この日は、六甲山系の北西側にある丹生山系ハイキングです。
神鉄藍那駅から、義経が鵯越を目指したルートと言われる義経道を逆に北上します。
義経道 - 1 posted by
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丹生山の登山口は、丹生神社の鳥居が目印。
丹生山 - 01 posted by
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頂上近くに
丹生山城〔丹生山明要寺跡〕の石碑があります。
丹生山明要寺は6世紀の頃、百済から渡来した童男行者が建立したのに始まります。
平安時代末期には多くの僧兵と幾多の伽藍を擁し、一大勢力を誇りました。
本図はその頃の偉容を伝えています。
その後、平清盛が京の比叡山になぞらえて堂塔を整備し、文亀3(1503)年に再興のため勧進が行われた際に参詣曼荼羅が制作され、清盛が寄進したと伝えられています。
清盛は雪の御所から毎月参詣し、福原京から続く参詣道を整備し、福原を起点に頂上まで丁石を建立したといわれています。
戦国時代には城塞化され、天正6(1578)年の三木合戦の折、花隈城との連携や、兵糧の運搬のために丹生山には砦が築かれ、近隣の野武士や農民ら500名余、及び備中勢の中島左京、祢屋与七郎、日幡八郎左衛門、生石中務らが300騎を従えて籠城しました。
これに対し羽柴秀吉は籠城する近隣の農民の妻子を生け捕り、城内から内応させることを強要したため、内部からあがった火により丹生山城は混乱に陥り、落城しました。
明要寺はその後衰亡し、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、鎮守社の丹生神社が残ったようです。
(説明看板より)
丹生山・丹生山城(丹生山明要寺跡) - 07 posted by
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丹生山・丹生山城(丹生山明要寺跡) - 08 posted by
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丹生神社は丹生山頂にある神社です。
仏教が伝来する以前からの古い神社と伝えられます。丹生山明要寺の鎮守社となり、平清盛が福原に住んでいたとき、京都の比叡山になぞらえ、ここに日吉山王権現を祀りました。
明治の廃仏毀釈で明要寺が廃寺となり、丹生神社だけが残りました。
丹生山・丹生神社 - 09 posted by
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丹生山・丹生神社 - 10 posted by
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丹生山・丹生神社 - 11 posted by
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丹生山・丹生神社 - 12 posted by
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丹生山 - 13 posted by
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丹生山・丹生神社 - 14 posted by
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丹生山~帝釈山 - 1 posted by
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帝釈山頂です。さらに東へ、稚子ヶ墓山を目指します。
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帝釈山 - 2 posted by
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稚子ヶ墓山です。
稚子ヶ墓山 - 1 posted by
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稚児の墓は、稚児ヶ墓山山頂(596m)の少し東側にあります。
羽柴秀吉の三木城攻めの際、丹生の僧兵が別所方に味方したため、全山が焼き討ちにあい、その時死んだ侍童稚子を葬ったという伝説が伝わっています。
稚子ヶ墓山の名の由来にもなっています。
稚子ヶ墓山・稚子の墓 - 2 posted by
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稚子ヶ墓山 - 3 posted by
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稚子ヶ墓山 - 4 posted by
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更に東に向かい、神鉄六甲駅まで歩きました。
Posted at 2012/11/13 22:26:07 | |
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