いよいよ南宮山です。南宮大社近く、岐阜県立不破高校の西隣の空き地には
吉川広家陣跡があります。関ヶ原の戦いでは、広家は西軍の敗北を予想し、本家の毛利輝元が西軍の総大将となることに反対しました。しかし、安国寺恵瓊の意見により毛利家が西軍に付くと、毛利家の本領安堵を条件に黒田長政を通して東軍(徳川家康方)に内通しました
合戦当日は、南宮山の麓に陣を構え、毛利秀元が合戦に参戦するのを押しとどめました。
しかし、結局合戦後は、毛利家は所領を没収、吉川広家に周防、長門の2か国が与えられることになりました。広家は毛利家の家名を残すため周防、長門の所領を辞退し、結局周防、長門の両国は毛利輝元に与えられました。広家は毛利輝元から岩国3万石を与えられましたが、本家の毛利家とは江戸時代を通して陪臣扱いされるなど確執が残りました。
南宮大社は南宮山の登山口。神武天皇即位の後、この地に祀り、八咫烏を配祀して、東山道の要路を鎮めたものとされています。壬申の乱の際、天武天皇が美濃国一の宮であるこの南宮大社に祈願し、味方についた祀司が不破の関門を破ったのが戦勝への一歩となったということです。
毛利秀元陣所の南宮山麓にあり、関ヶ原の戦いで社殿が焼失しましたが、寛永19(1642)年徳川家光が再建しました。
参道など周囲は早くもサクラが開花し、華やかな感じでした。
建造物も立派です。
南宮山には、ハイキングコースが整備されています。南宮大社本殿南側の南宮稲荷神社へ鳥居が数多く連続して建っている道から行くことができます。
ハイキングコース入口には案内看板が。山頂まで1時間・・
ハイキングコース入口には、
安国寺恵瓊陣跡があります。国寺恵瓊は安芸武田氏の遺児であるといわれています。最後の当主信実の従兄弟信重の子だそうです。武田氏滅亡後、安芸安国寺で出家しました。
毛利氏の外交僧として活躍し、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と信長の没落と秀吉の才能を見抜いた話は有名です。
秀吉の九州征伐後、伊予のうち6万石を与えられました。
関ヶ原の戦いでは、石田三成と共謀して毛利輝元を西軍の総大将に引き込みました。
合戦当日は、南宮山の麓に陣を構えましたが、吉川広家の軍勢に阻まれ参戦することができず、敗戦後に逃亡、京都に潜んでいるところを捕らえられ、石田三成、小西行長と共に六条河原で斬首されました。
いよいよ南宮山に登っていきます。南宮山は椿の名所だそうです。
中腹には、高山神社があります。祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)といい、美濃の水源を司る女神です。隣は子安神社で祭神は保食神(うけもちのかみ)です。稲と共に子供を育てる神様です。
ハイキングコースは長い道のりです。
毛利秀元陣跡につきました。毛利秀元は毛利元就の四男、穂井田元清の子として生まれました。従兄弟に当たる毛利輝元に実子が生まれなかったため、輝元の養子となりました。文禄4(1595)年に輝元に実子秀就が生まれると、跡継ぎの座を秀就に譲り、周防・長門両国の内20万石を分け与えられました。
関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将となった輝元の名代として、1万5千の兵を率いて南宮山に陣を構えました。
秀元は出撃するつもりでいましたが、東軍に内応していた吉川広家に押し止められ合戦に参戦することができませんでした。安国寺恵瓊の度重なる出陣要請に対して、困惑した秀元は苦し紛れに「今弁当を使っている」と答えた話は「宰相殿のから弁当(空弁当・殻弁当)」といわれています。
大坂城に戻った秀元は輝元に立花宗茂等と徹底抗戦を主張しましたが、聞き入れられませんでした。
結局戦後、毛利家は周防・長門36万石のみに大幅に所領を削減され、秀元は6万石を分知され、長府藩祖となりました。
眺望も素晴らしい!ただし、濃尾平野はよく見えましたが、関ヶ原方面は木々で遮られてよくわかりません。
陣形図が陣跡にありました。毛利勢が南宮山を降りていれば、どうなっていたのでしょう?
ここまで来て、かなり疲れを覚えました。もう夕方4時になっているのに考えてみれば、早朝に多賀S.Aで朝食をとってから、何も食べていません。古戦場巡りに熱中しすぎたからでしょう。昼食を食べるのを忘れていました。「宰相殿の空弁当」の南宮山で空腹を感じるというのも皮肉なものです。
この後、南宮山を下山しましたが、下山途中に野生の鹿と遭遇しました。南宮大社に戻った後は車で少し移動しました。
境野地区にある、
長束正家陣跡です。かなりわかりにくい場所にあります。原野のような空き地に石碑が残るのみです。長束正家は五奉行の一人です。西軍に味方し、関ヶ原の合戦前には池田輝政との銃撃戦がありましたが、毛利、吉川、安国寺、長宗我部と同様、本戦には参加しませんでした。
西軍が敗北すると、水口城に帰りましたが、池田長吉らの攻撃を受け自害しました。
少し南側の栗原山には
長宗我部盛親陣跡があります。関ヶ原の戦いでは、盛親は西軍につき6千人の兵とともに栗原山麓に陣を構えました。
吉川広家の内通により傍観軍となり西軍が敗北すると、戦わずして退却しました。帰国途中、牧田川金谷にて松ノ木城主徳永寿昌や今尾城主市橋長勝との間に戦いがありました。
帰国後、井伊直政を通じ、徳川家康に謝罪しましたが、家臣久武親直の讒言から兄津野親忠を殺害してしまったため、土佐一国を没収され浪人となりました。京で大岩祐夢と名前を変え寺子屋の師匠などをしていたそうです。その後、大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城しました。夏の陣の八尾の戦いなどで活躍しましたが、敗戦後捕らえられ京で斬首されました。ここも場所は分かりにくいですが、県道215号養老垂井線の東側に八幡神社がある道を西へ向かいます。農道というか里道のような道です。山に入るとすぐ陣跡があります。
桜がここも咲いていました。
ここから山側にさらに進むと、栗原九十九坊や竹中半兵衛が隠棲した跡地などがあるようですが、もう5時を過ぎています。この時間から山に登るのは危険と判断して断念しました。その代わり、日の明るい内に大垣市の赤坂に行ってみようと思い、車を進めます(続く)
Posted at 2007/04/09 21:56:18 | |
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