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ピズモのブログ一覧

2017年03月26日 イイね!

三重県の梅など

広大な梅林があるいなべ市農業公園です。高齢化の進むいなべ市では、高齢者が生きがいをもって生活できるようにする元気高齢者対策と水源地として景観や水源を守る農業の多面的な機能を重視し、地域農業を守る対策が緊急に必要とされています。そこで、特に高齢化の著しい鼎地区において荒廃農地を有効に活用して、都市農村交流拠点(農業公園)を整備し、都市と農村との相互理解の促進、高齢者就業機会の確保、農地の新たな活用による特産品の開発、生産者の生きがい発揮による地域の活性化を図ることとしました。
38haの梅林公園には、実梅を中心とした広大な梅林と、花梅を中心とした梅苑、農業体験のできるクラインガルデン、ブルーベリー園などを配し、18haのエコ福祉広場には、四季折々の花広場、ボタン園、パークゴルフ場などを整備して、地域住民、都市住民にとっての憩いの場・農業体験の場とします。
その整備・管理にあたっては、農業振興、高齢者福祉及び活躍の場の創出、農村と都市との交流、循環型社会の実現という4つの理念を重視し、その実践に向けて取り組むものです。(パンフレットより)
いなべ農業公園 (1)
いなべ農業公園 (1) posted by (C)pismo

いなべ農業公園 (2)
いなべ農業公園 (2) posted by (C)pismo

いなべ農業公園
いなべ農業公園 posted by (C)pismo

いなべ農業公園 (3)
いなべ農業公園 (3) posted by (C)pismo

いなべ農業公園 (4)
いなべ農業公園 (4) posted by (C)pismo

いなべ農業公園 (5)
いなべ農業公園 (5) posted by (C)pismo

いなべ農業公園 (6)
いなべ農業公園 (6) posted by (C)pismo

いなべ農業公園 (7)
いなべ農業公園 (7) posted by (C)pismo

いなべ農業公園 (8)
いなべ農業公園 (8) posted by (C)pismo

いなべ農業公園 (9)
いなべ農業公園 (9) posted by (C)pismo

いなべ農業公園 (10)
いなべ農業公園 (10) posted by (C)pismo

いなべ農業公園 (11)
いなべ農業公園 (11) posted by (C)pismo

いなべ農業公園 (12)
いなべ農業公園 (12) posted by (C)pismo


椿大神社(つばきおおかみやしろ)は、伊勢国鈴鹿山系の中央麓に鎮座し、往古神代、高山入道ヶ嶽、短山椿ヶ嶽を天然の社として、高山生活を営まれた国つ神「猿田彦大神」を主神とし、相殿に皇孫「瓊々杵尊」、「栲幡千々姫命」を、配祀に「天之鈿女命」、「木花咲耶姫命」を祀っています。
猿田彦大神は、天孫 瓊々杵尊降臨の際、天の八衢に「道別の大神」として出迎え、高千穂の峯に御先導しました。そのことより、肇国の礎を成した大神として、垂仁天皇の27年秋(西暦紀元前3年)、倭姫命の御神託により、この地に「道別大神の社」として社殿が奉斎された日本最古の神社です。
天皇の御代、御霊夢により「椿」の字をもって社名とされ、現在に及んでいます。
また、猿田彦大神を祀る全国二千余社の本宮として、「地祇猿田彦大本宮」と尊称されています。
境内には松下電器の創業者・松下幸之助翁寄進の茶室「鈴松庵」があり、流派を問わず広く一般にも開放しています。
(パンフレットなどより)
椿大神社
椿大神社 posted by (C)pismo

椿大神社 (1)
椿大神社 (1) posted by (C)pismo

椿大神社 (2)
椿大神社 (2) posted by (C)pismo

椿大神社 (3)
椿大神社 (3) posted by (C)pismo

椿大神社 (4)
椿大神社 (4) posted by (C)pismo

椿大神社 (5)
椿大神社 (5) posted by (C)pismo

椿大神社 (6)
椿大神社 (6) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園は、鈴鹿山脈のふもとに平成26(2014)年にグランドオープンした赤塚植物園グループとマルマツナーセリーの協力により誕生した期間限定の新しい観光スポットです。
日本中から集められた枝垂れ梅の名木は、呉服枝垂(くれはしだれ)を中心に200本を超え、中には、日本最大級の大木もあります。
脈々と伝えられてきた、日本の伝統的な技を現代に伝え、未来へ継承していくための「研究栽培農園」で、開花期間中のみ一般開放を行います。
鈴鹿の森庭園
鈴鹿の森庭園 posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (1)
鈴鹿の森庭園 (1) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (2)
鈴鹿の森庭園 (2) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (3)
鈴鹿の森庭園 (3) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (4)
鈴鹿の森庭園 (4) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (5)
鈴鹿の森庭園 (5) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (6)
鈴鹿の森庭園 (6) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (7)
鈴鹿の森庭園 (7) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (8)
鈴鹿の森庭園 (8) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (9)
鈴鹿の森庭園 (9) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (10)
鈴鹿の森庭園 (10) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (11)
鈴鹿の森庭園 (11) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (12)
鈴鹿の森庭園 (12) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (13)
鈴鹿の森庭園 (13) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (14)
鈴鹿の森庭園 (14) posted by (C)pismo

鈴鹿の森庭園 (15)
鈴鹿の森庭園 (15) posted by (C)pismo
Posted at 2017/04/16 22:23:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年03月19日 イイね!

須磨浦山上遊園・一ノ谷・五色塚古墳

須磨浦山上遊園は、鉢伏山と旗振山の山頂一帯に広がる須磨浦公園内の植物園・遊園地を含む公園で、昭和34(1959)念に開園しました。
須磨浦ロープウェイ、カーレーターで山頂エリアに至ります。
須磨浦ロープウェイは、現在のゴンドラは平成19(2007)年3月新造のもので、昭和32(1957)年9月の開業以来、3代目となります。白いゴンドラが「うみひこ」、赤いゴンドラが「やまひこ」の呼び名です。
カーレーターはロープウェイ山上駅と回転展望閣を結んで、昭和41(1966)年3月に開通しました。その姿も当時のままで、「乗り心地の悪さ」が評判です。
回転展望閣は、昭和33(1958)年3月に営業開始しました。建物は当時流行したビヤ樽型のもので、3階はターンテーブルにより、床が360度、所要約45分でゆっくりと回転しています。
山頂エリアには須磨海岸~紀淡海峡から六甲山地まで360度のパノラマを楽しめる回転展望閣や林間の散策路があり、さらに観光リフトで谷を渡ったところにはふんすいランド、サイクルモノレール等が設置された遊園地があります。
須磨浦山上遊園 (1)
須磨浦山上遊園 (1) posted by (C)pismo

須磨浦山上遊園
須磨浦山上遊園 posted by (C)pismo

須磨浦山上遊園 (2)
須磨浦山上遊園 (2) posted by (C)pismo

須磨浦山上遊園 (3)
須磨浦山上遊園 (3) posted by (C)pismo

須磨浦山上遊園 (4)
須磨浦山上遊園 (4) posted by (C)pismo

須磨浦山上遊園 (5)
須磨浦山上遊園 (5) posted by (C)pismo

須磨浦山上遊園 (6)
須磨浦山上遊園 (6) posted by (C)pismo

須磨浦山上遊園 (7)
須磨浦山上遊園 (7) posted by (C)pismo

須磨浦山上遊園 (8)
須磨浦山上遊園 (8) posted by (C)pismo


源義経の奇襲攻撃「一ノ谷・坂落とし」は須磨浦公園の北にそびえる鉢伏山と鉄拐山との間、眼下に海を見下ろす東側の急斜面で行われました。
寿永3(1184)年2月7日早朝、鹿しか通らない急坂を、義経は弁慶をはじめとする七十余騎の騎馬軍団を率いて麓の一ノ谷城を攻め降り、源平合戦は一方的な源氏軍の勝利で決着しました。
ここから「安徳帝内裏跡伝説地」へたどる道が、その進軍路といわれています。他に鵯越付近(長田・兵庫区北方)との説もあります。
(現地説明板などより)
須磨一ノ谷 (1)
須磨一ノ谷 (1) posted by (C)pismo

須磨一ノ谷
須磨一ノ谷 posted by (C)pismo

五色塚古墳は、4世紀から5世紀にかけて造られた兵庫県下で最大の前方後円墳で、 明石地方を支配した豪族の墓であろうと推定されています。墳丘は全長194メートルで3段に築かれており、高さは前方部11.5メートル、後円部18メートルです。
墳丘の斜面には石が葺かれており、下段では古墳の周辺から採集されたと推定されている小石を使用し、中断及び上段では大きな石を使用しています。
埴輪は、墳頂部と墳丘斜面に作られた2段のテラスにめぐらされていますが、その大部分はヒレ付円筒埴輪で、その総数は約2200本と推定されています。また朝顔形埴輪、蓋形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪なども発見されています。
すぐ隣には、直径60メートルの円形の「小壷(こつぼ)古墳」があります。その他にも五色塚古墳の周囲に巡らされた堀の中にはいくつかの方墳がつくられていました。かつては堀の外側にもいくつかの古墳があって、一つの古墳群を形成していましたが、現在は消滅してしまっています。
ここからは、明石海峡大橋がよく見えます。
五色塚古墳
五色塚古墳 posted by (C)pismo

五色塚古墳 (1)
五色塚古墳 (1) posted by (C)pismo

五色塚古墳 (2)
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五色塚古墳 (3)
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五色塚古墳 (4)
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五色塚古墳 (5)
五色塚古墳 (5) posted by (C)pismo
Posted at 2017/04/11 23:19:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2017年03月11日 イイね!

仙洞御所・京都霊山護国神社

仙洞御所とは,皇位を退かれた天皇(上皇,院などといわれる)の御所です。後水尾上皇の御所として江戸時代初期の寛永7(1630)年に完成しました。それと同時にその北に接して東福門院(後水尾上皇の皇后,将軍徳川秀忠の娘和子)の女院御所も建てられました。
古くは内裏のように一定の場所にあったわけでもなく,また必ず置かれたわけでもありませんが,後水尾上皇以来現在の地すなわち京都御所の東南に定まりました。後水尾上皇が御存命の間に三度焼失し,その都度再建されてきましたが,以後,霊元,中御門,桜町,後桜町,光格の五代の上皇の仙洞御所として使用されました。
嘉永7(1854)年の大火で京都御所とともに焼失したのを最後に,ちょうどその時上皇も女院もおられなかったこともあり造営されないままとなりました。そのため,現在の仙洞御所には,醒花亭,又新亭の二つの茶室以外に御殿等の建物は全くなく,東側いっぱいに南北に展開する雄大な庭園が往時の面影を残しているだけです。
築地塀は安政2(1855)年、京都御所と共に建造されたものです。
大宮御所とは,皇太后の御所をいいます。現在,築地塀内北西隅にある大宮御所は,慶応3(1867)年に英照皇太后(孝明天皇の女御)のために女院御所の跡に造営されたものです。英照皇太后が東京に移られた後は,御常御殿のみを残して整理され,現在に伝えられています。
庭園は,仙洞御所の作事奉行であった小堀遠州が寛永7(1630)年の御所の完成に引き続いて作庭したもので,古図によれば仙洞・女院御所とも石積みの直線的な岸辺を有する斬新な感覚の広大な池をもっていたようです。
しかし,改修拡張等により遠州当時の遺構は南池東岸の一部にわずかに認められるにすぎません。延享3~4年(1746~1747年)にかけて女院御所の庭園(北池)と仙洞御所の庭園(南池)が掘割でつながれました。
北西の一隅にある大宮御所は、明治5(1872)年まで英照皇太后のお住まいでありましたが、現在は、天皇皇后両陛下や皇太子同妃両殿下が入洛された際の御宿舎として用いられております。その南は仙洞御所の殿舎が建ち並んでいた跡でありますが、現在は松林となっており、大正、昭和の即位の御大典にあたって大嘗宮がここに造営されました。
東側一帯は女院御所と仙洞御所の庭園が掘割によって結ばれて一体となって発展した回遊式大庭園です。
総面積9万1千㎡余りで、そのうち大宮御所の面積は約1万6千㎡、仙洞御所の面積は約7万5千㎡におよびます。
参観するための出入門は、大宮御所の正門が使用されております。
a href="http://photozou.jp/photo/show/219075/246770348">仙洞御所 (2)
仙洞御所 (2) posted by (C)pismo

仙洞御所 (3)
仙洞御所 (3) posted by (C)pismo

仙洞御所 (4)
仙洞御所 (4) posted by (C)pismo

仙洞御所 (5)
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仙洞御所 (6)
仙洞御所 (6) posted by (C)pismo

仙洞御所 (7)
仙洞御所 (7) posted by (C)pismo

仙洞御所 (8)
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仙洞御所 (9)
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仙洞御所 (10)
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仙洞御所 (11)
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仙洞御所 (12)
仙洞御所 (12) posted by (C)pismo

仙洞御所 (13)
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仙洞御所 (14)
仙洞御所 (14) posted by (C)pismo

仙洞御所 (15)
仙洞御所 (15) posted by (C)pismo

仙洞御所 (16)
仙洞御所 (16) posted by (C)pismo

仙洞御所 (17)
仙洞御所 (17) posted by (C)pismo

仙洞御所 (18)
仙洞御所 (18) posted by (C)pismo

仙洞御所 (19)
仙洞御所 (19) posted by (C)pismo

仙洞御所 (20)
仙洞御所 (20) posted by (C)pismo

京都霊山護国神社は、幕末、維新に殉じた志士と第二次世界大戦にいたる京都府出身の英霊7万3千3柱を奉祀する神社です。
幕末、各藩が東山三十六峰の中心であるここ霊山にそれぞれ殉難者を祀ったのが当神社の起源で、明治元(1868)年5月、太政官布告をもって我国初の官祭招魂社とすべきことが決められました。
この布告により各藩は社殿を建設し、同年7月には盛大な祭典が挙行されました。ついで明治10(1877)年には皇室より巨費が下賜せられて神域が整備され、全国招魂社のうち最も崇敬を集めました。
さらに昭和4(1929)年6月には、今上陛下御即位大礼の建物を下賜せられ、現社殿を整備し、昭和14(1939)年に護国神社と改称して現在に及んでいます。
霊山神域内には、坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允・平野国臣・宮部鼎蔵をはじめ蛤御門の変・天誅組の義挙等に加わった志士の墓300余基があり、1356柱が合祀されてあり、この地は明治維新をしのぶ大霊域・史跡です。(現地説明板などより)

霊山護国神社
霊山護国神社 posted by (C)pismo

霊山護国神社 (1)
霊山護国神社 (1) posted by (C)pismo

霊山護国神社 (2)
霊山護国神社 (2) posted by (C)pismo

霊山護国神社 (3)
霊山護国神社 (3) posted by (C)pismo

霊山護国神社 (4)
霊山護国神社 (4) posted by (C)pismo
Posted at 2017/04/08 18:48:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年03月11日 イイね!

桂離宮・中村軒

桂離宮は、後陽成天皇の弟・八条宮初代智仁親王により、宮家の別荘として創建されました。
幼少の頃より文武百般に秀でておられた親王は、17世紀初頭にこの地を得られて後、
元和元(1615)年頃に山荘の造営を起こされ、数年ほどの間に簡素のなかにも格調を保った桂山荘を完成されております。親王の40歳台前半の時期にあたり、古書院が建てられたものとみられます。
親王が没せられて後10年余の間は山荘も荒廃期でしたが、二代智忠親王は加賀藩主前田利常の息女富姫と結婚されて財政的な裏付けもでき、山荘の復興、増築などに意欲的に取り組まれました。
二代智忠親王は父君智仁親工譲りの研ぎすまされた美的感覚をもって、寛文2(1662)年頃までに在来の建物や庭園に巧みに調和させた中書院、さらに新御殿、月波楼、松琴亭、松花亭、笑意軒等を新増築されました。
池や庭園にも手を加えほぼ今日にみるような山荘の姿に整えられました。
特に桂棚および付け書院で知られる新御殿や御幸道などは、後水尾上皇を桂山荘にお迎えするにあ
たって、新増築されたものと伝えられています。八条宮家はその後、常盤井宮、京極宮、桂宮と改称され明治に至り、明治14(1881)年十二代淑子内親王が亡くなられるとともに絶えました。
宮家の別荘として維持されてきた桂山荘は、明治16(1883)年、宮内省所管となり、桂離宮と称されることとなりますが、創建以来永きにわたり火災に遭うこともなく、ほとんど完全に創建当時の姿を今日に伝えております。
桂離宮の総面積は付属地も含め約6万9千㎡余りです。中央には複雑に入り組む汀線を持つ池があり、大小五つの中島に土橋、板橋、石橋を渡し、書院や茶室に寄せて船着きを構え、灯籠や手水鉢を要所に配した回遊式庭園と数寄屋風の純日本風建築物とで構成されています。
苑路を進むと池は全く姿を消したり、眼前に洋々と広がったり、知らぬ間に高みにあったり、水辺にあったりしてその変化に驚かされる。また、桂離宮には真、行、草の三つの飛び石があり、庭の敷石で長方形の切石と自然石とを組み合わせた延べ段や飛石の変化を楽しみつつ、入江や州浜、築山、山里等もあり、それぞれが洗練された美意識で貫かれ、晴雨にかかわらず四季折々に映し出される自然の美には感嘆つきることを知りません。
作庭にあたり小堀遠州は直接関与していないとする説が有力ですが、庭園、建築ともに遠州好みの技法が随所に認められることから、桂離宮は遠州の影響を受けた工匠、造園師等の技と智仁親王及び智忠親王の趣味趣向が高い次元で一致して結実した成果と思われます。
京都御所、京都大宮御所、仙洞御所、修学院離宮とともに皇室用財産(国有財産)として宮内庁が管理しています。
(パンフレットより)
ドイツの建築家で、ナチスの迫害を逃れて日本を訪れたブルーノ・タウトは、「泣きたくなるほど美しい」と大絶賛し、桂離宮の「発見者」ともいわれました。タウトはその他にも桂離宮のことを「理解を絶する美」「永遠なる美」などという言葉を残しました。
桂離宮
桂離宮 posted by (C)pismo

桂離宮 (1)
桂離宮 (1) posted by (C)pismo

桂離宮 (2)
桂離宮 (2) posted by (C)pismo

桂離宮 (3)
桂離宮 (3) posted by (C)pismo

桂離宮 (4)
桂離宮 (4) posted by (C)pismo

桂離宮 (5)
桂離宮 (5) posted by (C)pismo

桂離宮 (6)
桂離宮 (6) posted by (C)pismo

桂離宮 (7)
桂離宮 (7) posted by (C)pismo

桂離宮 (8)
桂離宮 (8) posted by (C)pismo

桂離宮 (9)
桂離宮 (9) posted by (C)pismo

桂離宮 (10)
桂離宮 (10) posted by (C)pismo

桂離宮 (11)
桂離宮 (11) posted by (C)pismo

桂離宮 (12)
桂離宮 (12) posted by (C)pismo

桂離宮 (13)
桂離宮 (13) posted by (C)pismo

桂離宮 (14)
桂離宮 (14) posted by (C)pismo

桂離宮 (15)
桂離宮 (15) posted by (C)pismo

桂離宮 (16)
桂離宮 (16) posted by (C)pismo

桂離宮 (17)
桂離宮 (17) posted by (C)pismo

桂離宮 (18)
桂離宮 (18) posted by (C)pismo

桂離宮 (19)
桂離宮 (19) posted by (C)pismo

桂離宮 (20)
桂離宮 (20) posted by (C)pismo

桂離宮 (21)
桂離宮 (21) posted by (C)pismo

桂離宮 (22)
桂離宮 (22) posted by (C)pismo

桂離宮 (23)
桂離宮 (23) posted by (C)pismo

桂離宮 (24)
桂離宮 (24) posted by (C)pismo

桂離宮 (25)
桂離宮 (25) posted by (C)pismo

桂離宮 (26)
桂離宮 (26) posted by (C)pismo

桂離宮 (27)
桂離宮 (27) posted by (C)pismo

桂離宮 (28)
桂離宮 (28) posted by (C)pismo

桂離宮 (29)
桂離宮 (29) posted by (C)pismo

桂離宮 (30)
桂離宮 (30) posted by (C)pismo

桂離宮 (31)
桂離宮 (31) posted by (C)pismo

桂離宮 (32)
桂離宮 (32) posted by (C)pismo

桂離宮 (33)
桂離宮 (33) posted by (C)pismo

桂離宮 (34)
桂離宮 (34) posted by (C)pismo

桂離宮 (35)
桂離宮 (35) posted by (C)pismo

桂離宮 (36)
桂離宮 (36) posted by (C)pismo

桂離宮 (37)
桂離宮 (37) posted by (C)pismo

桂離宮 (38)
桂離宮 (38) posted by (C)pismo

桂離宮 (39)
桂離宮 (39) posted by (C)pismo

中村軒は、桂離宮のすぐ近くにある創業明治16(1883)年の和菓子店です。
久邇宮家御用達「かつら饅頭」、代表銘菓「麦代餅(むぎてもち)」など素朴ですが、あっさりとして魅力的な和菓子を作っています。
「麦代餅」は、もとは麦刈りや田植えの際に、おやつとして好まれ、その代金をお金の代わりに麦で支払うこともあったため「麦代餅」という名前が付けられたそうです。
また、季節ごとに色々な和菓子を作っていて、茶店では春夏は冷やしぜんざい、かき氷、おそうめん等、秋冬はあべ川、おぜんざい、お雑煮等をいただくことができます。
中村軒
中村軒 posted by (C)pismo

中村軒 (1)
中村軒 (1) posted by (C)pismo

中村軒 (2)
中村軒 (2) posted by (C)pismo

中村軒 (3)
中村軒 (3) posted by (C)pismo
Posted at 2017/04/05 23:17:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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