久宝寺城は、室町幕府に仕えた渋川満貞の居城といわれています。満貞は河内守護の畠山氏の一族での嫡子の光重は、播磨国安井郷を受領し、安井と改姓しました。定重の時に織田信長に仕えましたが、天正5年(1577年)石山本願寺軍に攻められ落城しました。ちなみに道頓堀を掘削した安井道頓も安井氏の一族です。
城跡の南には久宝寺御坊・顕証寺がありますので、このあたりも一向一揆の勢力が強かったのかも知れません。
現在は工場の敷地の近くの路地に、石碑と案内石碑が建っているのみです。
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大坂夏の陣・八尾の戦いで奮戦した
長宗我部盛親物見の松です。この場所は、今口といい、久宝寺寺内町の今口門があって東口とともに八尾に通じる道筋でした。
徳川幕府が豊臣家を滅ぼした大坂の陣は、慶長19(1614)年の冬の陣と、慶長20(1615)年の夏の陣からなり、夏の陣における八尾・若江の戦いでは、大坂方の木村重成、長宗我部盛親の軍勢と徳川方の藤堂高虎、井伊直孝の軍勢が激しい戦いを繰り広げました。
久宝寺や八尾、萱振では、長宗我部盛親と藤堂高虎の軍勢が対峙し、長宗我部軍が優勢でしたが、若江において木村重成の軍が敗れたことによって大坂城に退きました。
この戦いで久宝寺に陣を張った長宗我部盛親の軍は、この地にあった天高く伸びる大きな老松の木から東方八尾方面の敵情を偵察したと伝えられています。
昭和の初め、坂本春湖がここに碑を建てて、記念としました。
(説明看板より)
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許麻神社(こまじんじゃ)は、式内社で、もと牛頭天王と称され、渋川六座の一です。この地は古く巨麻荘といい、河内国諸蕃の大狛連の住地で、その祖神をまつったと伝えられています。境内の手洗いの屋形は、むかしの宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りです。
この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代に松永弾正久秀の兵火に逢って焼失しました。その後寛文7(1677)年、観音院のみ復興しましたが、明治初年廃寺となりました。本尊十一面観音はいま念佛寺にあります。
神社の西方に、むかし弥生式土器を埋蔵したベントウ山がありました。
(現地説明板などより)
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顕証寺は山号は近松山、久宝寺御坊ともいう浄土真宗本願寺派の寺院です。
親鸞聖人の血筋である連枝の格式をもち、河内十二坊の総支配をつとめました。
古くはこの地を橘島久宝寺といい、早くから親鸞聖人の高第信願房法心の建てた慈願寺がありました。
文明2(1470)年に、蓮如上人がここに布教し、西証寺、のちの顕証寺(久宝寺御坊)を建てました。
顕証寺を中心に周囲にして二重の堀と土塁をめぐらし、街路は碁盤の目のようになっていました。このようにして本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ、門徒の団結を図る寺内町を作りました。
顕証寺が寺内町の支配権を持ちましたが、戦国時代を経て、久宝寺城主の安井氏による支配が近世中期まで続きました。
本堂は、宝永4(1707)年の大地震で被害を受けましたが、正徳6(1716)年4月1日に、顕証寺御堂の再興と上棟の記録(寺日記)があることから、江戸時代中期の建物と考えられます。
(現地説明板などより)
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念佛寺は、山号は龍興山、院号は金剛乗院、河内西国霊場第二番札所の融通念仏宗の寺院です。
暦応4(1341)年辛己8月、盤龍上人によって創建されました。
本堂落慶に融通念仏宗の中興上人法明和尚の霊跡があり、宗門きっての古刹です。
この寺院は聖徳太子の建立した久宝寺の末院で、念佛勧進聖道場として栄えていたのをのち、聖僧の盤龍が今の地域に定めて本堂を建てたと伝えられています。
聖徳太子作と伝わる十一面観世音菩薩・不動尊をお祀りしています。
(現地説明板などより)
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常光寺は、山号は初日山、臨済宗南禅寺派の寺院です。南禅寺金地院の末寺で、八尾地蔵尊として親しまれています。
奈良時代に僧行基が創建したと伝えられ、当初は「新堂寺」と称していました。
南北朝期に戦乱で寺は焼かれ、一旦は荒廃しましたが、至徳2(1385)年に土豪・藤原盛継により復興、翌年に地蔵尊・阿弥陀堂などを再建しました。室町時代に足利義満から、自筆の 「初日山」「常光寺」 の額が納められました。
大坂夏の陣で「八尾の戦い」の激戦が周囲では繰り広げられました。 徳川方の武将・藤堂高虎は本堂の北にある住職の居間(方丈)の縁側に敵方の首級を並べて「首実験」をしたそうです。その縁板は後に方丈の西廊下の天井として貼り替えられ、「血天井」と称されました。藤堂家の戦死者の71名の墓も境内にあります。
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弓削神社は、祭神は宇麻志麻治命、饒速日命、天照大神です。
物部氏の一族ともいわれる弓削氏の氏神です。
神代の昔、天孫饒速日命は神武天皇御東征以前既に河内大和地方をおさめ後天皇に帰順され日本国の基をきづかれた功労者でした。その後子孫が物部の姓を賜りこの地方を中心に弓削部、矢作部、くつつくり部等の武器製造の部民とともに富強をきわめ物部守屋の頃には権勢を誇っていました。
弓削道鏡は弓削部の一族で深く秘法を修め時の天皇の信任厚く太政大臣法王の位に達しました。由義宮に天皇の行幸を仰ぎ、同宮を「西京」としました。さらに道鏡は弓削一族の栄進をはかったが、天皇の没後は失脚し、下野国薬師寺別当として放遂されました。
この神社は1200余年前に創建されたと伝えられ、昔からこれらの部民が祖神を氏神としてあがめ今日に及んでいます。境内「延命水」は清く冷たく長寿延命の霊泉とされています。
(現地説明板などより)
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由義神社は 由義宮(西の京)に、神護景雲3(769)年に称徳天皇がたびたびこの地に行幸され、その宮域は若江、大縣、高安三郡にまたがる広域の中心にありました。
由義神社はその由緒深い宮跡に、広大な氏地と氏子により堀を巡らし、森を擁した荘厳な式内河内五社の一社である立派な旧社でした。
しかし、中世たび重なる兵火により焼失しましたが、江戸時代、貞享3(1687)年、素盞鳴命、少彦名命を祀り、神社を再建して由義神社と称しました。
文化3(1807)年、明治8(1875)年、明治39(1906)年、大正13(1924)年と改修され、昭和58(1983)年、本殿、幣殿、拝殿、絵馬所、鳥居、御手洗所、狛犬その他附帯改修工事を完了しました。
(現地説明板などより)
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応仁の乱の東軍の部将
高松信重の墓です。高松信重は、応仁の乱(1467〜1477)の際に細川勝元の東軍に属して、山名宗全の西軍と戦い亡くなったと伝えられていますが、詳しいことは分かっていません。
江戸時代の地誌である「河内名所図会〔享和元(1801)年〕」には、「高松塚とよぶ、瘧疾(ぎゃくしつ、おこり)を祈るに、かならず霊験あり。」と紹介されており、熱病に効き目があると信じられていたようです。
この墓碑は、元々ここより約200m南東、「高松」という地にあった塚に建てられていましたが、昭和45(1970)年に始まった曙川北地区の区画整理によって当地に移されました。
(現地説明板などより)
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大聖勝軍寺は、山号は神妙椋樹山、高野山真言宗の寺院です。叡福寺(太子町)の「上の太子」、野中寺(羽曳野市)の「中の太子」に対して「下の太子」といいます。
587年、聖徳太子は物部守屋を滅ぼすにあたり、「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」と四天王に祈願し、その加護により戦いに勝ったため、この寺を建てたといわれています。この寺院の周辺が激戦地だったと伝えられています。
明治21(1888)年の台風で本堂(地蔵堂)が倒壊し、昭和46(1971)年復興が計画され、旧太子殿の背後に新太子殿が建ちました。本尊は如意輪観音(府重要文化財)で寺宝も多い寺院です。門前に秦河勝が物部守屋の首を洗ったと伝えられる守屋池、付近には鎬矢塚、弓代塚、市民病院前には物部守屋大連墳があります。
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物部守屋大連墳は、旧奈良街道沿い、現在は国道25号線に面しています。
物部守屋を葬った所と伝えられ、かつては、小さな塚状の丘の上に一本松のある姿でしたが、明治時代初期に堺県知事の小河一敏が、「物部守屋大連墳」の碑を建て、周囲に玉垣をめぐらし、左側に石灯籠一基を、正面に石鳥居を建てました。
昭和12(1937)年の守屋没後の千三百五十年祭には、書家の阪正臣ら有志が、日本書紀の一節と裏面に追悼文を刻んだ碑と、右側に石灯籠一基を建てました。
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用明天皇2(587)年に厩戸皇子(聖徳太子)をはじめとする皇子達と蘇我馬子らは、渋河の地で物部守屋の軍勢と戦います。
稲城を築き、榎木の上から弓を放つ守屋に苦戦した皇子らは三度退却しますが、四天王に祈願すると、迹見赤檮の放った矢が守屋を討ち、皇子と馬子らは勝利したと「日本書紀」に記されています。
大聖勝軍寺の周辺にはそうした史跡が残されており、
鏑矢塚は、迹見赤檮が守屋を射た矢を埋めたと「大聖勝軍寺略縁起」〔康正元(1455)年〕は伝えています。鏑矢とは、先端が植物の「かぶら」のような形をしている矢のことです。「日本書紀」にはみられませんが、太子信仰や八尾の歴史を考えるうえで重要です。
(現地説明板などより)
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