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ピズモのブログ一覧

2016年05月28日 イイね!

琵琶湖ドライブ

浮御堂は「近江八景」の一つ「堅田の落雁」として有名です。
正式には海門山満月寺と称する禅寺で臨済宗大徳寺派の寺院です。
一条天皇の長徳年間に源信(恵心)僧都が、湖中に一宇を建立して自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで「千仏閣」「千体仏堂」と称し湖上通船の安全と衆生教学を発願したのが始まりとされています。
堅田の地は、室町時代から戦国時代にかけて度々戦場となり荒廃しました。
江戸時代に復興し、桜町天皇より御能舞台の御下賜を仰いで再興しました。
しかし、昭和9(1934)年、室戸台風で倒壊し、昭和12(1937)年に再建されました。
湖面に建つ小堂からの風景は最高です。
浮御堂 (1)
浮御堂 (1) posted by (C)pismo

浮御堂 (2)
浮御堂 (2) posted by (C)pismo

浮御堂 (3)
浮御堂 (3) posted by (C)pismo

白鬚神社は、社記によると垂仁天皇の25年、皇女倭姫命により社殿が建てられました。
天武天皇の白鳳3(675)年勅旨を以て「比良明神」の号を賜わりました。
当社の縁起は謡曲「白鬚」(観阿弥作)にも謡われ、今日、全国に約300の分霊社を有しています。
御祭神の猿田彦命は天孫瓊々杵尊降臨の際に先頭に立って道案内された神で、導き・道開きの神として知られており、また、当社にお祀りされている猿田彦命は白髪で白い鬚を蓄えられた老人のお姿で、御社名の由来にもなっています。
現在の本殿は慶長8(1603)年に豊臣秀頼、淀殿が建立し、後に改築された拝殿と一体になって特殊な桃山建築の美を見せています。
湖中大鳥居は、かつて神社前の湖中に鳥居があったという伝説や絵画があり、これを知った大阪道修町の小西久兵衛氏が昭和12(1937)年に復興寄進されました。
現在の鳥居は昭和56(1981)年に琵琶湖総合開発の補償事業で再建され、琵琶湖を代表する景観の一つになっています。
白鬚神社
白鬚神社 posted by (C)pismo

白鬚神社 (1)
白鬚神社 (1) posted by (C)pismo

白鬚神社 (2)
白鬚神社 (2) posted by (C)pismo


淡海湖(たんかいこ)は、処女湖ともいう箱館山スキー場の北方にある湖です。
もともと麓の灌漑用水の確保のために、大正年間に15年もの歳月をかけて完成した人造湖です。
滋賀県の「守りたい育てたい湖国の自然100選」にも選ばれ、春はシャクナゲやツツジが咲き乱れ、夏は自然美と高原の涼しさ、秋は紅葉と四季折々の風景が楽しめます。平成22(2010)年3月、ため池100選にも選定されています。
湖の中央にある浮島には、弁財天が祀られています。
淡海湖
淡海湖 posted by (C)pismo

平池は、箱館山を越えた谷あいにあります。平池は南北に細長く、周囲が約500mで、石田川の上流部にあたります。
毎年6月上旬に1万本とも言われるカキツバタが淡紫色の花を咲かせてくれます。
平池 (1)
平池 (1) posted by (C)pismo

平池 (2)
平池 (2) posted by (C)pismo

平池
平池 posted by (C)pismo


マキノ高原のメタセコイア並木は、関西随一の規模を誇る高島市マキノ農業公園マキノピックランドを縦貫する市道とこれに続く県道にあります。
延長2.4kmにわたってメタセコイア約500本が植えられ、マキノ高原・マキノスキー場へのアプローチ道として、高原らしい景観を形成しています。この並木は、昭和56(1981)年に学童農園「マキノ土に学ぶ里」整備事業の一環としてマキノ町果樹生産組合が植えたのがはじまりですが、組合関係者をはじめとする地域の人々の手により慈しまれ、育まれて、その後さらに県道も強調して植栽され、延長が伸ばされたことから、現在のこの雄大な姿となったものです。
メタセコイアは中国原産、すぎ科メタセコイア属の落葉高木で、和名はあけぼの杉。樹高は35mにおよびます。最大樹高が11.5mにもおよぶといわれるセコイアにその姿が似ていることから、メタ(変化した)セコイアと名付けられています。
春の芽吹き・新緑、夏の深緑、秋の紅葉、冬の裸樹・雪花と四季折々に美しい円錐形のメタセコイアの並木とまっすぐに伸びる道路が造りだす対称形の整った景観は、遠景となる野坂山地の山々とも調和し、訪れる人々を魅了してくれます。
平成6(1994)年11月、読売新聞社の「新・日本の街路樹百景」に選定され、衆目を集めるに至っています。
(現地説明板などより)
マキノ高原のメタセコイア並木 (1)
マキノ高原のメタセコイア並木 (1) posted by (C)pismo

マキノ高原のメタセコイア並木 (2)
マキノ高原のメタセコイア並木 (2) posted by (C)pismo

マキノ高原のメタセコイア並木 (3)
マキノ高原のメタセコイア並木 (3) posted by (C)pismo

マキノ高原のメタセコイア並木 (4)
マキノ高原のメタセコイア並木 (4) posted by (C)pismo

マキノ高原のメタセコイア並木 (5)
マキノ高原のメタセコイア並木 (5) posted by (C)pismo
Posted at 2016/06/17 23:40:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年05月21日 イイね!

甲賀・日野

甲賀流忍術屋敷は甲賀忍者五十三家の筆頭格にあたる望月出雲守の屋敷として元禄年間に建てられたものです。
同族二十一家が一致団結し、甲賀忍者の実力を天下に示した長享元(1487)年の鈎の陣など戦乱の世に大いに活躍しました。
伝説の甲賀忍者猿飛佐助は、この望月家の忍者だったという説もあります。また望月家の祖、望月三郎兼家は、甲賀三郎ともいわれ伊賀の敢国神社に祀られています。
外見は一般的な日本建築の住宅ですが、内部には忍者の住まいにふさわしく、侵入者から身を守る為のどんでん返しや落とし穴などさまざまな仕掛けが施されています。
例えば侵入した敵を捕らえる「どんでん返し」「落とし穴」、敵に発見されずに逃れるための「逃れ道」や「隠し部屋」「縄梯子」、さらに部外者には絶対に開けられない窓や土蔵など、仕掛けの巧みさ、からくり多彩さが魅力的です。
また、甲賀忍術の奥義を記した甲賀流伝書(虎の巻)、手裏剣をはじめとする様々な武器、考案の素晴らしさに舌を巻く道具類などの貴重な品々も数多く展示され、「忍術」が人知の結集で長い歴史の中で磨かれてきた武術であることを実感できます。
(現地説明板などより)
甲賀流忍術屋敷
甲賀流忍術屋敷 posted by (C)pismo

甲賀流忍術屋敷 (1)
甲賀流忍術屋敷 (1) posted by (C)pismo

甲賀流忍術屋敷 (2)
甲賀流忍術屋敷 (2) posted by (C)pismo

甲賀流忍術屋敷 (3)
甲賀流忍術屋敷 (3) posted by (C)pismo

甲賀流忍術屋敷 (4)
甲賀流忍術屋敷 (4) posted by (C)pismo

甲賀流忍術屋敷 (5)
甲賀流忍術屋敷 (5) posted by (C)pismo

甲賀流忍術屋敷 (6)
甲賀流忍術屋敷 (6) posted by (C)pismo

水口城は寛永11(1634)年に小堀遠州によって三代将軍家光の上洛の休息所、宿館として築城されました。
水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並が形成されていましたが、天正13(1585)年には羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展を見せました。豊臣政権の五奉行長束正家の居城の水口城はこの「水口岡山城」のことで、「水口古城」とも呼ばれており、少し離れた場所にあります
関ヶ原合戦後この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定し、甲賀郡の中心都市としての地位が確立しました。家康はしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺に宿泊しています。
工事は小堀遠州ら作事奉行のもと、幕府直営で行われました。
堀に囲まれた本丸とその北側の二の丸からなり、本丸はほぼ正方形で東に出丸をもち、御殿と四隅に櫓を配していました。二の丸には管理・警護施設が設けられました。本丸殿舎の建物構成は二条城に類似し、数寄をこらしたものといわれています。堀には注水坑はなく、今も水のかれることがないなどから、別名碧水城と呼ばれています。
家光上洛後は番城として幕府の管理下に置かれ、天和2(1682)年に加藤氏が入封して水口藩が成立し、その居城となりました。なお、本丸殿舎は正徳年間(1711~16)に撤去されました。
明治維新後は廃城となりましたが、本丸敷地のみは保存され、昭和四十七年滋賀県の史跡に指定されました。堀や石垣はよく形状をとどめています。近年、出丸部分の修景が行われ二階櫓が復元されていますがもともと出丸にはそのような櫓はなかったそうです。内部に「水口城資料館」があります。
水口城
水口城 posted by (C)pismo

水口城 (1)
水口城 (1) posted by (C)pismo

大池寺は、山号は龍護山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
天平14(742)年、諸国行脚の高僧、行基菩薩がこの地を訪れた際、日照りに悩む農民のため、灌漑用水として、「心」という字の形に4つの池を掘り、その中央に寺を建立し、一彫りごとに三拝したという「一刀三礼の釈迦丈六坐像」を安置したと伝承されています。山内寺院は八ヶ寺を数え、七堂伽藍の備わった、「邯鄲山青蓮寺」といい、天台宗の寺であったとされています。
その後、鎌倉期に禅宗が日本に伝わり、東福寺開山聖一国師の孫弟子である、無才智翁禅師が、この地を訪れて青蓮寺を禅宗に改宗、天正5(1577)年に戦国の兵火に遭い、境内全域が焼き払われ、七堂伽藍はことごとく焼失してしまいました。不思議にも行基菩薩の作なる仏像のみ焼け残り、その後約90年間、草庵に安置されていましたが、風雨にさらされた状態で寛文7(1667)年京都花園妙心寺の丈巌慈航禅師が当地を訪れた際、草庵の仏像を見て、寺の再興のため住山の決意をし山号寺名を周囲に大きな池があるのに因み「龍護山大池寺」と改名しました。
大池寺の再興に尽力したのが、後水尾天皇、伊達宗房や織田主水正信であり、中でも織田主水正信は、当地の地頭で、織田信長の甥にあたり、大池寺再建のため多くの寄進をし、大池寺の開基となりました。現在も、開山堂横に墓石が祭られています。大池寺の寺紋は、この様ないきさつより、織田家の家紋である「織田モッコウ」となっています。
蓬莱庭園は、江戸初期の寛永年間に小堀遠州の作として伝えられサツキの大刈り込み鑑賞式枯山水庭園です。書院前方正面の二段刈り込みと左右の大刈り込みは大洋の大波小波を現し、白砂の水面上に刈り込みを以て宝船を浮べ、中に七つの石と小さな刈り込みで七宝と七福神を象徴しています。又、縁先右側には刈り込みによる亀島を、中央には礼拝石が配されています。
書院後方茶室の前庭は、築山枯山水にて蓬莱山と称し、石組に数種の灌木とサツキは恰も友禅模様の如く実に華麗なる眺めであり、8、9月ともなれば刈り込みの線条美うるわしく幽雅流麗の様はこの庭園の美しさを味わうことが出来ます。秋は背景の紅葉に彩られ赤、緑、白、三色配合の美、最も美しく冬は紫褐色に変じて閑雅静寂、茶人の好む庭園となり、まさに「静中の動」とも言うべく禅味豊かな作者の非凡さを窺うことが出来ます。
尚、当寺は天平年間行基菩薩の開創の地で境内の周辺には雄大なる心字の池があり、蒼樹碧をたたえ風光明媚にして千古の霊跡を物語っています。
大池寺
大池寺 posted by (C)pismo

大池寺 (1)
大池寺 (1) posted by (C)pismo

大池寺 (2)
大池寺 (2) posted by (C)pismo

大池寺 (3)
大池寺 (3) posted by (C)pismo

大池寺 (4)
大池寺 (4) posted by (C)pismo

大池寺 (5)
大池寺 (5) posted by (C)pismo

大池寺 (6)
大池寺 (6) posted by (C)pismo

大池寺 (7)
大池寺 (7) posted by (C)pismo

近江日野商人館は、江戸中期以来、近江日野商人として商業活動を続けてきた山中兵右衛門家(現在、静岡県を拠点)が、日野町にある本宅の家屋敷を町に寄贈されたことを契機に、昭和56(1981年)年10月3日に「近江日野商人館(日野町立歴史民俗資料館)」として開館しました。
近江日野商人館は、この由緒ある建物を活用し、江戸時代以来、わが国の経済界で大きな役割を果たした近江商人を顕彰し、日野町出身である近江日野商人の歴史と商いを紹介しています。
旧山中兵右衛門家の本宅は、昭和11(1936)年に新築されました。昔から、「八幡表に、日野裏」という言葉があり、八幡商人(現近江八幡市)の本宅は、道路から見える「表」に、多くの資金をつぎ込むのに対して、近江日野商人の本宅は、道路から見えない所の奥まった「裏」、例えば奥座敷などに多くの資金をつぎ込む傾向があり、この建物は近江日野商人の建物の特徴を持っています。
近江日野商人館
近江日野商人館 posted by (C)pismo

近江日野商人館 (1)
近江日野商人館 (1) posted by (C)pismo

近江日野商人館 (2)
近江日野商人館 (2) posted by (C)pismo

近江日野商人館 (3)
近江日野商人館 (3) posted by (C)pismo

近江日野商人館 (4)
近江日野商人館 (4) posted by (C)pismo

近江日野商人館 (5)
近江日野商人館 (5) posted by (C)pismo
Posted at 2016/06/06 22:23:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年05月14日 イイね!

シワガラの滝と猿壺の滝

久し振りのシワガラの滝です。


平成23年→鳥取・兵庫県境周辺の滝巡り(その2・シワガラの滝・桂の滝・お面ヶ滝)
平成24年→鳥取、兵庫滝巡り(1日目・雨滝とシワガラの滝)
シワガラの滝
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シワガラの滝 (1)
シワガラの滝 (1) posted by (C)pismo

シワガラの滝 (2)
シワガラの滝 (2) posted by (C)pismo

猿壺の滝も相変わらず魅力的です。

平成23年→再び新温泉町の滝巡り

猿壺の滝
猿壺の滝 posted by (C)pismo

猿壺の滝 (1)
猿壺の滝 (1) posted by (C)pismo

猿壺の滝 (2)
猿壺の滝 (2) posted by (C)pismo

猿壺の滝 (3)
猿壺の滝 (3) posted by (C)pismo
氷ノ山の周辺には数多くの素晴らしい滝がありますが、この2つの滝はなんどでも来たくなります。
以前はそんなに知名度は高くなかったのですが、最近では「関西ウォーカー」やSavvyなど雑誌でも紹介されるようになってしまいました。
そのせいか、訪れる人も増えているようです。でもくれぐれもスニーカーではなく、登山靴もしくは長靴が必要な滝であるということをお忘れなきよう。
Posted at 2016/05/27 22:49:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年05月03日 イイね!

出雲の城めぐり

高瀬城は高瀬山に築かれた城です。
高瀬山の名の由来は太古、宇夜都弁命がこの山に遊ばれたところ、山の頂に清水が湧いていましたので「高清水」と詔り給うたので山の名としました。しかし、その後いつか「高瀬」と呼ぶようになりました。
そしてここを要害の山として、暦応年中(1338〜1341)に建部内蔵伊賀が築城しました。
城はその後、戦国時代に尼子氏の重臣尼子十旗の一将として米原綱広が城主となりました。
米原氏は、出雲の戦国大名尼子氏の重臣で、高瀬城は「尼子十旗」の第六城に位置づけられる有力武将でした。
元亀元(1570)年から翌年にかけての毛利輝元の包囲攻撃に綱広の子米原綱寛はよく耐えましたが、戦死するものも多く、また、兵糧や矢玉も尽きてしまい、元亀2(1571)年3月19日ついに落城しました。
時の城主綱寛は尼子勝久のたてこもる真山城(松江市法吉町)に逃れ、再び戦ったと言われています。
城山は標高329.4mの険しい独立丘で、城郭は三の丸、二の丸、甲の丸(頂上)などから成り立っていましたが、今は跡かたもなく、わずかな平地土塁の残りに、兵どもの夢を偲ぶだけです。
(現地説明板などより)
高瀬城
高瀬城 posted by (C)pismo

高瀬城 (1)
高瀬城 (1) posted by (C)pismo

高瀬城 (2)
高瀬城 (2) posted by (C)pismo

高瀬城 (3)
高瀬城 (3) posted by (C)pismo

高瀬城 (4)
高瀬城 (4) posted by (C)pismo

高瀬城 (5)
高瀬城 (5) posted by (C)pismo

高瀬城 (6)
高瀬城 (6) posted by (C)pismo

高瀬城 (7)
高瀬城 (7) posted by (C)pismo

高瀬城 (8)
高瀬城 (8) posted by (C)pismo

高瀬城 (9)
高瀬城 (9) posted by (C)pismo

高瀬城 (10)
高瀬城 (10) posted by (C)pismo

我が国の戦国時代に中国地方の覇権を獲得しようとする戦いの中で、鳶ヶ巣城は大きな役割を果たしていました。 
天文11(1542)年、大内氏、毛利氏の連合軍は、尼子氏が拠点としていた富田城(現広瀬町)に進攻しました。
しかし、2年間にわたる戦いの末、大内氏、毛利氏の連合軍は、尼子氏に敗退しました。
このとき連合軍の中にあった鳶が巣城も落城し、城主の宍道隆慶は一族とともに長州(山口県)に逃れました。 
それから20年後の永禄4(1561)年、大きな勢力となった毛利元就は再び尼子氏攻めに出撃しました。宍道隆慶も毛利元就の武将として出雲に進攻しました。 
翌年、毛利氏は鳶が巣城を乗っ取り、宍道隆慶、政慶父子を城主とし、尼子氏攻略の拠点としました。4年間に及ぶ戦いの末、尼子氏拠点の富田城は落城しました。出雲平野を挟んで、鳶が巣城と戦った南山の米原氏(尼子方)の高瀬城(現斐川町)も落城しました。 
こうして出雲の国は、完全に毛利氏が制するところとなりました。 宍道氏は、この2つの戦いの功績から、出雲北山一帯の武将を支配する地位に任命され、その後40年近く城下及び領地の経営に力を尽くしましたが、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いがおこり、西軍豊臣方に属した毛利氏は破れ、その配下であった宍道氏も毛利氏に随行して、萩(山口県)に移り、鳶が巣城は廃城となりました。
主郭には、宍道政慶公の碑が立っています。南2郭からは出雲平野が一望できます。
(現地説明板などより)
鳶ヶ巣城
鳶ヶ巣城 posted by (C)pismo

鳶ヶ巣城 (1)
鳶ヶ巣城 (1) posted by (C)pismo

鳶ヶ巣城 (2)
鳶ヶ巣城 (2) posted by (C)pismo

鳶ヶ巣城 (4)
鳶ヶ巣城 (4) posted by (C)pismo

鳶ヶ巣城 (5)
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鳶ヶ巣城 (6)
鳶ヶ巣城 (6) posted by (C)pismo

鳶ヶ巣城 (7)
鳶ヶ巣城 (7) posted by (C)pismo

鳶ヶ巣城 (8)
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鳶ヶ巣城 (9)
鳶ヶ巣城 (9) posted by (C)pismo

鳶ヶ巣城 (10)
鳶ヶ巣城 (10) posted by (C)pismo

鳶ヶ巣城 (11)
鳶ヶ巣城 (11) posted by (C)pismo


神西城
は、正式には龍王山竹生城といいます。
貞応2(1223)年相模国鎌倉から小野高通が地頭として下向し、ここに築城したといわれています。以後、神西の地名をとって神西三郎左衛門を襲名し12代続きました。
城郭の最高所は那賣佐神社の裏山で、標高101メートル、神西湖や出雲平野が一望できます。
主郭3、小郭10余、堀切や土塁の一部が残っています。
出雲国西部における軍事上の要衝として、尼子十旗の一つとされました。
城主神西氏に関する資料は乏しいですが、いわゆる尼子時代の後期に活躍した神西元通は有名です。
元通は、尼子勝久らと尼子家再興を目指して毛利軍と戦い続けたが、天正6(1578)年播磨国上月城(兵庫県上月町)の戦いに敗れ自刃しました。
(現地説明板などより)
神西城
神西城 posted by (C)pismo

神西城 (1)
神西城 (1) posted by (C)pismo

神西城 (2)
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神西城 (3)
神西城 (3) posted by (C)pismo

神西城 (4)
神西城 (4) posted by (C)pismo

三沢城はは尼子十旗の一つです。
北に斐伊川、南はその支流阿井川にはさまれた標高418mの鴨倉山を中心に位置し、山陰、山陽を結ぶ要衡の地につくられています。
築城は14世紀初頭に三沢郷地頭の三沢氏によって築城されたと伝えられています。三沢氏は、正安4(1302)年、信州飯島郷より清和源氏の流れをくむ飯島為長(為仲)が三沢庄雨川に来住し、嘉元3(1305)年に三沢城を築城し、姓を飯島から三沢に改めました。
延元3(1338)年、大原香折新宮(加茂町屋裏)の地頭職となり、出雲平野部進出の足がかりを得ました。
永正6(1509)年、三沢為忠の代に、横田の高鍔山に藤ヶ瀬城を築城しここに移ったが、三沢城には城番を置いていたものと見られています。
天文9(1540)年、この頃、三沢為幸は尼子氏に従って吉田郡山城の毛利氏を攻めた際、毛利元就に敗れた尼子勢が敗走する中、三沢十勇士を引き連れて、毛利本陣を襲い、ここで討死しました。
永禄元(1558)年、三沢為清は、尼子晴久に従い、再度、毛利攻めに出陣、この時、三沢城留守居役・布広氏は、郎党を引き連れて、毛利本体に合流せんとする高野山城勢を阿井福原で破りました。
永禄3(1560)年、三沢氏は毛利氏に降礼をとり、後は毛利氏に従って尼子氏の高尾城・馬木矢筈城攻め、永禄9(1566)年に尼子氏の本城・月山富田城攻め、天正6(1578)年には織田信長の庇護を受けて再興を目論む尼子勝久・山中幸盛の上月城を攻め、続いて天正9(1581)年には羽柴秀吉により水攻めを受ける備中高松城救援などに従いました。
しかし、天正17(1589)年、三沢氏の威勢を恐れた毛利氏の甘言により、三沢為虎は、一族郎党と共に安芸に出頭し、厳しい監視下に置かれ、三沢に帰城することも許されないまま、長門国厚狭郡に1万石を与えられ、毛利氏家臣となりました。
三沢城は、北側と東側の尾根を中心に大小30以上の曲輪が確認されています。
地元では1郭を「本丸」2郭を「鳥居ヶ丸」と呼んでいますが、南端の土壇を櫓台とみて2郭を主郭(本丸)とする考えかたもあります。
虎口が数カ所確認されるほか、大手門には石垣が残っています。
この城跡は、土塁、堀切、桝形など中世山城の遺構をよくとどめており戦国時代の豪快な縄張りの山城として貴重です。
(現地説明板などより)
三沢城 (2)
三沢城 (2) posted by (C)pismo

三沢城 (3)
三沢城 (3) posted by (C)pismo

三沢城 (4)
三沢城 (4) posted by (C)pismo

三沢城 (5)
三沢城 (5) posted by (C)pismo

三沢城 (6)
三沢城 (6) posted by (C)pismo

三沢城 (7)
三沢城 (7) posted by (C)pismo

三沢城 (8)
三沢城 (8) posted by (C)pismo

三沢城 (9)
三沢城 (9) posted by (C)pismo

三沢城 (10)
三沢城 (10) posted by (C)pismo

三沢城 (11)
三沢城 (11) posted by (C)pismo

三沢城 (12)
三沢城 (12) posted by (C)pismo

三沢城 (13)
三沢城 (13) posted by (C)pismo

三沢城 (14)
三沢城 (14) posted by (C)pismo

三沢城 (15)
三沢城 (15) posted by (C)pismo

三沢城 (16)
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三沢城 (17)
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三沢城 (18)
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三沢城 (19)
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三沢城 (20)
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三沢城 (21)
三沢城 (21) posted by (C)pismo

三沢城内にある三沢池です。
大国主命の御子阿遅須枳高日子(根)命は、顎ひげがのびる年令になつても泣いてばかりでことばも話されませんでした。御親神は御子を船に乗せ国々を巡ってあやされましたが、それでも泣きやまれませんでした。
そこで御親神は「どうか御子が泣くわけを夢の中で教えて下さい」と一心に祈られました。すると不思議なことにその夜御子が口を利くようになつた夢を見られました。目が覚めてから御子に尋ねられると、御子は初めて「御津」と言われました。そして石の多い川を渡り坂を登った所で止まり「ここです」と申されました。御子はこの綺麗な沢で身を清めてすかっり健康で立派な神となられました。その場所がこの三沢池と伝えられています。
この故事から出雲国造が新任の際、朝廷へ神賀詞(お祝い)を奏上しに上京する時は、この水を汲んで禊初めの水とされました。
神亀3(726)年、御津の字を三沢と改めました。
阿遅須枳高日子(根)命はこの伝承により、当地の氏神として三澤神社に祀られています。
三沢の地名もこの伝承によるとされていて、三沢池の水は現在「若返(みおち)の霊水」として多くの人々に愛飲されています。
(現地説明板などより)
三沢城・三沢池(三津池) (1)
三沢城・三沢池(三津池) (1) posted by (C)pismo
Posted at 2016/05/27 22:31:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年05月03日 イイね!

由志園の牡丹

由志園は、出雲地方の風景と伝説を映した池泉回遊式日本庭園「出雲の國の箱庭」です。牡丹をはじめ季節の花々が鑑賞できます。
大根島は、年間180万本の生産量を誇る日本一の牡丹の産地です。由志園では250種、2万本の牡丹を庭全体で楽しむことができます。
牡丹の他にも春はツツジ、五月、シャクナゲ、シャクヤク、アヤメ、夏は菖蒲、夏ツバキ、百日紅(サルスベリ)、紫陽花、睡蓮、秋は紅葉にモクセイ、サザンカ、冬は寒牡丹、千両、萬両、ツバキ、冬アヤメと四季折々の彩りを見せてくれます。
そして、江戸時代の人蔘方役所の長屋門を復元した館では人蔘茶の試飲ができます。
牡丹の館は、一年中、牡丹の花咲く園で、世界的に評価の高い庭園デザイナー石原和幸氏のプロデュースです。エリザベス女王から「緑の魔術師」と称された石原氏の苔と牡丹を融合した独自の世界観を体感することができます。
由志園
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由志園 (1)
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由志園 (2)
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由志園 (3)
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由志園 (4)
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由志園 (5)
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由志園 (6)
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由志園 (7)
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由志園 (10)
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由志園 (12)
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由志園 (13)
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由志園 (14)
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由志園 (15)
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由志園 (16)
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由志園 (17)
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由志園 (18)
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由志園 (19)
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由志園 (20)
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由志園 (24)
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由志園 (26)
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Posted at 2016/05/27 21:58:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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