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2017年07月15日 イイね!

房総半島(3日目その1・鴨川市・君津市・大多喜町)

蓮華寺は、山号は花房山、日蓮宗の寺院です。小松原法難ゆかりの宗門史跡として知られています。
日蓮聖人は建長5(1253)年4月28日、清澄山上で初めて南無妙法蓮華経と称え、念仏宗は無間地獄に落ちる法、諸宗は仏の真実の教法ではないと説いて、山の大衆を怒らせましたが、ときに座にあった地頭東条左衛門尉景信は憤怒の余り聖人を斬ろうとしました。幸い師匠道善房の取りなしで危うきを逃れ裏山づたいにここ、西条花房蓮華寺内の青蓮房に難を避けられました。
丁度このころ、寺内の阿弥陀堂の開堂供養がありましたが、ここに招かれた聖人は重ねて念仏信仰を批判し諸宗無益の法門を説かれたため腹を立てた一座の人々は聖人を暗殺しようとはかりました。急を知らされた聖人は安房を逃れ鎌倉に登り松葉が谷に草庵をむすび、ここを本拠として折伏逆化の鼓を打ち鳴らされました。然るに法華経を弘めれば必ず諸難が競い来るという経文の教えの如く怨嫉忽ち至って杖木瓦石の難をこうむり、松葉が谷草庵を焼打され、伊豆に流罪されるなど諸難に遭われますが、弘長3(1263)年、2月に流罪を許され鎌倉に帰られました。翌文永元(1264)年秋、母を小湊に見舞われてのち再びこの地に帰り、9月22日には蓮華寺の住僧浄円房のために、「当世念仏者無間地獄事」という書を著しこれを与えられています。11月11日、天津の領主工藤左近丞吉隆の請いを受け天津におもむく途中、東条小松原の大路で東条景信の手の者100人の邀撃をうけ、供をしていた鏡忍房は討死、弟子数名は重傷、急を知って救援に馳せつけた吉隆も奮戦しましたがついに毒刃に倒れ、聖人も頭に疵をうけ、すでに危うい状態でしたが不思議にも難をまぬがれ、再びこの地に潜まれました。小松原法難です。その時の疵養生をされたのがこの前方にある「疵洗い井戸」であるといわれています。
14日には師の道善房がひそかに見舞いに来られ聖人は12年ぶりに対面されましたが、この時聖人は道善房に弥陀信仰をすてて法華経を信ぜられるよう強く諫められました。この時師の坊は不快の様子でしたが、後の文永5(1268)年〜文永6(1269)年頃法華経を持ち7月頃に釈迦如来像を造立されました。このことを聞いた聖人は「いますでに日蓮、師の恩を報ず」と喜ばれています。
日蓮聖人700遠忌の報恩事業として本堂と庫裡を整備。また誕生寺にあった祖師像を修復・遷座し、昭和59(1984)年落慶法要が営まれました。
門前には、日蓮聖人御疵洗之井戸があります。
(現地説明板などより)
日蓮聖人御疵洗之井戸

蓮華寺

濃溝の滝(のうみぞのたき)は、トンネルの中を滝が流れるという珍しい滝です。トンネルからの光が滝つぼと反射してハートが現れるということで人気があります。光のハートが出来るのは、3月と9月の彼岸過ぎの晴天の6時半~7時半頃がお勧めだそうです。
トンネルは亀石の洞窟といいますが、本当の濃溝の滝は、農作業用の小屋があり、水車を回すために溝をほったため「農溝の滝」といわれた滝が下流に別にあり、そちらと混同されたとのことです。
房総半島の中心部の君津市にある清水渓流広場にあります。片倉ダムの上流、笹川の渓流沿いにある自然公園で、ここの南端に濃溝の滝があります。江戸時代、久留里藩の藩主・土屋氏によって進められた曲がった川を真っ直ぐに短縮し、農地を拡大する河川工事である川廻しによってできました。川の蛇行部分の前後に、最短で真っ直ぐ繋がる新流路を堀り、蛇行した旧流路は、埋め立てて農地としました。
濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

君津市立久留里城址資料館は、久留里城の二の丸跡に昭和54(1979)年に開館した資料館です。
市内各所の遺跡から発掘調査で出土した石器・土器、木製品などを、写真や地図と合わせて展示してあります。また、久留里城の築城伝説をはじめ、戦国時代の里見氏、江戸時代の土屋氏・黒田氏などの歴代城主や、その家臣に関する資料を紹介しています。その他人々のくらしと信仰に関する展示や、屋外には君津地方で考案された掘抜(ほりぬき)井戸の掘削技術を伝える「上総掘り」の足場(櫓)や、郷土ゆかりの偉人新井白石の銅像が建っています。
久留里城址資料館

久留里城は「城成就して、三日に一度づつ雨降ること二十一度なりしかば」(「久留里記」)と言う説から、別名を「雨城(うじょう)」と言います。
戦国期の16世紀中頃、西上総地方は真里谷(まりやつ)武田氏の勢力下にあり、久留里城もその1族の居城でした。天文年間(1532~1555)の後半になると、安房の里見義堯は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。
永禄7(1564)年、下総の国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も1時、北条方の手に落ちています。しかし、2年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の1部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正5(1577)年、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれています。天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収されました。以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城には大須賀忠政が3万石、慶長7(1602)年には、土屋忠直が2万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、土屋家2代目の利直に仕え、18~21歳までの青年期をこの久留(1679)里で過ごしています。3代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝7年、領地召し上げ、廃城となります。約60年後の寛保2(1742)年、黒田直純が3万石の藩主となり、幕府から五千両を拝領し、3年の歳月をかけ城を再興しています。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、9代直養(なおなか)の時、明治維新を迎え、明治5(1872)年、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。
昭和54(1979)年、模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造されました。
(現地説明板などより)
久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

真里谷城(まりやつじょう・まりがやつじょう)は、戦国時代の初期にあたる康正2(1456)年、上総国に進入した甲斐(山梨県)の武田信長(武田信玄の5代前の先祖)が庁南城(夷隅郡長南町)とともに上総地方を支配するため築いたもので、この地方の中心となった山城といわれています。
城は千畳敷と呼ばれる主郭(本丸)を中心に東西700m、南北400mにわたって山全体を大きく人工的に造り変えています。
城は主な出入口となる大手道を守るように四つの部分からなり、的に進入を防ぐための土塁や曲輪などがつくられています。
手前の虎口、主郭の前面(南側)には、自然の谷を利用して大きな掘切(大掘切)を設けています。
非常時の逃げ道となる搦手道を主郭の北方の尾根につくり、万田野を通って市原方面へ退くようつくられています。
この真里谷城は、永正4(1517)年から天文3(1534)年までの約20年間が全盛期であったようで、武田と里見の連合勢が北条勢にやぶれた天文5(1536)年の国府台合戦以後、武田氏一族の勢力が衰えるとともに力を失い、豊臣秀吉が関東を平定した天正18(1590)年、真里谷信高の代に城は廃止されました。
現在は、木更津市立少年自然の家のキャンプ場として、削平地を利用しています。
(現地説明板などより)
真里谷城

真里谷城

真里谷城

真里谷城

真里谷城

真里谷城

真里谷城

真里谷城

大多喜城は、大永元(1521)年に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされています。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきましたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではありませんが、真里谷氏が築いた小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられています。
信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13(1544)年に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされました。しかし、天正9(1581)年に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたといわれています。
近世城郭としての大多喜城は天正18(1590)年、この地に10万石で封じられた徳川四天王の一人である本多忠勝によって築城されました。
本多忠勝は、関ヶ原の戦いの後伊勢桑名に移り、大多喜には5万石で次男の忠朝が継ぎましたが、大坂夏の陣で戦死し、甥の政朝が継ぎましたが、元和3(1617)年に播磨龍野に移り、阿部正次が入りましたが、元和5(1619)年、小田原に移封され、元和9(1623)年に青山忠俊が入りましたが、寛永2(1625)年に改易となりました。寛永15(1638)年阿部正次の孫阿部正能が入り、その後正春の代の元禄15(1702)年三河刈谷藩に移封されました。そして短期間で去りますが、稲垣重富が入った後、元禄16(1703)年に大河内長沢松平家の松平正久が入城してからは9代続き、最後の城主松平正質(まさただ)の代に明治維新を迎えました。
現在は、本丸付近に土塁が、大手門付近に堀跡が残り、二の丸に大井戸が残ります。本丸跡と大井戸は「上総大多喜城本丸跡 附 大井戸、薬医門」の名称で千葉県指定史跡に指定されています。
建造物としては、大多喜高校に保存されている二の丸御殿薬医門が現存しており、前述の通り「本丸跡」の附指定で千葉県指定史跡となっています。
再建天守は昭和50(1975)年に天保13(1842)年模写の三層天守絵図などを元に、江戸時代の一般的な天守を参考として、推定復元を行って建築したものです。千葉県立中央博物館大多喜城分館として房総の中世から近世までの武器・武具や城郭、武家社会などに関する歴史 資料を展示紹介する専門館と総南地方の地域の文化財を紹介しています。
大多喜城

大多喜城

大多喜城

大多喜城

大多喜城

大多喜城

大多喜城

良玄寺(りょうげんじ)は、山号は金澤山。本尊は阿弥陀三尊像、浄土宗の寺院です。
天正18(1590,)年10万石の領主として大多喜に入城した本多忠勝は、菩提所としてここに良信寺を建立して、文禄4(1595)年下総小金(現、松戸市)東漸寺の僧了学を招き開山とし、寺領に100石を寄進しました。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦の翌年に忠勝は、伊勢桑名に転封となり、二男の忠朝が大多喜城主となりました。元和元(1615)年、忠朝は大坂夏の陣で戦死し、甥にあたる政朝があとをつぎ、寺の名を忠朝の法名(戒名)をとって良玄寺と改めました。
この寺を開いた了学は、のちに飯沼弘経寺〔ぐきょうじ・現、常総市(旧水海道市)〕を再興しましたが、忠勝没後、桑名に西岸寺を開いて、再び弘経寺へ帰りました。その後、寛永9(1632)年、了学は徳川秀忠に召されて江戸に入り、芝増上寺17世となりました。
寺に伝来する紙本着色本多忠勝画像は、特色ある武将の像としてすぐれた作品であり、千葉県指定文化財になっています。
また、境内にある忠勝・忠勝夫人・忠朝の五輪の墓碑や寺領寄進状は、大多喜町指定文化財になっています。
忠勝は慶長15(1610)年、63歳で桑名、または一説に江戸で没したといわれ、桑名浄土寺に葬られましたが、大多喜の墓は分骨して建立されたものです。
忠勝夫人は、忠勝が桑名に転封後も大多喜に残り、慶長18(1613)年、大多喜城で没したといわれています。
忠朝は、大坂夏の陣で34歳で戦死し、大坂の一心寺に葬られましたが、分骨してこの地に埋め、その法号により良信寺は良玄寺と改められました。墓所は平成17(2005)年3月に隣接した場所に公園が整備され、忠勝公園として地域住民に親しまれ今日に至っています。
(現地説明板などより)
良玄寺

良玄寺

良玄寺

良玄寺
Posted at 2018/01/26 23:59:23 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2017年07月14日 イイね!

房総半島(2日目その3・南房総市・館山市)

滝田城は上滝田区根古屋の西方の丘陵上にあり、下滝田区の大手口より登ると最高所は標高140mで八幡台と呼ばれ、石宮の八幡小祠があります。ここが本丸(主郭部)と考えられ、これを囲む形で曲輪と思われる数か所の台地が見られます。東側の標高100mの中腹台地は馬場跡と伝承されています。
城址は西方に尾根が続きますが、南北に断崖がある要害の山城です。
築城の年代は明らかではありませんが、安房志では城代を里見5代義豊の妹を妻とした一色九郎としています。また快元僧都記の天文6(1537)年の項には、里見6代義尭が天文3(1534)年の犬掛合戦の後、暫く房州部久里郡に居城していたと記され、これを滝田城とする説が有力です。
また南総里見八犬伝では里見義実の居城で八犬伝発祥の城とされています。伏姫と八房の像などが建っています。
(現地説明板などより)
滝田城

滝田城

滝田城

滝田城

滝田城

岡本城は、戦国大名里見義弘が、小田原の北条氏に対する海防の要地にするため、時の城主であった岡本隨縁斉から譲り受けて修築し、元亀3(1572)年に完成させた城です。
義弘は城主として子の義頼を住まわせました。城の山腹はすべて削り上げて絶壁にし、郭や堀切が作られています。
山腹の要害と呼ぶ所は城主の館の跡で、東方の聖山は、天正7(1579)年に起きた里見一族内紛の時、義頼の弟・淳泰(梅王丸)が幽閉された所です。
聖山の北東山頂付近には、岩盤を掘り込んだ水堀・桝ヶ池があり、どんな干天にも涸れることはなかったといわれています。
現在は、里見公園となっています。
平成24(2012)年1月24日、里見氏城跡岡本城跡として稲村城跡と共に国指定史跡になっています。
(現地説明板などより)
岡本城

岡本城

岡本城

館山城は里見氏によって築かれました城ですが、この地は、鏡ヶ浦に臨む標高79,.3mの独立した小丘であり、要害の地であることから、既に保元年間(1156~1159年)に沼ノ平太こと平ノ判官貞政が居館した所と伝えられています。
 「里見氏代々記」によると、築城の頃、里見氏の居城であった岡本城は、立地に恵まれず、8代・義頼の時から館山築城を計画していました。義康は父の遺志を継いで、天正16(1588)年に築城に取り掛かり、2年半を費やして竣工しました。「房総里見誌」に「石塁峨々として築き上げ、堀は深満に等しく、矢倉高くして蒼天を仰ぎ…郭を真倉と云い、大手を根来下、搦手を藤井と云う。並びに上、中、下と町割して、四民ども日々群集して繁昌す。」とあるように、城郭、堀、楼閣、武家屋敷、城下町などが計画的に造成され、城そのものは地積約43万㎡(約13万坪)の壮麗堅固な平山城でした。
天正18(1590)年、豊臣秀吉による小田原征伐で里見氏は豊臣方として参陣しましたが、里見氏が保護していた御弓公方足利氏の遺児頼淳のために鎌倉を回復しようと企てたことや惣無事令に違反したことを理由に上総国は没収され、安房国一国を安堵されました。
これにより上総国の家臣は安房国へ引き上げることとなり、里見義康は居城を岡本城から館山城へ移すことになり、天正19(1591)年に館山城に居城を移しました。
慶長19(1614)年、里見忠義は外祖父である小田原城主の失脚に連座する形で安房国を没収され、伯耆国倉吉に三万石で転封となり館山城は破却されました。時に慶長19(1614)年9月20日のことでした
元和8(1622)年忠義が没すると嗣子なく里見家は断絶となりました
城山公園山頂にある三層四階天守閣形式の館山市立博物館分館は昭和57(1983)年10月31日に開館し、現在は八犬伝博物館とも称しています。里見氏を題材にした「南総里見八犬伝」に関する各種資料の展示と、現在にまで続く八犬伝の人気を紹介しています。
(現地説明板などより)
館山城

館山城

館山城

館山城

大坂城の豊臣方との決戦を目前にした徳川幕府は、関東御府内外様大名取り潰しの策を巡らせていました。この策により改易を命ぜられ、伯奢国・倉吉に移された房総里見氏10代・忠義は、憂悶のうちに元和8(1622)年に29歳で倉吉在の堀村で卒しました。
 この悲運の主君に従って殉死した8人の家臣は、その氏名は不詳ですが、四字の戒名の上と下に必ず心・賢の二字が配されているのは何を暗示しているのでしょうか。
慈恩院に伝えられた話によると、房州にあった里見氏の遺臣が、主君・忠義と8人の殉死者の遺骨を房州に持ち帰るべく漁師の姿に身をやつして遥々倉吉の大岳院の墓から蛸壺に分骨して帰り、密かに館山城の南麓に埋めたのが、この八遺臣の墓であると云われています。
この8人の殉死者が、「南総里見八犬伝」のモデルであるとも伝えられています。
(現地説明板などより)
八遺臣の墓

館山藩稲葉氏の陣屋跡・館山陣屋です。慶長19年に里見氏の館山藩が廃藩となり、館山城も破却された後、しばらく藩はおかれませんでしたが、天明元(1781)年に旗本稲葉正明が安房国で加増をうけ1万石の大名になると館山藩を立て寛政3(1791)年に館山城跡の南麓に陣屋を構えました。
現在御屋敷と呼ばれているところで、当時の区画が残され、稲葉氏の霊を祀った稲葉稲荷神社(貴美稲荷)があります。
明治4(1871)年の廃藩置県、館山県の木更津県に統合されるまで、稲葉正明、正武、正盛、正巳、正善と続きました。
館山陣屋

館山陣屋

館山市立博物館本館は戦国大名里見氏の居城跡である城山公園内に設立された、郷土の歴史と民俗の博物館です。
史実の里見氏の展示を中心に地域の歴史博物館として、安房地方の歴史や民俗資料を収集し展示しています。常設展示は歴史展示室、民族展示室、子ども展示室などで構成されています。
日曜・祝日には甲冑の着用体験も行っています。
館山市立博物館

安房国分寺は、山号は日色山、真言宗智山派の寺院です。
聖武天皇の天平13(741)年、国ごとに国分寺をおく詔がだされましたが、安房は天平宝字元(757)年に上総から分立した国のため、安房国分寺の創建はそれ以降の奈良時代末のことと考えられます。
安房国分寺跡は、昭和51年~53年(1976年~1978年)に実施された現国分寺境内を中心とする地域の発掘調査で、掘り込み地形による版築遺構が出土されました。規模は東西22m、南北15mを測り、金堂基檀跡とみられています。また、安房国分寺使用のものと推定される平瓦や布目痕のある軒丸瓦、礎石、円筒状の三彩獣脚1点などが出土しています。安房国分寺の創建は奈良時代末頃という説があります。山門をぬけると参道の傍らに当時用いられた円形の楚石が置かれ、本道横には南北朝時代の五輪塔があるほか、山門入口には「孝子伴直家主の碑」や「安房三義民の墓」があります。
昭和32(1957)年に館山市指定史跡に指定され、平成4(1992)年に千葉県の史跡に指定されました。
(現地説明板などより)
安房国分寺

安房国分寺

安房国分寺

安房国分寺

稲村城は、室町時代15世紀後半から天文3(1534)年に里見家の内紛によって里見義豊が滅ぼされるまでの前期里見氏の居城でした。
16世紀前半、3代義通が居城とした城で、4代義豊が5代義堯に攻め滅ぼされた「天文の内訌」の舞台となった城です。
ここは安房国の府中を押さえる位置にあり、里見氏による安房支配のための拠点でしたが、内紛を収めた分家の里見義堯が、本城を滝田・宮本方面へ移すと使用されなくなりました。そのため、戦国前期の城の姿がいまも残された、貴重な遺跡と評価されています。
城の中心部は、東西500m、南北500mの丘陵で、山頂に広い主郭や土塁、三ケ所の堀切などがあります。北側と西側は急斜面の要害で、東側と南側には複雑に腰曲輪を重ねるなど、数多くの遺構が残されています。
また、北の滝川は外堀の役割をもち、東・西・南を廻る丘陵は外郭の役割をはたして、東西約2km、南北約1.5kmにわたる大規模な範囲の城で、安房国の統治を主眼にした所堅固の城と考えられています。平成24(2012)年1月24日に岡本城(南房総市)とともに「里見氏城跡 稲村城跡」として国の史跡に指定されました。
(現地説明板などより)
稲村城

稲村城

稲村城

稲村城

稲村城

稲村城

稲村城

洲崎神社すのさきじんじゃ)は延喜式神名帳に「后神天比理乃咩命神社大 元名洲神」と記され、 天太玉命の后神を祀る式内大社で、元の名を洲神と称しました。
宝暦3(1753)年の「洲崎大明神由緒旧記」によると、神武天皇の時代、天富命が御祖母神天比理乃咩命の奉持された御神鏡を神霊として、洲辺の美多良洲山に祀られたことに始まります。
治承4(1180)年、安房に逃がれた源頼朝が、戦勝と源氏再興を祈念して神田を寄進、後、妻政子の安産を祈願しています。
室町時代には江戸城を築いた太田道灌が、江戸の鎮守として明神の分霊を勧請したと伝えられています。房総里見氏も当社を尊崇して、7代義弘が神領5石を寄進し、江戸幕府もこれに倣って朱印状を下しました。
幕末の文化9(1812)年、房総沿岸警備を巡視した老中松平定信は「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額を奉納しています。
神位は平安時代に正一位、鎌倉時代に元寇戦勝祈願の功により勲二等に叙せられ、明治6(1873)年県社に列せられた。往時、別当寺は養老寺など五ヶ寺を数えました。洲崎明神は古来伝承されている数々のあらたかな霊験から、安産・航海安全・豊漁・五穀豊穣や厄除開運の守護神として信仰が厚く、現在に及んでいます。
本殿の屋根は銅板葺の切妻造で、前方の流れを延長して向拝屋根としたいわゆる三間社流れ造りで、柱などの軸部は朱塗りで仕上げられています。軒下の組物を、寺院建築で用いられる唐様三手先とするのは、珍しい点といえます。
社伝では延宝年間(1673〜81)の造営とされていますが、三手先の形式がくずれている点や、支輪や虹梁・蟇股などの彫刻に江戸時代中期以降のものが多い点から、その後に大規模な修理が加えられていることがわかります。
しかし本殿の正面と背面には、古い社殿の部材と思われる蟇股もあります。
とくに背面の竹に虎を配した彫物のある本蟇股は、江戸時代初期の寛永年間(1624~44)頃の様式に従っているもので、延宝年間の造営の際に再利用されたものと考えられています
洲崎踊りは、毎年、2月の初午と8月20~22日の神社例祭に奉納されます。「みろく踊
り」と「かしま踊り」の2種類からなり、地元ではこれらを「みのこ踊り」と呼んでいます。8月の例大祭には勇壮な神輿の渡御や浜祈祷も行われます。
神社裏の御手洗山の自然林は県の文化財指定を受けています。
(現地説明板などより)
洲崎神社

洲崎神社

洲崎神社

洲崎神社

洲崎神社

洲崎観音養老寺は正式には「妙法山観音寺」といい、神仏分離までは洲崎神社の社僧を勤めていました。
創建は養老元(717)年で、開祖は役行者、現在は真言宗智山派の寺院です。
開祖役行者の石造をお祀りしている岩屋があります。
役行者(役小角)は、奈良時代の山岳修験者で、修験道の開祖として伝えられています。
修験道は山岳信仰を基底におき、それに真言密教が習合したもので、全国の山々を修行の場として難行苦行を重ね加持祈祷を行う仏教の一派で、その代表が役行者ということになります。
また、役行者は海上歩行や空中歩行の神通力を持っていたことから古来より足の守護神とされ、現在でも健脚になるよう多くの草鞋が奉納されています。
曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」には、役行者の化身が伏姫に仁義礼智忠信孝梯の八文字が浮かぶ数珠を授ける場面が登場します。
この物語で活躍する八犬士の所持する珠こそ役行者が伏姫に授けたものと伝えられています。
(現地説明板などより)
養老寺

野島崎にある里見義実公上陸の地碑です。
「南総里見八犬伝」で知られる戦国時代の大名、里見氏の初代里見義実公が結城の合戦に敗れて三浦半島からここ白浜の野島崎に上陸したのが嘉吉元(1441)年〔文安2(1445)年という説もあります〕のことといわれています。
義実公は白浜に居城を構え安房の国を支配していた安西氏、神余氏、丸氏、東條氏の四豪族を打ち破って安房を統一し、房総里見氏の幕開けとなりました。
(石碑より)
野島崎・里見義実公上陸の地碑

野島崎は、房総半島南端にある岬で千葉県および関東地方(伊豆諸島・小笠原諸島を除く)の最南端です。
野島崎には、白鳥の灯台とも呼ばれる野島埼灯台があります。慶応2(1866)年5月にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ「改税条約」(別名・江戸条約)によって建設することを約束した8ヶ所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の一つです。点灯は明治2年12月18日(新暦では1870年1月19日)に観音埼灯台に次いでわが国2番目に点灯しました。
野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎
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2017年07月14日 イイね!

房総半島(2日目その2・鋸山と鋸南町)

房総半島の西岸に切り立つ鋸山は、標高は329.4m、奇岩が重なり合った鋸の歯のような形をしており、古くから良質な「房州石」の産地として知られ、江戸から明治にかけて建築用材、護岸工事用材、土木工事用材として盛んに切り出されました。主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用された。また、靖国神社や早稲田大学の構内にも利用されています。
昭和57(1982)年に採石は終了し、現在は観光資源となっています。
山腹には日本寺、山頂には日本一の大仏など、岩石を活かして彫り上げた多数の仏像が散在しています。また、鋸山の断崖絶壁から見下ろす「地獄のぞき」は迫力があります。鋸山の山頂展望台からの眺めは、遠くに富士山、天城山、伊豆大島、近くに三浦半島、横浜の高層ビル群、東京湾を一目で眺めることができます。平成16(2004)年には国土交通省認定の「関東の富士見100景」にも選ばれています。
鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

日本寺は、山号は乾坤山、本尊は薬師瑠璃光如来、曹洞宗の寺院です。
聖武天皇の勅願により、行基によって神亀2(725年)年に開山されたとされ、当初は法相宗に属していました。天台宗、真言宗を経て徳川三代将軍家光の治世の時に曹洞宗となり、今日に至っています。
日本寺は開山当時、七堂十二院百坊を完備する国内有数の規模を誇り、良弁、空海、慈覚といった名僧が留錫(りゅうしゃく)したと記録されています。良弁僧正は木彫りの大黒尊天を彫られ、弘法大師(空海)は100日間護摩を焚かれ石像の大黒尊天を彫られました。
仁王門の金剛力士像は慈覚大師の作と伝えられています。源頼朝は石橋山の戦いに敗れた後、房州に逃れ再起を図った折に日本寺で武運を祈願し、自ら蘇鉄を手植えし、現在も大蘇鉄として境内に残っております。頼朝は鎌倉幕府を開くとすぐに荒廃していた日本寺の全山修工に力を尽くし、養和元(1181)年 薬師本殿を再建しました。
近年では昭和14(1939) 年の登山者の過失による山火事により、仏像や本堂を含む建造物など文化財を焼失してしまいました。
鋸山の中腹に彫刻された大仏「薬師瑠璃光如来坐像」は、当初は台座共9丈2尺の磨崖仏像でしたが、江戸末期になって、自然の風触による著しい崩壊があり、頭部の半分が崩れ落ち、膝の部分も埋没した状態になってしまいました。昭和44(1969)年、彫刻家八柳恭次氏の指導の元、復元されました。
鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

鋸山

石橋山の戦いに敗れ海路安房へ脱出した源頼朝が房総半島に上陸した地・源頼朝上陸地です。
治承4(1180)年8月、伊豆で挙兵した源頼朝は、23日、平家方の大庭景親との石橋山の戦いに敗れ、真鶴より海路小舟で脱出し、安房国へ向かいました。
「吾妻鏡」によれば、「29日、武衛(頼朝)、(土肥)実平を相具し、扁舟に棹さし安房国平北郡猟島に着かしめ給う。北条殿以下人々これを拝迎す」とあり、上陸地点の猟島が現在の鋸南町竜島とされています。頼朝はここで先着の北条時政、三浦義澄らと合流し、再起を図りました。当時房総には、下総の千葉常胤、上総の上総広常、安房の安西景益、丸信俊ら源氏恩顧の豪族が多く、頼朝が房総での再起を選んだ理由と考えられています。
房総一の兵力を誇っていた上総広常のもとへ向かうべく、外房の長狭(鴨川市)へ進んだ頼朝一行は、9月3日、平家に味方する地元の豪族長狭常伴を一戦場で撃破。ひとまず安西景益の館(南房総市池ノ内)へ入り、各地の豪族へ使者や書状を送り見方を募り、情勢を見極めます。その間、洲崎神社(館山市)、丸御厨(南房総市丸山)などへ足を運び、13日、安房を進発して兵力を加えつつ房総を北上、鎌倉へと入りました。東国の豪族たちを糾合し、平家を滅ぼし、鎌倉幕府という武家政権を樹立した源頼朝再起の一歩はここから始まったのです。
昭和10(1935)年3月26日、千葉県指定史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
源頼朝上陸の地

源頼朝上陸の地
Posted at 2018/01/26 22:13:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2017年07月14日 イイね!

房総半島(2日目その1・富津市)

佐貫城は、別名亀城ともいい、文安年間に長尾氏、応永年間に真里谷氏(真里谷武田氏)によって築かれたともいわれています。
その後、安房里見氏の支配下に入ると、里見義弘が拠り、久留里城と共に真里谷氏及び後北条氏への最前線として重要な役割を果たしました。里見氏安房移封以降も城郭として使用され、内藤家長、政長が城主となりました。
元和8(1622)年に松平忠重、寛永10(1633)年に松平勝隆が城主になりますが、重治の代の貞享元(1684)年に改易され、佐貫城は破却されました。
しかし、元禄元(1688)年、徳川綱吉の側用人柳沢保明(後の吉保)が大名に取り立てられ、1万5千石の佐貫城主となりました。しかし、元禄8(1694)年に川越藩に転封となり、一旦佐貫城は廃藩となりました。しかし、再度宝永7(1710)年に阿部正鎮が三河刈谷藩から移封され、正興、正賀、正實、正簡、正暠、正身、正恒と8代150年、明治維新まで続き、明治4(1871)年5月、廃城となりました。
(現地説明板などより)
佐貫城

佐貫城

佐貫城

佐貫城

佐貫城

佐貫城

佐貫城

佐貫城

富津市上後字要害にある峯上城(みねがみじょう)は、別名環城とも上後城とも呼ばれていました。 標高120mの山丘を中心に築造された中世の山城で、天然の地形と城に欠くことのできない湧水帯を巧みに利用しています。
城の東西と南面は自然の断崖で、 北側の緩やかな斜面の麓に追手門跡があり、ここから南へ、中城 (ニの丸)、本城 (本丸) と呼ばれる台地が続きます。
本城跡には今も天満天神と摩利支天を合祀する環神社があり、その周辺に殿井、馬洗井という井戸跡が残っています。また東方には堀切が残り、倉屋敷という地名も伝承されています。総面積1.7ha (約5千坪) に及ぶその城域は往時の築城規模を偲ばせるに十分です。
築城の年代は、環神社の鰐口の銘文によれば、天文2(1533)年、武田信興によって築城されたといわれ、真里谷武田氏の一族がこの城に拠って里見氏と対峙しました。その後、本城は里見氏の支配となり、室町末期に廃城となったと推定されています。
なお、鰐ロと弘治2(1556)年の紀年銘がある棟札2枚、円鏡1面も環神社関係資料として富津市指定文化財となっています。
昭和48(1973)年7月6日、富津市指定史跡になっています。
(現地説明板などより)
峯上城

峯上城

峯上城

峯上城

峯上城

造海城(つくろうみじょう)は、真里谷武田氏が安房の里見氏に備えるために築いた城の一つとされています。
寛正2(1461)年真里谷武田信興によって築かれたといわれています。
天文6(1537)年真里谷恕鑑(武田信保)の跡目を廻り庶子の長男信隆と嫡子信応の間に内乱が起きましたが、信応の子信政が小弓公方足利義明、里見義堯らの軍勢に敗れ、造海城も開城しました。造海城に立て籠もった真里谷武田方は、寄せ手の里見勢に対して、この付近の風景を詠んだ和歌を百首つくれば開城する」という条件を出し、里見軍の将はたちまちのうちに百首を詠じて届けたので軍門に降って開城したと言われ、以後「百首城」 と称されるようになったといわれています。
その後は里見氏の城となり水軍の拠点として正木氏が守備したという。天正8(1580)年頃には正木淡路守の居城であったが、天正18(1590)年に廃城となりました。
幕末の文化7(1810)年陸奥国白河藩によって海防のための砲台が造海城跡に築かれ、幕末まで維持されました。
十二天神社の背後から直登し、尾根伝いにいくと城跡です。あまり整備されていません。
造海城

造海城

造海城

造海城
Posted at 2018/01/26 21:59:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2017年07月13日 イイね!

房総半島(1日目その3・市原市・木更津市・富津市)

史跡上総国分尼寺跡は、市原市が古代上総国の政治・文化の中心地であったことを象徴する歴史的文化遺産です。国分寺は、今から1250年ほど前の奈良時代の中ごろ、国の平和と繁栄を祈るために、全国60か所余りに建てられた僧寺と尼寺からなる国立寺院です。
国分寺が創建された天平年間の初めは、正倉院宝物に代表される国際色豊かな貴族文化が花開いた華やかな時代の印線とは裏腹に、異常現款が続き、天候が不順で作物が実らず、人びとは飢えや疫病に苦しんでいました。そのうえ、政治の争いや国際関係の緊張が人びとの不安と苦悩をつのらせました。自らを「三宝の奴(仏教のしもべ)」というほど仏教をあつく信仰していた聖武天皇と光明皇后は、こうした社会不安や政治の混乱を仏教の力でしずめ、人びとの心をひとつにまとめるために国分寺や東大寺を建立したのです。
それから300年近くの間、国分寺は国家仏教の拠点として、地方に仏教を広め、文化の向上に大きな役割をはたしました。
上総国分寺は、全国有数の規模を誇り、伽藍もよく整った代表的な国分寺です。とくに、尼寺は寺域が全国で一番広く、発掘調査によって付属施設を含めた古代寺院の全貌が初めて明らかになった国分尼寺跡として、昭和58(1983)年と昭和61(1986)年に遺跡の主要部が国の史跡に指定されました。
市原市では、平成2(1990)年度から整備を開始し、平成5(1993)年度には、文化庁の「ふるさと歴史の広場」事業として建設した復元中門と展示館を、平成9(1997)年度には「地域中核史跡等整備特別事業」として建設した復元回廊を公開しました。
展示館では、史跡の見学に先立ち、映像や展示により国分寺建立の歴史的背景や史跡の特色が理解できるよう工夫されています。
(パンフレットなどより)
上総国分尼寺跡

上総国分尼寺跡

上総国分尼寺跡

上総国分尼寺跡

上総国分尼寺跡

上総国分尼寺跡

上総国分尼寺跡

上総国分尼寺跡

上総国分尼寺跡

上総国分寺は、山号は医王山、院号は清浄院、本尊は薬師如来、真言宗豊山派の寺院です。
国分寺は、今から1250年ほど前、聖武天皇の詔によって、国の平和と繁栄を祈るために全国六十力所余りに建てられた僧寺と尼寺からなる国立寺院で、地方の仏教や文化の中心となりました。上総国分寺は、その中でも規模が大きく、伽藍も良く整った代表的な国分寺といわれています。
国分寺の建立は、天平時代の社会不安や政局の混乱を、仏教の力で鎮め、人心の統を図ろうとしたもので、「金光明最勝王経」の教えに基づく僧寺と「妙法蓮華経」に基づく尼寺を国ごとに置きました。「金光明最勝王経」は、この経を敬い、国土に読み広める王があれぱ、四天王が常に来て守護し、災いを除いて至福をもたらすと説いています。
ろの来迎壁にも繊細な筆致で、飛雲と蓮華が金箔・朱・緑などの極彩色で描かれています。
上総国分寺の寺域は、北東と南西で谷や古墳を避けているため四角形ではなく、南北478m東西が北辺で254m、中央で345m、南辺で299mを測り、面積は13.9万㎡に及び、武蔵・下野の国分寺に次ぐ大きさです。いわゆる七堂伽藍と呼ぱれる主要な堂塔を配置した伽藍地は、南北219m・東西194mで、ほほこの地域が国指定史跡として保存されています。
主要伽藍の周りには、塀を巡らし、東西南北に門が開いていました。伽藍配置は、南大門、中門、金堂、講堂が南北に並び、回廊に囲まれた金堂前庭の東に七重塔を配するのが特色です。藤原京の大官大寺に類似する伽藍です。詔に「造塔の寺は国の華」とうたわれているように、七重塔は国分寺を象徴する最大の建造物でした。
主要伽藍地の北東には政所院(東院)、北西には薗院、伽藍中心軸上には講師院などの付属施設が配置されていました。他に綱所、経所、油菜所などの施設があったことが、墨書士器の出土によってうかがえます。
古代の国分寺跡の中心部には、医王山清浄院国分寺が現在も法燈を伝えています。本尊の薬師如来を祀る薬師堂は、江戸時代の中頃、正徳6(1716)年に書かれた国分寺「再造之縁起」によると、僧侶「快應」によって再建されたものです。
薬師堂は、桁行三問、簗問三間のいわゆる三間堂といわれる形式で、正面に一間の向拝(庇)が設けられ、屋根は茅葺きの入母屋造りで、内部は格子戸によって内陣と外陣に分けられています。
内陣中央間の天井は、角材を格子に組んで板を張った格天井で極彩色の文様が配されています。外陣中央間の天井には、登り下り一対の龍が、脇問の天井に大皮・笙・横笛・掲鼓を奏でる極彩色の飛天がそれぞれ揣かれています。また、内陣の須弥壇に置かれた厨子は建物より一段と格調が高く、手の込んだ唐様に作られ、厨子正面扉には判肉彫彩色の登り下り龍が、須弥壇後ろの来迎壁にも繊細な筆致で、飛雲と蓮華が金箔・朱・緑などの極彩色で描かれています。
建築部材に書かれた墨書の中には、快應の他にも、地元惣社村の大工棟梁の小三郎など地元職人の他に、飯櫃村(芝山町)や牛熊村(横芝町)の遠方の職人の名も見られ、11人の職人が携わったことが分かっています。
国分寺西正面の仁王門は、建築様式から江戸時代中頃の18世紀の建立と考えられます。正面両脇の金剛柵の中には、右側に阿形・左側に吽形の仁王像が安置され、特長から吽形像は江戸時代に、阿形像は鎌倉時代後期の作と考えられています。
この仁王門の手前右側に「将門塔」と伝えられる「応安第五壬子十二月三日」(1372年)の銘文を刻む宝筐印塔があります。もとは菊問字北野に所在した新皇塚古墳の隣接地にありました。塔身や相輪は復元したもので、石質は安山岩、総高2.45mを測ります。
市原市では、この上総国分寺跡と尼寺跡の史跡整備を行っています。国分寺では西門跡の基壇整備を平成5(1993)年度に行い、今後は引き続き全体の整備を進めて行く予定です。
(パンフレットより)
上総国分寺

上総国分寺

上総国分寺

上総国分寺

上総国分寺

上総国分寺
海ほたるパーキングエリアは、東京湾アクアラインにあるパーキングエリアであると同時にアクアラインのシンボルです。
平成9(1997)年12月18日にオープンしました。
アクアラインは、川崎側の約9.5km区間が東京湾アクアトンネルと呼ばれるトンネル、木更津側の約4.4km区間がアクアブリッジと呼ばれる橋があり、そのトンネルと橋が直結される場所は人工島「海ほたる」ということになります。
来た方向にUターンして引き返すことができますが、料金は対岸に行く場合と同額です。
海ほたる

海ほたる

海ほたる

海ほたる

海ほたる

海ほたる

海ほたる

海ほたる

海ほたる

海ほたる

海ほたる

真武根陣屋(まぶねじんや)は徳川幕府の譜代大名であった二代藩主の林播磨守忠旭が、嘉永3(1850)年に造営した請西藩(じょうざいはん)の陣屋です。藩主及び家臣の詰め所として使用され、貝渕の陣屋を下屋敷というのに対し、上屋敷と呼ばれていました。
請西藩は石高1万石の小藩ながら、伏見奉行など幕府の要職を勤めていた家柄です。また、故事に習い将軍が元旦に食べる雑煮に入れた兎肉を代々献上していました。
慶応4(1868)年4代目藩主の林昌之助忠嵩は、戊辰戦争において佐幕派に属し、木更津に集結した遊撃隊の伊庭八郎と共に箱根や奥羽地方を転戦した後、仙台にて降伏しました。
この出陣の際自ら火を放ち真武根陣屋は焼失、その後、領地も新政府に没収されました。
(現地説明板などより)
真武根陣屋

真武根陣屋

貝淵陣屋は、請西藩(貝淵藩)及び桜井藩の陣屋で廃藩置県後に木更津県の県庁が設置されました。記録上、貝淵藩は上総国貝淵村、桜井藩は同国桜井村に陣屋を設置したとされていますが、実際には両藩の陣屋は全く同一の場所にありました。
貝渕藩主林肥後守忠英は、文政10(1828)年貝渕陣屋を築きました。その後、戊辰戦争において4代藩主忠崇が新政府軍に敵対したため改易され、明治元(1868)年8月には松平(瀧脇)丹後守信敏が桜井藩をつくり、ここを藩邸としました。その後、明治4(1871)年7月廃藩置県が行われると、11月には上総・安房地域の16の県が再編され、木更津県が旧桜井藩邸を庁舎に、選擇寺(木更津市中央)を官舎に発足しました。
権令には旧宮谷県権知事柴原和が任命され、村数1,475を数える広大な行政区域の県政運営にあたりました。
柴原の先進的な行政手腕は、後の千葉県誕生の基礎となり、特に行政組織の整備、議事会の開会、育児政策は千葉県政に引き継がれました。
明治6(1873)年6月、木更津県は廃止され、千葉町に県庁を置く千葉県が誕生しました。
(現地説明板などより)
貝渕藩陣屋

貝渕藩陣屋

飯野陣屋は初代藩主保科正貞が慶安元(1648)年に造営したもので、明治4(1871)年の廃藩置県に至るまで10代223年にわたって飯野藩主及び家臣たちの居所でした。
正貞は信州高遠の城主保科正直の三男で、母の多劫は徳川家康の異父同母妹(於大の方の娘)でした。正貞は早くから家康に仕え、大坂夏の陣では徳川方に属して軍功を挙げています。
寛永6 (1629)年に上総国周准郡と下総国香取郡に三千石の領地を与えられ、その後、摂津国豊島郡(現在の大阪府豊中市付近)にも領地を与えられて一万七千石の大名になりました。領地の多くが摂津にあったため、摂津には浜村陣屋が置かれました。なお、徳川秀忠の三男正之が、正貞の兄である保科正光の養子となって、保科本家の高遠藩を継ぎ、やがて転封によって会津藩主となりました。
飯野藩は二代藩主正景の時に知行地が加増されて二万石となりました。歴代の藩主は、大坂定番、大坂加番、江戸城門番、日光祭礼奉行などを勤め、江戸屋敷に常住することが多くありました。
九代藩主正丕の娘である照姫は、天保13(1842)年に、会津藩主松平容敬の養女となり、再び会津藩と飯野藩の縁が結ばれた。照姫は中津藩の奥平昌服に嫁ぎましたが、離縁となり会津藩に帰りました。慶応4(1868)年に新政府軍との会津籠城戦が開始されると、照姫は城内にあって婦女子の指揮を取り、傷兵の手当や敵弾の防火などに当たったといいます。
飯野藩は二万石で城を持つことを許されませんでしたが、陣屋の面積は12万3千平方メートル(4万1千坪)で、本丸、二の丸、三の丸を備え、その周濠は昭和42(1967)年に千葉県指定史跡となっています。周濠の内側には土塁が巡らされています。なお陣屋の区画が、三条塚古墳や亀塚古墳など古墳の周濠を再利用して構築されていることも、当陣屋の特徴です。三条塚古墳の東側には幕末から明治初期に飯野藩校がありました。陣屋は、造営以来現在まで360余年を経過したが日本三陣屋(長州徳山・越前敦賀・上総飯野)の一つと呼ばれた昔のおもかげを、その周濠及び土塁にとどめている。他の二つの陣屋はすでに現存していない今では、残された貴重な史跡であるといえます。
(現地説明板などより)
飯野陣屋

飯野陣屋

飯野陣屋

飯野陣屋

飯野陣屋

飯野陣屋

飯野陣屋

小久保藩の陣屋・小久保陣屋です。富津市中央公民館付近の敷地は、明治元(1868)年9月から明治4(1871)年7月までの4年間小久保藩が置かれ、藩邸・藩校等が所在していた場所です。
初代藩主田沼意尊は、江戸時代中期の10代将軍家治時代に老中であった田沼意次から数えて9代目の子孫に当たります。
明治元(1868)年5月、旧将軍家の徳川家達が駿河へ退き、府中藩が成立したのに伴って、遠江相良藩1万石の田沼意尊が上総天羽郡・周准郡へ領地を移され、小久保に陣屋を構えました。意尊は翌明治2(1869)年、版籍を奉還して小久保藩知事に任じられましたが、同年12月に小久保で死去し、養子の意斉が家督を継ぎました。明治4(1871)年7月、廃藩置県により意斉は藩知事を免じられ、小久保藩は消滅しました。
小久保藩校の盈進館は58坪ほどの建物で、明治3(1870)年10月に開校しました。洋学を取り入れ、英語に加えて算術・地理・歴史を教え、士庶共学であった。明治5(1872)年の学生頒布によって盈進館は小久保小学校の校舎となり、その後小久保北小学校、小久保尋常小学校、大貫尋常小学校を経て、現在の大貫小学校に至りました。
(現地説明板などより)
小久保陣屋

弁天山古墳は、岩瀬川と小久保川に挟まれた丘陵の西端にあり、南西向きにつくられた前方後円墳で、浦賀水道を眼前にしています。
山砂を盛り上げて造ったこの墳丘は、明治初年にはその原型を失っていましたが、築造時の規模は全長87.5m、後円部径50m、前方部幅54.5m、後円部の高さ7.5m前後と推定されています。葺石はありませんが 二段に構築され埴輪がめぐらされていました。周溝は幅の広い楯形のものが推定されています。
主体部は後円部中央に築かれた竪穴式石室で、昭和2(1927)年に発掘調査されています。長さ4.9m、幅96cmの石室は、周囲に砂石の河原石を積み、板石を天井石としたもので、その中央の一枚には両小口に各一個の「縄掛突起」があります。
石室の天井石に「縄掛突起」のつけられている例はわずかに大和地方の古式古墳に見られるだけで珍しく、学界でも注目されています。
石室内には、玉砂利を敷き、木棺を納めていたと思われますが、昭和2(1927)年の調査の折、直刀、剣、鏃、甲冑等の武器や武具類が発掘されました。
この古墳の築造年代は、鋲留短甲等の鉄製武具類、あるいは古式な埴輪、竪穴式石室の形状等から、西暦5世紀の後半頃と考えられます。ここから北方4.5kmに存在する大型の前方後円墳である内裏塚古墳(全長141m)と前後して築造されたものと推定され、小糸川流域を中心に展開した須恵国の豪族の墓と考えられています。
後円部墳頂に建物で覆われて保存されています。
なお、昭和50(1975)年度より4年間に、本古墳の保存整備事業として、盛土による墳丘の保存及び覆屋による石室保護工事を実施しました。
昭和4(1929)年12月、国の史跡に指定されました。
(現地説明板などより)
弁天山古墳

弁天山古墳

弁天山古墳

江川海岸は千葉県木更津市にある潮干狩りのできる海岸です。
もともと、沖合にアサリ密漁の監視所があり、その監視所に電気を送るための送電用の電柱が遠浅の海岸線に立てられました。
潮干狩りの漁協駐車場の海岸から沖合にかけて、海中に電柱が並んでいます。
江川海岸

江川海岸

江川海岸

江川海岸
Posted at 2018/01/26 20:38:36 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記

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