高瀬城は高瀬山に築かれた城です。
高瀬山の名の由来は太古、宇夜都弁命がこの山に遊ばれたところ、山の頂に清水が湧いていましたので「高清水」と詔り給うたので山の名としました。しかし、その後いつか「高瀬」と呼ぶようになりました。
そしてここを要害の山として、暦応年中(1338〜1341)に建部内蔵伊賀が築城しました。
城はその後、戦国時代に尼子氏の重臣尼子十旗の一将として米原綱広が城主となりました。
米原氏は、出雲の戦国大名尼子氏の重臣で、高瀬城は「尼子十旗」の第六城に位置づけられる有力武将でした。
元亀元(1570)年から翌年にかけての毛利輝元の包囲攻撃に綱広の子米原綱寛はよく耐えましたが、戦死するものも多く、また、兵糧や矢玉も尽きてしまい、元亀2(1571)年3月19日ついに落城しました。
時の城主綱寛は尼子勝久のたてこもる真山城(松江市法吉町)に逃れ、再び戦ったと言われています。
城山は標高329.4mの険しい独立丘で、城郭は三の丸、二の丸、甲の丸(頂上)などから成り立っていましたが、今は跡かたもなく、わずかな平地土塁の残りに、兵どもの夢を偲ぶだけです。
(現地説明板などより)
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我が国の戦国時代に中国地方の覇権を獲得しようとする戦いの中で、
鳶ヶ巣城は大きな役割を果たしていました。
天文11(1542)年、大内氏、毛利氏の連合軍は、尼子氏が拠点としていた富田城(現広瀬町)に進攻しました。
しかし、2年間にわたる戦いの末、大内氏、毛利氏の連合軍は、尼子氏に敗退しました。
このとき連合軍の中にあった鳶が巣城も落城し、城主の宍道隆慶は一族とともに長州(山口県)に逃れました。
それから20年後の永禄4(1561)年、大きな勢力となった毛利元就は再び尼子氏攻めに出撃しました。宍道隆慶も毛利元就の武将として出雲に進攻しました。
翌年、毛利氏は鳶が巣城を乗っ取り、宍道隆慶、政慶父子を城主とし、尼子氏攻略の拠点としました。4年間に及ぶ戦いの末、尼子氏拠点の富田城は落城しました。出雲平野を挟んで、鳶が巣城と戦った南山の米原氏(尼子方)の高瀬城(現斐川町)も落城しました。
こうして出雲の国は、完全に毛利氏が制するところとなりました。 宍道氏は、この2つの戦いの功績から、出雲北山一帯の武将を支配する地位に任命され、その後40年近く城下及び領地の経営に力を尽くしましたが、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いがおこり、西軍豊臣方に属した毛利氏は破れ、その配下であった宍道氏も毛利氏に随行して、萩(山口県)に移り、鳶が巣城は廃城となりました。
主郭には、宍道政慶公の碑が立っています。南2郭からは出雲平野が一望できます。
(現地説明板などより)
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神西城は、正式には龍王山竹生城といいます。
貞応2(1223)年相模国鎌倉から小野高通が地頭として下向し、ここに築城したといわれています。以後、神西の地名をとって神西三郎左衛門を襲名し12代続きました。
城郭の最高所は那賣佐神社の裏山で、標高101メートル、神西湖や出雲平野が一望できます。
主郭3、小郭10余、堀切や土塁の一部が残っています。
出雲国西部における軍事上の要衝として、尼子十旗の一つとされました。
城主神西氏に関する資料は乏しいですが、いわゆる尼子時代の後期に活躍した神西元通は有名です。
元通は、尼子勝久らと尼子家再興を目指して毛利軍と戦い続けたが、天正6(1578)年播磨国上月城(兵庫県上月町)の戦いに敗れ自刃しました。
(現地説明板などより)
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三沢城はは尼子十旗の一つです。
北に斐伊川、南はその支流阿井川にはさまれた標高418mの鴨倉山を中心に位置し、山陰、山陽を結ぶ要衡の地につくられています。
築城は14世紀初頭に三沢郷地頭の三沢氏によって築城されたと伝えられています。三沢氏は、正安4(1302)年、信州飯島郷より清和源氏の流れをくむ飯島為長(為仲)が三沢庄雨川に来住し、嘉元3(1305)年に三沢城を築城し、姓を飯島から三沢に改めました。
延元3(1338)年、大原香折新宮(加茂町屋裏)の地頭職となり、出雲平野部進出の足がかりを得ました。
永正6(1509)年、三沢為忠の代に、横田の高鍔山に藤ヶ瀬城を築城しここに移ったが、三沢城には城番を置いていたものと見られています。
天文9(1540)年、この頃、三沢為幸は尼子氏に従って吉田郡山城の毛利氏を攻めた際、毛利元就に敗れた尼子勢が敗走する中、三沢十勇士を引き連れて、毛利本陣を襲い、ここで討死しました。
永禄元(1558)年、三沢為清は、尼子晴久に従い、再度、毛利攻めに出陣、この時、三沢城留守居役・布広氏は、郎党を引き連れて、毛利本体に合流せんとする高野山城勢を阿井福原で破りました。
永禄3(1560)年、三沢氏は毛利氏に降礼をとり、後は毛利氏に従って尼子氏の高尾城・馬木矢筈城攻め、永禄9(1566)年に尼子氏の本城・月山富田城攻め、天正6(1578)年には織田信長の庇護を受けて再興を目論む尼子勝久・山中幸盛の上月城を攻め、続いて天正9(1581)年には羽柴秀吉により水攻めを受ける備中高松城救援などに従いました。
しかし、天正17(1589)年、三沢氏の威勢を恐れた毛利氏の甘言により、三沢為虎は、一族郎党と共に安芸に出頭し、厳しい監視下に置かれ、三沢に帰城することも許されないまま、長門国厚狭郡に1万石を与えられ、毛利氏家臣となりました。
三沢城は、北側と東側の尾根を中心に大小30以上の曲輪が確認されています。
地元では1郭を「本丸」2郭を「鳥居ヶ丸」と呼んでいますが、南端の土壇を櫓台とみて2郭を主郭(本丸)とする考えかたもあります。
虎口が数カ所確認されるほか、大手門には石垣が残っています。
この城跡は、土塁、堀切、桝形など中世山城の遺構をよくとどめており戦国時代の豪快な縄張りの山城として貴重です。
(現地説明板などより)
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三沢城内にある
三沢池です。
大国主命の御子阿遅須枳高日子(根)命は、顎ひげがのびる年令になつても泣いてばかりでことばも話されませんでした。御親神は御子を船に乗せ国々を巡ってあやされましたが、それでも泣きやまれませんでした。
そこで御親神は「どうか御子が泣くわけを夢の中で教えて下さい」と一心に祈られました。すると不思議なことにその夜御子が口を利くようになつた夢を見られました。目が覚めてから御子に尋ねられると、御子は初めて「御津」と言われました。そして石の多い川を渡り坂を登った所で止まり「ここです」と申されました。御子はこの綺麗な沢で身を清めてすかっり健康で立派な神となられました。その場所がこの三沢池と伝えられています。
この故事から出雲国造が新任の際、朝廷へ神賀詞(お祝い)を奏上しに上京する時は、この水を汲んで禊初めの水とされました。
神亀3(726)年、御津の字を三沢と改めました。
阿遅須枳高日子(根)命はこの伝承により、当地の氏神として三澤神社に祀られています。
三沢の地名もこの伝承によるとされていて、三沢池の水は現在「若返(みおち)の霊水」として多くの人々に愛飲されています。
(現地説明板などより)
三沢城・三沢池(三津池) (1) posted by
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Posted at 2016/05/27 22:31:21 | |
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