朝から、高知市内の史跡を巡ります。
高知市のはりまや町の一角に
「中江兆民先生誕生地」の石碑が建っています。
中江兆民は自由民権の思想家です。高知城下の山田町(現在のはりまや町)に生まれました。
フランス留学から帰国後、「民約訳解」によってルソーの思想を紹介し、また「東洋自由新聞」「政理叢談」等に自由民権論を発表しました。
兆民は「東洋のルソー」とも呼ばれています。
第1回衆議院選挙に当選しましたが、民党一部の行動に慷慨して辞職しました。「酔人経綸問答集」「一年有半」などの著作があります。
幕末土佐藩の立役者の一人、
後藤象二郎誕生地です。てこの地に生まれました。義理の叔父であった執政の吉田東洋に学び、藩政に抜擢されました。第15代藩主、山内豊信(容堂)の信任を受けて、公武合体論を唱え、土佐勤王党を弾圧しました。
しかし、後に坂本龍馬と親しみ、山内容堂に勧めて大政奉還の建白を行いました。
明治維新後は自由民権運動を推進し、在野勢力の大同団結に力を注ぎました。
板垣退助とは幼なじみで、互いの生誕地も近くにあります。
高野寺の門の右脇に大きな
板垣退助誕生地の石碑が建っています。板垣退助は、天保8(1837)年、土佐藩士乾栄六の子として生まれました。山内容堂に抜擢され、戊辰戦争の時には藩兵千人を率いて東山道先鋒をつとめました。元々乾退助といいましたが、東山道の先鋒として甲斐に入ったとき、先祖の武田24将の一人、板垣信方にちなんで旧姓の板垣を名乗るようになりました。
明治維新後は立志社をつくり自由民権運動をおこしました。自由党の総理となり全国を遊説中の明治15(1882)年、岐阜で刺されました。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉はあまりに有名です。晩年は社会事業にも力を入れました。
高知城の南側、鏡川を挟んだ筆山に、江戸時代に土佐藩主をつとめた
山内家の墓所があります。
土佐藩主初代藩主山内一豊は、慶長10(1605)年9月20日に高知城の下屋敷で亡くなり、真如寺の南側にある日輪山(筆山)に埋葬されました。
山内家墓所の整備を進めたのは四代藩主豊昌で、三代藩主忠豊の葬儀にあたり、母域の拡張や墓石の配置を行いました。このように墓域の過程が資料で確認できる大名家の墓所は全国的にも少ないといわれています。
この墓所には十五代豊信を除き、すべての藩主が埋葬されています。
現在は通路の痛みがひどく、枯損木や風倒のおそれのある立木も多く危険とのことで、関係者以外立ち入り禁止にしています。見学希望者は山内家宝物資料館・山内神社にに一度連絡するようにとのことです。
坂本龍馬の生誕地です。幕末の英傑坂本龍馬は天保6(1835)年、現在の高知市上町1丁目で土佐藩郷士、坂本八平の次男で五人兄弟の末っ子として生まれました。上町1丁目交差点以東、旧本丁筋から一本南の通りが龍馬の生家といわれています。その一部は上町病院となっており、国道33号沿いには高知県出身の元首相吉田茂の書による石碑がたっています。
高知市立龍馬の生まれたまち記念館は、坂本龍馬が生まれた高知市上町に建つ坂本龍馬の記念館です。龍馬が生まれた頃の町並みを再現し、歴史や文化、龍馬に関わった人々を映像、音声、模型を交えてわかりやすく説明しています。坂本家の離れをイメージした休憩スペースもあります。
才谷屋は坂本龍馬の本家筋に当たります。
坂本家四代(当時は大浜姓)八兵衛守之が、寛文6(1666)年に長岡郡殖田郷才谷村(現在の南国市)より高知城下本丁筋三丁目(現在の上町三丁目)に移住し、妻佐耶と二人で借家で質屋を始めたのが最初で屋号は出身地の名より才谷屋としました。
後に酒造業、諸物品売買にも手を広げ、才谷屋の基礎を作りました。
二代正禎は本丁筋年寄役を命ぜられ、三代直益のころに才谷屋は城下屈指の豪商となり、次男直清に才谷屋を継がせ、長男直海を明和7(1770)年に郷士株を取得し分家させ、郷士坂本家の祖としました。
郷士坂本家はその後八蔵直澄、八平直足(養子)、権平直方と続きました。坂本龍馬直柔は、天保6(1835)年11月15日、権平直方の弟として誕生しました。後に龍馬は才谷梅太郎の変名を使用しています。
現在跡地ははコーヒーハウスさいたにやになっています。
坂本龍馬の亀山社中に参加した
近藤長次郎邸跡も近くにあります。近藤長次郎は天保8(1838)年、饅頭商人の大黒屋伝次の長男として生まれました。饅頭屋長次郎、上杉宗次郎、近藤昶次郎、梅花道人という名もあります。
長じて坂本龍馬に兄事して活躍し、神戸海軍操練所をへて長崎の亀山社中に入りユニオン号譲渡を巡って薩長連合の一役を担いました。その後単独で海外渡航を企てたことが社規に反したため、慶応2(1866)年自刃して果てました。
旧山内家下屋敷長屋は、大政奉還に尽力した幕末の藩主・山内豊信(容堂)が家臣7人の屋敷を召し上げて設けた下屋敷が設けられたところです。長屋についての記録はありませんが、その時に建てられたと思われます。
屋敷は、明治維新後山内家の私邸となりましたが、戦後売却され、現在その大部分は(株)三翠園の所有となっています。
昭和53(1978)年、長屋は高知市へ譲渡され、昭和54(1979)年、国の重要文化財に指定されました。昭和55(1980)年、保存修理に着手され、昭和56(1981)年に完成しました。
入場料無料で、内部は絵画や和船、各種資料を展示しています。
鷹匠公園とのその西側のホテル三翠園のあるあたりが
山内容堂邸でした。元々家臣の屋敷でしたが、それを召し上げて別邸をつくったそうです。散田屋敷とも呼ばれていたようです。
鷹匠公園に「山内容堂公邸址」の石碑が建っています。
山内氏の歴代藩主を祀る神社・
山内神社です。山内氏の先祖を祀る神社は、初代藩主の一豊とその夫人の見性院(千代)、2代藩主忠義を祀るために文化3(1806)年に土佐藩10代藩主山内豊策により高知城内に藤並神社を創建したのが最初です。
山内神社は、明治4(1871)年、土佐藩最後の藩主、山内豊範によって藤並神社の御旅所だったこの地に三代忠豊公より十四代豊惇公の霊を祀るため創建されました。昭和7(1932)年には、十五代豊信公・十六代豊範公の幕末維新における功績を顕彰するための神社として新たにこの地に神社が建てられ、昭和9(1934)年落成しました。その他の歴代藩主は藤並神社に移されました。昭和20(1945)年、戦災により、藤並神社、山内神社双方とも焼失しました。現在建つ山内神社は昭和45(1970)年に再建され、藩祖一豊公、同夫人以下、歴代藩主を合祀したものです。
山内神社の境内に土佐藩第15代藩主、
山内容堂公の銅像があります。平成14(2002)年4月10日に建立されたものです。
「大政奉還を慶ぶ山内容堂公」ということで左側には脇息があり、右手にはギヤマンの杯を手にくつろいだ姿の座像です。
土佐山内家宝物資料館は、初代土佐藩主の山内一豊から豊範まで、16代にわたる土佐山内家に伝わる品々を展示する資料館です。
甲冑、美術品、古文書など貴重なものを見ながら土佐藩の歴史を学ぶことができます。
訪れたときは、特設展「土佐藩歴代藩主展」が開催されており、歴代藩主の業績などについての解説も充実していました。
南北朝時代の土佐の古戦場・
吉野朝廷時代古戦場跡です。南北朝時代の土佐は、足利尊氏の重臣である細川氏の支配下にあって北朝勢力がかなり強かったのですが、南朝勢力は大高坂城(現在の高知城)を本拠とした大高坂松王丸を中心に頑張っていて、両派の争いが長く続きました。
やがて、後醍醐天皇の皇子の花園宮満良親王、新田綿打入道、金沢左近将監らの武将が下向して加わり、南朝方は一時勢力を盛り返しました。そこで、北朝方はここ升形近辺にあったといわれる
安楽寺に砦を築いて、大高坂城への攻撃を繰り返し行いました。一方、新田、金沢等は花園宮を奉じて潮江山(筆山)に陣を設けて、数千騎が大高坂城を救援しようとしました。その最も激しい戦いが繰り広げられたのが、この辺りであったといわれています。「佐伯文書」では、大高坂城は興国元(暦応3・1340)年に陥落、松王丸は城の西木戸あたりで戦死したといわれており、花園宮はその後西国方面に脱出しました。
出雲大社前に石碑と説明の看板が建っていました。
次はいよいよ、高知城です。