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ピズモのブログ一覧

2007年08月28日 イイね!

写真は根気が必要?~月食のシャッターチャンス

写真は根気が必要?~月食のシャッターチャンスこの日は月食でした。一応19時40分頃から写真を撮ろうと狙っていたのですが、天気が不安定で雲が多く、あまり良い写真が撮影できそうにないため、一度はあきらめました。
21時頃、空を見ると、まだ一部が欠けている月がでていたので、撮影してみました。ひょっとすると、もっと欠けている状態でもシャッターチャンスがあったかもしれません。
良い写真を撮ろうと思うと、根気を身につけないといけないと思わされました。
Posted at 2007/08/30 23:32:18 | コメント(7) | トラックバック(0) | デジカメ | 日記
2007年08月18日 イイね!

土佐日記(2日目その3・四万十市中村・そして帰路へ)

(その2からつづく)
帰路は関西方面なので、通常の選択だと本山氏の本拠地本山町に行くことになりますが、本山氏の城は朝倉城を訪れたこともあり、今回は中村へ行ってみることにしました。しかし、高速道路は須崎東までしか開通しておらず、100km以上の道のりは想像以上に遠く、到着すると夕方になっていました。
まずは、一條神社を訪れました。土佐一条氏滅亡後、慶長12(1607)年、遺臣により中村御所跡の一部の小森山山頂に土佐一条氏数代の霊をまつる祠が建てられました。
文久2(1862)年、中村御所跡の一部の小森山山頂にあった一条家御廟所跡に、土佐一条氏の遺徳を偲ぶ有志によって一條神社が建立されました。
一條神社は教房の父、兼良を始め、土佐一條氏歴代の霊を祀っています。


神社の中には、中村御所の史跡が残っています。土佐の一条氏は、応仁2(1468)年前関白一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘に下向したのが始まりです。教房の次男一条房家は京都に戻らず、中村御所を拠点に土佐の中村に京都さながらの街を築き上げました。以後、房冬、房元と続き、5代目の兼定の時に、長宗我部元親に敗れ事実上滅亡しました。(6代内政、7代政親は長宗我部氏の傀儡)
一條神社社殿のある小森山を囲んだ一角が中村御所の跡です。藤遊亭と藤見の御殿を建てて家紋である藤をこよなく愛したといわれています。この藤は、長宗我部氏に追われた一条兼定が「植え置きし 庭の藤が枝 心あらば 来ん春ばかり 咲くな匂うな」と歌を残して去り、この藤はその後約300年間花をつけませんでした。
しかし、文久元(1861)年、この藤が見事に咲いたため、翌年の一條神社建立の発端になりました。
その他、一条氏の使った7つの井戸の内、唯一残る女官や侍女たちが使用した御化粧の井戸など一条氏ゆかりの史跡が残っています。


中村城とは、為松山頂にあった4つの城群、即ち東ノ城、為松城、(本丸)、今城の総称で、連立式の城郭であったと考えられています。 一条氏の家老のひとり為松氏により築城したのが始まりと考えられています。
ここに残っている石垣は、昭和40(1965)年に発見されたもので、中村藩2万石2代藩主山内政豊時代の慶長18(1613)年、新たに中村城として修復された時のものだと思われます。
この城の詳細は不明ですが、翌々年の元和元(1615)年の一国一城令により廃城となり、以後修復されることはありませんでした。
現在は「為松公園」になっており、二の丸跡に四万十市立郷土資料館(旧幡多郷土資料館)が建っています。


これで今回の旅行の日程は終了です。
帰路は、道の駅あぐり窪川で四万十のお土産を少々購入。


黒潮本陣で太平洋を見ながら温泉に入り疲れを癒しました。


この後は、ひたすら長時間高速道路をひた走り、帰宅しました。
Posted at 2007/09/01 23:20:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年08月18日 イイね!

土佐日記(2日目その2・高知城と城周辺史跡~高知市郊外)

次は再び高知城です。高知城の前身は大高坂山城といい、南朝方に付いた豪族・大高坂松王丸が、この地(大高坂山)に城を構え、大高坂山城と称したのがはじまりといわれています。
長宗我部元親は、豊臣秀吉の四国征伐後、土佐一国の領主となりましたが、長年の居城であった岡豊城から天正15(1587)年にこの地に居城を移しました。しかし、治水に悩んだため、2年後の天正17(1591)年、浦戸城を築城し、居城を移転しました。
高知城は、慶長6(1601)年土佐に入国した山内一豊が大高坂城の跡地に築城を開始しました。
治水に悩んだ長宗我部氏時代の懸案を解決するため、百々綱家を総奉行に任じて築城と同時に鏡川、江の口川の治水工事に着手しました。
慶長8(1603)年に本丸と二の丸が完成し、河中山城(こうちやまじょう)に改名しました。
城は二代藩主忠義の時代に高智山城に改名し、後に高知城と改めました
享保12(1727)年に城下町の大火により追手門を残し城郭のほとんどが焼失しました。
寛延元(1748)年、天守閣や櫓などが再建されました。現在の天守閣はこのときに再建されたものです。天守閣は外観4層、構造上は3層6階の建造物で本丸御殿と接続しています。
明治6(1873)年に公園となり、天守閣などの本丸周辺の建築物と追手門を残し城郭建築物を取り払われました。
天守閣は昭和9(1934)年に旧国宝に指定されました。また、昭和25(1950)年文化財保護法により重要文化財に指定されました。高知城全域は高知公園として開放されており、本丸御殿・天守は懐徳館として資料館となっています。

高知城の入口に、土佐24万石の初代藩主山内一豊の銅像があります。
知城の入口に、土佐24万石の初代藩主山内一豊の銅像があります。
山内一豊は、天文14(1545)年生まれで、13歳の時尾張国岩倉城主織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟と共に流浪しました。
天正元(1576)年、豊臣秀吉に従い織田信長の朝倉、浅井攻めに出陣して武功を上げました。以後も秀吉の麾下として各地の戦いに参加し、次第に頭角を現して近江国長浜2万石の城主から、天正18(1590)年小田原攻めの後、遠江国掛川5万石を領しました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの功績により、土佐一国24万石を与えられて、慶長6(1601)年に土佐に入国し高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を築きました。慶長10(1605)年9月20日に61歳で亡くなりました。
この銅像は、大正2(1913)年に建設された銅像の原型を元にして平成8(1996)年9月20年に再建除幕されました。




板垣退助の銅像が登城口入口にあります。


山内一豊の妻の銅像もあります。山内一豊の妻は、弘治3(1557)年生まれで、通称千代といわれていますが、これを裏付けるたしかな資料はないそうです。出身についても通説では近江国浅井氏の家臣若宮友興の娘とされていますが、近年では美濃国八幡城主遠藤氏の娘ともいわれています。
幼い頃父を失い、17~18歳頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されています。中でも結婚の時、持参した10両の金を出して出世の糸口になった逸話は広く知られています。
また、関ヶ原の戦いの前に、笠の緒に縒り込めた手紙で関東にいる一豊に大阪方の情報を知らせ、その進路を決定づけさせたことが一豊の土佐一国領主への道を開くことになりました。手芸や文筆にもすぐれ、賢夫人として知られています。元和3(1617)年12月4日に京都でなくなりました。享年61歳。法号は見性院です。
高知城内の銅像は、昭和40(1965)年2月26日に除幕されました。


現在、石垣が修復中です。












一豊さんと千代さんもお出迎えです。


本丸御殿の内部です。


大河ドラマ「功名が辻」で仲間由紀恵さんが着用


本丸内にこれだけ建造物が残る城は貴重です。


黒鉄門です。


太鼓丸の鐘楼堂です。


高知城近くには、武市瑞山先生殉節之地があります。高知市帯屋町には、かつて南会所がありました。文久3(1863)年8月18日の政変の後、土佐藩前藩主山内容堂は土佐勤王党の弾圧を行いました。武市半平太は慶応元(1865)年「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられ、三文字の切腹を成し遂げました。四国銀行の前には、「武市瑞山殉節の地」の石碑が建っています。


吉田東洋先生記念之地も近くにあります。吉田東洋が暗殺された場所に「吉田東洋先生記念之地」の石碑が建っています。
吉田東洋は本名を正秋といい、通称は元吉といいました。15代土佐藩主山内豊信(容堂)に信任され、土佐藩の安政改革を推進しました。「海南政典」を編さんし、公武合体を堅持したため、武市半平太(瑞山)率いる土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助により、文久2(1862)年4月8日、この地にて暗殺されました。


ここからは、車で移動です。高知市の郊外、神田地区には、和霊神社があります。
和霊神社は、幕末の志士坂本龍馬の四代前の先祖、坂本八郎兵衛直益が宝暦12(1762)年、宇和島の和霊神社を坂本家の屋敷神として勧請しました。和霊神社の祭神は宇和島伊達藩の家老、山家清兵衛公頼です。
文久2(1862)年、坂本龍馬が脱藩する際参拝したと伝えられています。
昭和60(1985)年から事績を顕彰した龍馬脱藩祭を行っています


朝倉地区にある朝倉城は、古くは重松城ともいいました。
長岡郡本山城主の本山梅慶は、天文年間土佐中央部に一大勢力を確立し、これを維持するため、軍事的・地理的に重要なこの地に築城して天文9(1540)年、ここに移りました。永禄3(1560)年にはじまった長宗我部氏との激突は数度に及びましたが、勝敗は決しませんでした。梅慶の跡を継いだ本山茂辰は、不利な形勢と朝倉城死守の困難を悟り、永禄6(1563)年1月に城を焼いて本城本山に退去したため、朝倉城は廃城となりました。詰、西郭を囲むように大きな空堀が二重三重にはしり、竪堀も深く残っています。
高知大学側に登城口の看板があります。近くまで車で登れますが、道が狭く、駐車場所には苦労します。


これで高知市内の観光は終了です。まだ少し時間があるので、ここから本山氏の本拠地本山に行くか、一条氏の本拠地中村(四万十市)に行くか少し悩みました。
Posted at 2007/09/01 01:19:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年08月18日 イイね!

土佐日記(2日目その1・高知市内の史跡めぐり)

朝から、高知市内の史跡を巡ります。
高知市のはりまや町の一角に「中江兆民先生誕生地」の石碑が建っています。
中江兆民は自由民権の思想家です。高知城下の山田町(現在のはりまや町)に生まれました。
フランス留学から帰国後、「民約訳解」によってルソーの思想を紹介し、また「東洋自由新聞」「政理叢談」等に自由民権論を発表しました。
兆民は「東洋のルソー」とも呼ばれています。
第1回衆議院選挙に当選しましたが、民党一部の行動に慷慨して辞職しました。「酔人経綸問答集」「一年有半」などの著作があります。


幕末土佐藩の立役者の一人、後藤象二郎誕生地です。てこの地に生まれました。義理の叔父であった執政の吉田東洋に学び、藩政に抜擢されました。第15代藩主、山内豊信(容堂)の信任を受けて、公武合体論を唱え、土佐勤王党を弾圧しました。
しかし、後に坂本龍馬と親しみ、山内容堂に勧めて大政奉還の建白を行いました。
明治維新後は自由民権運動を推進し、在野勢力の大同団結に力を注ぎました。
板垣退助とは幼なじみで、互いの生誕地も近くにあります。


高野寺の門の右脇に大きな板垣退助誕生地の石碑が建っています。板垣退助は、天保8(1837)年、土佐藩士乾栄六の子として生まれました。山内容堂に抜擢され、戊辰戦争の時には藩兵千人を率いて東山道先鋒をつとめました。元々乾退助といいましたが、東山道の先鋒として甲斐に入ったとき、先祖の武田24将の一人、板垣信方にちなんで旧姓の板垣を名乗るようになりました。
明治維新後は立志社をつくり自由民権運動をおこしました。自由党の総理となり全国を遊説中の明治15(1882)年、岐阜で刺されました。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉はあまりに有名です。晩年は社会事業にも力を入れました。


高知城の南側、鏡川を挟んだ筆山に、江戸時代に土佐藩主をつとめた山内家の墓所があります。
土佐藩主初代藩主山内一豊は、慶長10(1605)年9月20日に高知城の下屋敷で亡くなり、真如寺の南側にある日輪山(筆山)に埋葬されました。
山内家墓所の整備を進めたのは四代藩主豊昌で、三代藩主忠豊の葬儀にあたり、母域の拡張や墓石の配置を行いました。このように墓域の過程が資料で確認できる大名家の墓所は全国的にも少ないといわれています。
この墓所には十五代豊信を除き、すべての藩主が埋葬されています。
現在は通路の痛みがひどく、枯損木や風倒のおそれのある立木も多く危険とのことで、関係者以外立ち入り禁止にしています。見学希望者は山内家宝物資料館・山内神社にに一度連絡するようにとのことです。


坂本龍馬の生誕地です。幕末の英傑坂本龍馬は天保6(1835)年、現在の高知市上町1丁目で土佐藩郷士、坂本八平の次男で五人兄弟の末っ子として生まれました。上町1丁目交差点以東、旧本丁筋から一本南の通りが龍馬の生家といわれています。その一部は上町病院となっており、国道33号沿いには高知県出身の元首相吉田茂の書による石碑がたっています。


高知市立龍馬の生まれたまち記念館は、坂本龍馬が生まれた高知市上町に建つ坂本龍馬の記念館です。龍馬が生まれた頃の町並みを再現し、歴史や文化、龍馬に関わった人々を映像、音声、模型を交えてわかりやすく説明しています。坂本家の離れをイメージした休憩スペースもあります。


才谷屋は坂本龍馬の本家筋に当たります。
坂本家四代(当時は大浜姓)八兵衛守之が、寛文6(1666)年に長岡郡殖田郷才谷村(現在の南国市)より高知城下本丁筋三丁目(現在の上町三丁目)に移住し、妻佐耶と二人で借家で質屋を始めたのが最初で屋号は出身地の名より才谷屋としました。
後に酒造業、諸物品売買にも手を広げ、才谷屋の基礎を作りました。
二代正禎は本丁筋年寄役を命ぜられ、三代直益のころに才谷屋は城下屈指の豪商となり、次男直清に才谷屋を継がせ、長男直海を明和7(1770)年に郷士株を取得し分家させ、郷士坂本家の祖としました。
郷士坂本家はその後八蔵直澄、八平直足(養子)、権平直方と続きました。坂本龍馬直柔は、天保6(1835)年11月15日、権平直方の弟として誕生しました。後に龍馬は才谷梅太郎の変名を使用しています。
現在跡地ははコーヒーハウスさいたにやになっています。



坂本龍馬の亀山社中に参加した近藤長次郎邸跡も近くにあります。近藤長次郎は天保8(1838)年、饅頭商人の大黒屋伝次の長男として生まれました。饅頭屋長次郎、上杉宗次郎、近藤昶次郎、梅花道人という名もあります。
長じて坂本龍馬に兄事して活躍し、神戸海軍操練所をへて長崎の亀山社中に入りユニオン号譲渡を巡って薩長連合の一役を担いました。その後単独で海外渡航を企てたことが社規に反したため、慶応2(1866)年自刃して果てました。


旧山内家下屋敷長屋は、大政奉還に尽力した幕末の藩主・山内豊信(容堂)が家臣7人の屋敷を召し上げて設けた下屋敷が設けられたところです。長屋についての記録はありませんが、その時に建てられたと思われます。
屋敷は、明治維新後山内家の私邸となりましたが、戦後売却され、現在その大部分は(株)三翠園の所有となっています。
昭和53(1978)年、長屋は高知市へ譲渡され、昭和54(1979)年、国の重要文化財に指定されました。昭和55(1980)年、保存修理に着手され、昭和56(1981)年に完成しました。
入場料無料で、内部は絵画や和船、各種資料を展示しています。


鷹匠公園とのその西側のホテル三翠園のあるあたりが山内容堂邸でした。元々家臣の屋敷でしたが、それを召し上げて別邸をつくったそうです。散田屋敷とも呼ばれていたようです。
鷹匠公園に「山内容堂公邸址」の石碑が建っています。


山内氏の歴代藩主を祀る神社・山内神社です。山内氏の先祖を祀る神社は、初代藩主の一豊とその夫人の見性院(千代)、2代藩主忠義を祀るために文化3(1806)年に土佐藩10代藩主山内豊策により高知城内に藤並神社を創建したのが最初です。
山内神社は、明治4(1871)年、土佐藩最後の藩主、山内豊範によって藤並神社の御旅所だったこの地に三代忠豊公より十四代豊惇公の霊を祀るため創建されました。昭和7(1932)年には、十五代豊信公・十六代豊範公の幕末維新における功績を顕彰するための神社として新たにこの地に神社が建てられ、昭和9(1934)年落成しました。その他の歴代藩主は藤並神社に移されました。昭和20(1945)年、戦災により、藤並神社、山内神社双方とも焼失しました。現在建つ山内神社は昭和45(1970)年に再建され、藩祖一豊公、同夫人以下、歴代藩主を合祀したものです。


山内神社の境内に土佐藩第15代藩主、山内容堂公の銅像があります。平成14(2002)年4月10日に建立されたものです。
「大政奉還を慶ぶ山内容堂公」ということで左側には脇息があり、右手にはギヤマンの杯を手にくつろいだ姿の座像です。


土佐山内家宝物資料館は、初代土佐藩主の山内一豊から豊範まで、16代にわたる土佐山内家に伝わる品々を展示する資料館です。
甲冑、美術品、古文書など貴重なものを見ながら土佐藩の歴史を学ぶことができます。
訪れたときは、特設展「土佐藩歴代藩主展」が開催されており、歴代藩主の業績などについての解説も充実していました。


南北朝時代の土佐の古戦場・吉野朝廷時代古戦場跡です。南北朝時代の土佐は、足利尊氏の重臣である細川氏の支配下にあって北朝勢力がかなり強かったのですが、南朝勢力は大高坂城(現在の高知城)を本拠とした大高坂松王丸を中心に頑張っていて、両派の争いが長く続きました。
やがて、後醍醐天皇の皇子の花園宮満良親王、新田綿打入道、金沢左近将監らの武将が下向して加わり、南朝方は一時勢力を盛り返しました。そこで、北朝方はここ升形近辺にあったといわれる
安楽寺に砦を築いて、大高坂城への攻撃を繰り返し行いました。一方、新田、金沢等は花園宮を奉じて潮江山(筆山)に陣を設けて、数千騎が大高坂城を救援しようとしました。その最も激しい戦いが繰り広げられたのが、この辺りであったといわれています。「佐伯文書」では、大高坂城は興国元(暦応3・1340)年に陥落、松王丸は城の西木戸あたりで戦死したといわれており、花園宮はその後西国方面に脱出しました。
出雲大社前に石碑と説明の看板が建っていました。


次はいよいよ、高知城です。
Posted at 2007/08/31 21:49:16 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年08月17日 イイね!

土佐日記(1日目その6・夜の高知~高知城ライトアップ)

宿泊先に着くと、食事をしたかったこともあり、夜の高知の街を歩いてみました。
それでも史跡などがあるとついついカメラを向けてしまいます。
高知八幡宮は元々高知城の中にあった神社です。
大高坂山城(現在の高知城)の城主だった大高坂氏が城の守護神として石清水八幡宮から城内に勧請されました。山内一豊が高知城築城の際、現在地に移転したそうです。


高知城近くには北会所・教授館跡があります。北会所は、南会所とともに藩の政治を行っていました。後にこの地で好学の8代藩主、山内豊敷が宝暦10(1760)年に常設の藩校として創設しました。始めは教授場と称しましたが、9代藩主、山内豊雍が教授館と改称しました。
朱子学中心に教育にあたり、藩士の谷真潮、宮地春樹、戸部良煕などが教授役として有名でした。


追手門前には、山内容堂公誕生之地があります。山内容堂は本名を豊信といい、分家南邸の山内家の当主でしたが、嘉永元(1848)年に第14第藩主豊惇が急死したため、第15代藩主になりました。
四賢候として知られ、藩内では吉田東洋を起用し改革を進めましたが、安政の大獄を予感し、隠居しましたが井伊直弼より謹慎を命じられました。謹慎が解かれた後は、公武合体路線を推進し、土佐勤王党を弾圧しました。その後、時流を悟り、大政奉還を建白し、実行に導きました。
酒と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯」と称しました


そして、高知城のライトアップです。三脚持参もやはり夜景は難しいです。ホワイトバランス、露出、暗い中でのピント合わせ・・etc。










こちらは、日本の道100選・追手筋通りです。
日本の道100選とは、昭和61(1986)年に、道の日の制定を記念して建設省と「道の日」実行委員会により制定されました。「100選」だが実際は104本あります。
追手筋通りは「よさこい祭」の舞台で有名な場所です。また、日曜日には日曜市が開催されます。


播磨屋橋は、もとは江戸初期の豪商、播磨屋宗徳と櫃屋道清が両家を往来するためにかけた橋です。ひらがなで「はりまや橋」と表記されることの方が多いようです。
「よさこい節」に歌われ、悲恋の舞台としても知られています。現在は御影石造りの橋に架け替えられていますが、平成10(1998)年、歩行者専用の朱塗りの太鼓橋を再建しました。


これだけ回ると、高知市内の飲食店はぼちぼち閉まりつつありましたので、あわてて、かつおのたたきを食べに行きました。本当は土佐の地酒と楽しむつもりでしたが、あまりに暑かったので、ビールと一緒に楽しみました。一日のドライブの疲れがとれる思いでした。
Posted at 2007/08/27 22:39:21 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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