清澄寺は、山号は千光山、日蓮宗の寺院です。
宝亀2(771)年、不思議法師が開創しました。当初は天台宗の寺として開創され平安時代には慈覚大師円仁が僧坊12、祠堂25を建て、房総第一の大寺となりました。江戸時代初期、仲恩房頼勢法師は徳川家康の帰依を得て再興し、これより真言宗の寺となり、格式十万石、朱印五百石を賜り、本山格の寺院となりました。京都醍醐三宝院の別院となったため菊花の御紋章を許されました。
本尊の虚空蔵菩薩は、智恵福徳の菩薩として名高く、その像は日本三大虚空蔵の一つです。
日蓮宗の開祖である日蓮聖人は、天福元(1233)年5月12日、12歳のとき、小湊からこの寺に入り道善法師に師事し、出家得度しました。
勉学修行に励んだ聖人は更に諸国に出て、各宗の奥義を学び、建長5(1253)年4月28日32歳のときに立教開宗の第一声をあげました。
聖人ゆかりの清澄寺は、昭和24(1949)年4月に日蓮宗に改宗しました。
(現地説明板などより)
日澄寺は山号は明星山、日蓮宗の寺院です。
日蓮の小松原法難の折に殉教した天津領主工藤左近将監吉隆の居館でしたが、その嫡子日隆が父の菩提を弔うために弘安5(1282)年これを寺としました。
吉隆は、鎌倉幕府出仕中に四条金吾、池上宗仲等とともに日蓮大聖人に深く帰依しました。伊豆流罪中も遠く志を馳せて外護し、大聖人は「四恩鈔」をしたためて吉隆を教化されています。
文永元(1264)年秋、日蓮は母の病気見舞いに小湊へ帰られましたが、逗留地西条花房の蓮華寺から天津の工藤吉隆の館を訪ねる道すがら、東条の松原で地頭東条景信の伏兵に襲撃されました。文永元(1264)年11月11日、これが世にいう「小松原法難」です。この法難で、日蓮は頭部に三寸余りの刀傷をうける危難にあわれ、救援に駆けつけた吉隆は討死しました。日蓮は、吉隆の霊を弔うために出家の礼をとり、妙隆院日玉上人の法号を授与しました。
吉隆の不惜身命の法勲を当山が今に伝えています。
(現地説明板などより)
誕生寺は、山号は小湊山、日蓮宗の大本山です。
日蓮聖人は、承応元(1222)年小湊に生まれました。聖人は自らの出生を「安房国長狭郡東條郷片海海人(かたうみあま)が子なり」(「本尊問答抄」)といわれ、
聖人没後五十年頃の聖人伝「本門宗要抄」には「出生の処は安房国長狭郡東條小湊の浦の釣人権頭の子也」とあります。
誕生寺は隣村上総興津の豪族佐久間兵庫助重吉の子竹寿麿(日家)、甥の長寿麿(日保)により建治2(1276)年開創され、日蓮聖人を開山とし、日家上人を二祖、日保上人を三租とし、聖人誕生の地に建立されました。
しかし、明応7(1498)年8月の明応地震の際大津波があり堂宇坊舎ことごとく流出しましたので、秡崎(はらいざき)の南端から現在の地に移りました。
延宝8(1680)年の記録「誕生寺寺法」によれば、境内地は南北三十二町(3456m)、東西二十町(2160m)とありますから関東屈指の大寺であったことがわかります。
天正8(1580)年里見安房守義頼が四十石の田畑及寺面海上十石を、更に慶長9(1604)年市川の地二十石を、重臣正木太夫頼忠より寄進しております。
そして慶安元(1648)年徳川3代将軍家光が御朱印によりこれを認められました。現在の特別天然記念物「鯛の浦」はこの「寺面海上十石」の寺領内のものです。
この頃の小湊村は、七十石の御朱印、海上十石の運送業権を背景にして近海航路の港門前町として栄え、人口もこの地方では最も大きな港町であったといわれます。
しかし、元禄16(1703)年11月房総沖を震源地とする大地震大津波により、支院十坊、門前の人家百余戸が流出し僧俗四百八名が溺死する大災害に見舞はれました。
もちろん、当山の被害は甚大なものでありましたが、幸い水戸の徳川綱条(粛公)が先代黄門光圀の追善のため七堂伽藍を一基建立され、忽ち旧に復することが出来ましたが、それも束の間、宝暦8(1758)年大火により、三光殿(釈迦堂、祖師堂、本堂)を焼失しました。
現在の雨落十八間四面総欅造りの大祖師堂は天保13(1842)年に、又総桧造りの貴賓殿は昭和六年に、夫々十万人講、五十万人講等の全国勧募により完成したものであります。
又、明治に入り東宮殿下(大正天皇)の御祈願所となり、同時に有栖川宮熾仁殿下により有栖川宮家御霊堂(竜王殿)が境内に建立されて、御皇室とのご縁も結ばれました。
(現地説明板などより)
勝浦城は、天文11(1541)年の頃、勝浦正木氏の初代、正木時忠が入城しました。それ以前は、真里谷武田氏の砦のようなものであったろうと言われています。その後、二代時通、三代頼忠の居城となります。しかし、天文18(1590)年、豊臣秀吉により安房里見氏が領地の一部を没収されると、里見氏と親交のあった勝浦城主正木頼忠も城を明け渡し、安房に逃れます。なお、頼忠の娘は、後に徳川家康の側室(お万の方)となり、紀州徳川頼宣と水戸徳川頼房をもうけます。高名な水戸光圀(黄門)は、お万の方の孫にあたります。また、絶壁を布を伝わって下りたという「お万布ざらし」伝説は、神社裏の断崖絶壁が舞台です。
養珠院於萬の方は、天正5(1577)年4月4日、上総国勝浦城主正木左近大夫頼忠の娘として勝浦城(現在勝浦市浜勝浦八幡)に生まれました。本名を萬といいました。
天正18(1590)年6月、豊臣秀吉の小田原城攻略に関連し勝浦城は落城、当時14歳の於萬は海路伊豆韮山へ逃れました。炎上する城を後に幼い弟を背負い、母と40mもある八幡岬の断崖に白布を垂らして海に下り小舟に乗って逃れたという話は、「お萬の布ざらし」として言い伝えられています。
その後、母が伊豆の土豪蔭山氏と再婚をした機会に、徳川家康に沼津本陣で見染められた於萬は、江戸城に召されて家康の側室となりました。文禄2(1593)年10月22日、17歳の時だったといいます。江戸城では於萬の方、蔭山殿と呼ばれました。慶長7(1602)年3月、京都伏見で長福丸(後の紀伊徳川家の祖頼宣)を生み、さらに慶長8(1603)年には、駿河で徳千代(後の水戸徳川家の祖頼房)を生みました。紀伊家、水戸家は共に徳川御三家として名高く、又水戸黄門の逸話で知られる水戸光圀は頼房の子であり於萬の方の孫にあたります。
元和2(1616)年家康が死去した時、40歳の於萬は仏門の人となりました。
法華教に帰依した於萬は諸寺を建立しましたが、匝瑳市(旧八日市場市)の飯高寺(飯高檀林堂)もその一つです。
生涯は仁慈貞潔のことば通りで、家康によく仕え、子弟の教育に尽くし、信仰の心篤く、病める者には医薬を恵み、貧しい者には依財を与え、刑罰にあう者には命乞いを行うなど数々の優れた業績を残したが、晩年は落飾して蓮華院と号し承応7(1653)年8月22日、享年77歳の生涯をとじました。
城が存在した場所は現在、八幡岬公園となっています。養珠院夫人の銅像が建っているほか、「養珠夫人生誕地・勝浦城址」の石碑が八幡神社参道入口に建っています。
(現地説明板などより)
万木城は、中世の城郭で現在までその遺構をよく留めています。
この城の立地は断層崖の急傾斜を三方に持った台地によっていますが、この丘陵の三方は夷隅川の曲流に囲まれていて外堀の役目を果たし守るには要害の地ということでできます。この中世城郭が戦国時代末期には既に完備した城郭であったことは、永禄8(1565)年の行元寺文書の存在から傍証できます。
この城郭が比較的単純であるというのは、土居の配置が単純で、ただ周囲の一部にめぐらされていたこと、空堀の築造がなかったと思われることなどですが、これは地盤の基底が硬い泥岩質で、急崖をめぐらしている崖端城ともいえる要害が然らしめたものと推定されます。
万木城については不明な点が多く、万木土岐氏には三代説、五代説、九代説があります。
土岐三代説 頼元-為頼-頼春
五代説 頼元-頼房-頼定-為頼-頼春
九代説 時政-光頼-頼金-頼為-頼元-頼房-頼定-為頼-頼春
等様々で、いずれも確証がないため、謎に包まれたままです。
天正18(1590)年には、頼春の時でしたが秀吉の命を受けた家康の部将本多忠勝に攻められ、万木城も落城しました。城址には当時のものと思われる井戸や落城のときに焼けた米が炭になって、当時米倉であったと思われる南側の台地の土中にまで散在しています。櫓台には天守風の展望台が建っています。
(現地説明板などより)