1995年(平成7年)1月17日・05:46:52
淡路島北部沖の明石海峡付近を震源(震源の深さ約16km)とするM7.3の地震が発生しました。
この地震で神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市、淡路島の一部で震度7の激震を観測し、震災関連死を含む6,434人もの命が失われました。
この兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)から29年が経ちました。
失われた多くの御霊の安からんことを、改めてお祈り申し上げます。
みんカラを始めたのが、2004年07月20日
翌年の1月17日に初めて、兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)について、アップしました。
2006年もアップしましたが、その後、5年間アップせず、
2011年に再開し、以降は毎年アップしています。
当時のことを改めて振り返ると…
発災当時、新横浜から東京まで新幹線通勤をしており、朝、相勤の方から電話があって、新幹線に乗れない(不通になっている)旨、伝えられました。
関ヶ原の雪の影響かな…と、のんきに受答えしていると、電話口の声が切迫感を増し強くなり、ビルや阪神高速の倒壊等々、被害の様子を口早に言いますが、この段になっても朝っぱらふざけているの(-_-メ)と思った次第です。
兎に角、テレビをつけろと言うので、NHKを見ると…
この時点(多分06:30頃だったと思います)で、初めて大規模震災が発生したことを認識しました。
近畿地方の親族、有人、協力先等に対する安否確認の電話は、07:00前までは通常通りつながりましたが(被災しつながらなかったところや亡くなられていてつながらなかったところも…)、07:00を過ぎた頃から段々、つながらなくなって、08:00を過ぎたら、もう一切つながらなくなってしまったことを、今でも鮮明に覚えています。
その後、安否確認が進むにつれ、訃報も入るようになり、離れた横浜からでは実効性のあることが殆ど出来なかった虚しさを感じました。
新幹線は新大阪までの仮復旧は比較的早く、ダイヤを大幅に変更し運転再開したと思います。
ですので、新大阪までは行けましたし、被害の少なかった大阪市中心部にも発災からそんなに経たずに行くことができました。
ただ、阪急神戸線は、西宮北口-夙川の被害が甚大で、復旧は6月に入ってからだと思います。
ご遺体の搬送手配を行う為、王子公園まで行きたかったのですが、通常の手段がなく、横車を押すのは憚られ泣く泣く諦めて、現地部隊に依頼したこともありました。
今回、時間系列に沿って、当時を想い出そうとしたのですが、29年の歳月は、記憶を曖昧にしてしまうには十分な年月であることを、再認識した次第です。
当時は、スマホがまだ無かった(
Panasonic DP-142を使っていました)し、コンパクトデジカメも普及していなかったので、記憶媒体に残っていないのも想い出せない要因の1つに感じました。
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2024/01/18 02:57:36