by (C)pismo

戸隠神社・奥社 (2)
戸隠神社・奥社 (2) posted by (C)pismo

戸隠神社・奥社
戸隠神社・奥社 posted by (C)pismo

戸隠神社・奥社 (3)
戸隠神社・奥社 (3) posted by (C)pismo

九頭龍社は地主の神で、鎮座年代は不明ですが、天照大神の岩戸隠れの際に功績を立てた天手力男命をご祭神としています。水分神、水口神、五穀の神、開運守護魔除の神、虫歯の神として崇敬を集めています。
奥社のすぐ隣にあります。
(現地説明板などより)
戸隠神社・九頭竜社
戸隠神社・九頭竜社 posted by (C)pismo
Posted at 2017/01/24 22:32:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年12月30日 イイね!

信州〜北陸ドライブ(2日目その1・高山村、地獄谷野猿公苑、志賀高原)

福島正則を荼毘に付した場所に領民が一本杉を植えた福島正則荼毘所跡です。
福島正則は、元和5(1619)年、広島50万石の大大名から高井野4万5千石に転封を命じられ、 寛永元(1624)年7月13日、堀之内館(長野県史跡福島正則屋敷跡)において、享年64歳で 波乱の生涯を閉じました。
遺骸は、幕府検使役の到着が遅れるなか、家老津田四郎兵衛の計らいで、高井野のこの地で荼毘(火葬)に付されました。
領民はここに一本の杉を植え、公の遺徳を偲ぶよすがとしました。歳月が流れ、若木は成長し、いつしか住民から一本杉という愛称で崇拝される巨樹となりました。
記録によると
「周囲三丈(約9m)高さ十丈(約30m)に達すとあり、晴れた日には遠く戸隠からもその樹影が望まれたといいます。
だが、昭和9(1934)年9月、室戸台風により倒伏しました。現在は再植した杉が育っています。
伝承によると、杉の枝を切ったり折ったりすると血が噴き出してくるといわれ、先人、区民の誰もが限りなく愛し、慈しみ、守り伝えてきた巨樹でした。
(現地説明板などより)
福島正則荼毘所跡 (1)
福島正則荼毘所跡 (1) posted by (C)pismo

福島正則荼毘所跡 (2)
福島正則荼毘所跡 (2) posted by (C)pismo

福島正則屋敷跡はは東西57間半(約104.5m)、南北40間(72.7m)面積7反6畝(約76アール)あり、四方に高土塁を築き塁の外に空濠を廻らしてあったそうです。現在東北隅に高さ約2メートル、長さ約19メートルの土塁が残存しています。
福島正則は元和5(1619)年6月に安芸広島49万石を城地没収となり、上高井郡2万石、越後魚沼郡2万5千石併せて4万5千石の捨扶持を与えられ高井野の地に住居を定めました。
正則の在館年数はわずか数年でしたが、領内の検地を行い、高井野原の用水堤を開き松川治水の築堤西条新田の開拓など民政に尽くしました。
正則は、寛永元(1624)年7月13日64歳で病死しました。正則はかねて本村赤和に海福寺を興して菩提寺としようとしましたが、故あって位牌は領内雁田(小布施町)の岩松院に納められ、廟所も同寺境内に設けられました。
高井寺の西側に標柱が、門前に説明看板が建っています。
福島正則屋敷跡
福島正則屋敷跡 posted by (C)pismo

福島正則屋敷跡 (1)
福島正則屋敷跡 (1) posted by (C)pismo

福島正則屋敷跡 (2)
福島正則屋敷跡 (2) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑は、長野県の北部、上信越高原国立公園の志賀高原を源とする横湯川の渓谷・地獄谷にあります。
標高850m、地獄谷の冬は厳しく1mを越える雪に覆われ、最低気温が-10度を下回ります。人間を除く霊長類の生息北限とされる下北半島と比べても引けをとらない厳しい環境です。
昭和39(1964)年の開苑以来、ニホンザルの興味深い生態を間近で観察できる場所として、広く世界中の人々に愛されています。また、多くの研究者や写真家も訪れ、数々の成果を上げています。
また、温泉に入るサルとしても知られ、昭和45(1970)年、アメリカの「LIFE」誌の表紙に掲載され海外にも報道されました。
平成10(1998)年の長野冬季オリンピックの際は選手、大会関係者、報道関係者等、世界中からの人々が大勢訪れ、話題となり、広く世界中に知られるところとなりました。
地獄谷野猿公苑 (2)
地獄谷野猿公苑 (2) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (3)
地獄谷野猿公苑 (3) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (4)
地獄谷野猿公苑 (4) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (5)
地獄谷野猿公苑 (5) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (6)
地獄谷野猿公苑 (6) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (7)
地獄谷野猿公苑 (7) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (8)
地獄谷野猿公苑 (8) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (9)
地獄谷野猿公苑 (9) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (10)
地獄谷野猿公苑 (10) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (11)
地獄谷野猿公苑 (11) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (12)
地獄谷野猿公苑 (12) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (13)
地獄谷野猿公苑 (13) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (14)
地獄谷野猿公苑 (14) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (15)
地獄谷野猿公苑 (15) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (16)
地獄谷野猿公苑 (16) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (17)
地獄谷野猿公苑 (17) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (18)
地獄谷野猿公苑 (18) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (19)
地獄谷野猿公苑 (19) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (20)
地獄谷野猿公苑 (20) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (21)
地獄谷野猿公苑 (21) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (22)
地獄谷野猿公苑 (22) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (23)
地獄谷野猿公苑 (23) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (24)
地獄谷野猿公苑 (24) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (25)
地獄谷野猿公苑 (25) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (26)
地獄谷野猿公苑 (26) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (27)
地獄谷野猿公苑 (27) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (28)
地獄谷野猿公苑 (28) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (29)
地獄谷野猿公苑 (29) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (30)
地獄谷野猿公苑 (30) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (31)
地獄谷野猿公苑 (31) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (32)
地獄谷野猿公苑 (32) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (33)
地獄谷野猿公苑 (33) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (34)
地獄谷野猿公苑 (34) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (35)
地獄谷野猿公苑 (35) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (36)
地獄谷野猿公苑 (36) posted by (C)pismo

地獄谷野猿公苑 (37)
地獄谷野猿公苑 (37) posted by (C)pismo

澗満滝(かんまんだき)は、落差107m・幅20mあります。
志賀草津高原ルート沿いにある澗満滝展望台から見る事ができます。展望台には「高さ三百九十尺、幅六十二尺と認めた路傍の棒杭は兎もあれ、とにかく珍しい滝らしいので道からそれて見に行つた・・」で始まる若山牧水の碑が立てられています。
澗満滝展望台 (2)
澗満滝展望台 (2) posted by (C)pismo

澗満滝展望台 (3)
澗満滝展望台 (3) posted by (C)pismo
Posted at 2017/01/24 22:09:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年12月29日 イイね!

信州〜北陸ドライブ(1日目・千曲市と長野市)

12月は雪が見たいということで、信州に来ました。
最初に妻女山を訪れました。ここは再訪です。
冬の北信ドライブ(2日目その1・前日に続き川中島古戦場巡りなど)
妻女山 (1)
妻女山 (1) posted by (C)pismo

妻女山 (2)
妻女山 (2) posted by (C)pismo

妻女山
妻女山 posted by (C)pismo

妻女山 (3)
妻女山 (3) posted by (C)pismo

斎場山古墳(五量眼塚古墳)は、斎場山の山頂の標高512.8mにある直径35.2mの円墳です。
地元では、招魂社が建つあたりを「赤坂山」と呼んでおり、本来の妻女山山頂は、そこからさらに南西に登った斎場山古墳のことといわれています。
斎場山古墳(五量眼塚古墳) (1)
斎場山古墳(五量眼塚古墳) (1) posted by (C)pismo

斎場山古墳(五量眼塚古墳)
斎場山古墳(五量眼塚古墳) posted by (C)pismo

妻女山 (4)
妻女山 (4) posted by (C)pismo

斎場山古墳(五量眼塚古墳) (2)
斎場山古墳(五量眼塚古墳) (2) posted by (C)pismo

鞍骨城(くらぼねじょう)は、標高798mの鞍骨山にあった山城です。
善光寺平や千曲市東部を見下ろす格好の地にあり、清野氏の主城でした。
清野氏は村上氏に属し、村上九家の上座に列していました。
天文19(1550)年の戸石城の戦いの際、武田氏に出仕し、その後再び村上氏に従属しましたが、天文22年(1553)武田軍の川中島進出によって、清野氏は家名を残すため、武田・村上双方に分かれたとも伝えられていますが、永禄2(1559)年には清野信秀は武田家に仕えています。
東は竹山城、西は雨宮の唐崎城、南西の倉科の鷲尾城などを外郭としていました。
主郭への道は、妻女山からあんずの里ハイキングコースを延々と歩いてたどり着きます。
石垣などがよく残る「天空の山城」です。
鞍骨城 (1)
鞍骨城 (1) posted by (C)pismo

鞍骨城 (2)
鞍骨城 (2) posted by (C)pismo

鞍骨城 (3)
鞍骨城 (3) posted by (C)pismo

鞍骨城 (4)
鞍骨城 (4) posted by (C)pismo

鞍骨城
鞍骨城 posted by (C)pismo

鞍骨城 (5)
鞍骨城 (5) posted by (C)pismo

鞍骨城 (6)
鞍骨城 (6) posted by (C)pismo

鞍骨城 (7)
鞍骨城 (7) posted by (C)pismo

鞍骨城 (8)
鞍骨城 (8) posted by (C)pismo

鞍骨城 (9)
鞍骨城 (9) posted by (C)pismo

鞍骨城 (10)
鞍骨城 (10) posted by (C)pismo

玉依比賣命神社は、神社創建の縁起によれば8代孝元天皇16年4月16日、東条斎川の地に勧請されたとされています。
斎川は現在の松代町東条岩沢にあたります。。その後磯並(現在の松代町東条中川)に移り、磯並三社大明神と称しました。
現在の地に鎮座してのは寛喜2(1230)年と伝えられています。
延長5(927)年左大臣藤原忠平らにより撰進された延喜式五十巻の中の神名帳に記載された信濃国四十八座の 式内社の一つです。
現社殿は天保4(1833)年に改築された、八棟造りを模した荘厳な建築です。
(現地説明板などより)
尼飾城の登城口にあります。
玉依比賣命神社
玉依比賣命神社 posted by (C)pismo

尼飾城
尼飾城 posted by (C)pismo

玉依比賣命神社 (1)
玉依比賣命神社 (1) posted by (C)pismo

玉依比賣命神社 (2)
玉依比賣命神社 (2) posted by (C)pismo

伝承によれば、尼厳城(東条城)は、鎌倉時代以前から築城されていた難攻不落の山城です。周りの霞城、金井山城、寺尾城はその支城と伝えられています。
弘治2(1556)年、武田信玄は真田幸隆に尼厳城の攻略を命じました。城主の東条氏はよくこれに抗しましたが、高坂弾正らの武田軍の加勢により、ついに城は落城し、東条氏は越後の上杉謙信の元へ逃れました。
その後、城は信玄の命により改築され、永禄3(1560)年頃、山本勘助により海津城(松代城の原形)が完成すると、防衛的な山城として重要視されました。
天正10(1582)年、武田勝頼が織田信長との天目山の戦いに敗れ、武田氏が衰退すると、上杉景勝らの援護のもとに、北信濃の所将は旧地を回復し、上杉家臣となっていた東条信広も尼厳城将として復帰しました。
慶長3(1598)年、上杉景勝が会津120万石に移封され、これにともなって東条氏ら川中島の将士達も会津に移ったため、尼厳城は400年以上の山城の歴史に幕を閉じ廃城となりました。
現在も急峻な山頂一帯に、永い風雪に耐えた本郭、腰郭、堀切などの一部が残っています。
(現地説明板などより)
松代付近では、「一に春山(若穂綿内・綿内氏)、二に鞍骨(松代町清野・清野氏)、三に尼飾」といわれる城です。三方は断崖絶壁で、北西だけが尾根続きになっています。
尼飾城 (1)
尼飾城 (1) posted by (C)pismo

尼飾城 (2)
尼飾城 (2) posted by (C)pismo

尼飾城 (3)
尼飾城 (3) posted by (C)pismo

尼飾城 (4)
尼飾城 (4) posted by (C)pismo

尼飾城 (5)
尼飾城 (5) posted by (C)pismo

尼飾城 (6)
尼飾城 (6) posted by (C)pismo

尼飾城 (7)
尼飾城 (7) posted by (C)pismo

尼飾城 (8)
尼飾城 (8) posted by (C)pismo

尼飾城 (9)
尼飾城 (9) posted by (C)pismo
吉窪城は、海抜619mの吉窪城山の山頂にあり、南に川中島平を一望できる要害の地に築城されました。
城主は小田切氏で、始祖は佐久郡臼田小田切郷の氏人で、鎌倉時代に地頭となって小市に移住し、小市今里等に居館を構え、背面にこの吉窪城を築きました。
戦国時代、城主小田切駿河守幸長は、始め村上義清に属し、更に村上氏と共に上杉方に加わりました。
弘治3(1557)年葛山城を守った頃は春日、朝日、長嶺、久保寺、平林、布施、横山等組下七騎衆を率いた武将でしたが、武田方の火災攻めに遭い越後軍の援軍到着寸前に落城し、幸長は戦死しました。
武田方の治世になってからは幸長の一子民部少輔は一時武田方から400貫の知行を受けたこともありましたが、衰微し流転を重ね、末裔は高井郡に移ったと伝えられています。
(現地説明板などより)
吉窪城 (1)
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吉窪城 (2)
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吉窪城 (3)
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吉窪城
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Posted at 2017/01/13 22:04:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年12月24日 イイね!

クリスマスイブの琵琶湖周辺

ミシガンは、琵琶湖汽船の遊覧船です。
昭和57(1983)年4月29日に就航しました。
滋賀県と友好姉妹都市である、アメリカ・ミシガン州との国際親善を祈念して、ミシガンと命名されました。
船の外観には、アメリカ南部ミシシッピー川に就航している外輪船のイメージを採用しています。
琵琶湖の南側の大津港周辺を周遊します。ミシガンクルーズはミシガン80、ミシガン60、ミシガンナイトの3つがあります。
比叡山や比良山・三上山や琵琶湖大橋などの風景が楽しめると同時に、観光案内やミシガンパーサーによるパフォーマンスが行われます。
平成26(2014)年1月には、「琵琶湖汽船 外輪船ミシガン・客船ビアンカ」が県内ではじめて、船舶としては日本初の「恋人の聖地サテライト」の認定を受けました。
ミシガンクルーズ (3)
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ミシガンクルーズ (4)
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ミシガンクルーズ (5)
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ミシガンクルーズ (6)
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ミシガンクルーズ (7)
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ミシガンクルーズ (8)
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ミシガンクルーズ (9)
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旧大津公会堂は、昭和9(1934)年に大津商工会議所と大津市立図書館を併設した「大津公会堂」として建設されて以来、昭和22(1947)年には大津商工会議所が移転し大津公民館となり、昭和50(1975)年からは大津市急病診療所となるなど名称や用途を変えながら市民の交流の場として親しまれてきました。
昭和60(1985)年からは、大津市社会教育会館の名で社会教育の拠点として利用されてきましたが、施設の老朽化に伴い耐震上の問題や利用率の著しい低下などの問題を受けて、平成20(2008)年からは耐震補強や外観修景を行い、大津市の中心市街地の賑わいを取り戻す為の集客交流拠点として新たに整備されました。
平成22(2010)年3月に景観重要建造物に指定され、4月からはレトロな外観をそのままに、1階にモダンなレストランを、2階に集客交流・まちづくり拠点施設を設け、観光客や市民が交流できるスペースとして活用されています。
建物は、鉄筋コンクリート造3階・地下1階建、外壁スクラッチタイル貼です。
左右対称で、三階に半円アーチ窓、隅に円窓、一・二階に縦長窓を開けています。
旧大津公会堂 (2)
旧大津公会堂 (2) posted by (C)pismo

旧大津公会堂 (3)
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滋賀県立琵琶湖博物館は琵琶湖の価値を広く報せるとともに,みんなで湖と人の共存関係を考えるための材料と機会を提供する生涯学習施設です。
琵琶湖への社会的関心が高まった昭和54(1979)年に、県の高等学校理科教育研究会から県に対して要望書が出され、昭和62(1989)年に基本構想が策定されました。この時に最初の学芸員が採用され、以後、8年の準備期間を経て平成8(1996)年10月20日に開館しました。
「湖と人間」というテーマを掲げ、自然と文化の両方を同時に扱う総合博物館です。
400万年におよぶ琵琶湖の歴史や湖と人との関わりを分かりやすく紹介しています。
また、琵琶湖の環境展示の一環として、淡水魚の水族展示も行っています。ビワコオオナマズをはじめ、琵琶湖の生き物や世界の淡水魚が見られます。
琵琶湖博物館 (2)
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琵琶湖博物館 (3)
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琵琶湖博物館 (4)
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Posted at 2017/01/10 23:08:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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