• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ピズモのブログ一覧

2007年12月30日 イイね!

冬の北信ドライブ(3日目その2・中野市~小布施町~高山村~須坂)

次は中野市です。
高梨氏館跡は、東西約130m、南北約100mの規模で四方に土塁と堀がめぐる北信地方最大の中世の方形館跡です。
別名は中野城、中野小舘、高梨小舘、高梨城などいろいろあるようです。
本館跡は、平安時代末期に始まる頼季流信濃源氏の有力武士団である高梨氏の築造によるものと推測されます。高梨氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて北信地方で勢力を拡大し、室町時代後期までには中野地方を完全に支配下においたとみられ、この勢力拡大の過程の中で、この地に本拠地を構えたものと考えられます。
戦国時代、甲斐武田氏と越後上杉氏の抗争の中、高梨政頼はかねて親交の深かった上杉氏を頼り、越後に一時退去するなどの紆余曲折を経たのち、慶長3(1598)年に上杉氏が会津に移封されると、共に会津へ移りました。それに伴い館も廃館となったと考えられます。
館は、東側の鴨ヶ嶽城を詰の城としていました。
昭和61(1986)年から平成4(1992)年にかけて実施された公園整備のための発掘調査では、門跡一棟、礎石建物跡五棟、掘立柱建物七棟、庭園跡等が確認されました。
現在は、高梨小館城跡公園として整備されています。
平成19(2007)年、国の史跡に指定されました。


中野陣屋は、幕府領中野陣屋があった場所です。
陣屋がここに置かれたのは、織田信長死後の上杉陣屋を始めとすると伝えられています。
陣屋が置かれたのが確実になるのは、元和2(1616)年幕府代官陣屋以降になります。
中野陣屋は、慶応4(1868)年3月、天朝御料尾州取締所、同年8月伊奈県中野分局として明治3(1870)年9月からは中野県庁として使用されました。ところが同年12月の中野騒動で焼失し、中野町の嘆願にもかかわらず再建されず、長野へ県庁が移りました。県庁としてはわずか10ヶ月の命でした。今では石垣、陣屋井戸、陣屋稲荷が当時の名残をとどめています。また、陣屋跡に「中野陣屋・県庁記念館」が建っています。


更に南下し、小布施町です。ここは以前にも訪れたことがあります。「栗の和菓子」「美術館」などこじんまりとした町ですが、魅力的な町です。今回は町並みを楽しむ時間的余裕がないので、岩松院を訪れたのみです。
岩松院は文明4(1472)年雁田城主の荻野備後守常倫公の開基で、開山は不琢玄珪禅師です。
本堂は136.5坪。その他庫裡、鐘楼、座禅堂、仁王門があります。本尊仏は宝冠をいただく釈迦牟尼仏で、江戸時代初期(慶長かその直後)の作です。本堂内の天井画には葛飾北斎の八方睨み鳳凰図が描かれ見事なものです。
また、福島正則公の菩提寺としても知られています。安芸広島城主でしたが元和5(1619)年に改易され、信濃高井野藩4万5千石となりました。寛永元(1624)年、64歳でなくなり、岩松院の霊廟に埋葬されました。(写真下)
正則のこの地への左遷状や、文書、所用の品も展示してありました。


高山村には福島正則屋敷跡があります。福島正則屋敷跡はは東西57間半(約104.5m)、南北40間(72.7m)面積7反6畝(約76アール)あり、四方に高土塁を築き塁の外に空濠を廻らしてあったそうです。現在東北隅に高さ約2メートル、長さ約19メートルの土塁が残存しています。
福島正則は元和5(1619)年6月に安芸広島49万石を城地没収となり、上高井郡2万石、越後魚沼郡2万5千石併せて4万5千石の捨扶持を与えられ高井野の地に住居を定めました。
正則の在館年数はわずか数年でしたが、領内の検地を行い、高井野原の用水堤を開き松川治水の築堤西条新田の開拓など民政に尽くしました。
正則は、寛永元(1624)年7月13日64歳で病死しました。正則はかねて本村赤和に海福寺を興して菩提寺としようとしましたが、故あって位牌は領内雁田(小布施町)の岩松院に納められ、廟所も同寺境内に設けられました。
高井寺の西側に標柱が、門前に説明看板が建っています。


最後に須坂市を訪れました。
須坂陣屋は須坂藩堀家の陣屋跡です。
須坂藩は、「名人久太郎」といわれ、織田信長、豊臣秀吉に仕えた堀秀政の家老であった堀直政の家系です。堀直政は元々奥田直政といいましたが、秀政の従兄弟であることから堀姓を与えられました。須坂藩を立藩したのは、直政の四男、堀直重で1万石を領しました。幕末期の藩主・第13代堀直虎は、藩政改革に取り組み洋式軍制を取り入れ、幕府においても若年寄になりましたが、徳川慶喜に意見を聞き入れられず、江戸城中で自刃しました。
陣屋跡には初代直重と、13代直虎を祀る奥田神社が建立されています。須坂藩堀氏は明治維新後、奥田氏に復姓したとのことです。
その他、遺構は、須坂小学校北側に石垣が残っています。


須田城は臥竜山に築かれた山城です。
須田氏は鎌倉時代に、井上城主の井上氏の分家で、井上満実の子為実にはじまります。南北朝の頃、須田氏は南朝に属して功績がありました。
本拠の城は本郷にある大岩城で、蓮生寺の辺りに館を構えていました。従って、須田城は出城的な役割を果たしたと思われます。
須田氏は戦国時代の武田・上杉の争いで城主須田満親は上杉方につきました。慶長3(1598)年、上杉氏の会津への国替えに伴い、須田氏がこの地を離れた時に廃城になったと考えられています。
現在、城跡の臥竜山は臥竜公園の一部になっています。臥竜山には第十三代須坂藩主堀直虎の霊廟などがあります。山の麓は桜の名所としても知られています。


ここで史跡めぐりの旅は終わりです。牧之島城や、別所の塩田城なども時間があれば行きたかったのですが、きりがありません。
信州は佐久や、大町付近はまだ訪れていません。特に佐久は志賀城や、海ノ口城、長窪城、内山城あたり、そして、山梨県の北杜市あたりをセットにして、訪れてみたいと思います。
Posted at 2008/01/15 22:25:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年12月30日 イイね!

冬の北信ドライブ(3日目その1・長野市~飯縄町~信濃町~飯山市~栄村)

いよいよ最終日です。
昨日訪れた葛山城に近い、旭山城〔朝日山城〕を早朝から訪れました。旭山城は、長野市西側にあり、葛山城の南側の旭山に築かれた山城です。
弘治元年(1555)年、第二次川中島の戦いで栗田鶴寿が武田晴信(信玄)に味方し、旭山城に籠もりました。長尾景虎(上杉謙信)は旭山城の機能を減殺するため、葛山城を築きました。その後、今川義元の仲介で両軍は和睦し、和睦の条件として旭山城は破却されました。
しかし、弘治3(1557)年、武田方により葛山城が落城すると、長尾景虎は旭山城を再興し、拠点としました。
城跡には南側の旭山観世音付近から登ります。比較的高所まで車で登れるので、葛山城に比べ登城は楽でした。
主郭部は眺望はさほどではありませんが、見晴台からは長野市街地が一望できます。


次は長野市の北部長沼城です。長沼城は、戦国期から江戸初期にかけての平城です。この地は天然の要害である千曲川、また北国街道(越後街道)に通じる渡河地点として海津城に次ぐ北信濃の最重要拠点でした。
元は太田荘地頭の島津氏の居城でした。
戦国時代、武田晴信(信玄)の北信濃侵攻により弘治3(1557)年、葛山城が落城すると、島津忠直(月下斎)は、城から退却し、長沼城は武田氏のものとなりました。
永禄11(1568)年、馬場信房(信春)により、城は改修されました。
天正10(1582)年、武田氏滅亡後は織田信長の将森長可の城となりましたが、本能寺の変後は上杉景勝の城となり、かつての領主島津忠直が城主となりました。
慶長3(1598)年、上杉景勝が会津に移封されると、島津忠直は陸奥の長沼城(須賀川市・旧長沼町)へ移りました。
元和元(1615)年、佐久間勝元が長沼藩1万8千石の城主となりました。長沼藩は元禄元(1688)年、4代目藩主佐久間勝親のときに除封されて、天領となったため廃城となりました。
城址は洪水のために流出したため、遺構などは残っていません。
千曲川の堤防道路沿い、貞心寺に盛り土があるところに石碑があります。そこは天王宮が祀られたところで、城本丸はここより北200mのところにあったとのことです。


次は長野市と上水内郡飯綱町(旧牟礼村)の境界付近にある山城、髻山城です。
城の東側には、近世の北国街道と中世の主要道路(神代坂)が通っている越後と信濃を結ぶ交通の要所です。戦国時代数次の川中島合戦において葛山,大峰,旭山,横山,飯山の諸城と共に上杉方の重要な城でした。
弘治3(1557)年の第2次川中島の戦いでは、麓の上野原で武田軍と上杉軍が戦いました。また永禄4(1561)年第四次の川中島大決戦後は北信濃が武田軍のものとなったため、武田信玄により修築整備されました。
平成19(2007)年の大河ドラマ「風林火山」では、川中島の決戦後、善光寺の本陣(横山城?)に戻った上杉政虎(謙信)が、「髻山で首実験を行う」という台詞がありました。
永禄7(1564)年、直江実綱 は飯山城に入った謙信に対し、「敵もとどり山へ小旗45本にて、毎日武具致し候」と書状を送っています。
城跡は、石垣や堀切なども残っていて、景色も良い山城です。


北国街道を北上し、野尻湖近くの信濃町、割ヶ嶽城を訪れました。
割ヶ嶽城は、柴津の城山に築かれた城です。標高767.8m、麓の集落から120mほど登る険しい山です。斑尾火山の寄生火山で輝石安山岩でできた山です。
北には野尻湖から信越国境を望み、東に豊田から飯山、西に柏原、南には三水、牟礼へとつながる交通の要所にあたります。頂上には本丸などがあった7つの曲輪と堀があります。城へ登る大手道もかなり残されていて、信濃町では最も良く残された城跡です。もとは柴津為信という在地領主の城であったといわれていますが、戦国時代には信越の前線にあって重要な軍事拠点となっていたようです。
永禄4(1561)年5月には、上杉政虎(謙信)の関東出兵の時に、武田信玄は、多田淡路守満頼、浦野民部左衛門遠隅、原美濃守虎胤(鬼美濃)に命じ、割ヶ嶽城を攻め落とされました。
この城の攻略が激戦となった9月の第四次川中島の戦いの原因となりました。原虎胤は、ここの城の攻略戦で負傷し、川中島の戦いには参加できませんでした。
城跡は南側の民家の庭先から登ります。城址は堀切などが残っています。


次は飯山市です。
綱切橋〔安田の渡し・綱切りの渡し〕を訪れました。
永禄4(1561)年、第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)の後、上杉政虎(謙信)は、和田喜兵衛を従え、落武者狩りの目を避けながら、千曲川の安田の渡しを小菅権現(現在の飯山市、瑞穂小菅神社)の導きで安田の渡しを渡ることができました。和田喜兵衛は野武士の追っ手を行く手を断つため、渡し場の水面に張ってあった大綱を切り落とし、船の往来ができないようにしました。
現在、渡しのあった上流には綱切橋が掛けられています。


飯山城は泉氏の居城でしたが、後に上杉謙信の属城となり、永禄7(1564)年頃武田信玄の侵攻に備えて築かれました。
天正11(1583)年上杉景勝が岩井信能に命じ、修築を行いました。
慶長3(1598)年上杉氏の会津移封後は、関、皆川、堀、佐久間、松平、永井、青山氏が城主となりましたが、享保2(1717)年からは、本多助芳(康重の子孫)が移封され明治維新まで本多氏が城主でした。
城跡は本丸は葵神社、二の丸は城址公園となっています。また、城門が復元されています。飯山市柳原南条の丸山家に残されていた長屋門で、飯山城関係の門の可能性があるとのことで、平成5(1993)年の丸山家の旧住居の解体に伴い、移築復元したものです。平成4(1992)年の南中門などの遺構が発掘され、規模構造を南中門にあわせて復元したとのことです。


英岩寺は曹洞宗の寺院で長峰山英岩寺といいます。永仁年間天台宗の修験道場として創立されたと伝えられています。
当時は江岸寺といいました。戦国時代に衰微しましたが、文禄4(1595)年高源七世通庵寿貫和尚によって栄巌寺として中興され、安永年中に英岩寺と改名して現在に至っています。
現在の本堂は安永3(1774)年に建立されたものです。
境内には鬼小島弥太郎の墓があります。戦国時代の上杉謙信の家臣で小島弥太郎といいますが、その武勇のため「鬼小島」と称せられました。
永禄4(1561)年9月10日の第四次の川中島大激戦は、前半は上杉軍が有利に戦を進め、後半は武田軍が優勢の内に、謙信は主従数騎逃れて安田の渡しにさしかかりました。伝承によれば、この時謙信に従うもの小島弥太郎ただ一騎であったといいます。
千曲川を渡った謙信主従は追っ手を遮るために渡綱を切って落とし、市ノ口から小佐原にさしかかりましたが、弥太郎は前日来深手に耐えかね、主君の無事を祈りながら割腹して果てました。
鬼小島弥太郎最後の地というので、後人この所を鬼が峯と呼ぶようになったと伝えられています。
この鬼小島弥太郎の墓は鬼が峯と数百メートル隔てる英岩寺墓地に文禄4(1595)年、弥太郎ゆかりの者によって建てられたものと推定されています。弥太郎は伝説が多い人物で、鬼小島弥太郎戦死の地というのが長岡市(旧栃尾市)の大野の天神山にもあるそうです。


飯山市から栄村に向けて北上すると、上野の館〔大蔵崎館〕がありました。上野の中世館跡は大倉崎館跡とも呼ばれる中世(鎌倉~室町時代)の豪族が居住した館跡です。館主については竹内源内という言い伝えがありますが、今のところははっきりしたことは分かっていません。千曲川に接した要害の地に築城し、中世の争乱期における地方豪族の居城としては典型的な様相を示しています。館は東を千曲川の断崖に接し、北・西・南を幅10m、深さ5m以上の壮大な堀で囲んでいます。堀の長さは北辺が34m、西辺が104m、南辺が42mあります。
昭和63(1988)年、国道117号の常磐大橋が館の中央に建設されることから発掘調査が行われました。その結果、中国から輸入された白磁、青磁、能登半島で焼かれた珠州焼、越前焼、美濃・瀬戸焼等の焼き物の他、中国銭、鎧の一部の小札、釘などの鉄製品、茶臼、硯など貴重な品が多く発見されました。
これらのことから14~15世紀頃、当地には有力な豪族(武将)が居城していた想像されます。なお、現在は国道117号により南北に二つに分断されていますが、土塁や堀などは現在でもよく残っており、当時の面影を今に伝えています。
この城の断崖は、越後から平丸峠などの関田山脈を越えて運ばれてくる塩屋魚などの海産物を積み込んだ拠点でもありました。城崖に残る棚のように続く通路跡は無風の碑に人力で通船(帆船)を引き揚げた往時を偲ばせる貴重な遺構です。
国道117号を走っていて偶然発見しました。常盤大橋西詰に大きな説明看板があります。


栄村の森宮野原駅です。森宮野原駅は長野県下水内郡(しもみのちぐん)栄村にあるJR飯山線の駅です。
昭和20(1945)年、2月12日に7.85mの積雪があり、JR日本最高積雪地点を示す標柱が立っています。
さすがに栄村付近では雪を見かけますが、12月末はまだ豪雪と言うには至らない感じです。


信越国境の栄村に来た目的の、内池館〔中野氏、市河氏館〕です。市河氏は信越国境付近のこの地を治めていた豪族です。
市河氏は甲斐市川郷の出身で鎌倉時代に中野氏から志久見郷を手に入れてこの地を治めました。戦国時代には当主市川藤若(市河房幸)は、武田氏に仕えました。
市河氏は、武田氏滅亡後は上杉氏に仕え、会津、米沢へと移住しました。そして、明治維新後は北海道へ移住しました。昭和44(1969)年、「市河文書」の中にに当時の市河藤若を「山本菅助」が使者に訪れ、「くわしくは山本管助が口上で申し上げる」という意味のことが記されている文書が発見され、実在が疑われていた山本勘助の存在が証明されました。
平成19(2007)年の大河ドラマ風林火山第32回「越後潜入」で「市河氏館跡碑」が紹介されていたので興味を持ち、訪れました。
場所がわかりにくいですが、志久見地区には、「内池館」と書かれている小さな木の標識が建てられていました。集落の西側の小高い所へ行くと、人家はなく、辺り一面農地が広がっているところに石碑が建っています。


栄村の秋山郷や、越後国も興味がありますが、今回は国境をこえることはありません。このまま、中野市へ戻ることにします。
Posted at 2008/01/13 18:01:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年12月29日 イイね!

冬の北信ドライブ(2日目その2・善光寺周辺)

次は善光寺を目指します。
その前に栗田城を訪れました。栗田城の跡は、現在水内総社日吉大神社になっています。
栗田氏は、村上氏の一族で、平安時代からこの地を本拠としていました。戸隠、善光寺の別当として勢威を奮うようになりました。
栗田城は栗田氏が本拠としていた城でした。宗家の村上氏が戦国時代武田氏に追われると、粟田寛安(栄寿)は武田氏に従いました。
弘治元(1555)年の第二次川中島の戦いで、甲越両軍が犀川で対陣した際、粟田寛安は、旭山城に籠城し、上杉軍を苦しめました。
この戦いは、今川義元の仲介で和睦しましたが、旭山城は和睦の条件として破却されました。
また、粟田寛安は、この戦いの後、善光寺本尊を奉じて甲斐善光寺に移ったため、栗田城も破却されました。
城跡に、元和元(1615)年、栗田に住む人々の氏神(栗田権現)として戸隠の神神(配神三体)を祀っていましたが、明治41(1908)年に岡田の水内総社日吉大神社(日吉山王)と、別に吉原組(元戸隠領)で奉祀しておりました日之御子神(天鈿女命を祀る)をこの地に遷し、栗田大元神社(栗田権現)と三社を合祀し名称を水内総社日吉大神社として今日に至っています。
城の遺構としては築堤があり、境内の中央部分が高台になっていて神社の本殿があります。


善光寺の東側には横山城があります。善光寺のすぐ東側にあるということで、善光寺と共に存続したと考えられています。
南北朝時代以来、川中島合戦にいたるまで、軍事拠点として重要視された城でした。
 弘治元(1555)年、村上義清・高梨政頼らに援助を求められた長尾景虎(上杉謙信)が川中島に出陣し、川中島の戦いは本格化しました。武田方は大塚館に布陣し、旭山城に籠る栗田氏を支援しました。
これに対し、長尾方は横山城に布陣。武田方の旭山城に対して葛山城を築き応戦したとされています。
長尾方が川中島に出陣する際は、横山城を軍事拠点として武田軍との戦いに臨んだという。
現在、「健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ)」が建立されている場所が主郭であり、神社背後にわずかに土塁が残ります。(写真上)
南北方向は城山公民館南側から堀切沢まで約470mと南北に細長い城域が想定されますが、主郭以外は宅地や道路で破壊され、不明な部分が多いそうです。
城山公民館付近に説明看板があります。


善光寺は山号を定額山善光寺といい、無宗派の仏教寺院です。
本尊の一光三尊阿弥陀如来は、仏教伝来と共に伝わったとされ、排仏派の物部氏により難波の堀江に打ち捨てられましたが、信濃国司の従者として都に上った本田善光により、麻績の里(現在の飯田市、元善光寺)に祀られ、642年に現在地に遷座しました。
戦国時代に川中島が近くにあったため、武田信玄と上杉謙信の戦いの舞台になり、寺は荒廃しました。本尊は武田信玄により甲府(甲斐善光寺)に移った後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などにより転々としましたが、慶長3(1598)年に信濃に戻りました。
平成19(2007)年、山門の修理で、大正から昭和にかけての修復工事で檜皮葺になっていた山門が、創建当初は栩葺だったことが解体中に棟札などでわかり、創建当初の栩葺の姿に改められました。


善光寺の北側の霊山寺(れいせんじ)は元々飯縄山北側に峰続きの上水内郡信濃町霊仙寺山麓にあった大寺でしたが、戦国時代戦火に遭い長野市長沼の宝珠院に逃れ、霊山寺としました。その後重なる水害などにより寺は衰退してしまいました。
大正時代、ご本尊を現在の場所に復興しました。復興当時は真言宗高野山派でしたが、その後智山派に属していました。
境内には川中島合戦勇士の首塚があります。
霊山寺中興の祖義吽和尚の代にこの地を整地したところ、首だけの白骨の化石がたくさん発掘され鑑定した結果、この大峯山一帯は川中島合戦の時、上杉方陣地であり、合戦で討ち取った武田方の武将の首を検分し、論功定めを行なった処であることがわかり、戦士等の勇魂を慰める為にここに塚を築いて白骨を納めたものです。


霊山寺の裏山の巨石が上杉謙信物見の岩です。霊山寺から大峰城に続くハイキングコースの途中にあり、上杉謙信が川中島の戦いの際、武田勢の動きを偵察したといわれ、物見岩といわれています。
その名に違わず、善光寺平の眺望は素晴らしいものがあります。


ハイキングコースはここで引き返し、大峰城には車で登りました。しかし、冬場は模擬天守の博物館が閉館と言うことで、車では途中までしか行くことはできず、山上を少しばかり歩く羽目になりました。大峰城は武田方の旭山城の向城として上杉方が築いた山城で、葛山城主落合備中守の家臣大峰蔵人の城といわれ、築城時期は明確ではありませんが、天文年間初期と思われます。
天文22(1553)年から5回にわたる川中島合戦で、大峰城を中心とする山城は甲越双方にとって最前線の突破口として、また守備陣地として重要であったため幾度か争奪戦が行われ、善光寺平一帯は武田方の支配下となり、大峰城も武田方のものとなりました。
今の大峰城は元の本丸に昭和37(1962)年に築かれ、「大峰城チョウと自然の博物館」となっています。チョウや昆虫の標本と築城時の出土品が展示されているそうです。
訪れたのが12月ですので、中には入ることはできませんでしたが、模擬天守よりも堀切を見ることができて良かったです。善光寺平の眺望が良いお城です。


次は川中島合戦で攻防が繰り広げられた葛山城に行きました。もう日没近くということで慌てて登りました。城跡には南側中腹の静松寺から登ります。訪れたのは、夕方だったので、主郭部付近に行くと暗くなりかけていました。
長野市街や、旭山城方面の眺望が良い城です。葛山城は、芋井地区の地侍、葛山衆の域で、城主は落合備中守治吉が城主でした。落合氏は、村上義清に従い越後の長尾景虎(上杉謙信)に属しており、天文 24(1555)年、川中島の戦の2回目の対陣の時、長尾景虎が、旭山城に対する付城として整備、拡大したとされています。
武田晴信(信玄)は、弘治3(1557)年2月、部下の馬場民部信房(馬場美濃守信春)に命じ1万7千余人の大軍でこの城を攻撃しました。城は高い崖の上にあり、堅固な防塁を備えており、が、水が不自由であったため、城兵は敵の目にふれる崖から米を落として水は充分にあるようみせかけたという、米山城伝説が伝えられています。
しかし、武田方は大軍で、水を断ち火攻めを起こったため、遂に落合備中守や、援将の吉窪城主、小田切駿河守幸長は討死し、城は落城しました。今も落城の時の焼米などが出土するそうです。


2日目はここまでです。(3日目に続く)
Posted at 2008/01/10 23:37:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年12月29日 イイね!

冬の北信ドライブ(2日目その1・前日に続き川中島古戦場巡りなど)

前日に引き続き、川中島の戦いに関連する史跡などを巡ります。
横田城は、平安時代末ごろの築城で、養和元(1181)年木曽義仲が越後の城氏の軍と戦った時に利用し、また北陸を攻め上がるについても、この城を根拠地の一つにしました。
室町時代の応永7(1400)年には、信濃守護小笠原長秀が、無から三視や大文字一揆らと戦った大塔合戦の時も、長秀はこの城にこもっています。
川中島の戦いの時は武田方の原大隅守虎吉が籠もったと伝えられています。原大隅守虎吉は、原隼人佑昌胤と同族で、川中島の武田信玄、上杉謙信の一騎打ちの際、謙信の馬を槍で突いたといわれています。
外堀は南北約180m、東西約230mの短形をなし、その内部がいわゆる環濠集落になっています。内城の部分は約55m四方で殿屋敷と言われ、その西北隅に南北10m、東西12m、高さ3mの土塁が残り、古殿稲荷社が祀られています。稲荷社の北には近年まで6m以上の掘があった。この殿屋敷の部分が本郭です。
外堀内の西半分を宮内(くねうち・郭内の意)といい、東半分を古町といいます。
大和地方の環濠集落によく似た屋敷割が見られます。
土塁の南に馬出しの地名があり、東には土居沢の地名があります。
稲荷社のところに説明看板があります。


地蔵寺です。原大隅守の墓がある寺院で、守将として任に就いた横田城近くにあります。
原大隅守虎吉は、「甲陽軍艦」では、永禄4(1561)年9月10日の第四回川中島の戦いで、八幡原の信玄本陣に単騎乗り込んだ上杉謙信に向けて槍を繰り出して信玄の窮地を救った人物として書かれています。
同書によると、原大隅守は横目衆の一人で、中間頭として描かれ、一人で三十人宛ての頼子を持ち、大手の番、甲州口方面の奉行を務めたとされます。
「原大偶守」とかかれた位牌も地蔵寺にあるそうです。


勘助宮は、現在石碑のある南長野運動公園の地より北東約100メートルの位置にありました。勘助宮はもともとは北小森集落の氏神で、建御名方神を祭る諏訪社であした。遠い戦国の世、上杉・武田両軍の数度にわたる戦いがあり中でも永禄4(1561)年の第三次川中島の戦いで武田の軍師山本勘助の献策した「きつつき戦法」が失敗して武田軍は苦戦に陥り、責任を感じた勘助は奮戦して諏訪社のあった付近で討死したと言われています。
その後、土地の者はこの諏訪社を勘助宮と呼ぶようになったそうです。欅の老木、鎧掛けの松、鞍掛けの松などと呼ばれた老樹がうっそうと繁り、明治末期に神社併合で今の東福寺神社に合祀されるまで北小森集落で祀ってきました。
現在、山本勘助が戦死した地付近は長野オリンピックスタジアムを含む、南長野運動公園になっています。現在は南長野運動公園の南西側駐車場の西側に石碑が建っているのみです。
碑は平成7(1995)年南長野運動公園建設のため、勘助宮跡に残った碑をここに移設したものです。
碑文は文学博士南條文雄先生が、書は元帥寺内正毅が揮毫したものです。


耕心庵は、永禄4(1561)年の第四次川中島の合戦で最初に武田信玄が本陣を構えた茶臼山南東側斜面にあります。第四次川中島の合戦が終わった後、この地方は武田方に属しました。
合戦が終わった10月に武田信玄はこの地に立ち寄り、川中島合戦場を見下ろして、この處はまさに景勝地であると感嘆し、ここに禅寺を建立し、法性山甲信庵と名づくべしと高坂弾正に命じました。寺が完成し、青面金剛を本尊としてまつり、四十六貫文の土地を興えて、玄峰院二世宗益を住職にむかえました。
本堂には信玄寄進と伝えられる青面金剛像があるそうです。また、境内には「信玄桜」という大きな桜の木があります。


茶臼山武田信玄本陣跡です。武田信玄と上杉謙信による川中島の合戦の中でも最激戦となった、永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いで、信玄が甲斐から出陣して最初に本陣を置いたのがここ茶臼山です。
8月中旬、上杉謙信は1万3千の兵を引き連れ春日山城を出発し、海津城(松代城)の南を押し通り妻女山へ陣を置きました。上杉軍出陣の知らせを受けた信玄は、今こそが上杉謙信を倒す絶好の機会だと、8月18日、1万の兵と共に躑躅ヶ崎の館を出発し、途中南信濃、東信濃の兵を合流させ1万8千となって川中島へ来ましたが、すぐには海津城へ入らずにここ茶臼山へ陣を置きました。ここでしばらく妻女山にいる上杉謙信の動きをうかがっていましたが、謙信が動かないのを見た信玄は海津城へ入って兵を2万とし、9月10日のあの両雄一騎討ちで有名な川中島の激突となりました。
本陣跡は信里小学校近くの頂上付近に石碑と、説明看板、旗塚が残っています。


雨宮の渡しは、往時北国街道の要衝にあって、千曲川渡船場として川中島平の死命を制するほどの重要な拠点でもあり、戦術戦況を左右する場でした。
史上名高い川中島の戦いは、天文22(1553)年から永禄7(1564)年までの間に、戦いは5回ありましたが、その最大の激戦の第四次の永禄4 (1561)年戦いで、9月9日夜半、妻女山に本陣を置いた上杉政虎(謙信) は敵武田信玄の策略を事前に察知し、人馬ともに声なく鞭声粛々とこの雨宮渡を渡り川中島平に兵を展開し、主力同士の戦いを行いました。両雄一騎打ちで知られる八幡原の戦いです。
幕末の儒学者頼山陽が詠んだ「川中島」で雨宮渡は有名になりました。
鞭聲肅肅夜過河 (鞭聲肅肅夜河を過る)
曉見千兵擁大牙 (曉に見る千兵の大牙を擁するを)
遺恨十年磨一劍 (遺恨なり十年一劍を磨き)
流星光底逸長蛇 (流星光底に長蛇を逸す)

当時の要衝雨宮渡も江戸時代の河川改修で千曲川の流れも約800メートル北に移り、往事の面影はありません。
現在は公園として整備され、謙信奇襲の川中島合戦を詠んだ頼山陽の直筆による碑を建立し、渡河地点を保存しました。


会津比売神社は、信濃国造・建五百建命の妃で、諏訪大神の後裔といわれる会津比売命を主祭神とする妻女山の麓にある神社です。
永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いで妻女山に本陣を構えた上杉政虎(謙信)が必勝祈願をしましたが、境内にその際に乗馬の鞍を掛けたという松がありました。しかし、松は枯れてしまい、昭和57(1982)年に植えられた後継の松があります。松の下には、上杉謙信槍先の清水と呼ばれる湧き水があります。


上杉謙信槍尻之泉は、第4次川中島の戦いで上杉謙信が妻女山に本陣をかまえたとき、槍の尻で地面を突いたところ、水が湧き、泉ができたといわれているそうです。
妻女山へ登る林道の一つ目のヘアピンカーブ、上信越自動車道の薬師山トンネル入口付近にあります。


妻女山は川中島の戦いの中でも4回目の永禄4(1561)年に上杉政虎(謙信)が、本陣を構えたことで有名です。
この合戦は、武田信玄と政虎が一挙に勝敗を決すべく、両軍合わせて3万3千もの軍勢が激突した凄まじい戦いでした。
上杉軍は8月16日に海津城の向かい妻女山に1万3千の陣を置き、武田軍は茶臼山から8月29日に海津城に入り兵力を2万とした。武田軍は山本勘助の案により軍を二隊に分け、一隊が夜陰にまぎれて妻女山に進み奇襲攻撃をかけ、上杉軍が山を下るのを残る一隊が待ち受けて八幡原で撃つ「きつつき戦法」を実行したが、上杉軍はそれを見破って、9月9日の夜ひそかに山を下って雨宮から千曲川を渡り、9月10日の八幡原の激戦となりました。
現在、妻女山上は松代藩が戊辰戦争による犠牲者を祀った神社が建立されています。このあたりの平坦地を陣場平といい、一段低くなっている所を千人窪といい、政虎が武田軍の攻撃に備えて千人の将兵を潜ましていた場所といいます。
また、展望台には「毘」「龍」の旗が掲げられ、川中島が一望できます。


清野氏居館〔古峰神社〕です。清野氏は村上氏の一族で、全盛期は西条、清野、岩野、森、倉科など9ヶ村の領主でした。居館の南側の鞍骨城を詰めの城としていたものと考えられています。
松代城(海津城)にも清野氏の居館があったそうです。
天文22(1553)年、武田晴信に敗れた村上義清と共に清野清重も長尾景虎(上杉謙信)を頼りました。信州先方衆として川中島にも出陣したそうです。
その後、清野氏は上杉氏と共に会津に移住しました。
江戸時代、火災など災害に見舞われたこの地区の住民が、旧領主清野氏を蔑ろにするから災害が起こると言うことで清野氏の館跡であった古峰神社に、弘化3 (1846)年、松代藩家老の鎌原重賢(鎌原桐山)の撰文で「清野氏遺愛之碑」を建立しました。鎌原重賢は、山本勘助の墓を柴の阿弥陀堂に建立したことでも知られています。


高源寺跡・真田信之供養塔です。清野氏館(古峰神社)のすぐ側に「真田信之供養塔」と書かれた案内板を見つけて、訪れました。観音堂があり、左手に供養塔と説明の石碑がありました。
ここに明治初年まであった清涼山高源寺の境内上方山腹にあった供養塔を平成9(1997)年ここに移し旧態に復したものです。
高源寺は承応2(1653)年松代初代藩主真田信之の二女見樹院が、この地にあった西迎寺(西光寺)を再興新築して高源寺と改めました。
見樹院は甥の大学(2代藩主真田信政3男)の菩提を弔うために建立したもので、その法名を寺の名としたものです。
見樹院は、寛文13(1673)年79歳で没し、母大蓮院(小松姫)の菩提寺である松代町の大英寺に葬られました。
写真左が大鋒院(真田信之)供養塔の笠塔婆で、万治元(1658)年建立のものです。
右の宝篋印塔は、高源院(真田大学)二百回忌供養塔で天保15(1844)年建立のものです。


信州柴阿弥陀堂跡・山本勘助〔道鬼〕の墓です。信州柴阿弥陀堂は、親鸞聖人(見真大師)真筆の「十字名号」を本尊として、文明年間(1469年~1486年)に吉池彦四郎重行(法名行西)によってこの地に開基されました。
永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いの後、武田信玄は武運長久を祈念していた当堂に陣小屋を寄進・改築し、冑中の守護仏「善光寺如来御分身仏」を奉安して両軍の戦死者を祀りました。それを聞いた上杉謙信は家臣を遣わして礼拝しました。当堂は歴代藩主に崇拝庇護され、安永8(1779)年には松代藩の援助により改築されました。全国各地から多くの人々が参詣に訪れ、地域の人々から「お柴様」と親しまれていました。
その後、昭和初期の千曲川築堤により移転を余儀なくされ、現在はこれより東方約300メートル、国道403号線沿いに移築されています。
かつての柴阿弥陀堂の境内にあったのが、山本勘助(道鬼)墓です。永禄4(1561)年9月10日の激戦において、信玄に勧めた「きつつきの戦法」を謙信に見破られ、武田軍は一時苦戦に陥り、勘助は責任を感じ奮戦の後、討死しました。勘助の墓は初め、この南、陣ヶ瀬の東、勘助塚にあったが、千曲川の流れにより荒廃していく姿を憂い、元文4(1739)年松代藩家老鎌原重栄・原正盛が、信玄ゆかりの信州柴阿弥陀堂に遺骨とともに移し、墓碑を建立しました。文化6(1809)年には孫の鎌原重賢が、末永く墓を守るために更に石積みし、今の姿となりました。
大河ドラマの主人公だけに、ボランティアの方に丁寧に説明していただきました。
墓碑に刻まれている漢文の読み下し文が説明されていましたので、転記します。
(北面)
山本道鬼入道は三州牛久保の産也、壮年
武術を為し霜辛雪苦幾十年、既に四十四歳にして
武田玄君に仕う、君之を奇とし称えて軍師と為し且つ道鬼の号を賜ふ蓋し其の公の
機鋒日月の上に出て、無辺の心量天地の外を包む、
故に兵を用うれば権柄手にあり抑揚褒貶与奪殺活自在たり
時に臨んで天下計る能はず、就中戸石の合戦に摩利支天を称するを
見るもの天下皆人に知らる、焉んぞ痩くさん哉、然る後此の地、甲越一戦の
(東面)
時白刃交わり両軍蹙(ちかず)く玄君危急の秋能く
危亡を顧みず単刀直入声江河を折河勢雷電を崩す是の故に越
軍丕に敗る、然れども君の為忠死せり、実に永禄四年辛酉秋
九月十日也、古墓今陣ヶ瀬東高畑中に在りて半ば有る無しなり
古詩に曰く古墓犁れて田と作る誠なるかな、是の言誰か見るに忍びんや、
爰に原正盛英士曾て武田軍の軍術を探り淵源に深徹す
其の徒鎌原帯刀重孝英士深く道鬼の武功に感じ
(南面)
新に石表を促さんと雖も不幸に短命にして卒す、其の孝子重栄英重
慈父の志を続け世財を抛って、石碑を造立し、地を柴村に移し
永く高名を仰ぐ、其の厚志至れり尽くせり、戯原、鎌原左祖に
依らずんば能く公の古墓の再改を観んや、三僧不才を愧じず之が為に
碑文並びに銘を賦して、後世に貽して曰く
嗚呼道鬼 武功忠義 古(いにしえ)又之を憶う
今複(また)是を想う

元文四年巳未年 朧月二日
寒松山僧補※叟誌(※は山に喬)


広瀬の渡しは、武田信玄が甲斐から海津城に入るとき、海津城を出て八幡原に陣を構える時に渡った千曲川の渡しです。
江戸時代には全国から参詣に来た人々が信州柴阿弥陀堂を経て善光寺へ至るときに渡りました。
信州柴阿弥陀堂・山本勘助〔道鬼〕の墓から千曲川へ向かって歩くと説明看板が建っています。


大鋒寺は、松代初代藩主真田信之の隠居所に建てられた寺院です。
信之は明暦2(1656)年隠居し、翌3年7月、柴の隠居所に移りました。
万治元(1658)年10月17日、93歳の天寿を全うして没し、遺命により隠居所を寺とし、信之の院号から真田林大鋒寺と号しました。
信之の館をそのまま寺にしたとも、館の材を用いて改築したのともいわれています。
2代信政は父より先に没したので、3代幸道の時、伽藍が建てられました。霊屋は書院の場所に建てられ、信之の信仰していた阿弥陀三尊を本尊としました。
大鋒寺は、真田信之の霊屋の他に、墓もあります。墓碑は高さ3.3mの宝篋印塔で、塔身の正面に、「大鋒寺殿徹巌一当大居士」、その下の基礎石正面に三行書きで、中央に「骨頭片片即法身」、右に「万治元戌年」左に「十月十七日烏」と陰刻されています。信之は、隠居館のこの地で荼毘に付し、その灰塚の地に墓碑が建てられました。


霞城は、大室城ともいい、大室古墳群の中にあります。
小笠原氏の一族で、このあたりの豪族大室氏の居城です。
大室氏は村上氏に従っていましたが、村上義清が越後に逃れると、武田氏に臣従しました。武田氏滅亡後は、上杉氏の配下となりました。
霞城は上杉氏が会津に移封された後、大室氏も会津に移ったため、城も廃城になりました。
城は登城口が少しわかりにくいですが北東側から登り口があります。
登山道もすこしわかりにくいですが、主郭部は見事に石垣が残っています。


大堀館〔大塚館・町田氏屋敷〕です。弘治元(1555)年7月19日、第二次川中島の戦いで、お互いに小競り合いを続けるも決定的な戦いは行われることはなく、約200日に及ぶ対陣の結果、今川義元の仲介で和議を結び、両軍は閏10月に撤退しました。この戦いで武田晴信(信玄)の本陣となったのが大堀館とされています。大堀館は別名「町田氏屋敷跡」ともいわれ、地元の土豪、町田氏の居館跡であったといわれています。町田兵庫正之は武田氏の割ヶ嶽城攻略の時、城将山崎七郎を討ち取りました。正之、子息の光直と二代にわたり信玄、勝頼に仕え、武田氏滅亡後はこの地に帰農したそうです。
更北中学校の南側に石碑と説明看板があります。


安養寺は、永禄10(1567)年に浄土宗総本山・増上寺10世感誉存貞が開山となって綱島に創建された寺院です。このあたりを本拠とした綱島氏の開基といわれています。
天明7(1787)年の洪水によって流失し、現在の大塚の地に移されました。
大堀館、現在の更北中学校の南側にあります。武田信玄奉納と伝えられる守護仏、不動明王が安置されているそうです。


長徳寺はこの附近の豪族町田氏の菩提寺です。長徳寺の南側の大堀館が居館でした。
町田兵庫正之は武田氏の割ヶ嶽城攻略の時、城将山崎七郎を討ち取りました。正之、子息の光直と二代にわたり信玄、勝頼に仕え、武田氏滅亡後はこの地に帰農したそうです。
本堂の左手の墓所に町田兵庫の墓があるとのことですが、どれかよくわかりませんでした。墓地には町田姓のお墓が多く、今もこの附近には末裔の方が多くお住まいのようです。


諸角豊後守の墓です。諸角(両角、室住、諸住とも)豊後守昌清(虎定)は武田信玄の曽祖父信昌の六男で、武田家の譜代の重臣として信虎、信玄の二代にわたり仕えた旗本五十騎持ちの剛勇な侍大将でした。
また信玄の弟、典厩信繁を幼少時から支えてきた傅役でした。
永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いでは本陣前線右翼を担い八十一歳の高齢で出陣しました。
「啄木鳥戦法」を見破られて武田軍の劣勢に兄信玄の危急を救わんと、副将信繁は上杉軍に切り込み壮烈な討死をしました。諸角豊後守は、信繁の討死の知らせに激怒し、「もはや我が武運の尽きる時、我もお供つかまつらん」と、一途に主君信繁の後を追うように僅かな手勢で敵陣へ突入し奮戦の末壮烈な最期を遂げました。
ここを死に場所とした老将、諸角豊後守の無念さや心情に心を寄せた里人たちの哀れみ深さと思いやりが今でも人々の心に生き続け、この地では「もろずみさん」の愛称で親しまれており、塔之腰集落挙げて「諸角講」の人々により、供養のため、江戸時代の頃より毎年春、秋二回の祭典が行われています。


境福寺は弘治2(1556)年、善誉誾公上人により創立されました。
浄土宗法蔵寺の末寺であり、この地区やこの地区にゆかりのある九十戸ばかりの人達によって守られています。
途中住職不在の時代もあったりして現在まで続いています。
川中島の戦いの際、武田信玄が水を求め立ち寄った際、当時はごく小さな庵であったこの寺を「境福寺」と命名したものとされています。信玄公の直筆の寺名が宝物として本堂内に飾られています。
当時、この地は鯨沢川を境に氷鉋郷と、斗女郷の境に位置していたことから、「境」という一字を使い、この辺りに「福」をもたらす寺であって欲しいという信玄公の願いが込められています。
信玄公がのどをうるおした「信玄公ゆかりの井戸(深さ6~7m)」は寺の前庭にあり、泉のように湧き出して干上がったことはなく、近くの村から水をもらいに来たほどだったそうです。それを聞きつけた信玄公が戦いの最中にここに水を求めてきたそうです。


幕張の杉です。永禄4(1561)年9月、大激戦といわれた第四次川中島の戦いを前に、この地の用水管理支配をしていた青木家当主次左衛門は、川中島西部六ヶ村(中氷鉋、上氷鉋、戸部、今井、今里、岡田)の代表を伴い信玄、謙信の両将に、耕地、人家に戦火の及ばぬようにと決死の覚悟で申し入れました。
農民たちの切なる願いに両将も心を動かされこれを諒承したといわれています。青木次左衛門は、自邸(通称「堀之内」)東側の二本の杉に幕を張り、戦場との境界の標としました。
激戦となった九月十日、約束は固く守られ、これより西方へは一兵の侵入もなかったと伝えられています。以後幕を張ったことからこの杉を「幕張の杉」と呼ぶようになりました。
合戦当時の杉は老木となり、惜しくも終戦後間もなく伐採されました。昭和56(1981)年、屋敷内の杉を二代目と定め、青木家同族により「幕張の杉記念碑」が建立されました。その後二代目の「幕張の杉」も平成10(1998)年9月の台風第七号の被害で倒れてしまいました。


八幡宮〔陣場・勝鬨神社、青木神社〕です。陣場の八幡宮は「幕張の杉」のある青木次左衛門家の近くにあります。
この地を開拓した青木家祖が勧請した青木神社は、永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いの後、合戦が一段落した武田軍は、この神社の前で勝鬨をあげたそうです。それ以来、地名を陣場、青木神社を「勝鬨神社」と呼ぶようになりました。
この附近の六ヶ村の住民は、両軍が引き揚げた9月28日、戦場として荒らされずに済んだ感謝として、青木神社に、平和のよみがえった慶びの神楽を奉納し、相撲大会を催して豊年祭りとして祝いました。この祭りは江戸時代に一度中断した時もありましたが、今日まで継承されています。


昌龍寺は、天文21(1552)年、武田晴信に属し、川中島の抑えとして築かれた広田砦の守将になった、大日方(おびなた)佐渡守直長ゆかりの寺院です。
子の大日方山城守直家がは、武田氏滅亡後は、上杉家に仕えましたが、慶長3(1598)年の上杉家の会津移封には同行せず、信濃国水内郡小川村に帰農しました。
昌龍寺は大日方直家が父直長の菩提を弔うため、広田砦の一角に建立し、直長を開基とした寺院です。境内には直長の墓もあるとのことです。



広田城〔広田砦・東昌寺〕です。
東昌寺の地は、かつては広田城(広田砦)があった場所で、室町時代、応永7(1400)年頃、広田氏が現在の広田、藤牧の地を領し、その館としたのが始まりといわれています。その後、藤牧氏が引き継ぎ、室町時代末期、藤牧弥之助氏が中野市桜沢へ移り、館跡を天文21(1552)年頃、武田方の砦として広田城としました。堀で囲み、現在も残る土塁を巡らせたのはその時であるといわれています。
江戸時代になり、軍事的に必要が無くなると、砦跡に、元文4(1739)年に一宇(観音堂)を建立し、宝暦9(1759)年、長国寺十四世密峰静雲大和尚禅師を開山として招き、真田氏の開基により禅宗寺院として曹洞宗の佛日山東昌寺が創建されました。塀に囲まれ、土塁を巡らした地形の寺院でしたが、昭和 48(1973)年、堀は埋め立てられ、4メートル幅員の道路になりました。
平成7(1995)年、現存する土塁と、砦、堀跡の供養の為、お地蔵様を建立しました。この近郊で現存する土塁としては、唯一だそうです。


狐丸塚は、武田信玄に仕えた小笠原若狭守長詮の家臣、桑山茂見の墓です。
永禄4(1561)年の戦いで、主君の身代わりになり討死しました。
合戦後、里人は桑山の死を哀れんで、彼の死骸と戦場に散乱した武具をかき集め、塚を築き墓を建てて手厚く弔いました。
ところが、不思議なことに、夜ごとにこの塚にたくさんの狐が集まって鳴き騒ぐという噂が立ちました。そこで若狭守がこの塚を掘らしたところ、屍の間から若狭守が桑山に与えた佩刀狐丸が出てきました。それ以来、この塚を「狐丸塚」、「狐塚」と呼ぶようになりました。
墓はリンゴ畑の中に、古い五輪塔が2基並んでいます。


この後は、善光寺を目指して移動します。
Posted at 2008/01/07 23:37:37 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年12月28日 イイね!

冬の北信ドライブ(1日目その4・典厩寺と川中島・八幡原古戦場へ)

次は千曲川を渡り、川中島の八幡原付近を巡ります。
典厩寺はもともと鶴巣寺と号していました。永禄4(1561)年9月10日川中島合戦の際、武田信玄の実弟武田典厩信繁が本陣としました。しかし、奮戦の末、この付近で惜しくも37歳で討死したので遺骸を当寺の境内に埋めて典厩塚としました。
その後、元和8(1622)年(合戦から60年後)、松代藩主になった真田信之がかつて真田氏が武田氏の家臣であったこともあり、武田信繁の菩提を弔うため、武田典厩の名をとって寺号を典厩寺と改めました。

閻魔堂は万延元(1860)年に松代藩八代藩主真田幸貫の発願により、川中島合戦戦死者六千余名追善供養のために建立されました。


内部は日本一大きな朱塗閻魔大王像を祀り、天井には三十三身観音菩薩、正面の壁には四天王が描かれています。
その右側から二番目の北方多聞天王が別名毘沙門天です。上杉謙信は武将の守り仏様である毘沙門天の「毘」を旗印にしました。
右壁には桐の川中島合戦が、左側額縁には十王経を絵に表しています。


川中島合戦記念館です。ここは必見!。典厩信繁公の肖像画や遺品の展示を見ることができます。


本堂です。
風林火山の旗と「毘」「龍」の旗が掲げられています。


快川和尚に「惜しみても尚惜しむべし」と評され、敵の上杉謙信からもその師を惜しまれたという武田典厩信繁公の墓です。
墓碑には、「松操院殿鶴山巣月大居士」と刻まれています。


縁起もの大灯籠(三福かえる)
十二支とカエルを触って触って
一.若かえる(健康長寿)
一.旅かえる(交通安全)
一.宝かえる(金運招福)


ボケ封じの石です。


典厩信繁公首清め井戸です。敵に奪われた信繁公の首を取り返し、この井戸で洗い清めたと伝えられています。


次は、川中島古戦場・八幡原史跡公園です。
川中島の戦いの中で最も激戦となったのは永禄4(1561)年9月10日の戦いです。
武田信玄はここ八幡原に本陣を構え、妻女山の上杉政虎(上杉謙信)が武田別働隊に追われ、出てくるところを討つべく鶴翼の陣で待ちかまえていましたが、策を見破られ、上杉勢に車懸の陣で攻め寄せられ、激戦となりました。
謙信は愛刀の小豆長光を振りかざし、武田の本陣に切り込み、謙信の太刀を受けたという有名な「三太刀、七太刀」もこの地で起こりました。

公園にある佐久間象山の銅像です。


「八幡原」地名の元になった八幡社


三太刀七太刀之跡です。謙信は乱戦で武田本陣が手薄になったのを見て、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲しました。信玄をめがけて謙信は、只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けましたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負ったと伝えられています。後でこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡といいます。八幡社の右手に石碑があります。


逆槐(さかさえんじゅ)です。山本勘助の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4(1561)年9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積み重ね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおきました。このとき土塁の土どめに自生の槐の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後400年を経てこの巨木に成長したものと伝えられています。周囲に低い土塁の跡が見えるのは、信玄本陣を示す桝形陣形跡だそうです。


執念の石です。
武田・上杉両軍三万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭の原大隈守虎吉が傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信めがけてひと槍にと突き出しました。苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打ち下しましたが、またも外れて馬の三頭をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔し去ったため、信玄は危うく虎口を免れることができました。一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隈は、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれています。


一騎打ち再現の銅像です。


首塚です。この塚は以前は屍塚と呼ばれ、この大合戦後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこのあたり一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なくあつめ、手厚く葬った塚の一つです。この処置に感激した上杉謙信は、後年塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれ、乱世に咲いた美挙とほめたたえられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたそうです。ここから東南へ約180メートルのところにも同じく首塚があります。昔はこの附近にいくつもの首塚がありましたが、現存する大きな塚は二つだけであり、小さな塚は各所に点在しているそうです。


土塁の跡?


胴合橋(どあいばし)は、永禄4(1561)年の戦いで山本勘助は、泥真木明神(勘助宮跡、篠ノ井東福寺)付近で討死した後、その家来が敵の手から首を奪い取り、胴と首を合わせた橋と言います。家臣たちは、亡骸をこの橋のたもとに手厚く葬り、これを胴合橋と呼びました。
大河ドラマ「風林火山」の最終回「決戦川中島」でも信玄が命じ、山本勘助の胴と首をあわせるシーンがありました。
なお、胴合橋について、胴と首をあわせていたのは、山本勘助ではなく、武田信玄の弟である武田典厩信繁だという話もあるそうです。ちなみに胴合橋の近くに典厩寺があります。
大型のレストラン「おぎのや」と「そば蔵」の境界を流れる本田堰にかかっている小さな橋です。橋の傍らには、鎮魂碑が建てられています。


赤川の歌碑は、浅井洌(長野県歌「信濃の国」を作詞した)により詠まれた「骨をつみしほ流ししもののふの おもかげうかぶ赤川の水」の歌碑です。
赤川は、八幡原の激戦地であり、戦死や傷を負った傷兵が流した血がこのあたりの川を三日三晩川を紅に染めて流れたことから、赤川の地名がついたそうです。
歌碑は鎮魂の情をこめて、地元により昭和2(1927)年に建立されたものです。



12月は、17時を過ぎるとあたりはもう暗いです。この日の史跡めぐりはこれで終了です。
翌日はもう少し深く、川中島古戦場を見てみることにします。
Posted at 2008/01/05 14:12:45 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

プロフィール

「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2007/12 >>

      1
23456 78
91011121314 15
16171819202122
2324252627 28 29
3031     

リンク・クリップ

沖縄県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2024/06/26 22:49:38
 
鹿児島県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/26 23:05:24
 
宮崎県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/22 08:03:34
 

愛車一覧

スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation