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ピズモのブログ一覧

2008年07月20日 イイね!

東福寺と二条城

平安神宮の次は東福寺へ向かいました。
同聚院は東福寺の塔頭の一つです。
東福寺の寺地一帯は、平安時代中期に藤原忠平が法性寺を建立した所で、寛弘3(1006)年には、藤原道長が四十歳の賀に当たって、五大明王を安置する五大堂を境内に造営しました。その後も、藤原氏が法性寺の造営に力を入れたが、鎌倉時代初期には衰微し、その跡地に九條道家が東福寺を建立しました。
同聚院は藤原道長が建立した五大堂の遺跡で、五大明王のうち不動明王坐像が祀られています。像は仏師定朝の父・康尚の作品です。


東福寺は、臨済宗東福寺派の本山です。
嘉禎2(1236)年、関白九條道家が聖一国師を開山として菩提寺建立を発願、建長7(1255)年に七堂伽藍を完成しました。
「東福の伽藍面」とまでいわれ壮観を極め、京都五山の第四位の禅寺として栄えました。しかし、度重なる兵火と明治14(1881)年の失火で仏殿、法堂、庫裏などを焼失、以後、逐次再建してきました。
明治の廃仏毀釈などで規模は縮小されましたが、禅宗伽藍を代表する室町最古の三門(国宝)をはじめ、浴室、東司(便所)禅堂、鐘楼(いずれも重文)など室町時代の禅僧の生活を知る上で貴重な建築が残ります。


忘れてはならないのは方丈八相庭園で、その四周に庭園をもっているのが特徴です。昭和13(1938)年、重森三玲氏によって作庭された枯山水式の庭園です。釈迦成道を表現し、八相の庭といわれています。
南庭(前庭)は巨石と、砂紋による荒海の表現に加え、西方に五山を築山として大和絵風にあらわし、神仙境を表現しています。




西庭は「井田市松」の庭で、さつきの刈込みと砂地が大きく市松模様になっているのが特徴です。


北庭は「市松の庭」で、作庭以前に南の御下賜門内に敷かれていた石を市松模様に配しています。







東庭は「北斗の庭」で、もと東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様地割に配している小宇宙空間を表現しています。


この方丈庭園は前から一度見てみたかった庭園です。個人的には北庭の市松模様の雰囲気が好きです。

通天橋、開山堂にも行ってみます。
東福寺の通天橋は、仏殿から開山堂(常楽庵)に至る渓谷に架けられた橋廊です。天授6(1380)年、春屋妙葩(普明国師)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたとつたえられ、歩廊入口には同国師の筆になる「通天橋」の扁額をかかげています。
南宋径山の橋を模し、聖一国師が通天と名付けました。
その後、第四十三世住持、性海霊見が修造し、後世も幾度か架け替えられました。
現在のものは、昭和34(1959)年、台風によって倒壊したものを昭和36(1961)年、再建したものです。

開山堂は、別名を常楽庵といいます。建物は文政2(1819)年に焼失し、文政6(1823)年、一条忠良によって再建されました。屋上に閣を持つ類例を見ない開山堂で、正面柱間八間、内部は禅式瓦敷(四半敷)、祀堂は床高で開山国師像を安置しています。隣には開山国師常住の方丈の普門院があり、枯山水の開山堂庭園も見事です。






芬陀院は東福寺塔頭です。
元享年間(1321-24)に関白一条内経が創建しました。「茶関白」といわれた一条昭良(恵観)ゆかりの茶室図南亭が有り、遺愛の勾玉の手水鉢が残されています。
また、雪舟作と伝える鶴亀の庭があるところから雪舟寺という名でも知られています。禅院式枯山水の庭園は、一面の苔と流れるような白砂が特徴です。












退耕庵は東福寺塔頭です。
貞和2(1346)年の創建です。応仁の乱で衰微しましたが、慶長年間に安国寺恵瓊が再興しました。現在ある客殿は関ヶ原の戦いの前年の建築です。
小野小町ゆかりの寺で、恋文をはって作った玉章地蔵と小町百歳像があります。茶室作夢軒は、忍び天井などがあり、関ヶ原の戦いの謀議をしたといわれています。
鳥羽伏見の戦いの防長殉難者の菩提所としても知られています。
拝観には、事前に予約が必要です。私は入口までしか入ることができていません。


この後は、二条城へ行きました。何度も行っている二条城ですが、目的は、築城400年記念 展示・収蔵館です。
二条城内にある「築城400年記念 展示・収蔵館」は、昭和57(1982)年に重要文化財指定を受けた二の丸御殿障壁画の原画を恒久的に保存するため、二条城築城400年を記念して、平成16(2004)年3月に竣工し、平成17(2005)年10月10日に開館しました。
展示室では、障壁画を展示しているのはもちろんのこと、障壁画に関する資料や錺金具、城内から発掘された埋蔵文化財も展示しています。
季節ごとに展示されている障壁画は異なるようです。


この日はこれで終了。本来ならもう少し回っていたところなのですが、なにせ夏の京都は暑いです。
Posted at 2008/08/10 21:16:09 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年07月20日 イイね!

平安神宮と神苑の睡蓮

ルノワールの名画を堪能した後は、久し振りに平安神宮を訪れました。
平安神宮は明治28(1895)年に、平安遷都1100年を記念して平安京に遷都した桓武天皇を祀る神社として創建されました。
昭和15(1940)年には平安京で過ごした最後の天皇孝明天皇も祭神となりました。昭和51(1976)年、焼失しましたが、3年後に再建されました。
平安京当時の応天門、大極殿などの建築様式を再現しているのが特徴です。


神苑は、総面積33,000m2(約10,000坪)の、池泉回遊式庭園で明治から昭和にかけての名造園家である7代目・小川治兵衛(植治)が20年以上かけて造った名園です。明治時代の代表的な日本庭園として有名で、社殿を取り囲むように東・中・西・南の四つの庭からなっています。国の名勝に指定されています。
春の紅しだれ桜、初夏の杜若・花菖蒲、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の姿を楽しめます。
この時期は睡蓮が美しく咲いていました。「モネの睡蓮」を思わすような美しさです。

































Posted at 2008/08/07 22:52:04 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年07月20日 イイね!

京都国立近代美術館・ルノワール+ルノワール展

京都国立近代美術館・ルノワール+ルノワール展この日は、京都国立近代美術館で開催されている「ルノワール+ルノワール展」を見に行きました。
印象派の巨匠「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の絵が展示されているのはもちろんですが、その次男でフランスを代表する映画監督「ジャン・ルノワール」の映画の上映もされていました。
ジャンの映画には父の絵画を想起させる場面が多いそうで、なかなか面白い展示方法だな、と思いました。
土曜日、しかも最終日間近ということで、なので、そこそこ混んでいましたが、それでも有名な展覧会としてはましなほうだと思いました。「陽光のなかの裸婦」など有名な絵も見ることができました。


美術館隣にはにはこんな石碑もありました。吉田松陰拝闕詩碑(吉田松陰山河襟帯詩碑)は吉田松陰の自作自筆の詩を刻し,松陰の五十回忌にあたる明治41(1908)年に京都府教育会が建立したものです。
嘉永6(1853)年10月2日に京都御所を拝した時の作で、松陰の勤王思想を表すとして著名な詩です。
京都府立図書館の敷地内にあります。

Posted at 2008/08/05 23:51:42 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年07月13日 イイね!

武蔵・相模紀行(3日目その3・東京、上野)

旅行の最後に、上野公園を久し振りに散歩してみました。
西郷隆盛の銅像はいわずとしれた上野公園のシンボルです。
西郷隆盛は明治維新の功臣でしたが、明治10(1877)年の西南戦争で敗れ一時逆賊とされました。
明治22(1889)年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈されました。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が同士と共に追慕の情を表すべく建立を計画したもので、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26(1893)年起工、同30(1897)年竣工、高村光雲の作です。


上野公園、西郷隆盛の銅像近くに彰義隊の墓があります。
15代将軍徳川慶喜の一橋家当主時代の側近家来であった小川興郷(椙太)らは、慶応4(1868)年、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志を募りました。
そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙しました。しかし、旧暦5月15日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させました。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されましたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付されました。
生き残った小川ら隊士は、明治7年(1874)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり戦士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立しました。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されています。以後、120年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきましたが、現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されています。
正面の墓石は、明治2(1869)年、寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものですが、後に掘り出されました。
大墓石は小川興郷らが明治14(1881)年12月に造立したものです。明治政府を憚り彰義隊の文字はありませんが、旧幕臣山岡鉄舟の筆による「戦死之墓」の字が大きく刻まれています。


清水観音堂は、寛永8(1632)年に寛永寺を開創した天海が京都清水寺を模してに創建しました。
当初は、現在地より100m余り北方の摺鉢山上にありましたが、元禄7(1694)年この地へ移築し、現在に至っています。本尊は千手観音座像で京都清水寺より奉安したものです。江戸三十三箇所観音霊場の第6番札所になっています。少し高台にあるので、京都の清水寺と比べて小さいながらも、雰囲気が少し似ています。


清水観音堂の西側に黒門跡があります。彰義隊の上野戦争の激戦地だったところです。
黒門は彰義隊士が埋葬された荒川区の円通寺に寄贈されていますが、古戦場跡である跡地には「黒門の由来」と刻まれた石碑が建てられています。


小松宮彰仁親王銅像は、上野東照宮、上野動物園入口近くに建てられています。
彰仁親王は伏見宮邦家親王の第8皇子です。
安政5(1858)年京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3(1867)年勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称しました。
慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦し、会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍しました。
明治10(1877)年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任しました。明治15(1882)年には、小松宮彰仁親王と改称し、明治20(1887)年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献しました。
明治36(1903)年1月18日、58歳で亡くなりました。
銅像は明治45(1912)年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行されました。作者は文展審査員の大熊氏廣です。
寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因み、この上野恩賜公園内部のこの地に建てられたと推察されています。


上野東照宮の創建は、徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜を祭神とする神社で、藤堂高虎が上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造ったのがはじまりといわれています。
あるいは、寛永4(1627)年、宮祠を造営したのが創建ともいう。
正保3(1646)年、朝廷は家康に「東照宮」の宮号を贈り、それ以後、家康を祭る御宮を東照宮と呼ぶようになりました。
現在の社殿は、慶安4(1651)年、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、その後数回、修理を加え、現在に至ります。
社殿の構造は、東京都内でも代表的な、江戸時代初期の権現造りです。
本殿・拝殿・幣殿、唐門、透塀は、国の重要文化財に指定されています。
参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠50基も国指定の重要文化財です。



















野口英世銅像です。
野口英世は、明治9(1876)年福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた梅毒スピロヘータ、黄熱病などの研究で知られる細菌学者です。
上野恩賜公園にある野口英世銅像は総高約4.5m(台石を含む)、製作者は多摩美術大学教授吉田三郎で、英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BONOHUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれています。をはじめて起こした人物は、福島県大玉村出身の玉応不三雄が、英世の偉業を後世に伝えようと、銅像造立の活動を昭和22(1947)年に開始しましたが、病に倒れその後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念館等が活動を引き継ぎ、昭和25(1950)年には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周旋によって上野公園に造立されることが決定しました。昭和26(1951)年3月、現在地に造立され、月は異なるものの英世の命日である同月21日に除幕式が行われました。なお、銅像前面の標示石・敷石は昭和46(1971)年に会津会が設置したものです。


天海僧正毛髪塔です。天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧で諡号を慈眼大師といいます。
天文5(1536)年に奥州会津郡高田郷(福島県)で生まれました。11歳で出家、14歳で比叡山に登り実全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で諸教学を学んだといわれています。後に江戸崎不動院(茨城県江戸崎町)、喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受けました。元和2(1616)年家康が没すると、その神格化にあたり権現号の勅許を計り、併せて、日光廟の基本的構想をたて造営を指導しました。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、寛永2(1625)年に寛永寺を創建しました。
寛永20(1643)年に子院の本覚院にて108歳で示寂しました。遺命により日光山に葬られ、この地(旧本覚院跡)には供養塔が建てられました。後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになりました。


これで2泊3日の旅行は終了です。ここからはJRとモノレールで羽田空港まで戻り、飛行機で神戸空港に帰りました。
Posted at 2008/08/05 22:47:57 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2008年07月13日 イイね!

武蔵・相模紀行(3日目その2・東京、両国の江戸東京博物館と旧安田庭園)

次は両国の江戸東京博物館を訪れました。江戸東京博物館は、平成5(1993)年3月28日に開館した江戸と東京の歴史、文化に関わる資料を展示されている博物館です。
芝居小屋中村座、日本橋の原寸大の復元展示や、江戸城の復元模型などもあります。体験型の博物館を目指しているようで、1日ゆっくりと楽しめる博物館です。















江戸東京博物館の後は近くの旧安田庭園を訪れました。旧安田庭園は元禄4(1701)年、後の常陸笠間藩五万石の藩主、本庄因幡守宗資(徳川綱吉の生母桂昌院の弟)が下屋敷として拝領したこの地に築造したと伝えられている庭園です。
庭園は、中央に「心」字をかたどり、隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園です。
明治になって旧備前国岡山藩主池田章政邸となり、更に明治24(1891)年、安田財閥の創始者初代安田善次郎の所有となりましたがその死後、家屋及び庭園は大正11(1922)年、東京市に寄付されました。
大正12(1923)年9月1日の関東大震災により、壊滅的な被害を受けましたが、残った地割り石組みを基にして復元工事を行い、旧安田邸跡地は寄付者の名を残して「旧安田庭園」と命名しました。昭和2(1927)年に民間篤志家の寄付による和風庭園として初めて一般に公開されました。
 昭和42(1967)年、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46(1971)年に名園と言われた往時の姿に復元しました。
平成8(1996)年、明治時代の代表的な庭園として、東京都の名勝に指定されました。その後施設の老朽化が進んだため、墨田区では平成17(2005)年に「旧安田庭園整備保存管理計画」を策定し、旧安田庭園の保護、活用に努めているそうです。
大名庭園の雰囲気をよく伝えていている庭園が入場料無料なのも嬉しい限りです。









楽しかった2泊3日の旅行もいよいよ終わりに近づきました。次は上野へ向かいます。
Posted at 2008/08/02 22:34:49 | コメント(2) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記

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「[整備] #PCX バッテリー交換(3回目) https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1646340/7327912/note.aspx
何シテル?   04/30 18:24
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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