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ピズモのブログ一覧

2016年01月31日 イイね!

八尾サイクリング

久宝寺城は、室町幕府に仕えた渋川満貞の居城といわれています。満貞は河内守護の畠山氏の一族での嫡子の光重は、播磨国安井郷を受領し、安井と改姓しました。定重の時に織田信長に仕えましたが、天正5年(1577年)石山本願寺軍に攻められ落城しました。ちなみに道頓堀を掘削した安井道頓も安井氏の一族です。
城跡の南には久宝寺御坊・顕証寺がありますので、このあたりも一向一揆の勢力が強かったのかも知れません。
現在は工場の敷地の近くの路地に、石碑と案内石碑が建っているのみです。
久宝寺城
久宝寺城 posted by (C)pismo

大坂夏の陣・八尾の戦いで奮戦した長宗我部盛親物見の松です。この場所は、今口といい、久宝寺寺内町の今口門があって東口とともに八尾に通じる道筋でした。
徳川幕府が豊臣家を滅ぼした大坂の陣は、慶長19(1614)年の冬の陣と、慶長20(1615)年の夏の陣からなり、夏の陣における八尾・若江の戦いでは、大坂方の木村重成、長宗我部盛親の軍勢と徳川方の藤堂高虎、井伊直孝の軍勢が激しい戦いを繰り広げました。
久宝寺や八尾、萱振では、長宗我部盛親と藤堂高虎の軍勢が対峙し、長宗我部軍が優勢でしたが、若江において木村重成の軍が敗れたことによって大坂城に退きました。
この戦いで久宝寺に陣を張った長宗我部盛親の軍は、この地にあった天高く伸びる大きな老松の木から東方八尾方面の敵情を偵察したと伝えられています。
昭和の初め、坂本春湖がここに碑を建てて、記念としました。
(説明看板より)
長宗我部盛親物見の松
長宗我部盛親物見の松 posted by (C)pismo

許麻神社(こまじんじゃ)は、式内社で、もと牛頭天王と称され、渋川六座の一です。この地は古く巨麻荘といい、河内国諸蕃の大狛連の住地で、その祖神をまつったと伝えられています。境内の手洗いの屋形は、むかしの宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りです。
この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代に松永弾正久秀の兵火に逢って焼失しました。その後寛文7(1677)年、観音院のみ復興しましたが、明治初年廃寺となりました。本尊十一面観音はいま念佛寺にあります。
神社の西方に、むかし弥生式土器を埋蔵したベントウ山がありました。
(現地説明板などより)
許麻神社
許麻神社 posted by (C)pismo

許麻神社 (1)
許麻神社 (1) posted by (C)pismo

顕証寺は山号は近松山、久宝寺御坊ともいう浄土真宗本願寺派の寺院です。
親鸞聖人の血筋である連枝の格式をもち、河内十二坊の総支配をつとめました。
古くはこの地を橘島久宝寺といい、早くから親鸞聖人の高第信願房法心の建てた慈願寺がありました。
文明2(1470)年に、蓮如上人がここに布教し、西証寺、のちの顕証寺(久宝寺御坊)を建てました。
顕証寺を中心に周囲にして二重の堀と土塁をめぐらし、街路は碁盤の目のようになっていました。このようにして本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ、門徒の団結を図る寺内町を作りました。
顕証寺が寺内町の支配権を持ちましたが、戦国時代を経て、久宝寺城主の安井氏による支配が近世中期まで続きました。
本堂は、宝永4(1707)年の大地震で被害を受けましたが、正徳6(1716)年4月1日に、顕証寺御堂の再興と上棟の記録(寺日記)があることから、江戸時代中期の建物と考えられます。
(現地説明板などより)
顕証寺
顕証寺 posted by (C)pismo

顕証寺 (1)
顕証寺 (1) posted by (C)pismo

念佛寺は、山号は龍興山、院号は金剛乗院、河内西国霊場第二番札所の融通念仏宗の寺院です。
暦応4(1341)年辛己8月、盤龍上人によって創建されました。
本堂落慶に融通念仏宗の中興上人法明和尚の霊跡があり、宗門きっての古刹です。
この寺院は聖徳太子の建立した久宝寺の末院で、念佛勧進聖道場として栄えていたのをのち、聖僧の盤龍が今の地域に定めて本堂を建てたと伝えられています。
聖徳太子作と伝わる十一面観世音菩薩・不動尊をお祀りしています。
(現地説明板などより)
念仏寺
念仏寺 posted by (C)pismo

常光寺は、山号は初日山、臨済宗南禅寺派の寺院です。南禅寺金地院の末寺で、八尾地蔵尊として親しまれています。
奈良時代に僧行基が創建したと伝えられ、当初は「新堂寺」と称していました。
南北朝期に戦乱で寺は焼かれ、一旦は荒廃しましたが、至徳2(1385)年に土豪・藤原盛継により復興、翌年に地蔵尊・阿弥陀堂などを再建しました。室町時代に足利義満から、自筆の 「初日山」「常光寺」 の額が納められました。
大坂夏の陣で「八尾の戦い」の激戦が周囲では繰り広げられました。 徳川方の武将・藤堂高虎は本堂の北にある住職の居間(方丈)の縁側に敵方の首級を並べて「首実験」をしたそうです。その縁板は後に方丈の西廊下の天井として貼り替えられ、「血天井」と称されました。藤堂家の戦死者の71名の墓も境内にあります。
常光寺
常光寺 posted by (C)pismo

常光寺 (1)
常光寺 (1) posted by (C)pismo

常光寺 (2)
常光寺 (2) posted by (C)pismo

常光寺 (3)
常光寺 (3) posted by (C)pismo

弓削神社は、祭神は宇麻志麻治命、饒速日命、天照大神です。
物部氏の一族ともいわれる弓削氏の氏神です。
神代の昔、天孫饒速日命は神武天皇御東征以前既に河内大和地方をおさめ後天皇に帰順され日本国の基をきづかれた功労者でした。その後子孫が物部の姓を賜りこの地方を中心に弓削部、矢作部、くつつくり部等の武器製造の部民とともに富強をきわめ物部守屋の頃には権勢を誇っていました。
弓削道鏡は弓削部の一族で深く秘法を修め時の天皇の信任厚く太政大臣法王の位に達しました。由義宮に天皇の行幸を仰ぎ、同宮を「西京」としました。さらに道鏡は弓削一族の栄進をはかったが、天皇の没後は失脚し、下野国薬師寺別当として放遂されました。
この神社は1200余年前に創建されたと伝えられ、昔からこれらの部民が祖神を氏神としてあがめ今日に及んでいます。境内「延命水」は清く冷たく長寿延命の霊泉とされています。
(現地説明板などより)
弓削神社
弓削神社 posted by (C)pismo

弓削神社 (1)
弓削神社 (1) posted by (C)pismo

弓削神社 (2)
弓削神社 (2) posted by (C)pismo

弓削神社 (3)
弓削神社 (3) posted by (C)pismo

弓削神社 (4)
弓削神社 (4) posted by (C)pismo

由義神社は 由義宮(西の京)に、神護景雲3(769)年に称徳天皇がたびたびこの地に行幸され、その宮域は若江、大縣、高安三郡にまたがる広域の中心にありました。
由義神社はその由緒深い宮跡に、広大な氏地と氏子により堀を巡らし、森を擁した荘厳な式内河内五社の一社である立派な旧社でした。
しかし、中世たび重なる兵火により焼失しましたが、江戸時代、貞享3(1687)年、素盞鳴命、少彦名命を祀り、神社を再建して由義神社と称しました。
文化3(1807)年、明治8(1875)年、明治39(1906)年、大正13(1924)年と改修され、昭和58(1983)年、本殿、幣殿、拝殿、絵馬所、鳥居、御手洗所、狛犬その他附帯改修工事を完了しました。
(現地説明板などより)
由義神社
由義神社 posted by (C)pismo

由義神社 (1)
由義神社 (1) posted by (C)pismo

由義神社 (2)
由義神社 (2) posted by (C)pismo

応仁の乱の東軍の部将高松信重の墓です。高松信重は、応仁の乱(1467〜1477)の際に細川勝元の東軍に属して、山名宗全の西軍と戦い亡くなったと伝えられていますが、詳しいことは分かっていません。
江戸時代の地誌である「河内名所図会〔享和元(1801)年〕」には、「高松塚とよぶ、瘧疾(ぎゃくしつ、おこり)を祈るに、かならず霊験あり。」と紹介されており、熱病に効き目があると信じられていたようです。
この墓碑は、元々ここより約200m南東、「高松」という地にあった塚に建てられていましたが、昭和45(1970)年に始まった曙川北地区の区画整理によって当地に移されました。
(現地説明板などより)
高松信重の墓
高松信重の墓 posted by (C)pismo


大聖勝軍寺は、山号は神妙椋樹山、高野山真言宗の寺院です。叡福寺(太子町)の「上の太子」、野中寺(羽曳野市)の「中の太子」に対して「下の太子」といいます。
587年、聖徳太子は物部守屋を滅ぼすにあたり、「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」と四天王に祈願し、その加護により戦いに勝ったため、この寺を建てたといわれています。この寺院の周辺が激戦地だったと伝えられています。
明治21(1888)年の台風で本堂(地蔵堂)が倒壊し、昭和46(1971)年復興が計画され、旧太子殿の背後に新太子殿が建ちました。本尊は如意輪観音(府重要文化財)で寺宝も多い寺院です。門前に秦河勝が物部守屋の首を洗ったと伝えられる守屋池、付近には鎬矢塚、弓代塚、市民病院前には物部守屋大連墳があります。
(現地説明板などより)
大聖勝軍寺
大聖勝軍寺 posted by (C)pismo

大聖勝軍寺 (1)
大聖勝軍寺 (1) posted by (C)pismo

大聖勝軍寺 (2)
大聖勝軍寺 (2) posted by (C)pismo

大聖勝軍寺 (3)
大聖勝軍寺 (3) posted by (C)pismo

大聖勝軍寺 (4)
大聖勝軍寺 (4) posted by (C)pismo

大聖勝軍寺 (5)
大聖勝軍寺 (5) posted by (C)pismo

大聖勝軍寺 (6)
大聖勝軍寺 (6) posted by (C)pismo

大聖勝軍寺 (7)
大聖勝軍寺 (7) posted by (C)pismo

大聖勝軍寺 (8)
大聖勝軍寺 (8) posted by (C)pismo

物部守屋大連墳は、旧奈良街道沿い、現在は国道25号線に面しています。
物部守屋を葬った所と伝えられ、かつては、小さな塚状の丘の上に一本松のある姿でしたが、明治時代初期に堺県知事の小河一敏が、「物部守屋大連墳」の碑を建て、周囲に玉垣をめぐらし、左側に石灯籠一基を、正面に石鳥居を建てました。
昭和12(1937)年の守屋没後の千三百五十年祭には、書家の阪正臣ら有志が、日本書紀の一節と裏面に追悼文を刻んだ碑と、右側に石灯籠一基を建てました。
物部守屋の墓
物部守屋の墓 posted by (C)pismo

用明天皇2(587)年に厩戸皇子(聖徳太子)をはじめとする皇子達と蘇我馬子らは、渋河の地で物部守屋の軍勢と戦います。
稲城を築き、榎木の上から弓を放つ守屋に苦戦した皇子らは三度退却しますが、四天王に祈願すると、迹見赤檮の放った矢が守屋を討ち、皇子と馬子らは勝利したと「日本書紀」に記されています。
大聖勝軍寺の周辺にはそうした史跡が残されており、鏑矢塚は、迹見赤檮が守屋を射た矢を埋めたと「大聖勝軍寺略縁起」〔康正元(1455)年〕は伝えています。鏑矢とは、先端が植物の「かぶら」のような形をしている矢のことです。「日本書紀」にはみられませんが、太子信仰や八尾の歴史を考えるうえで重要です。
(現地説明板などより)
鏑矢塚
鏑矢塚 posted by (C)pismo
Posted at 2016/02/15 21:16:03 | コメント(4) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2014年05月03日 イイね!

会津・米沢・山形・天童・福島・二本松・白河(2日目その1・会津編〔涙橋(柳橋)・中野竹子奮戦の地・興徳寺〕)

2日目の朝は、早朝少しだけサイクリングを。
柳橋は会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で、付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので、古くは楊柳橋と称されました。
慶長5(1600)年に上杉景勝が石田三成と計り、徳川家康を牽制し12万人を動員し、西へ半里程の如来堂に幻の神指城を築造する際、要所である橋を長さ17間、幅3間余の欄干のある堅牢な柳橋としました。
柳橋の200m程下流の薬師河原には、藩政時代の処刑場があり、特に昔キリシタン弾圧により寛永12(1635)年には会津キリシタンの中心人物である横沢丹波と外人宣教師など60余名が捕らえられ、一度に処刑されたところで、キリシタン塚があります。
近くには戊辰の役では、娘子軍の中野竹子が柳橋の激戦で敵弾に倒れ殉死し碑が残ります。
この場所には休み小屋があって、刑場にひかれる罪人は井戸の水で家族らと水盃を交わして別れを惜しんだところから、通称涙橋と呼ばれ、昭和初めの木橋には涙橋とも記されていました。
(現地説明板などより)
柳橋(涙橋) - 01
柳橋(涙橋) - 01 posted by (C)pismo

柳橋(涙橋) - 02
柳橋(涙橋) - 02 posted by (C)pismo

柳橋(涙橋) - 03
柳橋(涙橋) - 03 posted by (C)pismo

柳橋(涙橋) - 04
柳橋(涙橋) - 04 posted by (C)pismo

柳橋(涙橋) - 05
柳橋(涙橋) - 05 posted by (C)pismo

柳橋(涙橋) - 06
柳橋(涙橋) - 06 posted by (C)pismo

柳橋(涙橋) - 07
柳橋(涙橋) - 07 posted by (C)pismo

中野竹子奮戦の地(中野竹子殉節之地碑)は、戊辰戦争の際、会津藩が西軍を迎え撃ったところで、西側には旧越後街道が走っていました。
会津藩では十数名の婦女子が義勇軍を結成しました。彼女らは松平容保公の義姉である「照姫」が会津坂下にいると聞きつけ、8月23日、照姫を警護するため薙刀をもって坂下へと向かいます。
中野竹子は妹優子と共にこの婦女子隊を率いた中心人物です。しかし、この時、照姫はすでに坂下にはなく、若松城(鶴ケ城)に籠城していました。そのため婦女子隊は、若松城へ向かう会津軍への従軍を願い、8月25日に従軍が許され旧幕軍の衝鋒隊と行動を共にします。衝鋒隊とそれに従軍する婦女子隊は、会津若松市神指町黒川付近で西軍(長州藩・大垣藩の兵士)と遭遇し、激しい戦いが繰り広げられました。
 竹子は、辞世の
   武士の猛き心にくらぶれば
            数に入らぬ我が身ながらも
と詠んだ短冊を、薙刀に結びつけて奮戦しましたが、敵の銃撃に会い、壮烈な戦死をとげました。
竹子等をはじめ、会津戦争で亡くなった勇気ある女性たちは、後に娘子軍と称されました
現在竹子の墓は、会津坂下町の法界寺にあります。
殉節碑は、昭和13(1938)年に会津若松市神指町黒川の湯川橋に建てられました。
中野竹子殉節の地 - 1
中野竹子殉節の地 - 1 posted by (C)pismo

中野竹子殉節の地 - 2
中野竹子殉節の地 - 2 posted by (C)pismo

中野竹子殉節の地 - 3
中野竹子殉節の地 - 3 posted by (C)pismo

中野竹子殉節の地 - 4
中野竹子殉節の地 - 4 posted by (C)pismo


興徳寺(こうとくじ)は、山号は瑞雲山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
弘安10(1287)年、蘆名氏第5代蘆名盛宗が鎌倉より大円禅師を招き開山したと伝えられています。
その後、蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が会津支配の仮館をおき、また豊臣秀吉が奥州仕置の御座所としました。
蒲生氏郷により城下町が整備され寺院が郭外に移された際も、その由緒と格式により唯一郭内に留まる事を許されました。
戊辰戦争により、堂宇(堂の建物)をことごとく焼失しました。
再建されたものの、昭和20(1945)年に神明通りが開通し、境内は縮小されてしまいました。
現在、寺内には、蒲生氏郷の五輪塔(墓)があり氏郷没後に子の蒲生秀行によって建立されたもので、病のため京都で亡くなった氏郷の遺髪がおさめられています。当時は御霊屋がありましたが、戊辰の兵火で焼失しました。
また、すぐ脇には氏郷の辞世の歌碑も残っています。会津史談会が昭和28(1953)年に氏郷公360年祭を記念して建てたものです。
「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風」
興徳寺 - 01
興徳寺 - 01 posted by (C)pismo

興徳寺 - 02
興徳寺 - 02 posted by (C)pismo

興徳寺 - 03
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興徳寺 - 04
興徳寺 - 04 posted by (C)pismo

興徳寺 - 05
興徳寺 - 05 posted by (C)pismo

興徳寺 - 06
興徳寺 - 06 posted by (C)pismo

興徳寺 - 07
興徳寺 - 07 posted by (C)pismo

興徳寺 - 08
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興徳寺 - 09
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興徳寺 - 10
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興徳寺 - 11
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興徳寺 - 12
興徳寺 - 12 posted by (C)pismo

平成24年度の訪問↓
越後・会津・信濃紀行(1日目その3・会津若松の神指城周辺)
越後・会津・信濃紀行(1日目その4・会津若松市七日町付近の史跡)
越後・会津・信濃紀行(1日目その5・会津若松城のライトアップと夜の会津若松史跡めぐり)
越後・会津・信濃紀行(2日目その1・秀長寺、長岡藩士殉節の碑、光明寺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その2・会津藩主松平家墓所〔院内御廟〕、天寧寺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その3・恵倫寺、建福寺、善龍寺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その4・会津若松城とその周辺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その5・御薬園と飯盛山)
越後・会津・信濃紀行(2日目その6・会津若松の美酒で乾杯)
越後・会津・信濃紀行(3日目その1・佐川官兵衛顕彰碑、会津武家屋敷)
越後・会津・信濃紀行(3日目その2・會津藩校日新館)
Posted at 2014/05/21 00:29:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2014年05月02日 イイね!

会津・米沢・山形・天童・福島・二本松・白河(1日目その5・会津編〔恵倫寺・建福寺・善龍寺・蒲生秀行廟・山本覚馬、新島八重生誕地・日新館天文台跡・八角神社〕)

小田山界隈の寺院は、平成24年度も訪れましたが、雪深くお墓参りなどはできなかったので再訪しました。

恵倫寺(えりんじ)は、山号は金剛山、曹洞宗の寺院です。
天正18(1590)年蒲生氏郷が父賢秀の菩提を弔うために建立しました。
尊敬する下総国結城郡安穏寺の高僧、曹月存靏を迎えて開山しました。
当時は鶴ヶ城の西の米代にありましたが、慶長17(1612)年、現在の小田山麓に移転されました。会津領の僧録寺として天寧寺、善龍寺とともに各寺院を管轄しました。
戊辰戦争の戦火にあい山門、鐘楼など七堂伽藍が消失しました。大正8(1919)年、本堂が再建され、昭和30年代以降、位牌堂と開山堂の併設、庫裏や会館の建立、無縁仏整理や境内墓地の整理が進み、平成10(1998)年に山門が完成しました。
境内には蒲生賢秀の墓、柴四朗、五郎はじめ柴家の墓があります。
恵倫寺 - 1
恵倫寺 - 1 posted by (C)pismo

恵倫寺 - 2
恵倫寺 - 2 posted by (C)pismo

恵倫寺 - 3
恵倫寺 - 3 posted by (C)pismo

恵倫寺 - 4
恵倫寺 - 4 posted by (C)pismo

建福寺は、山号は大宝山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
元々は信濃高遠にありましたが、保科正之が最上、会津に転封となった時移転しました。
高遠にも建福寺は残り、武田勝頼の母諏訪御料人の墓があります。
寛永20(1643)年、保科正之に従った鉄舟和尚により開山され、延宝8(1680)年に現在の地に堂塔伽藍を建立しました。
貞享2(1685)年、3代藩主松平正容は、江戸芝東禅寺の黙水和尚を迎えました。
士族寺として隆盛をきわめましたが、戊辰の戦火により、堂塔伽藍は焼失しました。
明治3(1870)年再建されましたが、寺域はかなり縮小されました。
建福寺 - 1
建福寺 - 1 posted by (C)pismo

建福寺 - 2
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建福寺 - 3
建福寺 - 3 posted by (C)pismo

少し離れた山側の墓地には長岡藩家老河井継之助の遺骨を最初に埋骨したarget='_blank'>河井継之助埋骨地〔河井継之助埋骨遺跡〕があります。
幕末の長岡藩の家老河井継之助は、戊辰戦争の際長岡藩が落城した際、銃弾を受け負傷しました。そして会津若松へ向かう途中、慶応4(1868)年8月16日、塩沢の矢沢宗益宅にて死去しました。
遺骨は火葬され、会津での長岡藩の駐屯地だった建福寺に運ばれ、遺骨が持ち込まれた翌日に、葬儀が建福寺で行われ、この地に仮に埋葬されました。
明治2(1869)年、遺骨は長岡に帰り、栄涼寺にある河井家の墓に改葬されました。石碑は鶴ヶ城が良く望める場所で、河井継之助の故郷の長岡を向いています。
建福寺・河井継之助埋骨地〔河井継之助埋骨遺跡〕 - 1
建福寺・河井継之助埋骨地〔河井継之助埋骨遺跡〕 - 1 posted by (C)pismo

建福寺・河井継之助埋骨地〔河井継之助埋骨遺跡〕 - 2
建福寺・河井継之助埋骨地〔河井継之助埋骨遺跡〕 - 2 posted by (C)pismo

建福寺・河井継之助埋骨地〔河井継之助埋骨遺跡〕 - 3
建福寺・河井継之助埋骨地〔河井継之助埋骨遺跡〕 - 3 posted by (C)pismo

善龍寺は山号は祥雲山、曹洞宗の寺院です。
寛永20(1643)年、曹洞一派の泉海という僧侶が会津藩祖保科正之の会津入部にともない市内花畑に建立しました。
その後寛文7(1667)年、現在の地に移りました。保科家の祖保科筑前守正則の霊を守る保科家の菩提所として発展しました。
戊辰戦争の際、本堂は焼けてしまいましたが、寛政9(1797)年に建造されたといわれる山門は戦火をまぬがれ、今もなお当時の面影を残しています。この山門は、竜宮門あるいは竜宮造と呼ばれる珍しい様式で、この地方ではほとんど例を見ない山門です。
奥にある墓地には西郷頼母夫妻の墓や西郷邸で自決した「二十一人の墓」があります。会津の人々に深く信仰されていたお寺。その境内には、会津藩家老・西郷頼母や妻・千重子、頼母の母など西郷一族21人を祀った「二十一人の墓」や会津戦争で戦死した会津藩士の遺体の埋葬に尽力した伴百悦の墓、明治期の外交官・赤羽四郎の墓など、多くの会津藩士のお墓があります。
その他、「なよ竹の碑」が有名です。家老西郷頼母の妻千重子のか弱い婦女子の心を曲がらぬ竹の節になぞらえ、会津女子の精神の強さを歌い上げた辞世の句「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」というから名づけられたもので、戊辰戦争終結から60年目に当たる昭和3(1928)年、「なよ竹の碑」として善龍寺に建立されました。碑の裏には戊辰戦争で散った233名の会津藩の婦人名が刻まれています。 毎年5月1日に奈与竹墓前祭がおこなわれます。
善龍寺 - 01
善龍寺 - 01 posted by (C)pismo

善龍寺 - 02
善龍寺 - 02 posted by (C)pismo

善龍寺 - 03
善龍寺 - 03 posted by (C)pismo

善龍寺 - 04
善龍寺 - 04 posted by (C)pismo

善龍寺 - 05
善龍寺 - 05 posted by (C)pismo

善龍寺 - 06
善龍寺 - 06 posted by (C)pismo

善龍寺 - 07
善龍寺 - 07 posted by (C)pismo

善龍寺 - 08
善龍寺 - 08 posted by (C)pismo

善龍寺 - 09
善龍寺 - 09 posted by (C)pismo

善龍寺 - 10
善龍寺 - 10 posted by (C)pismo

弘真院にある蒲生氏郷の子蒲生秀行の廟です。
弘真院は、山号は妙覚山、真言宗豊山派の寺院です。
蒲生秀行は、文禄4(1595)年から慶長3(1598)年までと、慶長6(1601)年から慶長17(1612)年までの2回にわたって会津の領主でした。
廟屋は大きい切石を二段に積んだ高い一重基壇によって造られた墓室上に、石造五輪塔(2.7メートル)を据え、これを木造覆屋で被覆しています。
この廟屋は、遺構の原型部分、特に懸魚や木鼻に桃山ないし江戸初期の特色があり、建立は秀行卒年の間もない頃と考えられます。
(現地説明板などより)
弘真院・蒲生秀行廟 - 1
弘真院・蒲生秀行廟 - 1 posted by (C)pismo

弘真院・蒲生秀行廟 - 2
弘真院・蒲生秀行廟 - 2 posted by (C)pismo

弘真院 - 3
弘真院 - 3 posted by (C)pismo

会津若松城西側にある山本覚馬・新島八重生誕の地です。
会津藩士・山本覚馬 (1828~1892) は、砲術師範で日新館教授です。
文久2(1862)年、藩主の京都守護職就任に伴い、京都に転住し、鳥羽・伏見の戦いで囚われますが、その識見を買われて、維新後に京都府顧問となり、京都の近代化に貢献しました。
明治8(1875)年、新島襄と同志社英学校 (現同志社大学)を創立しました。
覚馬の妹・八重(1845~1932)は、砲術が得意で、白虎隊員指導の一方で、戊辰戦争では自ら鶴ヶ城に籠城しました。
城明け前夜、城壁に「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」とかんざしで刻みました。
明治4(1871)年、兄を頼って京都に転じ、明治9(1876)年に新島襄と結婚しました。同志社女学校(現同志社女子大学の前身)の舎監を務めました。
兄同様に、京都でキリスト教に入信しました。共に洛東・若王子の同志社墓地に眠ります。
山本覚馬・新島八重の父山本権八は、会津藩砲術師範で屋敷内には砲術の練習場があり、八重の夫、川崎尚之助も山本家に寄留していたと思われます。
隣家には白虎隊に入隊した伊東悌次郎がおり、山本家で八重にゲベール銃の撃ち方を習いました。また近所には八重の幼馴染み日向ユキ、高木時尾が住んでいて、一緒に裁縫を習っていました。
生誕地碑は、宮崎家のご支援を得て建立し、平成元(1989)年5月30日に除幕しました。
生誕地碑は実際の生家跡より東側にあります。生誕地には説明看板が立っています。
(現地説明板などより)
山本覚馬・新島八重生誕地 - 1
山本覚馬・新島八重生誕地 - 1 posted by (C)pismo

山本覚馬・新島八重生誕地 - 2
山本覚馬・新島八重生誕地 - 2 posted by (C)pismo

会津の藩校日新館天文方の天文観測の場として設けられた日新館天文台跡です。
日新館は、5代藩主松平容頌公のとき、寛政11(1799)年4月より5年を費して、享和3(1803)年に完成しました。
天文台は、つねに星の観測をするところでしたが、特に、毎年、冬至の日には、学校奉行・天文方の師範・暦家が集まり、晴雨・考暦を編したところで、重要な施設の一つでした。観台は、当時の規模の半分となりましたが、藩校日新館の施設の中では、唯一の保存されているものです。(現地説明板より)
日新館天文台跡 - 1
日新館天文台跡 - 1 posted by (C)pismo

八角神社は、大同2(807)年創立の伊弉諾尊・伊弉冉尊を御祭神とする神社です。
至徳年間(1384~87)葦名直盛が会津の領主となり、その居城を鶴城と呼び、当社を修築して「亀の宮」と称しました。
葦名氏以来歴代藩主により50石の社領をうけ、松平正容からは会津総鎮守の扁額を寄せられました。
また、戊辰戦争では薩摩軍の屯所となりました。
八角神社 - 1
八角神社 - 1 posted by (C)pismo

八角神社 - 2
八角神社 - 2 posted by (C)pismo

八角神社 - 3
八角神社 - 3 posted by (C)pismo



平成24年度の訪問↓
越後・会津・信濃紀行(1日目その3・会津若松の神指城周辺)
越後・会津・信濃紀行(1日目その4・会津若松市七日町付近の史跡)
越後・会津・信濃紀行(1日目その5・会津若松城のライトアップと夜の会津若松史跡めぐり)
越後・会津・信濃紀行(2日目その1・秀長寺、長岡藩士殉節の碑、光明寺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その2・会津藩主松平家墓所〔院内御廟〕、天寧寺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その3・恵倫寺、建福寺、善龍寺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その4・会津若松城とその周辺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その5・御薬園と飯盛山)
越後・会津・信濃紀行(2日目その6・会津若松の美酒で乾杯)
越後・会津・信濃紀行(3日目その1・佐川官兵衛顕彰碑、会津武家屋敷)
越後・会津・信濃紀行(3日目その2・會津藩校日新館)
Posted at 2014/05/19 00:36:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2014年05月02日 イイね!

会津・米沢・山形・天童・福島・二本松・白河(1日目その4・会津編〔大龍寺・会津若松城天寧寺町土塁・葦名家花見ヶ森廟所・宝積寺〕)

大龍寺は、山号は宝雲山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
天正年間、小笠原長時によって創建された桂山寺がこの地にありました。
寛永20(1643)年に保科正之が会津に移封された際のお供寺として、正之に従い会津にやってきた機外禅師が桂山寺の地を拝領し開山しました。
また、藩士の家中寺として百石の寄進を受け京都の高雄、嵐山より紅葉を移植し「大龍寺のかえで」として名をなしています。本堂の裏には御薬園の作庭者でもある目黒浄定作の心字庭園があり、モリアオガエルの生息地としても知られています。
堂宇は戊辰戦争の際に難を逃れ、江戸時代初期の建築様式を残しています。松平容保の嫡子、容大の出生の地としても知られています。
境内には小笠原長時、蒲生氏郷の生母成願寺殿、鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩士林権助安定と孫の男爵林権助、会津の算学者安藤有益の墓があります。
そして、新島八重の実家で会津藩士山本家の墓所があります。大龍寺の過去帳によると文化年間(1804〜1817)から、山本家は八重の高祖父の時代から、このお寺を菩提寺としていました。
新島八重は昭和6(1931)年点在していた山本家の墓を1ヶ所に整備してこの墓所を建立しました。
墓所の題字は新島八重の直筆で墓標の裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と記されています。これを建立した翌年の昭和7(1932)年に、八重は88年の生涯を閉じます。
大龍寺 - 01
大龍寺 - 01 posted by (C)pismo

大龍寺 - 02
大龍寺 - 02 posted by (C)pismo

大龍寺 - 03
大龍寺 - 03 posted by (C)pismo

大龍寺 - 04
大龍寺 - 04 posted by (C)pismo

大龍寺 - 05
大龍寺 - 05 posted by (C)pismo

大龍寺 - 06
大龍寺 - 06 posted by (C)pismo

大龍寺 - 07
大龍寺 - 07 posted by (C)pismo

大龍寺 - 08
大龍寺 - 08 posted by (C)pismo

大龍寺 - 09
大龍寺 - 09 posted by (C)pismo

天寧寺町土塁は蒲生氏郷が会津に入部し文禄元(1592)年若松城の改築に着手した際に築造されたとされ、若松城の追手として最重要点でした。
また、外郭と内郭を区画した若松城の土塁の遺構で市内に現存するものはわずかであり、貴重なものです。
平成5(1993)年10月29日、「甲賀町口門跡」、「天寧寺町土塁」、「三の丸堀跡」の三ヵ所が国指定史跡若松城跡として追加指定を受けました。
(現地説明板より)
会津若松城・天寧寺町土塁 - 1
会津若松城・天寧寺町土塁 - 1 posted by (C)pismo

会津若松城・天寧寺町土塁 - 2
会津若松城・天寧寺町土塁 - 2 posted by (C)pismo

会津若松城・天寧寺町土塁 - 3
会津若松城・天寧寺町土塁 - 3 posted by (C)pismo

葦名盛氏、盛興、盛隆の廟所がある葦名家花見ヶ森廟所です。
会津最初の領主である葦名家は、初代佐原義連(後に葦名氏を称した)から天正17(1589)年20代義広が磐梯山麓摺上原において伊達政宗に敗れて会津を去るまで400年の永きにわたりました。
この墳墓は16代盛氏を中心として左が17代盛興、右が18代盛隆のものです。
特に16代盛氏は、徳望があったばかりでなく、武略に優れ、長沼・二本松・郡山・須賀川までを従わせ、越後の上杉氏・甲斐の武田氏・相模の北条氏・古河の足利氏と交わり威を四方に張ったため葦名家中興の祖と云われました。
(現地説明板より)
葦名家花見ヶ森廟 - 01
葦名家花見ヶ森廟 - 01 posted by (C)pismo

葦名家花見ヶ森廟 - 02
葦名家花見ヶ森廟 - 02 posted by (C)pismo

葦名家花見ヶ森廟 - 03
葦名家花見ヶ森廟 - 03 posted by (C)pismo

葦名家花見ヶ森廟 - 04
葦名家花見ヶ森廟 - 04 posted by (C)pismo

葦名家花見ヶ森廟 - 05
葦名家花見ヶ森廟 - 05 posted by (C)pismo


宝積寺は、山号は如意輪山、曹洞宗の寺院です。
文和3(1354)年、葦名氏6代盛員の子高盛の室、笹谷御前が如意輪観音菩薩をまつり観音堂を建立し、康暦元(1379)年、葦名7代直盛が笹谷御前を開基として創建しました。
慶長6(1601)年、蒲生秀行が再び会津を領した際、徳川家康の娘で秀行の正室振姫が再興に尽力しました。
宝積寺の裏手には、白虎隊や山本(新島)八重ら会津藩士が実弾の訓練をしたと言われている的跡があります。的は葦名直盛の母・金峯尊公大禅定尼の墓を改修した土壇で、高さが1.5メートル、幅が3メートルあります。
宝積寺
宝積寺 posted by (C)pismo

平成24年度の訪問↓
越後・会津・信濃紀行(1日目その3・会津若松の神指城周辺)
越後・会津・信濃紀行(1日目その4・会津若松市七日町付近の史跡)
越後・会津・信濃紀行(1日目その5・会津若松城のライトアップと夜の会津若松史跡めぐり)
越後・会津・信濃紀行(2日目その1・秀長寺、長岡藩士殉節の碑、光明寺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その2・会津藩主松平家墓所〔院内御廟〕、天寧寺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その3・恵倫寺、建福寺、善龍寺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その4・会津若松城とその周辺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その5・御薬園と飯盛山)
越後・会津・信濃紀行(2日目その6・会津若松の美酒で乾杯)
越後・会津・信濃紀行(3日目その1・佐川官兵衛顕彰碑、会津武家屋敷)
越後・会津・信濃紀行(3日目その2・會津藩校日新館)
Posted at 2014/05/19 00:15:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2014年03月25日 イイね!

姫路黒田官兵衛ゆかりの地めぐり(その4・英賀)

次は英賀です。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第10話「毛利襲来」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
英賀城の堀跡
英賀城の堀跡 posted by (C)pismo

英賀薬師の境内は英賀城井ノ上口の跡といわれ、今でも土塁の一部が残っています。法寿寺は英賀城が落城した天正8(1580)年の約100年後、英賀城主三木氏の後裔古今が延宝年間に中興造立しました。
当時は、浄土宗鎮西派(総本山)知恩院幡念寺末寺でした。堂内正面に阿弥陀如来像、向かって左の脇侍に法然上人、右に善導大師が、左の厨子に薬師如来像等が安置されています。古くから霊験あらたかな「英賀薬師さん」と親しまれ、信仰されています。
境内にひときわ目を引く五輪塔は、英賀城主三木家のものです。
(現地説明板などより)
英賀薬師(旧法寿寺跡) - 1
英賀薬師(旧法寿寺跡) - 1 posted by (C)pismo

英賀神社は国史見在社(六国史に記載のある神社)です。
播磨国風土記によれば、和銅6(713)年に伊和大神の後子英賀彦神・英賀姫神が、祖神の命によりこの地を本拠として播磨灘沿岸地域を開拓創始しました。
よって英賀国主大神として祀り、元慶5(881)年、神位従五位下に昇叙され、創業開発の神、縁結びの神として尊崇されました。
三木通近が英賀城主となり、領内発展の興隆にあたり、嘉吉3(1443)年、天満神社・八幡大神・春日大神を勧請し、領内の総氏神とあがめました。
(1580)以来歴代の城主の尊崇を集め、社殿は荘厳華麗を極めました。天正8(1580)年2月、羽柴秀吉は英賀城攻略に際し、特に当社に除火の令を出しました。
明治4(1871)年社格制定に当たり郷社に列せられ、明治13(1880)年県社に昇格しました。
境内には寛文7(1667)年銘の手水鉢や寛政6(1794)年の狛犬が、拝殿には江戸期の絵馬が多く残っています。また、明治時代の算学もあり、和算が盛んだったことを物語っています。本殿裏には英賀城跡の土塁が残っています。また、拝殿東側には「播磨灘物語」「司馬遼太郎」と刻まれた司馬遼太郎文学碑があります。
司馬遼太郎のルーツは祖父の代までこの地で、自らも愛情を込めて播州門徒の末裔と名乗っていました。
英賀神社 - 01
英賀神社 - 01 posted by (C)pismo

英賀神社 - 02
英賀神社 - 02 posted by (C)pismo

英賀神社 - 03
英賀神社 - 03 posted by (C)pismo

英賀神社 - 04
英賀神社 - 04 posted by (C)pismo

英賀神社 - 05
英賀神社 - 05 posted by (C)pismo

英賀神社 - 06
英賀神社 - 06 posted by (C)pismo

英賀神社 - 07
英賀神社 - 07 posted by (C)pismo

英賀神社 - 08
英賀神社 - 08 posted by (C)pismo

英賀神社 - 09
英賀神社 - 09 posted by (C)pismo

英賀神社 - 10
英賀神社 - 10 posted by (C)pismo

英賀神社 - 11
英賀神社 - 11 posted by (C)pismo

英賀神社 - 12
英賀神社 - 12 posted by (C)pismo

英賀城は、岩繋城(いわつなぎじょう)ともいいます。
三木城、御着城、英賀城が播磨三大名城といわれています。
南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯という要害でした。
鎌倉時代には、砦が造られていましたが、室町時代になると播磨の守護大名であった赤松氏の一族が守りました。
しかし、嘉吉元(1441)年の嘉吉の乱によって勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えました。
天正8(1580)年、羽柴秀吉に滅ぼされるまで約140年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し一大勢力を誇っていました。
城内には本丸・二の丸をはじめ、一族が、それぞれ大きな屋敷を構えていました。
また、英賀御坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町(四十九町・約九百軒)として大いに賑わっていました。
昭和13(1938)年頃まではあちこちに土塁が残っていましたが、今では英賀神社と英賀薬師(城主の墓所・法寿寺跡)の北側だけに残っています。また英賀御坊跡は昭和13(1938)年頃の夢前川の付替工事により消滅しました。その時、瓦、礎石や日常使用していた器などが出土しました。
本丸跡は中浜橋近くにあり、英賀神社には土塁が残っていますが、神社隣にこの英賀城跡公園があります。
公園には謎の石垣があり、城跡の雰囲気を出そうとしているのが窺えます。
英賀城・英賀城跡公園 - 1
英賀城・英賀城跡公園 - 1 posted by (C)pismo

英賀城・英賀城跡公園 - 2
英賀城・英賀城跡公園 - 2 posted by (C)pismo

廣畑天満宮の源祀は、社伝によると、霊亀年間(715~716)には奉祀されていた廣辻神社に始まるといい、昌泰4(901)年、菅原道真が九州下向の途中、広畑の高浜の汀に上陸した際、当地の人々は、道真公の人徳を深く仰いだといわれています。
道真公太宰府で帰幽後、廣辻神社に併せ祀り、おのずから天満宮・廣畑天満宮と称するにいたったと伝えられ、その後文久3(1863)年より境内整備並びに社殿の改修を行い、明治2(1869)年に完成し、同時に鎮座していた蛭子大神・春日大神を合祀して現在の廣畑天満宮の社頭を整えたといわれています。
現在、参集殿の北側には姫路藩の藩校「好古堂」の酒井家時代の教授亀山雲平による石碑が建っています。
そして、南側の鳥居を通って右側には平成15(2003)年に建てられた司馬遼太郎氏文学碑があります。御祭神菅原道真公御神忌千百年記念事業として、社務所を建築した際に、先祖の出身者との由縁により、著書の一筋を文学碑として建立しました。
「祖父惣八は、播州人である。
 兵庫県姫路市の浜寄りの郊外の広という村の出身で、そこに江戸時代のあいだずっと百姓をしていた家系に生れた。
 戦国のころは播州三木城にその先祖が籠城したという事であるが、身分はわからない。」
 「歴史と小説」より
と刻まれています。
司馬遼太郎の祖父、福田惣八氏は幕末に旧来の小祠を改め、現本殿の改築を行った際に、篤志を受けたことにより境内にその名が刻まれた玉垣があります。玉垣は本殿の裏にあり向かって左から二十二本目にあります。
昭和60(1985)年、社務所(現齋館)を改築した際、父福田是定氏の名前で篤志を受けたため、文学碑の右側にその名が刻まれた玉垣があります。
(現地説明板などより)
廣畑天満宮 - 01
廣畑天満宮 - 01 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 02
廣畑天満宮 - 02 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 03
廣畑天満宮 - 03 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 04
廣畑天満宮 - 04 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 05
廣畑天満宮 - 05 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 06
廣畑天満宮 - 06 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 07
廣畑天満宮 - 07 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 08
廣畑天満宮 - 08 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 09
廣畑天満宮 - 09 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 10
廣畑天満宮 - 10 posted by (C)pismo

明蓮寺は、山号は消雲山、真宗大谷派の寺院です。
英賀本徳寺が建立された直後の永正14(1517)年、英賀六代城主三木通規の家臣神出左衛門の母妙蓮尼によって建立されました。
本尊は阿弥陀如来です。当時、英賀は浄土真宗に帰依した三木一族を中心に運営される自治都市「寺内町」で、織田信長と戦う大阪の石山本願寺と深い繋がりをもっていました。
天正8(1580)年、信長の命を受けた羽柴(豊臣)秀吉によって「寺内町」は解体されました。その時、英賀本徳寺は亀山へ、英賀門徒の多くが龍野町、飾磨田町(玉地)などへ移されましたが、明蓮寺は唯一英賀の地へ残りました。
英賀本徳寺は、現在の歌野橋上流にありました。昭和12(1937)年、日本製鐵廣畑製鉄所の誘致に伴う夢前川の改修付け替え工事によって遺跡は河床となりました。
明蓮寺の境内には昭和13(1938)年に移された「英賀本徳寺跡碑」が建っています。
(現地説明板などより)
明蓮寺・英賀本徳寺跡石碑 - 1
明蓮寺・英賀本徳寺跡石碑 - 1 posted by (C)pismo

明蓮寺・英賀本徳寺跡石碑 - 2
明蓮寺・英賀本徳寺跡石碑 - 2 posted by (C)pismo

明蓮寺・英賀本徳寺跡石碑 - 3
明蓮寺・英賀本徳寺跡石碑 - 3 posted by (C)pismo

英賀城の港、田井ヶ浜跡に建立された巽地蔵です。英賀港は古代からの港で寛和2(986)年、花山法皇が書写山円教寺に御幸し、帰りは当港から国史の船で出港なされた。
室町期は、英賀城下の市場町で天正8(1580)年の英賀落城まで三木氏一族と英賀衆が活躍した交易の港町として繁栄しました。
このあたりは田井ヶ浜といわれていました。天正4(1576)年、黒田官兵衛の進言により、御着城主小寺政職が織田家に味方することを決めると、毛利水軍5千人がこの田井ヶ浜に上陸しました。官兵衛は500人の手勢で毛利軍を追い返し、一躍その名を高めました。
祖先が英賀出身の司馬遼太郎作「播磨灘物語・英賀の浦」で毛利水軍と御着城黒田官兵衛軍の「町の坪合戦」が名文で語られています。
田井ヶ浜は、英賀落城後は荒れ果てていましたが、熊谷家がこの地を清め地蔵尊を祀りました。
英賀神社南東方向で、「巽の地蔵」と名付けられました。境内には田井ヶ浜跡碑が建立されています。
(現地説明板などより)
田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 1
田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 1 posted by (C)pismo

田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 2
田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 2 posted by (C)pismo

田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 3
田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 3 posted by (C)pismo

田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 4
田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 4 posted by (C)pismo

英賀城の本丸跡です。
中浜橋近くに本丸跡の石碑があります。
英賀城本丸跡 - 1
英賀城本丸跡 - 1 posted by (C)pismo

英賀城本丸跡 - 2
英賀城本丸跡 - 2 posted by (C)pismo

英賀城本丸跡 - 3
英賀城本丸跡 - 3 posted by (C)pismo
Posted at 2014/03/31 22:58:53 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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