次は桂浜に向かいます。
浦戸大橋で少し渋滞しました。やはり桂浜は名勝地。多くの観光客が来ています。
浦戸城は鎌倉時代末期にこの地の豪族の城として築かれました。
戦国時代には本山城から高知平野に進出した本山氏の支城になりました。その後、永禄3(1560)年、長宗我部国親が城を奪いました。
国親の息子である元親は、天正16(1588)年に岡豊城から大高坂城(現在の高知城)に居城を移しましたが治水工事に失敗したため、天正19(1591)年年に浦戸城を居城としました。
慶長5(1600年)年に関ヶ原の戦いで西軍についた元親の息子盛親は除封され、土佐一国は山内一豊に与えられました。その際長宗我部氏の遺臣たちが城の引渡しを拒み、浦戸一揆が起こりましたが謀略により鎮圧されました。
土佐に入った山内一豊は慶長6(1601)年から高知城を築き、慶長8(1603)年に居城を移したため、浦戸城は廃城となりました。
桂浜へ向かう道路の途中に石碑がありますが、国民宿舎桂浜荘の駐車場前に復元された石垣、石碑があります。わずかに残る天守台には祠が建っていました。
写真は天守台の祠と復元石垣です。
高知県立坂本龍馬記念館は時間切れで閉まっていました。ここには10年以上前に訪れました。
桂浜には、太平洋を見つめる
坂本龍馬銅像があります。昭和3(1928)年、高知県宿毛市出身の彫刻家、本山白雲により制作されました。制作資金は高知県の青年有志が募金で賄いました。
建立から70年あまり建った平成11(1999)年、風雨にさらされ倒壊の危険があったため修復されました。
若宮八幡宮の参道、鎮守の森公園の道路側には、
長宗我部元親公初陣銅像が建っています。長宗我部元親公の銅像は、元親公没後400年にあたる平成11(1999)年に、地元有志の発案で建立されました。
元親公は永禄3(1560)年5月、22歳の時本拠地の岡豊城から出陣し、宿敵本山氏の長浜城を陥落させ、初陣を飾りました。その際、若宮八幡宮の社頭に陣を張り、戦勝を祈願したことからこの地に初陣の勇姿を再現したものです。銅像の高さは台座も含め約7m、槍の長さは5.7mあります。
そして、
若宮八幡宮です。文治元(1185)年、源頼朝は、祖父源為義の冥福を祈り、京都六條の為義邸跡にあった六條左女牛若宮に石清水八幡宮の御神霊を御勧請し、新たに六條若宮八幡宮を創建しました。その際、土佐国吾川郡の南部一円を六條若宮の神領地として奉納し、神地鎮護の神として現在の地に創建したのが土佐の若宮八幡宮です。
戦国時代の、永禄3(1650)年長宗我部元親が、父国親に従い、本山氏の支城であった長浜城を攻略した際、当社の馬場先に陣所を構え、戦勝を祈願し初陣にのぞみました。戦いは長宗我部氏の勝利になり、このことから若宮八幡宮を出陣祈願の社と定め、社殿を出蜻蛉式建築に改めました。
次は、
長宗我部元親の墓です。慶長4(1599)年に61歳で伏見で亡くなりました。享年61歳、法号は雪蹊恕三、火葬の後、遺骨は天甫寺山に葬られました。この墓の形式は宝篋印塔といいます。
近くには浦戸一揆で亡くなった家臣を祀った塚があります。
南側道路に案内看板があり、細い道を入っていくと駐車スペースも用意されています。
雪蹊寺は、弘法大師が開基したと伝えられています。当時、雪蹊寺は少林山高福寺といいましたが、鎌倉時代に仏師運慶と長男湛慶が来山し慶運寺と改めました。その後廃寺となっていたのを、天正の未に月峰和上が住職になり、長宗我部元親の援助を得て、臨済宗として再興しました。元親の死後、その法号に因んで雪蹊寺と改めました。明治初年の廃仏毀釈により廃寺 となりましたが、大玄和尚が復興しました。
また、雪蹊寺には長宗我部信親の墓があります。
長宗我部信親は永禄8(1565)年に長宗我部元親の嫡男として生まれました。
天正14(1586)年に島津義久の大軍と豊後国戸次川で対峙しましたが、仙石権兵衛秀久の無謀な渡河作戦で、対岸に控えていた5千の島津勢の攻撃より仙石勢は敗走、信親以下土佐勢は奮戦しましたが、7百余人とともに戦死しました。
元親は使者として谷忠兵衛を島津の陣に派遣し、遺骸を受け取りました。
信親は知勇兼備の武将で元親の期待も大きかっただけに、受けた打撃も大きく、その後、元親の性格が一変したそうです。
脇には、月峰和尚の墓、戸次川戦没者供養塔もあります。
秦神社は、雪蹊寺の隣にある神社です。
長宗我部元親の菩提寺である雪蹊寺が、明治の廃仏毀釈で廃寺になった際、長宗我部元親を祭神として建立されたそうです。
秦神社と雪蹊寺の背後の山が
長浜城で、今でも頂上に通じる山道と、山の斜面に掘られた竪堀跡が二箇所見られます。
戦国時代に、土佐、吾川の両郡を支配していた本山梅慶(茂宗)の子茂辰の支城で、大久保美作守弁作が城主でした。
長宗我部国親は、父の兼序の死と岡豊落城の首謀者であった本山氏の討滅を決意していましたが、その機会ができたので、国親の元家臣であった福留馬允の手引きによって日時を定め、永禄3(1560)年5月26日の雨風激しい夜、種崎から海を渡り、御畳瀬より長浜城を奇襲して攻略しました。今も城山の北西の谷を夜討が谷と伝えています。
秦神社の境内に説明看板がありました。
日没間近で時間がなかったので、城には登城できませんでした。
戸の本古戦場は、種崎から御畳瀬(みませ)に上陸した長宗我部国親、元親父子と当時この地域を支配下に置いていた本山茂辰の両軍合わせて三千五百余りが激突した古戦場跡です。
永禄3(1560)年5月、長宗我部元親は22歳の初陣で、大変戦功があり、その武名は一日にして敵味方に知れ渡り、後日覇名を四国に轟かす発端になった戦いといえます。
戸の本1号公園に碑が立っていて、「コフンナリ コボツナカレ」という読みの碑文が刻まれています。「この辺一帯は、古い墳墓のあると地です。むやみに掘り返してはいけません」という意味だそうです。この地は荒涼たる原野だったそうで、江戸期の運河掘削により田畑に変じ、深耕のため時として露出することがあり、識者により注意喚起のためにこの碑が建てられたものと考えられています。
この日はほぼこれで日没となり、日程終了となりました。この後は高知市内の宿泊先に向かいます。
Posted at 2007/08/26 22:08:35 | |
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