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ピズモのブログ一覧

2017年07月22日 イイね!

喜光寺

喜光寺は山号は清涼山、法相宗別格本山の寺院です。
養老5(721)年、天平の僧、行基菩薩によって創建されました。
この地は平城京の右京三条三坊に当り、通称菅原の里といわれ、寺名も菅原寺と呼ばれていました。
行基菩薩は東大寺造営に当り、この寺の本堂を参考にした事から、本堂は「大仏殿試みの堂」としても知られています。
天平20(748)年、聖武天皇は菅原寺に御幸された折、ご本尊より不思議な光明を感得され、そのことを喜ばれ、「喜光寺」の寺額を与えたといわれ、以後、菅原寺を喜光寺と改名したといわれています。
天平21(749)年2月2日、当寺の東南院に於いて行基菩薩は入寂されました。
遺言により火葬とし、母の墓処のほとりに埋葬しました。
その後、喜光寺は広い寺領を所有していたが、平安末期から鎌倉時代にかけて荒廃衰退しました。
本堂(金堂)は室町時代(1400年頃)に再建され現在、国の重要文化財に指定されています。
本尊は、平安時代後期の造像で、丈六の阿弥陀如来坐像です。現在国の重要文化財となっています。
昭和44(1969)年、発掘調査が行われ、本堂基壇と南大門跡が検出され、奈良時代後期の軒瓦など発見されました。
現在は法相宗に所属し、薬師寺の別格本山として活躍しています。
蓮の名所として知られ、6月中旬~8月中旬には250鉢の蓮が境内を華やかに彩ります。
(現地説明板などより)
喜光寺

喜光寺

喜光寺

喜光寺

喜光寺

喜光寺

喜光寺

喜光寺

喜光寺

喜光寺

喜光寺

喜光寺

喜光寺

喜光寺

喜光寺
Posted at 2018/01/27 12:38:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年07月16日 イイね!

房総半島(4日目その2・市川市)

現在は里見公園となっている国府台合戦の舞台・国府台城です。
「鎌倉大草子」によれば、文明10(1478)年に扇谷上杉氏の家宰太田道灌が「下総国国府台」に陣取り、仮の陣城を構えたとあり、これが国府台城の始まりであるとする説があります。道灌は武蔵にいた千葉自胤を助け、敵対する千葉孝胤と戦うためにここに陣取り、境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っています。
これより以前の康正2(1456)年、千葉自胤は兄の実胤とともに「市川城」に立てこもり、足利成氏方に抵抗していましたが、梁田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れていました。この「市川城」と太田道灌の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのかどうかは不明です。
国府台は標高20~25mの下総台地の西の端で、江戸川に平行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園の中に土塁城の城郭遺構が現存しています。そして公園の北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認されます。公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいですが、太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推測もあります。
この地は、その後天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏らにより行われた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっています。
天文7(1538)年の合戦は、北条氏綱と小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小弓(千葉市)に拠を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の古河公方家との戦いです。これに対して永禄7(1564)年の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに対抗する里見義堯・義弘らの戦いでした。〔前年の永禄6(1565)年にも合戦があったとする説もあります。〕
永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である正木氏の一族など多くの戦死者を出し安房に敗走しました。
現在の国府台城跡は、この合戦の中で激突する両軍の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国期の城郭に進化した、とする説もあります。現在の公園内には、江戸時代になって作られた里見軍の慰霊のための供養塔がたてられています。この地はその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後は陸軍軍用地となり終戦を迎えました。昭和33(1958)年9月にこの付近は「里見公園」として整備されています。
(現地説明板などより)
国府台城

国府台城

国府台城

国府台城

国府台城

国府台城

総寧寺は山号は安国山、曹洞宗の寺院です。
もと、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳3(1383)年通幻禅師を開山として、近江国五槻庄樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に建立された曹洞宗の寺院でした。
ところが、天正3(1575)年に至って、小田原城主北条氏政が、寺領20石を与えて下総国関宿(千葉県関宿町)に移しました。
その後、関宿の地はしばしば水害を被ったため、寛文3(1663)年遂に徳川4代将軍家綱に願って国府台の地に移りました。その折幕府は寺領として128石5斗余、山林6万7千坪を与えています。
総寧寺は古くから一宗の僧録に任ぜられていましたが、徳川家康が天下を掌握すると宗門の統一支配の面から、総寧寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、一宗の大僧録に任じました。しかも歴代住職は10万石大名の格式を以て遇せられ、江戸小石川には邸が与えられました。総寧寺の格式の高さは今日に残る下馬石によっても分かります。
明治5(1872)年学制の施行によって、第一学区の大学校舎を総寧寺境内に建設することになりましたが、それは後、陸軍用地となり、昭和33(1958)年現在の里見公園となりました。
本寺の境内には、関宿より移された小笠原政信夫妻の供養塔である2基五輪塔、小川稽古斎碑をはじめ、国府台合戦にまつわる夜泣石等があります。
(現地説明板などより)
総寧寺

総寧寺

総寧寺

総寧寺
Posted at 2018/01/27 12:31:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2017年07月16日 イイね!

房総半島(4日目その1・長南町、匝瑳市、旭市、銚子市)

長南の町並から数百メートル隔てた丘陵地内に位置する庁南城は、康正2(1456)年、甲斐武田氏の一族である武田信長により修築され、以来、天正18(1590)年の落城までの戦国時代約140年間、庁南武田氏累世の居城として有名でした。
しかし、その規模、構造などについてはほとんど不明です。
寛政5(1793)年矢貫村役人から地頭所にあてた報告書に「古城跡御座候」その他が記され、大手門は古沢方面に在ったもようです。
太鼓森は、庁南城西隅の高台に在り、その東方に妙見神社があります。そのむかし、ここに物見の櫓があり、出陣、家臣への合図に太鼓を打ち鳴らしたと言い伝えられています。名勝の松も昭和32(1957)年頃枯れ、往年の姿は見られません。
(現地説明板などより)
庁南城

庁南城

庁南城

庁南城

飯高寺は、山号は妙雲山、日蓮宗の寺院です。関東における日蓮宗の主要な檀林(僧侶の学問所)の一で、飯高檀林(いいだかだんりん)と称されました。
天正8(1580)年土地の豪族平山刑部少輔常時は日生を招き、城内に寺をつくり学問所(檀林)としたのが始まりと伝えられています。
天正19(1591)年に徳川家より日蓮宗の宗門根本壇林として公認され、以後徳川家の保護を受けてきました。特に、家康の側室養珠院「おまんの方」の信仰が厚く、その子水戸頼房・紀伊頼宜の寄進等により規模が整えられました。以後、寺は日蓮宗の根本壇林として遠近各地から参集する僧たちでにぎわい、名僧を輩出しました。
慶安3(1650)年に火災にあい、衆寮・楼門・大講堂を焼失し、現在の建物はその翌年の慶安4(1651)年に再建された時のものといわれています。
明治7(1874)年に壇林の制が廃止され、不要の建物は取りはらわれ、今では講堂、総門・鐘楼・鼓楼等が往時の盛大さをしのばせてくれます。
そして、近代的な教育機関として 東京に「宗務院」が設立されましたが、これが立正大学の開校とされるため、飯高寺は立正大学発祥の地とされています。
昭和50(1975)年12月12日、千葉県の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
飯高寺

飯高寺

飯高寺

飯高寺

飯高寺

飯高寺

飯高寺

飯高寺

飯高寺

飯高寺

飯高寺

飯高寺

木曽義昌公は、天文9(1540)年、木曽義康の長男として生まれました。朝日将軍木曽義仲の後裔となる戦国武将です。木曽家の主として武田信玄・勝頼、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉などの間で戦国時代を生き抜きました。天正18(1590)年8月に下総蘆戸城(旭市網戸)へ一万石で移封されました。文禄4(1595)年3月17日に、病のためその地で生涯を終えました。遺体は城の北西方の椿湖に水葬されたといわれています。
水葬された椿湖は、元禄年間に干拓されました。墓のある一帯は、木曽義昌公史跡公園となりました。
木曽義昌公史跡公園の入り口に木曽義昌公の像と、木曽義昌公遺跡水葬跡石塔があります。石塔には「木曽左典厩兼伊予守源義昌朝臣墓」と刻まれています。明治44(1911)年改修されました。
(現地説明板などより)
木曽義昌公史跡公園

木曽義昌公史跡公園

木曽義昌公史跡公園

木曽義昌公史跡公園

木曽義昌公史跡公園

木曽義昌公史跡公園

東漸寺は、山号は殿玉山、真言宗の寺院で木曽氏の菩提寺です。
木曽義昌は信濃国木曽地方を領有し、戦国時代に武田、徳川、織田、豊臣の各武将に伍して活躍した。天正18(1590)年豊臣秀吉の命によって下総網戸(現在の旭市イ)1万石の城主として、山国から潮騒の地に移されました。僅か5年の在世でしたが、桜木を愛し、城下町をつくり、新田開発などに力を尽くしたといいます。
ここ真言宗殿玉山東漸寺は文禄2(1593)年義昌に招かれた悦道和尚が開基しました。義昌は菩提料を寄進して厚く尊崇しました。
義昌は文禄4(1595)年3月、56歳の波乱に富んだ生涯を終えました。供養塔は義昌夫人、ならびに木曽家代々のものです。なお脇に立つ六地蔵を刻んだ石灯籠「憧」は市内唯一のものです。
義昌は寺の北側に広がる椿の海に水葬されました。後年、椿の海が干拓されたため水葬地に墓塔が建てられました。石塔には「木曽左典厩兼伊予守源義昌朝臣墓」と刻まれている。明治44(1911)年改修されました。
義昌250回忌に京都の国学者野々口隆正が、「信濃よりいつる旭を志たひ幾て東の国にあととどめ見舞」と詠みました。明治22(1889)年、新町名をつける際、発展の象徴である旭日とともに、この和歌の旭をとって旭町とつけられました。東漸寺及び地元では義昌死去の3月17日に毎年供養を行っています。
(現地説明板などより)
東漸寺

東漸寺

犬吠埼は、水郷筑波国定公園内の風光明媚な景勝地で、関東の最東端に位置し、山頂や離島を除き、日本で一番早く初日の出が拝めます。
その突端にそそり立つ犬吠埼灯台は、英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により作られた西洋型第1等灯台で、明治7(1874)年11月15日に完成、日本で24番目に点灯されました。地上31mのレンガ作りの構造物で、自然美と灯台のおりなす風景は、観光銚子のシンボルです。
平成10(1998)年には「世界の歴史的灯台100選」に選ばれました。
犬吠埼周辺は、景勝地のため、文人、歌人などの来遊が多く、高浜虚子句碑、佐藤春夫詩碑、尾張穂草歌碑などの文学碑があります。
(現地説明板などより)
犬吠埼

犬吠埼

犬吠埼

犬吠埼

犬吠埼

犬吠埼

犬吠埼

犬吠埼

利根水運が江戸に通じるようになって以降、日本海や東北各藩の物産が銚子港経由で江戸に運ばれることになり、幕府では、享保2(1717)年、親藩の中から高崎藩を銚子の統治に当たらせました。
以後、廃藩置県を迎えるまで約150年間にわたって、高崎藩では銚子に陣屋を置き、郡奉行1人と、代官2人を主役として派遣させ、領内の年貢の徴収や領内の治安維持、領民からの訴訟などの治にあたりました。高崎藩の職制では「郡奉行は上士の末席出身で、郡村にかかわる一切の事務を総轄し、毎日役所に出勤して事務を取り扱い、配下に手附留役(下士)5名、米見(卒)10名を従えていました。また、代官は中士または下士の出身で、郡奉行に付属して、一郷2名ずつの受け持ちを定め、収租その他郷村百般の事務を取り扱う。」と高崎市史にあります。支配領地のことを「代官所」、執務を行う建物は「陣屋」といいます。
文政8(1825)年6月、渡辺崋山は江戸を発って四州(武蔵・常陸・上総・下総)巡りの旅に出ました。このとき崋山が銚子で描いた「新町大手奉行屋敷」が、「四州真景図巻」に残されています。
陣屋町公園の一角に「旧陣屋跡」の石碑と公園内に陣屋の案内板が設置されています。
(現地説明板などより)
銚子陣屋

銚子陣屋
Posted at 2018/01/27 12:04:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2017年07月15日 イイね!

房総半島(3日目その3・鴨川市、勝浦市、いすみ市)

清澄寺は、山号は千光山、日蓮宗の寺院です。
宝亀2(771)年、不思議法師が開創しました。当初は天台宗の寺として開創され平安時代には慈覚大師円仁が僧坊12、祠堂25を建て、房総第一の大寺となりました。江戸時代初期、仲恩房頼勢法師は徳川家康の帰依を得て再興し、これより真言宗の寺となり、格式十万石、朱印五百石を賜り、本山格の寺院となりました。京都醍醐三宝院の別院となったため菊花の御紋章を許されました。
本尊の虚空蔵菩薩は、智恵福徳の菩薩として名高く、その像は日本三大虚空蔵の一つです。
日蓮宗の開祖である日蓮聖人は、天福元(1233)年5月12日、12歳のとき、小湊からこの寺に入り道善法師に師事し、出家得度しました。
勉学修行に励んだ聖人は更に諸国に出て、各宗の奥義を学び、建長5(1253)年4月28日32歳のときに立教開宗の第一声をあげました。
聖人ゆかりの清澄寺は、昭和24(1949)年4月に日蓮宗に改宗しました。
(現地説明板などより)
清澄寺

清澄寺

清澄寺

清澄寺

清澄寺

清澄寺

清澄寺

清澄寺

清澄寺

日澄寺は山号は明星山、日蓮宗の寺院です。
日蓮の小松原法難の折に殉教した天津領主工藤左近将監吉隆の居館でしたが、その嫡子日隆が父の菩提を弔うために弘安5(1282)年これを寺としました。
吉隆は、鎌倉幕府出仕中に四条金吾、池上宗仲等とともに日蓮大聖人に深く帰依しました。伊豆流罪中も遠く志を馳せて外護し、大聖人は「四恩鈔」をしたためて吉隆を教化されています。
文永元(1264)年秋、日蓮は母の病気見舞いに小湊へ帰られましたが、逗留地西条花房の蓮華寺から天津の工藤吉隆の館を訪ねる道すがら、東条の松原で地頭東条景信の伏兵に襲撃されました。文永元(1264)年11月11日、これが世にいう「小松原法難」です。この法難で、日蓮は頭部に三寸余りの刀傷をうける危難にあわれ、救援に駆けつけた吉隆は討死しました。日蓮は、吉隆の霊を弔うために出家の礼をとり、妙隆院日玉上人の法号を授与しました。
吉隆の不惜身命の法勲を当山が今に伝えています。
(現地説明板などより)
日澄寺

誕生寺は、山号は小湊山、日蓮宗の大本山です。
日蓮聖人は、承応元(1222)年小湊に生まれました。聖人は自らの出生を「安房国長狭郡東條郷片海海人(かたうみあま)が子なり」(「本尊問答抄」)といわれ、
聖人没後五十年頃の聖人伝「本門宗要抄」には「出生の処は安房国長狭郡東條小湊の浦の釣人権頭の子也」とあります。
誕生寺は隣村上総興津の豪族佐久間兵庫助重吉の子竹寿麿(日家)、甥の長寿麿(日保)により建治2(1276)年開創され、日蓮聖人を開山とし、日家上人を二祖、日保上人を三租とし、聖人誕生の地に建立されました。
しかし、明応7(1498)年8月の明応地震の際大津波があり堂宇坊舎ことごとく流出しましたので、秡崎(はらいざき)の南端から現在の地に移りました。
延宝8(1680)年の記録「誕生寺寺法」によれば、境内地は南北三十二町(3456m)、東西二十町(2160m)とありますから関東屈指の大寺であったことがわかります。
天正8(1580)年里見安房守義頼が四十石の田畑及寺面海上十石を、更に慶長9(1604)年市川の地二十石を、重臣正木太夫頼忠より寄進しております。
そして慶安元(1648)年徳川3代将軍家光が御朱印によりこれを認められました。現在の特別天然記念物「鯛の浦」はこの「寺面海上十石」の寺領内のものです。
この頃の小湊村は、七十石の御朱印、海上十石の運送業権を背景にして近海航路の港門前町として栄え、人口もこの地方では最も大きな港町であったといわれます。
しかし、元禄16(1703)年11月房総沖を震源地とする大地震大津波により、支院十坊、門前の人家百余戸が流出し僧俗四百八名が溺死する大災害に見舞はれました。
もちろん、当山の被害は甚大なものでありましたが、幸い水戸の徳川綱条(粛公)が先代黄門光圀の追善のため七堂伽藍を一基建立され、忽ち旧に復することが出来ましたが、それも束の間、宝暦8(1758)年大火により、三光殿(釈迦堂、祖師堂、本堂)を焼失しました。
現在の雨落十八間四面総欅造りの大祖師堂は天保13(1842)年に、又総桧造りの貴賓殿は昭和六年に、夫々十万人講、五十万人講等の全国勧募により完成したものであります。
又、明治に入り東宮殿下(大正天皇)の御祈願所となり、同時に有栖川宮熾仁殿下により有栖川宮家御霊堂(竜王殿)が境内に建立されて、御皇室とのご縁も結ばれました。
(現地説明板などより)
誕生寺

誕生寺

誕生寺

誕生寺

誕生寺

勝浦城は、天文11(1541)年の頃、勝浦正木氏の初代、正木時忠が入城しました。それ以前は、真里谷武田氏の砦のようなものであったろうと言われています。その後、二代時通、三代頼忠の居城となります。しかし、天文18(1590)年、豊臣秀吉により安房里見氏が領地の一部を没収されると、里見氏と親交のあった勝浦城主正木頼忠も城を明け渡し、安房に逃れます。なお、頼忠の娘は、後に徳川家康の側室(お万の方)となり、紀州徳川頼宣と水戸徳川頼房をもうけます。高名な水戸光圀(黄門)は、お万の方の孫にあたります。また、絶壁を布を伝わって下りたという「お万布ざらし」伝説は、神社裏の断崖絶壁が舞台です。
養珠院於萬の方は、天正5(1577)年4月4日、上総国勝浦城主正木左近大夫頼忠の娘として勝浦城(現在勝浦市浜勝浦八幡)に生まれました。本名を萬といいました。
天正18(1590)年6月、豊臣秀吉の小田原城攻略に関連し勝浦城は落城、当時14歳の於萬は海路伊豆韮山へ逃れました。炎上する城を後に幼い弟を背負い、母と40mもある八幡岬の断崖に白布を垂らして海に下り小舟に乗って逃れたという話は、「お萬の布ざらし」として言い伝えられています。
その後、母が伊豆の土豪蔭山氏と再婚をした機会に、徳川家康に沼津本陣で見染められた於萬は、江戸城に召されて家康の側室となりました。文禄2(1593)年10月22日、17歳の時だったといいます。江戸城では於萬の方、蔭山殿と呼ばれました。慶長7(1602)年3月、京都伏見で長福丸(後の紀伊徳川家の祖頼宣)を生み、さらに慶長8(1603)年には、駿河で徳千代(後の水戸徳川家の祖頼房)を生みました。紀伊家、水戸家は共に徳川御三家として名高く、又水戸黄門の逸話で知られる水戸光圀は頼房の子であり於萬の方の孫にあたります。
元和2(1616)年家康が死去した時、40歳の於萬は仏門の人となりました。
法華教に帰依した於萬は諸寺を建立しましたが、匝瑳市(旧八日市場市)の飯高寺(飯高檀林堂)もその一つです。
生涯は仁慈貞潔のことば通りで、家康によく仕え、子弟の教育に尽くし、信仰の心篤く、病める者には医薬を恵み、貧しい者には依財を与え、刑罰にあう者には命乞いを行うなど数々の優れた業績を残したが、晩年は落飾して蓮華院と号し承応7(1653)年8月22日、享年77歳の生涯をとじました。
城が存在した場所は現在、八幡岬公園となっています。養珠院夫人の銅像が建っているほか、「養珠夫人生誕地・勝浦城址」の石碑が八幡神社参道入口に建っています。
(現地説明板などより)
勝浦城

勝浦城

勝浦城

勝浦城

勝浦城

勝浦城

万木城は、中世の城郭で現在までその遺構をよく留めています。
この城の立地は断層崖の急傾斜を三方に持った台地によっていますが、この丘陵の三方は夷隅川の曲流に囲まれていて外堀の役目を果たし守るには要害の地ということでできます。この中世城郭が戦国時代末期には既に完備した城郭であったことは、永禄8(1565)年の行元寺文書の存在から傍証できます。
この城郭が比較的単純であるというのは、土居の配置が単純で、ただ周囲の一部にめぐらされていたこと、空堀の築造がなかったと思われることなどですが、これは地盤の基底が硬い泥岩質で、急崖をめぐらしている崖端城ともいえる要害が然らしめたものと推定されます。
万木城については不明な点が多く、万木土岐氏には三代説、五代説、九代説があります。
土岐三代説 頼元-為頼-頼春
五代説 頼元-頼房-頼定-為頼-頼春
九代説 時政-光頼-頼金-頼為-頼元-頼房-頼定-為頼-頼春
等様々で、いずれも確証がないため、謎に包まれたままです。
天正18(1590)年には、頼春の時でしたが秀吉の命を受けた家康の部将本多忠勝に攻められ、万木城も落城しました。城址には当時のものと思われる井戸や落城のときに焼けた米が炭になって、当時米倉であったと思われる南側の台地の土中にまで散在しています。櫓台には天守風の展望台が建っています。
(現地説明板などより)
万木城

万木城

万木城
Posted at 2018/01/27 11:38:36 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2017年07月15日 イイね!

房総半島(3日目その2・養老渓谷周辺)

梅ヶ瀬渓谷は、養老川支流梅ヶ瀬川の侵食により形成された渓谷です。
川幅4~4.5mの渓谷の両岸には高さ30~50mの浸食崖が続いています。四季折々美しく変化し、もみじが美しい名所として知られています。
日向高鍋藩出身の教育者日高誠実が明治19(1886)年、50歳になって陸軍省を辞しこの地に隠棲したのち渓谷沿いに400株の梅を植え、梅ヶ瀬書堂を開校し近隣の生徒を指導したと言われています。
現在建物は朽ち果てましたが、屋敷跡にはもみじの大木がそびえ、落葉の時期には見事な紅葉の絨毯が見られます。
(現地説明板などより)
梅ヶ瀬渓谷

梅ヶ瀬渓谷

大多喜町の養老渓谷にある向山トンネル(共榮トンネル)です。
出口が二層式になっている不思議な形をしています。
もともと上段が出口でしたが、接続する道路への利便性をよくするため、トンネルの途中から道路はさらに深く掘削されたためこんな形をしているそうです。
東側が元々あった向山トンネルで、西側が昭和45(1970)年3月に竣工した共榮トンネルと、2つのトンネルが続いている形になります。
壁に苔が生えていて、緑の光に包まれているような不思議な色をしていました。
(現地説明板などより)
向山トンネル(共栄トンネル)

向山トンネル(共栄トンネル)

向山トンネル(共栄トンネル)

向山トンネル(共栄トンネル)

向山トンネル(共栄トンネル)

粟又の滝は、高滝とも養老の滝ともいう養老渓谷の上流にある滝です。
養老渓谷随一の景観を誇る粟又の滝は、落差30m、長さ100mに渡り水しぶきをあげて流れ落ちる房総一を誇る名瀑布です。
養老渓谷・粟又の滝

養老渓谷・粟又の滝

養老渓谷・粟又の滝

養老渓谷・粟又の滝

養老渓谷(ようろうけいこく)は、千葉県夷隅郡大多喜町から市原市を流れる養老川によって形成された渓谷です。
周囲は「県立養老渓谷奥清澄自然公園」に指定されています。変化に富んだ渓谷美と、四季折々の自然美が楽しめ、特に紅葉の名所として知られています。
養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷
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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
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