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ピズモのブログ一覧

2007年08月17日 イイね!

土佐日記(1日目その6・桂浜~長浜付近の長宗我部氏関連史跡めぐり)

次は桂浜に向かいます。
浦戸大橋で少し渋滞しました。やはり桂浜は名勝地。多くの観光客が来ています。
浦戸城は鎌倉時代末期にこの地の豪族の城として築かれました。
戦国時代には本山城から高知平野に進出した本山氏の支城になりました。その後、永禄3(1560)年、長宗我部国親が城を奪いました。
国親の息子である元親は、天正16(1588)年に岡豊城から大高坂城(現在の高知城)に居城を移しましたが治水工事に失敗したため、天正19(1591)年年に浦戸城を居城としました。
慶長5(1600年)年に関ヶ原の戦いで西軍についた元親の息子盛親は除封され、土佐一国は山内一豊に与えられました。その際長宗我部氏の遺臣たちが城の引渡しを拒み、浦戸一揆が起こりましたが謀略により鎮圧されました。
土佐に入った山内一豊は慶長6(1601)年から高知城を築き、慶長8(1603)年に居城を移したため、浦戸城は廃城となりました。
桂浜へ向かう道路の途中に石碑がありますが、国民宿舎桂浜荘の駐車場前に復元された石垣、石碑があります。わずかに残る天守台には祠が建っていました。
写真は天守台の祠と復元石垣です。


高知県立坂本龍馬記念館は時間切れで閉まっていました。ここには10年以上前に訪れました。


桂浜
には、太平洋を見つめる坂本龍馬銅像があります。昭和3(1928)年、高知県宿毛市出身の彫刻家、本山白雲により制作されました。制作資金は高知県の青年有志が募金で賄いました。
建立から70年あまり建った平成11(1999)年、風雨にさらされ倒壊の危険があったため修復されました。




若宮八幡宮の参道、鎮守の森公園の道路側には、長宗我部元親公初陣銅像が建っています。長宗我部元親公の銅像は、元親公没後400年にあたる平成11(1999)年に、地元有志の発案で建立されました。
元親公は永禄3(1560)年5月、22歳の時本拠地の岡豊城から出陣し、宿敵本山氏の長浜城を陥落させ、初陣を飾りました。その際、若宮八幡宮の社頭に陣を張り、戦勝を祈願したことからこの地に初陣の勇姿を再現したものです。銅像の高さは台座も含め約7m、槍の長さは5.7mあります。


そして、若宮八幡宮です。文治元(1185)年、源頼朝は、祖父源為義の冥福を祈り、京都六條の為義邸跡にあった六條左女牛若宮に石清水八幡宮の御神霊を御勧請し、新たに六條若宮八幡宮を創建しました。その際、土佐国吾川郡の南部一円を六條若宮の神領地として奉納し、神地鎮護の神として現在の地に創建したのが土佐の若宮八幡宮です。
戦国時代の、永禄3(1650)年長宗我部元親が、父国親に従い、本山氏の支城であった長浜城を攻略した際、当社の馬場先に陣所を構え、戦勝を祈願し初陣にのぞみました。戦いは長宗我部氏の勝利になり、このことから若宮八幡宮を出陣祈願の社と定め、社殿を出蜻蛉式建築に改めました。


次は、長宗我部元親の墓です。慶長4(1599)年に61歳で伏見で亡くなりました。享年61歳、法号は雪蹊恕三、火葬の後、遺骨は天甫寺山に葬られました。この墓の形式は宝篋印塔といいます。
近くには浦戸一揆で亡くなった家臣を祀った塚があります。
南側道路に案内看板があり、細い道を入っていくと駐車スペースも用意されています。


雪蹊寺は、弘法大師が開基したと伝えられています。当時、雪蹊寺は少林山高福寺といいましたが、鎌倉時代に仏師運慶と長男湛慶が来山し慶運寺と改めました。その後廃寺となっていたのを、天正の未に月峰和上が住職になり、長宗我部元親の援助を得て、臨済宗として再興しました。元親の死後、その法号に因んで雪蹊寺と改めました。明治初年の廃仏毀釈により廃寺 となりましたが、大玄和尚が復興しました。
また、雪蹊寺には長宗我部信親の墓があります。
長宗我部信親は永禄8(1565)年に長宗我部元親の嫡男として生まれました。
天正14(1586)年に島津義久の大軍と豊後国戸次川で対峙しましたが、仙石権兵衛秀久の無謀な渡河作戦で、対岸に控えていた5千の島津勢の攻撃より仙石勢は敗走、信親以下土佐勢は奮戦しましたが、7百余人とともに戦死しました。
元親は使者として谷忠兵衛を島津の陣に派遣し、遺骸を受け取りました。
信親は知勇兼備の武将で元親の期待も大きかっただけに、受けた打撃も大きく、その後、元親の性格が一変したそうです。
脇には、月峰和尚の墓、戸次川戦没者供養塔もあります。


秦神社は、雪蹊寺の隣にある神社です。
長宗我部元親の菩提寺である雪蹊寺が、明治の廃仏毀釈で廃寺になった際、長宗我部元親を祭神として建立されたそうです。


秦神社と雪蹊寺の背後の山が長浜城で、今でも頂上に通じる山道と、山の斜面に掘られた竪堀跡が二箇所見られます。
戦国時代に、土佐、吾川の両郡を支配していた本山梅慶(茂宗)の子茂辰の支城で、大久保美作守弁作が城主でした。
長宗我部国親は、父の兼序の死と岡豊落城の首謀者であった本山氏の討滅を決意していましたが、その機会ができたので、国親の元家臣であった福留馬允の手引きによって日時を定め、永禄3(1560)年5月26日の雨風激しい夜、種崎から海を渡り、御畳瀬より長浜城を奇襲して攻略しました。今も城山の北西の谷を夜討が谷と伝えています。
秦神社の境内に説明看板がありました。
日没間近で時間がなかったので、城には登城できませんでした。


戸の本古戦場は、種崎から御畳瀬(みませ)に上陸した長宗我部国親、元親父子と当時この地域を支配下に置いていた本山茂辰の両軍合わせて三千五百余りが激突した古戦場跡です。
永禄3(1560)年5月、長宗我部元親は22歳の初陣で、大変戦功があり、その武名は一日にして敵味方に知れ渡り、後日覇名を四国に轟かす発端になった戦いといえます。
戸の本1号公園に碑が立っていて、「コフンナリ コボツナカレ」という読みの碑文が刻まれています。「この辺一帯は、古い墳墓のあると地です。むやみに掘り返してはいけません」という意味だそうです。この地は荒涼たる原野だったそうで、江戸期の運河掘削により田畑に変じ、深耕のため時として露出することがあり、識者により注意喚起のためにこの碑が建てられたものと考えられています。


この日はほぼこれで日没となり、日程終了となりました。この後は高知市内の宿泊先に向かいます。
Posted at 2007/08/26 22:08:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年08月17日 イイね!

土佐日記(1日目その5・五台山と武市半平太旧宅付近)

次は、高知市の五台山に行ってみました。
高知市の五台山中腹には伊達兵部宗勝の墓があります。伊達兵部宗勝は、独眼竜政宗で著名な仙台藩主伊達政宗の末子です。歌舞伎の「先代萩」や山本周五郎著『柊の木は残った』に重要な人物の一人として登場します。宗勝は陸奥国一関3万石の城主で、三代藩主綱宗の実子亀千代の後見人となり藩政を補佐していましたが、寛文11(1671)年に起きた伊達騒動(寛文事件)の首謀者として土佐国へ流罪になり、延宝7(1679)年に土佐で59歳の生涯を閉じました。


五台山の山頂近くに、ライオン宰相といわれた土佐出身の総理大臣、濱口雄幸の銅像が平成12(2000)年3月に建立されています。
濱口雄幸は、高知県長岡郡五台山村(現在の高知市)の水口家の末子として生まれました。その後、安芸郡田野村(現在の田野町)の濱口家の養嗣子となり、東京帝国大学卒業後、大蔵省に入りました。立憲民政党の総裁として昭和4(1929)年に内閣総理大臣になりましたが、昭和5(1930)年、東京駅で右翼に銃撃され、翌年の昭和6(1931)年傷が元で死去しました。


五台山公園の展望台からは高知市内、浦戸湾方面の眺望も良く、夜景スポットとしても知られています。


竹林寺は神亀元(724)年、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が唐の五台山になぞらえ開創した寺です。
大同年間(806~809)に弘法大師が修行した由縁により四国霊場第三十一番札所に定められました。
現在の本堂は寛永22(1644)年、土佐二代藩主山内忠義公により造営されたものです。五重塔は昭和55(1980)年に建立されたもので、かつては三重塔だったそうです。
夢窓国師の作庭による庭園もありますが、今回は訪問時間が遅かったため見ることができませんでした。


五台山の南東側、吹井地区には、武市半平太旧宅があります。武市半平太(瑞山)は文政12(1829)年生まれで、本名は小楯、瑞山と号しました。幕末に土佐勤王党首領として活躍しましたが、文久3(1863)年8月の政変後弾圧を受けて投獄され、慶応元(1865)年閏5月11日に切腹しました。享年36歳でした。
旧宅は元藁葺き式平屋建ての典型的な郷士住宅で間数は6室、客室は8畳で柱に瑞山が文字を刻記した痕があるそうです。昭和11(1936)年9月3日に「武市半平太旧宅及び墓」として国の史蹟に指定されています。
現在は個人宅となっているので、私は外から見るのにとどめました。


瑞山神社は武市半平太旧宅の南隣にあります。
その名の通り武市半平太(武市瑞山)を祀る神社です。
拝殿の南側に建物があり、武市半平太の生涯をを解説する絵と説明文が展示してあります。
境内の隣には武市半平太と妻、武市一族の墓所がありました。


次は、桂浜のある浦戸地区、長浜地区へ向かいます。
Posted at 2007/08/25 22:05:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年08月17日 イイね!

土佐日記(1日目その4・香南市と長宗我部氏の居城岡豊城のある南国市の史跡めぐり)

次は香南市・南国市に向かいます。
香南市の旧野市町には、香宗我部氏の居城、香宗城があります。香宗城は、建久4(1193)年、宗我部、深淵両郷の地頭職に補され中原秋家の後見によりこの地に下った一条忠頼の子、太郎秋通を初代として400年間栄えた土佐の名族香宗我部氏の居城でした。
遺構は殆ど残っておらず、小さな丘に石碑と案内板が残るのみです。


南国市の国分寺を北上していると、鳶ヶ池中学校前に源希義終焉の地・希義の鞍掛けの岩がありました。源希義は源義朝の五男で、頼朝の同母弟です。平治の乱の後、希義は現在の高知市介良の地へ配流されました。
寿永元(1182)年9月25日、希義二十五歳の時、頼朝の旗挙げに呼応しましたが、初戦に敗れ土佐における源氏方武将夜須七郎行家を、ひいては鎌倉の兄頼朝を頼ろうとしましたが途中馬を乗りつぶし遂にこの地で平家方追捕の手にかかりました。そして、現在の鳶ヶ池中学校正門前で首討たれました。
この岩は希義が愛馬の鞍を置いたとの伝承があります。案内看板がありましたが、どの岩のことかはっきりとわかりませんでした。おそらく、看板下の水路敷きにうまっている岩のことだと思われます。


土佐国分寺は、天平13(741)年、聖武天皇の勅願により僧行基が建立した官寺で、当時は方六町の寺域を有し七堂伽藍が完備されていました。その後弘法大師の中興により四国第二十九番札所となりました。
鎌倉時代から戦国時代には戦乱や災害で荒廃しましたが、室町時代末期に長宗我部氏の庇護を受けて復興しました。現在の金堂は長宗我部元親が永禄元(1558)年に再建したものです。山内藩政時代にも寺領を与えられて藩の庇護を受けました。金堂と木造薬師如来像二体並びに梵鐘は国の重要文化財です。創建当時の土塁が残る寺域は国の史跡に指定されています。


次はいよいよ長宗我部氏の居城、岡豊城です。ここは平成8年にも訪れましたが、その時は雨の中バイクで訪れたので疲労もあり、あまりじっくりと見ていません。
岡豊山麓には、伝 香川五郎次郎親和の墓があります。
香川親和は長宗我部元親の次男です。
讃岐の香川家を継ぎましたが、豊臣秀吉の四国征伐により香川家は改易となり、親和は人質となり大和郡山に送られました。
その後岡豊に戻り、東小野村に蟄居しました。元親の長男長宗我部信親が戦死した後、親和に対し秀吉の使いがが土佐に下り、朱印状が与えられたと伝えられていますが、世継ぎは四男長宗我部盛親に決まると、怏怏として楽しまず遂に病死しました。
岡豊城・高知県立歴史民俗資料館へ登城途中に案内看板があります。車道から少しおりたところにひっそりと眠っています。


岡豊山には車で登っていけるので比較的登城は楽です。
岡豊城の築城は発掘調査の結果、13~14世紀ごろと考えられています。
「土佐物語」によると16世紀の初頭に長宗我部元秀が土佐の豪族の連合軍に岡豊城を攻められ自刃して、落城したと伝えられています。
落城の際、嫡子の国親は、幡多中村の一条房家を頼って落ち延び、元服して、永正13(1516)年に一条房家の助力で本領を回復し、岡豊城に帰った国親は、以降近隣の豪族を討ち勢力を伸ばしました。
長宗我部氏は国親の子、長宗我部元親の代に領土を四国全土に勢力を広げましたが、豊臣秀吉の四国征伐に敗れた元親は、土佐一国を安堵されました。岡豊城は天正16(1588)年に大高坂城(現在の高知城)へ移転するまでの約70年間にわたり長宗我部氏の居城として使われており、その後廃城となりました。
建物は当然残ってませんがが、建物の礎石と土塁などが復元され歴史公園としてよく整備されています。


岡豊山には、高知県立歴史民俗資料館があります。平成3(1991)年5月に開館した歴史資料館です。高知県内の歴史、考古、民族の各分野における資料の収集保存、調査研究を行っており、その成果を展示しています。
今回は企画展「坂本龍馬・中岡慎太郎展」が開催されていました。


次は、いよいよ高知市へ入ります。
Posted at 2007/08/25 00:32:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2007年08月17日 イイね!

土佐日記(1日目その3・土居廓中の武家屋敷街と阪神タイガースのキャンプ地で有名な安芸市)

次は安芸市です。安芸市に入る国道55号は結構良く混雑します。阪神タイガースがキャンプを行うときはもっと酷い状態だろうと想像できます。せめて高知市側からの高規格道路は必要な地域ではないかと思いました。
さて、安芸の史跡めぐりは浄貞寺から始めました。浄貞寺は、安芸郡最大の豪族であった安芸氏の菩提寺で、南国市比江にある永源寺の末寺です。安芸氏は白凰元(672)年、壬申の乱により土佐に配流された蘇我赤兄の子孫といわれ、代々この地方の豪族として栄えました。浄貞寺は明応年間、安芸国虎の祖父安芸備後守元親が創立し、山号を「元親山」と称しました。「浄貞寺」の寺号は元親の法号「正仲浄貞」からとったもので、元親の子元泰が名付けたものといわれています。
境内には安芸氏代々の墓と安芸氏の祖を祭る安芸神社があります。その中でも安芸氏最後の当主安芸国虎の墓は、昭和28(1953)年高知県の史跡に指定されています。安芸国虎は永禄12(1569)年、長宗我部元親に安芸城を攻略され、浄貞寺で自害しました。家老の黒岩越前も奥方と姫を中村の一条氏の元に送り届けた後、浄貞寺の国虎の墓前で自害しました。黒岩越前の墓も国虎の墓近くにあります。また、本堂横の観音堂は幕末天保頃の建築です。山門は江戸時代中期に再建されたものです。


次は井ノ口地区にある岩崎弥太郎生家です。三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎は天保5(1834)年にこの家で生まれました。
先祖は安芸国虎の家臣であったようで、後に長宗我部氏に仕え、山内家が土佐に入国してからは郷士として農業を営んでいました。
岩崎弥太郎の生家は、弥太郎の曽祖父弥次右衛門が郷士の株を売って古家を持ってきて建てたもので当時の中農の標準的な構えです。
郷士の株を売って居ついた浪人を地下浪人といいます。岩崎弥太郎は吉田東洋に信頼され、地下浪人から抜擢され土佐藩の下横目の役についていましたが、後に坂本龍馬や後藤象二郎の知遇を得て、明治後に三菱商会を大坂の土佐藩蔵屋敷に設立しました。


野良時計は、安芸市のシンボルのアンティークの時計台です。まだ家ごとに時計がなかった時代に、この土地の地主であった畠中源馬は時計に興味を持ち、アメリカから八角形の掛時計をとりよせ、それを幾度も分解しては組み立てして時計の仕組みを覚え、自作の大時計を造ることを思いたちました。そして明治20(1887)年頃、分銅も歯車もすべて手作りで一人でつくりあげました。


土居廓中は安芸城周辺に現在も残る武家屋敷の町並みです。
土佐藩主山内家の重臣、五藤家の家臣が住んでいた武家屋敷です。土用竹やウバメガシの生垣を巡らせた藩政時代の建物が今も残ります。藩政時代は、身分制度が厳しく、農民や商人はこの一廓には簡単に入ってこられず、用事がある場合は、頬被りや鉢巻きは取って身だしなみを整えて入ってきたそうです。今も秩序がある町の美しさを感じることができます。


武家屋敷野村家は、土居廓中の武家屋敷の中で唯一内部を公開している家です。
野村家は与力、騎馬として五藤家に仕えた上級の家臣で、地元の財政、家臣の人事等の惣役(元締)を行っていたといわれています。
現在も個人管理のお宅のようですが、自由に出入りできます。昔の武家の屋敷の構造などをじっくり見学することができます。


安芸城は、鎌倉時代の延慶元(1308)年、安芸親氏によって築かれたといわれています。安芸氏はこの地方の有力な豪族の一人で、戦国時代には土佐七雄の一人といわれました。
城は安芸平野のほぼ中央の小高い丘にあり、本丸からは平野が一望できます。東に安芸川、北に城ヶ淵、西に安芸川支流の矢の川、南に溝辺の堀があって、これらを外堀とした天然の要塞でした。また、内堀を掘った土で土塁を築き城壁とし、南の大手門には桝形の広場も見られます。
戦国時代の末、永禄12(1569)年、長宗我部元親に攻められ、激戦の末落城、安芸氏は滅びました。その後30年間長宗我部氏が支配しましたが、慶長6(1601)年、山内一豊の土佐入国と共に山内氏の重臣、五藤氏が安芸を治めることになり、ここに居館を構えました。城は江戸時代の初期にはすでに取り壊されていたようですが、五藤氏によって周辺が整備され、今に至っています。
現在も土塁や堀、石垣などがかつての古城の面影を伝えています。


安芸市立歴史民俗資料館は、安芸城跡にある歴史資料館です。江戸時代にこの地を治めた土佐藩家老の五藤家の資料が充実しています。
なかでも必見は五藤家家宝の鏃とわらじです。天正元(1573)年、織田信長の越前朝倉攻めに従軍した山内一豊は、近江と越前の国境刀根坂で、朝倉軍きっての強弓の士、三段崎勘右衛門と死闘を繰り広げます。三段崎が放った矢は、一豊の左のまなじりから右の奥歯までを貫きました。一豊はこれにひるむことなく、見事勘右衛門を討ち取りました。
その時、五藤家の先祖の五藤吉兵衛為浄が駆けつけ、一豊の顔を貫く矢を口にくわえて抜こうとしましたが、一豊が「顔を踏みつけて抜け」と命じたので、為浄は草履を脱ごうとします。しかし、一豊は、「そのまま踏め」と命令し、為浄は草履のまま顔を踏みつけて矢を抜き取った時の鏃とわらじです。
この他にも安芸でキャンプを行うプロ野球チームの阪神タイガースの資料なども展示していました。


廓中ふるさと館は、土居廓中の武家屋敷街にある食事処です。
定食の他に、デザートのシャーベットなども楽しめます。


内原野公園は、内原野池(弁天池)を中心とした公園です。内原野池は、土佐藩家老であった五藤氏が新田開発のために、延宝年間(1673~80)に築いたといわれています。丘陵地三ヘクタールには、つつじ、あやめ、しょうぶなど約一万五千本が植えられて開花期には観光客で賑わいます。
丘陵地の頂上には「延寿亭」は、茅葺きの三十五坪ほどの平屋建てで、殿様の休憩用に建てられました。炊事や宿泊の設備はなく、殿様用の便所があるだけの簡素な造りです。


安芸市の観光の最後に安芸市営球場〔タイガースタウン〕に行きました。昭和40(1965)年度から阪神タイガースがキャンプ地として使用しています。最近では四国独立リーグの試合も開催されているようですが、タイガース色の強い球場です。
メイングラウンドの他、サブグラウンド、安芸ドームといわれる室内練習場があります。2003年の優勝を記念したモニュメントや、キャンプのメモリアルボードがありました。


この次は東へ、香南市、南国市方面へ向かいます。
Posted at 2007/08/23 00:31:01 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2007年08月17日 イイね!

土佐日記(1日目その2・中岡慎太郎のふるさと北川村と二十三士の史跡のある田野町)

次は北川村を目指します。
こちらは、平成9年にも訪れたことがあります。国道55号から国道493号にいったん外れる奈半利川沿いの山間の村です。緑と水の美しいのどかな町です。
北川村の柏木地区は、幕末の志士中岡慎太郎の出身地です。
9時になっていなかったので、資料館がまだ開いていないということで中岡慎太郎ゆかりの史跡めぐりを最初にしてみました。
中岡慎太郎顕彰碑は、中岡慎太郎館の隣接地の高台にあります。
中岡慎太郎の功績を称えるため、昭和2(1927)年12月17日に建立された石碑です。撰文は郷土史家の寺石正路、揮毫は元陸援隊士で宮内大臣などを歴任した田中光顕、題字は安芸市出身の書家の川谷尚亭によるものです。
顕彰碑の後ろには、中岡慎太郎の生涯を刻んだモニュメント、右手には中岡慎太郎が野友村(現在の北川村野友)の漢方医・島村策吾に入門して四書を学ぶために通った「向学の道(鳥ヶ森越)」があります。


近くには中岡慎太郎の生家があります。中岡慎太郎は、天保9(1838)年4月13日、北川郷大庄屋、中岡小伝次とウシの長男として北川郷柏木に誕生しました。
生家の広さは約213㎡あり、家屋は明治13(1880)年に田野町へ移築されましたが、明治40(1907)年の台風で流されてしまいました。
現在の建物は昭和42(1967)年に再建された建物です。復元された生家には「高知県史跡 中岡慎太郎宅跡」の石碑や慎太郎が幼少時に登ったナツメの木の切株などがあります。


松林寺は禅宗の寺院です。中岡慎太郎は4歳の時からここで手習い、読書を学びました。
明治以降、度重なる火災に遭い、現在は山門を残すのみです。境内の墓地には中岡慎太郎の遺髪墓地、両親等家族の墓があります。


中岡慎太郎館は、北川村出身の幕末の志士である中岡慎太郎の生涯と業績の紹介などをおこなっている資料館です。
ここに訪れたのは2回目です。今回は、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都で没してから140年ということで、高知県立歴史民俗資料館、高知県立坂本龍馬記念館と3館合同開催の特別展「坂本龍馬・中岡慎太郎展」が開催されていました。


北川村から今度は国道55号に戻ります。国道493号は以前はかなりの悪路でしたが、帰路は新しいバイパス「北川奈半利道路」を走ってみました。交通量が少ない高規格道路ですが、将来的には阿南市と高知県東部を結ぶのでその時は室戸岬をショートカットする高知県東部の動脈になると予想されています。

田野町に入ると、国道55沿いに野根山二十三士として知られている二十三士の墓が、福田寺の境内にあります。
武市瑞山(半平太)を首領とする土佐勤王党は尊王攘夷を唱え、公武合体の藩論を転換し、尊王攘夷に転換すべく建議し、成功するかに見えましたが、文久3(1863)年8月の政変後、前藩主山内容堂の帰国で弾圧の嵐が吹き、武市瑞山をはじめ14人が投獄され、壊滅的な打撃を受けました。
清岡道之助ら安芸郡の同士23人だけが野根山に屯集、岩佐の関所から藩庁へ「藩政改革、攘夷、武市瑞山等の釈放」の嘆願書を差し出しましたが、藩より反乱を企てる不逞の徒として兵を差し向けられて、敗走し阿波の宍喰で武装解除して土佐に送還され、岡地の獄舎で一夜を明かした後、一度の取り調べもなく元治元(1864)年奈半利河原で処刑されました。


この後は、安芸市へ向かいます。
Posted at 2007/08/20 22:50:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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