そしていよいよ朽木へ。
朽木陣屋は平成23年にも訪れましたが、時間切れで資料館と西山城を訪れることができなかったのが心残りでした。
(平成23年の訪問→
藤樹の里安曇川と朽木陣屋)
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朽木資料館は、朽木氏の陣屋跡にある資料館です。
朽木氏の資料など朽木の歴史の紹介や、朽木に残る文化財や膳・椀・盆などの木製品を製作する木地師の資料、山仕事の道具、生活道具等を展示しています。
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朽木資料館の職員の方はかなり親切。西山城のことを尋ねると丁寧に教えてくれ、資料も頂きました。また、登山口まで案内して頂き、おまけに熊よけのためと言うことでラジオまで貸して頂きました。山城めぐりをするようになって久しいですが、ここまで親切な方にはお会いしたことはありません。ありがとうございました。
西山城は近江佐々木源氏佐々木氏の分家である朽木氏によって戦国時代に築かれた山城で、ここから南南西1.3kmには朽木氏の本城であった朽木城(朽木陣屋)がありました。
築城年は室町時代の中頃朽木氏の拠点が岩神館から朽木城に移った時期と考えられ、朽木城と同じ14世紀頃と考えられますが、現存する遺構から戦国時代末期(16世紀後半)に改修されています。
西山城は朽木城の背後を守るための支城であると共に、西方の若狭街道(鯖の道)や東方の朽木街道(琵琶湖方面)を監視する役目を持っていました。
標高356mの西山山頂部を中心に東西約43m、南北450mの広範囲に、10ヶ所以上の曲輪が造られています。
堀切や竪堀といった空堀、曲輪の周囲には土塁を設け、南側の虎口の内部には長方形の空間である桝形を、北側虎口の上方にはのろし台を設けるなどの工夫が見られます。
(現地説明板などより)
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信長の隠れ岩は、織田信長が金ヶ崎の退却戦の際、隠れた岩窟と伝えられている岩です。
信長は元亀元(1570)年4月、越前の朝倉義景を討伐するため敦賀へ侵攻していましたが、妹婿であった浅井長政が裏切ったとの情報を得て急きょ撤退を決意、同月30日に京都へ引き返します。
その退路として通ったのが今津町保坂から大津市葛川へ抜ける裏ルート「朽木越え」でした。
信長が来ることを知った当地の領主、朽木元綱は、甲冑姿で出迎えようとしました。この武装姿に驚いた信長は、同行の松永久秀と森三左衛門(可成)に元綱の真意を確かめに行かせます。
そして元綱に敵意がないことを確認できるまで、ここ三ツ石の岩窟に身を潜めて待機したと伝えられています。
平服に着替えた元綱は、信長を岩窟から南へ約1kmの下市場の集落内にあった圓満堂でもてなした後、朽木城に宿泊させ、翌日京都までの警護役も務めました。
(現地説明板より)
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Posted at 2015/04/28 21:47:52 | |
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